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ミリアネスの苦しみ
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季節が、秋から冬へ移り変わろうとしていた。
「う~っ、寒いわね、セレン」
かじかむ手をにぎりあわせながらシザリアが言った。洗濯ものを絞るその手にはあかぎれができている。
「シザリア、手が痛いでしょう。変わるよ」
セレンは彼女の分の洗濯ものをさっと取り、絞って干していった。その手際は慣れていた。
「ごめんなさい、セレン…」
シザリアが申し訳なさそうに言った。
「いいよ。トリトニアでは侍女がこんな事まですることはなかったもの。シザリアはお嬢様なんだし、こういう事は私にまかせて無理しないで」
窓の外は、灰色の雲が垂れ込めている。空気は冴え冴えと冷たい。冬の日の朝だった。
「そうね。侍女が洗濯なんて」
トリトニアでは侍女はあくまでもミリア様の身の回りの世話をするだけだった。その他の雑用は召使に割り振られ、セレンたちは洗濯や掃除はしたことがなかった。結果、シザリアの白く細い指は、無残に赤い線が走っていた。
「でも、ここはトリトニアではないのだもの。だから私もできるようにならなくっちゃ」
シザリアは分厚いショールを胸の前でぎゅっと縛り、洗濯物をぱん、ぱんと広げた。
「じゃあ干すのをお願いするね。でも手、痛くなったら止めなね」
シザリアは由緒ある家の娘だったが、明るく働き者で、最初からセレンのことも何のわだかまりもなく受け入れてくれた。なのでセレンにとってはありがたい存在だった。
「こっちは本当に寒いわね、ミリア様の調子が悪いのも、きっとそのせいよ」
「そうね。気をつけてご様子を見ないとね」
毒のときもそうだったように、ミリア様はつい無理をしてしまうところがある。彼女の体調を気にかけ、すぐに不調に気が付くようにするのもセレンとシザリアの役目だった。
「よし、干し終わった。戻ろう」
セレンは震えるシザリアに言った。
「ええ、戻りましょう、私走るわ。そしたら少しは暖かいもの」
シザリアが笑いながら走りだしたので、セレンも彼女につきあって、少し走った。
2人が息を弾ませながらミリアネスの部屋に戻ると、そこには陛下と医師がいた。
「あ…失礼いたしました」
何やら話しをしているようだったので、2人は遠慮して部屋の外へ戻ろうとした。
「よいよい、もう戻るところだ」
医師が穏かな笑みを浮かべてそういったので、2人はその場にとどまった。
なぜか機嫌の良い王と医師を丁重に見送ったあと、セレンは長椅子に腰掛けるミリア様を見た。その表情は、心なしか沈んでいる。
「ミリア様、どうかされました?」
「体調はいかがですか?」
二人は心配になってそう聞いた。
「ええ、どうということはないのよ、ただ少し…寒くて」
その言葉をきいてシザリアもセレンも即動いた。
「では、すぐに温かいお茶を持ってまいりますね」
「ストーブをもっと暖かくしましょう」
シザリアは厨房へ向かい、セレンは真っ先に、部屋に備え付けてある黒いストーブに新たに薪をいれ、火力を強めた。
「何て言えば、いいのか…」
ミリアネスがささやくように言ったので、セレンは振り向いた。その悲痛な表情に、何か大変なことがあったのかとセレンは青くなった。
「どうなさったのです、ミリア様…」
ミリアネスは宙を見て、ポツリとつぶやいた。
「私…あと2、3年はお酒が飲めないようだわ。先生がそう、おっしゃったの」
その言葉の意味を理解するのに、セレンは数秒を要した。
「あ…ミリア様…!」
そうか、とうとう。思ったより、早かった。セレンはどう言葉をかけていいか、戸惑った。
「それは・・・おめでとう、ございます」
ミリアネスは顔を手で覆って、わっと泣き出した。
「おめでとうなんていわないで!あなただけは、セレン…」
セレンはひざまずいてミリアネスの手をとった。
「申し訳ありません。無神経な事を申しました…」
ミリアネスは嗚咽をこらえて言った。
「いいの…ごめんなさい、私…少し、混乱してしまったわ」
「当然です。ミリア様は誰よりも重い荷を背負って、ここにいらっしゃるのですから」
ミリアネスは黙ってその言葉を聴いていた。
「ですが私は、全力でミリア様をお助けいたします。その荷を支えます。ですから、私の前だけでは、何でも言ってくださって、いいのです」
その言葉に、ミリアネスの目から涙が流れた。
「ありがとう…あなたの前では、取り繕えないわね…昔から、そうよ。最初から手に入るものではないと、わかっていたつもりなのよ。幸せな家庭なんて…。だけれど、まさかこういう形でそれを思い知らされるなんて。そう思うと、なんだか笑っちゃうほど、悲しくて」
大公の唯一の娘であったミリアネスは、彼にとって最初から「外交の最上の切り札」の一枚であった。それはいずれ彼の命に従い嫁ぎ、彼のために働くことを意味していた。
「わかっていたの、覚悟していたわ…国内ならまだしも、ここに嫁げと言われた時に。なのに」
つまりミリアネスは、どこまでいっても「大公の娘」。幸せな結婚とは無縁――の、はずだった。
「まさか、陛下が。子どもたちまで…私を受け入れて、愛して下さるなんて。思ってもみなかったの」
ミリアネスは震える声で言った。
「セレン、私ね…。子どもができたと聞いて、まず真っ先に嬉しい、と思ってしまったの。この人の子どもの授かったと。笑っちゃうわね、私は最初から、陛下を裏切っているのに。…この子は将来、どんな目に会うのかしら?幸せになんか、なれないわね。私などに宿ってしまって」
ソファに手をついて、やっとのことで身体を支えるミリアネスは今にも倒れそうに見えた。セレンはそんな彼女を抱きしめて支えた。昔、彼女が転んだときよくそうしたように。
「ミリア様…」
だけども、何と声をかければいいのかセレンはわからなかった。安易な励ましの言葉など、口にはできない。
そのかわり、セレンは約束した。
「ミリア様。いざとなったら、大公よりもトリトニアよりも、私はあなたとお子を守ります。…命に、代えても」
そうだ、本当に後のない状況になったら、自分はきっとそうする。それは、自分に対する決意表明でもあった。
だがミリアネスはセレンの腕の中で震えるばかりだった。
「ごめんなさい。ごめんなさいセレン。あなたまで、ここへ連れてきてしまって…本当ならセレンは、トリトニアに残って…」
セレンは笑ってミリアネスの顔を見た。
「それは言いっこなしですよ。シザリアも私も、覚悟はできています。だいたい私は、止めたって付いてきていましたよ」
それを聞いて、ミリアネスもやっと涙をぬぐった。泣き笑いだったが。
地獄の釜が、大きく口をあけ背後まで迫ってきているような気がした。
(…ここまで来たら、もう後戻りはできないな)
セレンはひそかに心のなかでそうつぶやいた。もともと退路など、なかったのだが。
「う~~ん、むずかしぃ・・・できないよぉ」
「そう?じゃあやめにしよっか?無理しなくていいよ」
「だ、だめだめっ!もう少し、頑張るからぁ!」
晴天の昼下がり。つかの間の休憩時間、セレンは中庭でハエの「練習」につきあっていた。
本当ならば今すぐウツギの村へ向かい、毒薬のことを詳しくアジサイに聞きたかったのだが…。
(今は兵たちが見張りを強化しているし、迂闊に動けない。アサギリの言うとおり、慎重に動かないと)
兵たちの手によって、ウツギ周辺はもとより、厨房でも厳しい調査がされていた。だが手がかりは見つからず犯人探しは難航しているらしい。
そんな中セレンも独自で厨房まわりを調べていたところ、ハエに捕まってしまった。つきまとわれるのも厄介なので、少しつきあってやることにしたのだった。
「もっと思い切りよく。そうそう」
いきなりジャンプは無理なので、セレンは壁にむかって彼に倒立するように言った。
「で、頭を地面から離してごらん?腕の力で」
見た目どおり彼は身が軽く、倒立じたいは軽々とこなしてしまった。が、筋力はまだまだのようだ。
「頑張れ、手に力をこめて」
「うぅ~~~!」
ハエがうなった。目まで覆っていた前髪が逆さになり、広い額がまるだしになっている。その顔を見て、ふとセレンは既視感を覚えた。
(…この子、誰かに似てるような・・・?)
セレンはその顔を見つめて少し考えてみたが、誰も思い浮かばなかった。
そのうちにハエがへばった。
「あ~~ダメだ、むずかしい」
「なら腕の力がたりないってこと。毎日腕立て伏せするといいよ」
大の字に広がる彼に、セレンはアドバイスした。
「腕立てぇ?兵士みたいだよぉ」
口をとがらせるハエに、ふとセレンは疑問に思って聞いた。
「あなたは兵団に入っていないの?この国の男の子は、皆兵士として厳しく訓練するのではなかったっけ」
セレンは兵舎にいた少年兵たちを思い出した。ハエくらいの子もいたはずだ。
「うん、そうだよ。でも僕、兵士にはなれなかったんだ」
「そうなの?立派な身体をしているのにね」
筋力はいまいちだが、身体能力は高いほうだろう。セレンはそう見抜いていた。
「そうかな?でも僕、頭が悪いからさぁ。こんなの鍛えても無駄だって、叩かれて放り出されちゃった。ゴミ虫は一生お皿を洗ってろ、って」
ハエは膝をかかえてそういった。その表情はいつもの能天気なものではなく、悲しげだった。
たしかにここまで天真爛漫だと、兵団のような場所では浮いてしまうだろう。きっとあの兵士たちに当たられて、ひどい目にあったに違いない。セレンはハエの横に腰を下ろした。
「ひどいね。皿洗いだって、立派な仕事なのに」
「・・・そうかなぁ」
「そうだよ。お皿を洗ってくれる人がいるから、兵士だって、陛下だって、ちゃんとご飯が食べれるんじゃない。皿洗いする人がいなくなったら、大変じゃない」
ハエはちらりとセレンを見た。
「そ、そっかぁ・・・それも、そうだね」
「そうよ。あなたはここで城の仕事を極めればいいじゃない。それだって兵士と同じようにちゃんとした仕事でしょ」
兵士たちへの反感から、セレンはそう力説した。素直なハエはそれを聞いて笑顔に戻った。
「うん、うん…そうだね、僕皿洗いがんばるよ。腕立てもがんばる!」
「いや、腕立ては無理してやんなくても」
「だってジャンプできるようになりたいもん。へへ、おねーさん、ありがとう」
するとそこへ、城内の召使がセレンを呼びにやってきた。
「あ、ここにいましたか。先生があなたをよんでいましたよ」
「医師さまが?わかりました。すぐいきます」
その瞬間、ハエの事は一瞬で忘れ頭の中は心配事で占められた。
(何だろう?毒?それともミリア様の妊娠のこと?)
セレンは気もそぞろで医師の部屋へ足を踏み入れた。
「失礼します、お呼びとのことですが」
「ああ、来たか」
医師は机の向こうからセレンに手招きをした。その前には、団長もいた。
「この匂いをかいでみてくれるかな」
医師は机の上においてあった皿の一つを手に取った。白い器に、赤い汁が垂らされている。セレンはそれを受け取り、顔に近づけた。とたんにくらっとしそうになった。あの絡みつくような濃いにおいを、ぎゅっと固めたような液体だ。
「これはあの日の毒、ですね?」
医師はうなずいた。
「おそらくだ。あの時じかに匂いをかいだ君と団長、この私、3人とも同じだと感じたから、その可能性は高い」
「先生、これは一体何の毒なんだ?」
団長が聞いた。一方セレンは答えを知っているので、複雑な心境だった。
(これが、ウツギの使う毒だとばれてしまったら。でも、犯人は知りたい)
医師は淡々と説明した。
「うむ…鉱物ではなく植物の毒だとは睨んでいたが、ウツギ周辺の山へ足をのばして調べたところ、この匂いはある花が持つものだという事がわかった」
「ある花?」
セレンは表情を殺して続きを聞いた。
「ウツギの村や、山中に咲いている赤い花だ。この花の成分には、神経を麻痺させる作用があるようだ。非常に危険で、使い方によっては死に至る」
団長は固い表情で言った。
「つまりこの毒は、ウツギで栽培されている花から取れる…という事か」
医師は首を横に振った。
「ウツギにも事情聴取はしたが、彼らは何も知らないと言い張っていた。・・・たしかに咲いている花は栽培されているものではなく、野生のものばかりだったが」
団長が眉根を寄せて険しい顔をした。
まずい流れになってしまった・・・。そう思ったセレンは口を挟んだ。
「山中にもあるという事は、イベリスの人間でも花を手に入れることができる可能性がありますね?」
「もちろん、そうだ」
「どちらにせよ、もっと詳しく捜査する必要があるな。内部も、ウツギもだ」
団長の言葉に、医師はうなずいた。
「う~っ、寒いわね、セレン」
かじかむ手をにぎりあわせながらシザリアが言った。洗濯ものを絞るその手にはあかぎれができている。
「シザリア、手が痛いでしょう。変わるよ」
セレンは彼女の分の洗濯ものをさっと取り、絞って干していった。その手際は慣れていた。
「ごめんなさい、セレン…」
シザリアが申し訳なさそうに言った。
「いいよ。トリトニアでは侍女がこんな事まですることはなかったもの。シザリアはお嬢様なんだし、こういう事は私にまかせて無理しないで」
窓の外は、灰色の雲が垂れ込めている。空気は冴え冴えと冷たい。冬の日の朝だった。
「そうね。侍女が洗濯なんて」
トリトニアでは侍女はあくまでもミリア様の身の回りの世話をするだけだった。その他の雑用は召使に割り振られ、セレンたちは洗濯や掃除はしたことがなかった。結果、シザリアの白く細い指は、無残に赤い線が走っていた。
「でも、ここはトリトニアではないのだもの。だから私もできるようにならなくっちゃ」
シザリアは分厚いショールを胸の前でぎゅっと縛り、洗濯物をぱん、ぱんと広げた。
「じゃあ干すのをお願いするね。でも手、痛くなったら止めなね」
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「こっちは本当に寒いわね、ミリア様の調子が悪いのも、きっとそのせいよ」
「そうね。気をつけてご様子を見ないとね」
毒のときもそうだったように、ミリア様はつい無理をしてしまうところがある。彼女の体調を気にかけ、すぐに不調に気が付くようにするのもセレンとシザリアの役目だった。
「よし、干し終わった。戻ろう」
セレンは震えるシザリアに言った。
「ええ、戻りましょう、私走るわ。そしたら少しは暖かいもの」
シザリアが笑いながら走りだしたので、セレンも彼女につきあって、少し走った。
2人が息を弾ませながらミリアネスの部屋に戻ると、そこには陛下と医師がいた。
「あ…失礼いたしました」
何やら話しをしているようだったので、2人は遠慮して部屋の外へ戻ろうとした。
「よいよい、もう戻るところだ」
医師が穏かな笑みを浮かべてそういったので、2人はその場にとどまった。
なぜか機嫌の良い王と医師を丁重に見送ったあと、セレンは長椅子に腰掛けるミリア様を見た。その表情は、心なしか沈んでいる。
「ミリア様、どうかされました?」
「体調はいかがですか?」
二人は心配になってそう聞いた。
「ええ、どうということはないのよ、ただ少し…寒くて」
その言葉をきいてシザリアもセレンも即動いた。
「では、すぐに温かいお茶を持ってまいりますね」
「ストーブをもっと暖かくしましょう」
シザリアは厨房へ向かい、セレンは真っ先に、部屋に備え付けてある黒いストーブに新たに薪をいれ、火力を強めた。
「何て言えば、いいのか…」
ミリアネスがささやくように言ったので、セレンは振り向いた。その悲痛な表情に、何か大変なことがあったのかとセレンは青くなった。
「どうなさったのです、ミリア様…」
ミリアネスは宙を見て、ポツリとつぶやいた。
「私…あと2、3年はお酒が飲めないようだわ。先生がそう、おっしゃったの」
その言葉の意味を理解するのに、セレンは数秒を要した。
「あ…ミリア様…!」
そうか、とうとう。思ったより、早かった。セレンはどう言葉をかけていいか、戸惑った。
「それは・・・おめでとう、ございます」
ミリアネスは顔を手で覆って、わっと泣き出した。
「おめでとうなんていわないで!あなただけは、セレン…」
セレンはひざまずいてミリアネスの手をとった。
「申し訳ありません。無神経な事を申しました…」
ミリアネスは嗚咽をこらえて言った。
「いいの…ごめんなさい、私…少し、混乱してしまったわ」
「当然です。ミリア様は誰よりも重い荷を背負って、ここにいらっしゃるのですから」
ミリアネスは黙ってその言葉を聴いていた。
「ですが私は、全力でミリア様をお助けいたします。その荷を支えます。ですから、私の前だけでは、何でも言ってくださって、いいのです」
その言葉に、ミリアネスの目から涙が流れた。
「ありがとう…あなたの前では、取り繕えないわね…昔から、そうよ。最初から手に入るものではないと、わかっていたつもりなのよ。幸せな家庭なんて…。だけれど、まさかこういう形でそれを思い知らされるなんて。そう思うと、なんだか笑っちゃうほど、悲しくて」
大公の唯一の娘であったミリアネスは、彼にとって最初から「外交の最上の切り札」の一枚であった。それはいずれ彼の命に従い嫁ぎ、彼のために働くことを意味していた。
「わかっていたの、覚悟していたわ…国内ならまだしも、ここに嫁げと言われた時に。なのに」
つまりミリアネスは、どこまでいっても「大公の娘」。幸せな結婚とは無縁――の、はずだった。
「まさか、陛下が。子どもたちまで…私を受け入れて、愛して下さるなんて。思ってもみなかったの」
ミリアネスは震える声で言った。
「セレン、私ね…。子どもができたと聞いて、まず真っ先に嬉しい、と思ってしまったの。この人の子どもの授かったと。笑っちゃうわね、私は最初から、陛下を裏切っているのに。…この子は将来、どんな目に会うのかしら?幸せになんか、なれないわね。私などに宿ってしまって」
ソファに手をついて、やっとのことで身体を支えるミリアネスは今にも倒れそうに見えた。セレンはそんな彼女を抱きしめて支えた。昔、彼女が転んだときよくそうしたように。
「ミリア様…」
だけども、何と声をかければいいのかセレンはわからなかった。安易な励ましの言葉など、口にはできない。
そのかわり、セレンは約束した。
「ミリア様。いざとなったら、大公よりもトリトニアよりも、私はあなたとお子を守ります。…命に、代えても」
そうだ、本当に後のない状況になったら、自分はきっとそうする。それは、自分に対する決意表明でもあった。
だがミリアネスはセレンの腕の中で震えるばかりだった。
「ごめんなさい。ごめんなさいセレン。あなたまで、ここへ連れてきてしまって…本当ならセレンは、トリトニアに残って…」
セレンは笑ってミリアネスの顔を見た。
「それは言いっこなしですよ。シザリアも私も、覚悟はできています。だいたい私は、止めたって付いてきていましたよ」
それを聞いて、ミリアネスもやっと涙をぬぐった。泣き笑いだったが。
地獄の釜が、大きく口をあけ背後まで迫ってきているような気がした。
(…ここまで来たら、もう後戻りはできないな)
セレンはひそかに心のなかでそうつぶやいた。もともと退路など、なかったのだが。
「う~~ん、むずかしぃ・・・できないよぉ」
「そう?じゃあやめにしよっか?無理しなくていいよ」
「だ、だめだめっ!もう少し、頑張るからぁ!」
晴天の昼下がり。つかの間の休憩時間、セレンは中庭でハエの「練習」につきあっていた。
本当ならば今すぐウツギの村へ向かい、毒薬のことを詳しくアジサイに聞きたかったのだが…。
(今は兵たちが見張りを強化しているし、迂闊に動けない。アサギリの言うとおり、慎重に動かないと)
兵たちの手によって、ウツギ周辺はもとより、厨房でも厳しい調査がされていた。だが手がかりは見つからず犯人探しは難航しているらしい。
そんな中セレンも独自で厨房まわりを調べていたところ、ハエに捕まってしまった。つきまとわれるのも厄介なので、少しつきあってやることにしたのだった。
「もっと思い切りよく。そうそう」
いきなりジャンプは無理なので、セレンは壁にむかって彼に倒立するように言った。
「で、頭を地面から離してごらん?腕の力で」
見た目どおり彼は身が軽く、倒立じたいは軽々とこなしてしまった。が、筋力はまだまだのようだ。
「頑張れ、手に力をこめて」
「うぅ~~~!」
ハエがうなった。目まで覆っていた前髪が逆さになり、広い額がまるだしになっている。その顔を見て、ふとセレンは既視感を覚えた。
(…この子、誰かに似てるような・・・?)
セレンはその顔を見つめて少し考えてみたが、誰も思い浮かばなかった。
そのうちにハエがへばった。
「あ~~ダメだ、むずかしい」
「なら腕の力がたりないってこと。毎日腕立て伏せするといいよ」
大の字に広がる彼に、セレンはアドバイスした。
「腕立てぇ?兵士みたいだよぉ」
口をとがらせるハエに、ふとセレンは疑問に思って聞いた。
「あなたは兵団に入っていないの?この国の男の子は、皆兵士として厳しく訓練するのではなかったっけ」
セレンは兵舎にいた少年兵たちを思い出した。ハエくらいの子もいたはずだ。
「うん、そうだよ。でも僕、兵士にはなれなかったんだ」
「そうなの?立派な身体をしているのにね」
筋力はいまいちだが、身体能力は高いほうだろう。セレンはそう見抜いていた。
「そうかな?でも僕、頭が悪いからさぁ。こんなの鍛えても無駄だって、叩かれて放り出されちゃった。ゴミ虫は一生お皿を洗ってろ、って」
ハエは膝をかかえてそういった。その表情はいつもの能天気なものではなく、悲しげだった。
たしかにここまで天真爛漫だと、兵団のような場所では浮いてしまうだろう。きっとあの兵士たちに当たられて、ひどい目にあったに違いない。セレンはハエの横に腰を下ろした。
「ひどいね。皿洗いだって、立派な仕事なのに」
「・・・そうかなぁ」
「そうだよ。お皿を洗ってくれる人がいるから、兵士だって、陛下だって、ちゃんとご飯が食べれるんじゃない。皿洗いする人がいなくなったら、大変じゃない」
ハエはちらりとセレンを見た。
「そ、そっかぁ・・・それも、そうだね」
「そうよ。あなたはここで城の仕事を極めればいいじゃない。それだって兵士と同じようにちゃんとした仕事でしょ」
兵士たちへの反感から、セレンはそう力説した。素直なハエはそれを聞いて笑顔に戻った。
「うん、うん…そうだね、僕皿洗いがんばるよ。腕立てもがんばる!」
「いや、腕立ては無理してやんなくても」
「だってジャンプできるようになりたいもん。へへ、おねーさん、ありがとう」
するとそこへ、城内の召使がセレンを呼びにやってきた。
「あ、ここにいましたか。先生があなたをよんでいましたよ」
「医師さまが?わかりました。すぐいきます」
その瞬間、ハエの事は一瞬で忘れ頭の中は心配事で占められた。
(何だろう?毒?それともミリア様の妊娠のこと?)
セレンは気もそぞろで医師の部屋へ足を踏み入れた。
「失礼します、お呼びとのことですが」
「ああ、来たか」
医師は机の向こうからセレンに手招きをした。その前には、団長もいた。
「この匂いをかいでみてくれるかな」
医師は机の上においてあった皿の一つを手に取った。白い器に、赤い汁が垂らされている。セレンはそれを受け取り、顔に近づけた。とたんにくらっとしそうになった。あの絡みつくような濃いにおいを、ぎゅっと固めたような液体だ。
「これはあの日の毒、ですね?」
医師はうなずいた。
「おそらくだ。あの時じかに匂いをかいだ君と団長、この私、3人とも同じだと感じたから、その可能性は高い」
「先生、これは一体何の毒なんだ?」
団長が聞いた。一方セレンは答えを知っているので、複雑な心境だった。
(これが、ウツギの使う毒だとばれてしまったら。でも、犯人は知りたい)
医師は淡々と説明した。
「うむ…鉱物ではなく植物の毒だとは睨んでいたが、ウツギ周辺の山へ足をのばして調べたところ、この匂いはある花が持つものだという事がわかった」
「ある花?」
セレンは表情を殺して続きを聞いた。
「ウツギの村や、山中に咲いている赤い花だ。この花の成分には、神経を麻痺させる作用があるようだ。非常に危険で、使い方によっては死に至る」
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「つまりこの毒は、ウツギで栽培されている花から取れる…という事か」
医師は首を横に振った。
「ウツギにも事情聴取はしたが、彼らは何も知らないと言い張っていた。・・・たしかに咲いている花は栽培されているものではなく、野生のものばかりだったが」
団長が眉根を寄せて険しい顔をした。
まずい流れになってしまった・・・。そう思ったセレンは口を挟んだ。
「山中にもあるという事は、イベリスの人間でも花を手に入れることができる可能性がありますね?」
「もちろん、そうだ」
「どちらにせよ、もっと詳しく捜査する必要があるな。内部も、ウツギもだ」
団長の言葉に、医師はうなずいた。
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静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
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