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ずっと、望んでもいいですか

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しかし彼は再びうつむいて、傷ついたように眉を寄せていった。

「……すみません、忘れてください。最後なのに……こんなことをいうのは間違っている……」

 イリスははっと彼を見た。

「最後? なにがですか?」

 するとサイラスは、少し迷ったあと、じっと責めるようにイリスを見た。

「治療院をやめて――海辺の町に行くのでしょう?」

 今度こそイリスはわけがわからなかった。

「え……? 私が? 行きませんけど……なんで?」

「……嘘をつかなくても、大丈夫です。わかっています。今回が最後になると思って……」

 サイラスはおもむろに、封筒を取り出して、イリスに渡した。

「今までありがとうございました。気持ちばかりですが、受け取ってください」

 イリスはわけがわからないながらも、中を見てみた。

「なんですかこれ……通帳?」

「はい。暗証番号は、あなたの誕生日になっています」

 開いてイリスはおののいた。

 ――フォルティエチュードが3台買えるくらいの金額が、そこには記されていた。

「待っっ……て、」

 イリスは高速で通帳を封筒に戻して彼に返した。頭がぐるぐるした。

「わ、わけがわかりません! 私は治療院をやめたりしませんし、それにこんなの、受け取れるわけないです……!」

「……ランカストさんについて、海辺の町に行くのではないのですか?」

「え⁉ なんでそんなこと……知ってるんですか?」

 なぜサイラスの口から、彼の名前が。

「っ……そ、それは」

 サイラスがぐっと詰まった。そしてうつむきながら、とぎれとぎれに言った。

「う、噂を……聞いて」

 イリスは首をかしげた。

(噂? そんな……私、辞めるなんて一言も言っていないのに…!)

 あの金曜日の夜のディナーの顛末を話したのは、ミリアムだけ。それも、ちゃんと穏便に別れたと報告した。だから、辞めるなんて噂になりようがないのだが――

(ミリアムは、そんなに口が軽いほうでもないし)

 釈然とはしなかったが、治療院は女子の多い職場でもある。ただ元カレと並んで道を歩いているのを見られただけで――結婚退職、などと噂されることも、あったりなかったり――するかも、しれない。
 なのでイリスははっきりと言った。

「その噂は、事実無根です! 私はたしかに先日、彼と食事をしましたし、転勤についてこないかとも誘われましたが、きっぱりことわって、円満に別れましたよ」

「え……」

 すると彼の目が揺れた。

「本当、ですか」

 その声が少しすがるようで、イリスは苦笑した。

(そっか……私がいなくなったら、たしかに先生は困るよね)

 唯一の、秘密を知ってしまった、発情期の相手、なのだから。

(それにしても、あんな金額用意するなんて)

 律儀にもほどがある。イリスは彼を安心させるように微笑んだ。

「大丈夫です、先生。私はクビにされないかぎり治療院の助手として働きますし、その、先生が望む限り……こうやって月一で、一緒に過ごさせてもらいますから」

 すると彼はふっと肩の力を抜いて――くしゃっ、と微笑んだ。
 なんだか泣きそうな顔だった。

「わかりました……ありがとうございます」 





「月の光が海面に映って、綺麗……」
 
 このテラスでなければ見れない眺めだろう。ぽっかりと白い月の出た海をイリスが眺めていると、後ろからサイラスがやってきた。
 じっと空に見入るイリスに、サイラスは微笑んだ。その髪がわずかに濡れていた。

「先生もシャワー浴びたんですね」

 イリスがいうと、彼は軽くうなずいて、イリスの横顔をじっと見た。

「化粧、落としたんですね」

 イリスは照れながら笑った。暗いし、なんだかもういいかと思ったのだ。 
 ――サイラスが、気づいて喜んでくれるだろうか。そんな気持ちもちょっとあった。

「夜ですし、もう眠るだけですし」

 サイラスはイリスをのぞき込んで、頬をほころばせた。

「私の前では――ずっとその姿でいてくれてかまいません。むしろ……いてほしいです」

 そんなことを言われて、意識したくなくても頬に血が上る。

「えっ……」

 サイラスは、イリスの隣に並んで空を見上げた。

「たしかに、綺麗な星空ですね」

 イリスはうなずいた。

「でしょう。ここの宿を取ってくださって、ありがとうございます」

「こちらこそ、ありがとうございます」

 サイラスは、じっとイリスを見た。

「私が望む限り……と言ってくれて」

 イリスはその視線にちょっとたじろいだが、あえて笑った。

「それはそうですよ。だって先生は、うちの治療院にとってなくてはならない人ですから」

 サイラスはじっとイリスをみつめた。思いつめたような視線。波の音とともに海風が、そんな二人の間を流れていく。

「……ずっと、望んでもいいですか」

 ザザ……と夜の波の音にかきけされて、その声はわずかしか聞こえなかった

「え?」

 イリスが聞き返すと、サイラスは少し悲し気に笑って、目をそらした。

「いえ、なんでもないんです」

 イリスはそんな彼のことが、ちょっと心配になった。
 なんだか彼が、何らかの無理をしているような気がして。

「先生は……先生は、今治療院で研究していて、充実していますか? 幸せ、ですか?」

 するとサイラスはちょっと面食らった顔をしたが、淡々と語り始めた。

「そうですね……もともと私は、院長と出会ってから、自分の体質を治す薬を作り出すことに熱中していました」

「……先生は、その前はどこに?」

 するとサイラスは、目を伏せた。

「森の中に。私は――多分、淫魔の最後の生き残りなのでしょう。母の顔はおぼろげですが、彼女が死んで動かなくなって、森を出たのは覚えています。それから……いろいろ、あって、院長と出会いました」

「それじゃあ、院長と会ったときは、まだ子どもだった……?」

「そうですね。院長もまだ若かった。彼は私を未登録生物として突き出すようなことはせず――私を保護して、魔術のいろはを教えてくれました。そして、本性は隠すように、と」

 あの人格者の院長が、やりそうなことだ。イリスはうなずいた。

「それで、住所も非公開だったりするんですね? 院長のアドバイスなんだ」

「はい……院長は、どんな状況であれ、公表すればある程度の迫害は必至だから、一生隠す選択肢もある、と。いずれ私が自分の研究を完成させ、完全に無害な存在になったら、隠さなくていい日が来るかもしれませんが」

「迫害……ですか」

「はい。その昔、院長が私を保護してくれなければ、私はきっと人を脅かす生き物だとして処分されていたことでしょう」

「そ、そこまで……?」

 淫魔が人間の命を奪ったりするわけではない。そこまで排斥されるだろうか。イリスは首をかしげた。

 しかしサイラスは暗い顔だった。

「あなたくらいですよ。嫌がらずに私の本性を受け入れるのは。女性に害をなす私は――人間からすれば、おぞましい怪物です」
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