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夜のテラスで
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「おい、エイレン。あの女を見なかったか」
葬儀を終え、イベリス兵たちにあたえられた部屋に戻ったトラディスは、老兵士にそう声をかけた。
「セレンのことかね?さあ、王子様といっしょのようだったがね。晩餐の共を申し出たのでは?」
トラディスは首をふった。
「いや、王子は彼女の申し出を断っていた。そのあと姿が見当たらない」
「わしも知りませんな。ですがトリトニアの娘だ。久々の帰郷でこの兵団に縛り付けておくのも気の毒でしょう」
「それは、そうだが…」
難しい顔をするトラディスに、エイレンはにこりと笑って言った。
「そんなに心配なら、ここは私に任せて、探しに行けばよろしい」
「だが」
トラディスはしぶった。そこで老兵士はもう一押しした。
「時には仕事以外を優先させても、いいと思いますがね。仕事一徹じゃ、女はなびきませんぞ」
なんでもお見通し、という目だった。だがトラディスはむっとしてそれを突っぱねた。
「な、何を言うっ!」
老兵士は目を細めてトラディスを見た。
「あの娘の、葬儀での落ち込みよう…亡くなった王子と、普通の関係ではありませんな。つまり今、彼女は傷ついている。ぜひ行きなさい。さあ」
「これも仕事の一環だっ。探しにいってくる、たのむぞ」
トラディスはわなわなと震えながら部屋を出た。
廊下に出てひとりになった瞬間、セレンはどっと疲れが出た。
(ああ、頭の中が混乱している…)
その混乱をかかえたまま、セレンはぼんやりと城内を歩いた。すると、シリル王子の部屋の前をとおりかかった。
「あ…」
その白い扉を開ければ、また「どうぞ」とあのやさしい声がするような気がして、セレンは扉に手をかけた。
「シリル様…」
白を基調としたその部屋は、夕闇にしずんで、ただ静かだった。召使一人おらず、あかりもない。
(もちろん、主も…)
彼のよく座っていたカウチも、書き物机も、ピアノも…藍色の薄闇の中、ただひっそりとたたずんでいた。
そんな中、ふっとカーテンがゆれた。セレンはどこか空虚な気持ちでその向こうのテラスへ出た。
そこからの景色は昔と変わらず、冬でもなお見事な中庭と、夜空が見渡せた。冷たく澄んだ空気の中、星は白く輝いて見えた。その輝きになんともいえず慕わしさを感じたセレンは、思わず手をのばした。
「シリル様…」
手は届かない。返事はない。
セレンはよろよろとその場にしゃがんだ。
(何をしているんだ、私は。空に手を伸ばせるような身分じゃないくせして…)
数々の罪を犯している身だ。大公は手段を選ばない冷酷な男だが、それに仕える私もまた、同じなのだ。
(一杯のシチューなどでは、大公も、誰も、満足できないんだ…国を続けるということは)
だけど、その彼からシリル様とミリア様はうまれた。
善いものも、悪いものも、はっきりと2つに別れてなどいない。複雑に混ざり合い、何が正しいのかなど、セレンにはきっと一生わからないのだ。
(一杯のシチューなんて、幻想だ。だからもし…もし、イベリスとトリトニアが戦になったら、その時は)
セレンは拳を胸にあて、自分に言い聞かせようとした。が、ふと、生まれてくる赤子の存在や姫姉妹たちの顔、そして嫌っていたはずの団長が頭にうかび、拳にまったく力が入らなかった。
(…争わずに、生きることができればいいのに)
だが、セレンもまたずっと争って生きてきたのではなかったか。自分が生きるために、死にもの狂いで人のものを奪った。食べた。時には腕力に訴えもした。
(そうだ…私ががそんなこと言えた義理では、ない…。一生戦って争って、そうやって生きていくしかないんだ…人も国も)
苦いかたまりを飲み込んだようにセレンはそう思った。その苦さは、これから確実にやってくるであろう痛みを予感していた。
(それでも…やらないと。私の命は、ミリア様のものなのだから)
セレンはやっとテラスのさくに手をかけ、立ち上がった。だが。
(!?)
部屋のカーテンの陰に、誰か居る。そう気が付いたセレンは鋭く叫んだ。
「誰ですか、そこにいるのは!」
すると黒い人影がぬっとセレンの前に出てきた。
「お前こそ、こんなところで何をしている?」
セレンは肩の力が抜けた。
「なんだ、団長か…」
ほっとして顔をうつむかせたセレンだったが、そんな彼女を見てトラディスは遠慮がちに言った。
「お前、その、大丈夫か?」
「はい?何がですか」
「いや…その、王子が亡くなられたのが、そんなに…」
セレンは苦笑した。
「それは、そうですよ」
その言葉を素直に受け取ったトラディスは、しばしまよったが口を開いた。
「どういう関係だったのだ?王子とは…」
的外れな質問に、セレンは憮然と首を振って答えた。
「何をきくんです!どんな関係でもありません!主と、召使です!」
その剣幕に、トラディスは少し気圧された。
「すまない。その、堪えているようだったから」
「それは、みんなそうです。シリル様は、皆に愛されるお方でしたから」
「そ、そうか」
慣れぬことをしてたじたじのトラディスを見て、セレンはふっと肩の力が抜けた。
「とりあえず、部屋に戻りましょう?」
今宵の晩餐に人員が割かれているせいか、城内の廊下は閑散としていて誰ともすれ違わなかった。
それをいいことに、セレンとトラディスはどうどうと話しながら歩いた。
「あ、見て下さい。この肖像画。これがミリア様、そしてシリル様です」
今より数年前に描かれたその絵の前で、二人は立ち止まった。
少女のミリアネスは無邪気な笑顔を見せていて、見るものの心をなごませる。大してシリルは気品があり、繊細さと美しさをかねそなえたたたずまいだ。
(なるほど。たしかに、男とは思えぬほど美しい。イベリスでは見ないタイプだ。こいつは、こういった男が好きなのか)
押し黙ってしまったトラディスを、セレンは見上げた。
「どうしたんです、そんな怖い顔して」
「…シリル王子は、どんなお方だったのだ?」
その言葉に、セレンは少しうつむいた。
「おやさしくて、聡明で…誰にでも好かれる、稀有なお方でした」
そう、彼の愛はどんな人に対しても平等だった。セレンですら、彼は慈しんでくれたのだ。セレンに読み書きの本を与えて、時には手ずから教えてくれた。
そんな昔の日常が思い出され、セレンは辛くなった。もう、彼は二度とセレンに微笑みかけてはくれないのだ…。
一方トラディスは、いつになく沈んでいるセレンを見るとなにやら落ち着かなかった。
「そうか…では后様も、ガウラス大公も、気落ちなさっているな」
セレンはその言葉をかみ締めるようにうなずいた。大公はわからないが、ミリア様は確実に辛いはずだ。
「こういったとき、どうすれば悲しみは癒えるのでしょうね。やはり、時間ですか」
悲しげに見上げられて、トラディスは動揺した。それはあることに気がついたからだった。
(私は、妻が死んだとき、こいつのように悲しめなかった…)
そう思うと、セレンに対してなにも助言などできない。
「どうだろうな。悲しめるということも、俺からすれば…。いや、なんでもない」
「悲しめるうちに悲しんでおけ、と?」
「そういうわけではないのだが…」
トラディスは言葉につまった。彼女のその感情が、うらやましいと思っただけなのだ。セレンの凛とした面構えの下には、熱い思いがかっかと燃えている。
だが自分は誰かが死んで、こうやって手放しで悲しめるだろうか。自分はいつのまにこうなってしまっただのろうか…それ以上は考えたくなかった。
「なんですか、らしくないですね、団長」
が、そういうセレンはいつもの調子だったので、トラディスは少し安心した。
「そういえば団長、何で私がここにいるとわかったんです?」
ふと気になってセレンは聞いた。
「ああ、部屋から見えたんだ。あそこのテラスが。ふと目をやったらお前がいて、いきなりしゃがんだ様子だったから驚いたぞ」
セレンは苦笑した。彼に見られていたとは。
(少し、迂闊だったな)
「無理かもしれんが、あまり落ち込むな。その…」
「その?」
「お前がしおらしいと、不気味だ」
セレンは顔をしかめた。
「何ですか、失礼ですね。私のことなんていいじゃないですか、どうだって」
返事がなかったので、セレンは団長自身のことを聞くことにした。
「団長は、ずっと、操を立てているのですか?」
「操?」
「その…亡くなった奥様に」
団長は眉根をよせた。
「なぜしっているのだ、そんな事」
「あ、ごめんなさい。辛いこときいてしまって」
団長はふっとため息をついた。怖かった顔が少しやわらいだ。
「別に、辛くなどはない。俺は家庭生活に向いてない。あれを幸せにできなかった。だからもう妻を持つことはしないと決めているだけだ」
「向いてない…本当にそうですかね?」
セレンは首をかしげた。
「…知った風にいうな」
「でも団長、家族を裏切ったりはしませんよね。奥さんを殴ったりもしなそうですし…」
私のことは殴ったけどね。とセレンは心の中でつけくわえた。
「だが、それだけではなかろう、夫婦になるというのは」
トラディスは渋い顔で言った。
「…そうですね。陛下とミリア様のようにお互い思いあっているのが一番ですよね」
「そうだな」
トラディスもそれに同意した。だが、自分はそれができなかったのだ。
「きっといつか、いいひとが現れるんじゃないですかね。団長は選ぶことの出来る立場でしょうし。だからきっと団長はまた、家庭を持ちますよ」
まるで巫女のような口ぶりだった。
「ふん、人のことより、お前はどうなんだ」
そういわれても、セレンは何も思い描けなかった。当たり前だ。
この私に、先の希望などあるわけがない。
「今はミリア様をお支えするので精一杯です」
「だが侍女も、結婚くらいはできるだろう」
「それは、そうですけど」
セレンはふっと宙を見た。そんな普通の幸せなど、手に入るはずもない。ミリアネスに拾われ、大公に目をかけられた時点で、それはもう決まっていたのだ。
「私はたぶん、死ぬときまで一人です。でも…そんな夢を見るのも、たまにはいいですね」
そう言い残して、セレンは自分の部屋へと戻った。
団長にその言葉の意味がわかるはずもなかったが、その言葉は彼の頭に焼きついて、深く印象に残った。
葬儀を終え、イベリス兵たちにあたえられた部屋に戻ったトラディスは、老兵士にそう声をかけた。
「セレンのことかね?さあ、王子様といっしょのようだったがね。晩餐の共を申し出たのでは?」
トラディスは首をふった。
「いや、王子は彼女の申し出を断っていた。そのあと姿が見当たらない」
「わしも知りませんな。ですがトリトニアの娘だ。久々の帰郷でこの兵団に縛り付けておくのも気の毒でしょう」
「それは、そうだが…」
難しい顔をするトラディスに、エイレンはにこりと笑って言った。
「そんなに心配なら、ここは私に任せて、探しに行けばよろしい」
「だが」
トラディスはしぶった。そこで老兵士はもう一押しした。
「時には仕事以外を優先させても、いいと思いますがね。仕事一徹じゃ、女はなびきませんぞ」
なんでもお見通し、という目だった。だがトラディスはむっとしてそれを突っぱねた。
「な、何を言うっ!」
老兵士は目を細めてトラディスを見た。
「あの娘の、葬儀での落ち込みよう…亡くなった王子と、普通の関係ではありませんな。つまり今、彼女は傷ついている。ぜひ行きなさい。さあ」
「これも仕事の一環だっ。探しにいってくる、たのむぞ」
トラディスはわなわなと震えながら部屋を出た。
廊下に出てひとりになった瞬間、セレンはどっと疲れが出た。
(ああ、頭の中が混乱している…)
その混乱をかかえたまま、セレンはぼんやりと城内を歩いた。すると、シリル王子の部屋の前をとおりかかった。
「あ…」
その白い扉を開ければ、また「どうぞ」とあのやさしい声がするような気がして、セレンは扉に手をかけた。
「シリル様…」
白を基調としたその部屋は、夕闇にしずんで、ただ静かだった。召使一人おらず、あかりもない。
(もちろん、主も…)
彼のよく座っていたカウチも、書き物机も、ピアノも…藍色の薄闇の中、ただひっそりとたたずんでいた。
そんな中、ふっとカーテンがゆれた。セレンはどこか空虚な気持ちでその向こうのテラスへ出た。
そこからの景色は昔と変わらず、冬でもなお見事な中庭と、夜空が見渡せた。冷たく澄んだ空気の中、星は白く輝いて見えた。その輝きになんともいえず慕わしさを感じたセレンは、思わず手をのばした。
「シリル様…」
手は届かない。返事はない。
セレンはよろよろとその場にしゃがんだ。
(何をしているんだ、私は。空に手を伸ばせるような身分じゃないくせして…)
数々の罪を犯している身だ。大公は手段を選ばない冷酷な男だが、それに仕える私もまた、同じなのだ。
(一杯のシチューなどでは、大公も、誰も、満足できないんだ…国を続けるということは)
だけど、その彼からシリル様とミリア様はうまれた。
善いものも、悪いものも、はっきりと2つに別れてなどいない。複雑に混ざり合い、何が正しいのかなど、セレンにはきっと一生わからないのだ。
(一杯のシチューなんて、幻想だ。だからもし…もし、イベリスとトリトニアが戦になったら、その時は)
セレンは拳を胸にあて、自分に言い聞かせようとした。が、ふと、生まれてくる赤子の存在や姫姉妹たちの顔、そして嫌っていたはずの団長が頭にうかび、拳にまったく力が入らなかった。
(…争わずに、生きることができればいいのに)
だが、セレンもまたずっと争って生きてきたのではなかったか。自分が生きるために、死にもの狂いで人のものを奪った。食べた。時には腕力に訴えもした。
(そうだ…私ががそんなこと言えた義理では、ない…。一生戦って争って、そうやって生きていくしかないんだ…人も国も)
苦いかたまりを飲み込んだようにセレンはそう思った。その苦さは、これから確実にやってくるであろう痛みを予感していた。
(それでも…やらないと。私の命は、ミリア様のものなのだから)
セレンはやっとテラスのさくに手をかけ、立ち上がった。だが。
(!?)
部屋のカーテンの陰に、誰か居る。そう気が付いたセレンは鋭く叫んだ。
「誰ですか、そこにいるのは!」
すると黒い人影がぬっとセレンの前に出てきた。
「お前こそ、こんなところで何をしている?」
セレンは肩の力が抜けた。
「なんだ、団長か…」
ほっとして顔をうつむかせたセレンだったが、そんな彼女を見てトラディスは遠慮がちに言った。
「お前、その、大丈夫か?」
「はい?何がですか」
「いや…その、王子が亡くなられたのが、そんなに…」
セレンは苦笑した。
「それは、そうですよ」
その言葉を素直に受け取ったトラディスは、しばしまよったが口を開いた。
「どういう関係だったのだ?王子とは…」
的外れな質問に、セレンは憮然と首を振って答えた。
「何をきくんです!どんな関係でもありません!主と、召使です!」
その剣幕に、トラディスは少し気圧された。
「すまない。その、堪えているようだったから」
「それは、みんなそうです。シリル様は、皆に愛されるお方でしたから」
「そ、そうか」
慣れぬことをしてたじたじのトラディスを見て、セレンはふっと肩の力が抜けた。
「とりあえず、部屋に戻りましょう?」
今宵の晩餐に人員が割かれているせいか、城内の廊下は閑散としていて誰ともすれ違わなかった。
それをいいことに、セレンとトラディスはどうどうと話しながら歩いた。
「あ、見て下さい。この肖像画。これがミリア様、そしてシリル様です」
今より数年前に描かれたその絵の前で、二人は立ち止まった。
少女のミリアネスは無邪気な笑顔を見せていて、見るものの心をなごませる。大してシリルは気品があり、繊細さと美しさをかねそなえたたたずまいだ。
(なるほど。たしかに、男とは思えぬほど美しい。イベリスでは見ないタイプだ。こいつは、こういった男が好きなのか)
押し黙ってしまったトラディスを、セレンは見上げた。
「どうしたんです、そんな怖い顔して」
「…シリル王子は、どんなお方だったのだ?」
その言葉に、セレンは少しうつむいた。
「おやさしくて、聡明で…誰にでも好かれる、稀有なお方でした」
そう、彼の愛はどんな人に対しても平等だった。セレンですら、彼は慈しんでくれたのだ。セレンに読み書きの本を与えて、時には手ずから教えてくれた。
そんな昔の日常が思い出され、セレンは辛くなった。もう、彼は二度とセレンに微笑みかけてはくれないのだ…。
一方トラディスは、いつになく沈んでいるセレンを見るとなにやら落ち着かなかった。
「そうか…では后様も、ガウラス大公も、気落ちなさっているな」
セレンはその言葉をかみ締めるようにうなずいた。大公はわからないが、ミリア様は確実に辛いはずだ。
「こういったとき、どうすれば悲しみは癒えるのでしょうね。やはり、時間ですか」
悲しげに見上げられて、トラディスは動揺した。それはあることに気がついたからだった。
(私は、妻が死んだとき、こいつのように悲しめなかった…)
そう思うと、セレンに対してなにも助言などできない。
「どうだろうな。悲しめるということも、俺からすれば…。いや、なんでもない」
「悲しめるうちに悲しんでおけ、と?」
「そういうわけではないのだが…」
トラディスは言葉につまった。彼女のその感情が、うらやましいと思っただけなのだ。セレンの凛とした面構えの下には、熱い思いがかっかと燃えている。
だが自分は誰かが死んで、こうやって手放しで悲しめるだろうか。自分はいつのまにこうなってしまっただのろうか…それ以上は考えたくなかった。
「なんですか、らしくないですね、団長」
が、そういうセレンはいつもの調子だったので、トラディスは少し安心した。
「そういえば団長、何で私がここにいるとわかったんです?」
ふと気になってセレンは聞いた。
「ああ、部屋から見えたんだ。あそこのテラスが。ふと目をやったらお前がいて、いきなりしゃがんだ様子だったから驚いたぞ」
セレンは苦笑した。彼に見られていたとは。
(少し、迂闊だったな)
「無理かもしれんが、あまり落ち込むな。その…」
「その?」
「お前がしおらしいと、不気味だ」
セレンは顔をしかめた。
「何ですか、失礼ですね。私のことなんていいじゃないですか、どうだって」
返事がなかったので、セレンは団長自身のことを聞くことにした。
「団長は、ずっと、操を立てているのですか?」
「操?」
「その…亡くなった奥様に」
団長は眉根をよせた。
「なぜしっているのだ、そんな事」
「あ、ごめんなさい。辛いこときいてしまって」
団長はふっとため息をついた。怖かった顔が少しやわらいだ。
「別に、辛くなどはない。俺は家庭生活に向いてない。あれを幸せにできなかった。だからもう妻を持つことはしないと決めているだけだ」
「向いてない…本当にそうですかね?」
セレンは首をかしげた。
「…知った風にいうな」
「でも団長、家族を裏切ったりはしませんよね。奥さんを殴ったりもしなそうですし…」
私のことは殴ったけどね。とセレンは心の中でつけくわえた。
「だが、それだけではなかろう、夫婦になるというのは」
トラディスは渋い顔で言った。
「…そうですね。陛下とミリア様のようにお互い思いあっているのが一番ですよね」
「そうだな」
トラディスもそれに同意した。だが、自分はそれができなかったのだ。
「きっといつか、いいひとが現れるんじゃないですかね。団長は選ぶことの出来る立場でしょうし。だからきっと団長はまた、家庭を持ちますよ」
まるで巫女のような口ぶりだった。
「ふん、人のことより、お前はどうなんだ」
そういわれても、セレンは何も思い描けなかった。当たり前だ。
この私に、先の希望などあるわけがない。
「今はミリア様をお支えするので精一杯です」
「だが侍女も、結婚くらいはできるだろう」
「それは、そうですけど」
セレンはふっと宙を見た。そんな普通の幸せなど、手に入るはずもない。ミリアネスに拾われ、大公に目をかけられた時点で、それはもう決まっていたのだ。
「私はたぶん、死ぬときまで一人です。でも…そんな夢を見るのも、たまにはいいですね」
そう言い残して、セレンは自分の部屋へと戻った。
団長にその言葉の意味がわかるはずもなかったが、その言葉は彼の頭に焼きついて、深く印象に残った。
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