ひどい目

小達出みかん

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松の位のとばっちり(2)

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「千寿太夫、お客様がおまちでございます」


 揚屋につくと、主人が直々に千寿の一行の出迎えに出てきていた。もう、揚屋にまで太夫昇進が伝わっているのか。松風と灯紫の手回しの早さに千寿は内心で舌を巻いた。だがその動揺を面に出さず、主人に言葉を返した。


「わかっています、お迎えどうも」


「それがあの…少々変わったお客様でして」


 ここの主人にしては珍しく、もごもごと言葉尻を濁すような言い方だ。


「どんなお客なのです?」


 松風が鋭く主人に尋ねた。


「いえそれが、千寿太夫以外は座敷に通さないでほしいと仰せで…」


 それを聞いて、松風はふんとばからしそうに鼻を鳴らした。


「おおかた、宴をしないで花代を節約しようというけちな客でしょう。よくある事です」


「いえそれが、そういうわけでも、松風さん」


 そういって主人が懐から布包みを差し出した。


「最低でも三日「いつづけ」したいとこれだけ預かりまして…」


 ずっしりとした包みを主人が開いて見せる。


「に、二十両あります。初会でも、千寿太夫とふたりきりがいいそうです」


「二十両……!」


 千寿は絶句した。自分の一晩の揚げ代は、一両の半分以下だ。三日どんちゃん騒ぎをして遊んだってここまでかからないだろう。それなのに…。


「わぁ、すごい」


「小判見るの、おらはじめてだ」


 後ろでゆきとりんが目を丸くして囁きあっている。


「…わかりました。芸者も禿も帰しましょう」


 松風が指示をだし、一行は解散して二人になった。


「松風さんは、付き添ってくださるのですか」


 おずおずと千寿が口にする。ここまで得体の知れない客は初めてだ。さすがに一人は怖い。


「当たり前です。いくらお大尽が拒もうと、遣手まで追い払う事はできません。太夫の初会なのですから。さ、行きましょう」


 二人は主人の後に続き、座敷へと向かった。


「今日のお大尽は、私が太夫だと知っていて大金を用意したのでしょうか?」


「それはないです、我々もついさっきの道中で知った事ですよ、千寿が太夫に昇格、ってね」


 主人が振り返り言った。


「ですから、少々用心したほうが良いでしょう」


 松風がそれに続ける。


「見たこともあったこともない遊女に対して二十両も出すなど、何か下心があるにちがいありません」


「下心…?」


 そんなこと言っても、千寿は遊女だ。床入りは決まっているようなものなのにこれ以上どんな下心を抱くというのだろう…。すると、そう思った千寿の心の内を見透かすように松風は言った。


「法外の金を出す、という事は要求も法外である、という事ですよ。頭を使いなさい千寿」


「はあ…」


 千寿が気抜けしたように言うと、さらに松風は畳みかけた。


「密室に二人きりになりたい。もしかしたら相手はあなたに恨みを持つ男で、殺すつもりなのかもしれない」


「まさか、そんな…」


 千寿はぞっとした。


「…という可能性もある、という事ですよ。とにかく心当たりがなくても、用心するに越したことはありません。ここはそういう場所です」


「…はい」


 座敷の前についた。目の端までいっぱいに、襖が続いている。ここまで広い座敷は初めてだ。


「・・・えらいお大尽なので、この座敷に案内しましたが…もっと手頃な座敷の方が、良かったですかな?」


 主人が松風にきいた。


「お大尽は、さる宮家のお殿様、でしたね」


「へぇ。たいそうな優男でした。あんまり慣れてなさそうな様子でしたがね」


「優男…」


 名家の坊ちゃんの筆おろし、ってとこだろうか。よくあるパターンだ。しかし、千寿はなんだか嫌な予感がした。


「どうしたのですか、千寿」


 怪訝そうに松風が尋ねた。


「いえ、大丈夫です」


「では、気を引き締めていきましょう」


主人が襖を開け、声をかけた。


「旦那様、お待たせしやした。太夫のおつきです」


 その、細くあいた隙間から見えた先。


 若い男が座っていた。明るい目、髪、優しい顔立ち――

 千寿の脳内は真っ白になった。

 「彼」にそっくりだ。いや、「彼」そのものだ。


「さあ、千寿」


 松風が促す。千寿は真っ白な頭のまま、言われるがままに座敷に足を踏み入れた。一歩、二歩…。


 あの日あのままの姿で、「彼」は千寿の頭の中に存在していた。成長した姿など、考えた事もない。


 だめだ、怖くて顔が上げられない。

 いや、本当に彼か?ちがうかもしれない。

 でも、怖い・・・怖い。

 呆けたまま腰を下ろした千寿を、松風が怪訝そうに見やった。


「いやあ、旦那様は実に幸運でございます!」


 千寿の状態を知ってかしらずか、主人が太鼓持ちのように「彼」にとりなした。


「この千寿さんは、ついさっき天神から太夫に昇格したんでございますよ。この遊郭一の舞姫と評判の上臈でして。いやぁ旦那様はお目ききだ。ねぇ、松風殿。」


 松風もちょっと眉を上げ、商売向けの表情でそれに答える。


「旦那様も、またなかなかの美男でございますね。この千寿が、恥ずかしがって黙り込んでおりますよ。」


 そして、おかしそうに笑い声を立てたながらも、抜け目なく横目で千寿を見遣った。

 千寿は狼狽して、思わず畳から松風へ目線を上げた。その瞬間。


ーー「彼」の視線とぶつかった。


「・・・・っ!」


 苦い大きな固まりを、のどの奥に押し込められたように、千寿は言葉に詰まった。耐えられない。こんな事、許されていいはずがない。


 気づいたら、座敷を飛び出し通りを走っていた。裸足で髪をふりみだして走る千寿を、皆が振り返って見た。息が切れる。ようやっと立ち止まり呆然とあたりを見回すと、そこは遊郭の端の河岸見世通りだった。人通りはまばらだ。


 呆然として、千寿は着物が汚れるのもかまわずずるずると地面に膝をついた。


…「彼」の顔、笑っていた。


 私のこの境遇が、彼にはおかしいのか?


 瞬時にその考えが体中を支配し、千寿は駆け出してしまったのだった。


 なんで?なんで笑えるんだろう。こんな身分になったのは彼を…諦めたからなのに。

 清い娘を娶り一家の主となり、ふと思い立って遊女に落ちた私を見物しに来たのだろうか?様々な暗い思惑が千寿の脳裏をかけめぐった。


……「彼」にだけは、こんな姿見られたくなかったのに。


 ぽつ、ぽつ、と地面に滴が落ち、染みになる。


「千寿さん!」


 後ろから、誰かの声がした。諦めたように振り返ると、逸郎がいた。


「どうしたんですか千寿さん。早くお戻りになって下さい、みんな心配しています」


 逸郎は千寿に手をさしのべ、立たせた。


「さあ、行きましょう」


「…いやっ」


 千寿はその手を乱暴に振り払った。


「座敷には戻らない!」


「千寿さんらしくないです、そんなわがまま。どうか…」


 逸郎がおろおろという。


「わがままじゃない…無理なの。どうしても、無理なの…!」


 涙を流しながら言う千寿の手を、そのときだれかが掴んだ。


「大醜態ですよ、千寿」


 松風だった。後ろには、見世の若い衆を付き従えている。


「20両もいただいておきながら、この不始末…どう償ってくれるんですか」


 その不穏な空気に、逸郎は身をすくめたが、千寿は負けていなかった。


「松風様、なんと言われようと、私は戻りません。あの客だけは、無理です」


 その瞬間、バシッと千寿の頬に平手打ちがとんだ。


「遊女の身分で客の選り好みとは」


 松風が若い衆に目配せをすると、千寿は両腕を捕まれ、ぐいと乱暴にひっぱられた。


「いいですか、きっちり20両ぶんは、あの客の相手をするのです」


 無理矢理ひきずられる千寿に、松風は言った。


「嫌だっ!はなしてっ!…はなせっ!」


 千寿はめちゃくちゃに暴れたが、無駄だった。


「千寿、あなたらしくもない。いつも通りもてなせばいいだけです。なにが嫌なのですか。もしかして」


 松風は淡々と話しながら、唇の端をにっとつり上げた。とたんに、顔の傷がひきつれ酷薄な印象が増した。


「あなたの過去と、関係があるのですか、あのお大尽は」


「っ…」



「ならば昔話でもして、ゆっくりと過ごせば良いではありませんか」


 その言い草に、千寿はかっとなった。だが捕まえられているせいで何もできない。かわりに、松風をギリギリとにらんだ


…視線で人が殺せればいいのに。


「そこまで反抗するなら、いいでしょう」


 涼しい顔で、松風は冷酷に言い放った。






 日がしずみかけている。もうすぐ夜見世のはじまる時間だ。


 木の幹は、背骨を砕くかと思うほど固い。くわえて麻縄がきりきりと全身に食い込む。千寿は、折檻と称して庭の木に縛り付けられていた。苦しむ脳裏に、松風の言葉がよみがえる。


「この程度で済んで、ありがたいと思いなさい」


 千寿がにらむと、再び平手打ちが飛んだ。


「自分の立場を考えてごらんなさい。千寿。あなたはほかにも法度をしでかしているのですから」


 法度…?千寿は動かない首を傾げた。覚えがない。


「言いがかりはやめてくださいっ」


 また松風の手が、降り上げられた。千寿がぎゅっと目をつぶると、次の瞬間松風は千寿の頬に指を這わせていた。


「最近梓はあなたにご執心だ…知らないとは、言わせませんよ」


 耳元で低くつぶやかれたその声に、千寿ははっとした。あのことを、松風は知っているのだろうか。去っていく松風の背中を睨みながら、千寿は考えを巡らせた。

 だが、もう考える力も底をついたようだ。目が霞んでくる。千寿はただうなだれて、地面を見つめた。






 夜見世がはじまってしばらくして、松風が見世を抜けて千寿の元へ来た。


「縄を解きなさい」


 命じられた下男が素早く縄をほどいた。千寿の体が地面にどさりと投げ出された。


「さあ、これで懲りたでしょう、千寿」


「ぁ・・・・・」



 のどはからからで、体中が痛い。頭は痛み、千寿は体を起こすこともできず、ただうつ伏せで倒れていた。


「座敷に戻るのです」


 その松風の言葉に、千寿は必死で声を絞り出した。


「む、無理です…」


 その瞬間、松風の下駄をはいた足が千寿の頭を踏みつけにした。


「また縛り付けられたいのですか。いいですよ、明日のこの時間までまたここでお過ごしなさい」


「お、お願いです…どうか、あの座敷だけは・・・ほかのお客ならいくらでも・・・」


 もはや力でも、立場でも勝ち目はない。千寿は誇りも恥も捨て、這いつくばって頼んだ。


「くどいですよ」


 いらだった松風が、ぐぐっと足に力をこめる。千寿の髪に泥が滴り落ちた。


「お願いです…」


 千寿は無力にも、その言葉を繰り返すしかなかった。


「松風」


 そのとき、誰かに呼ばれて松風が振り返った。頭から固い下駄の感触が、消える。


「そこら辺にしときなよ」


 濡れ縁から、妖艶に着飾ったの梓がつかつかと降りて歩み寄ってきた。


「梓。見世はどうしたのですか」


「廻しに任せてちょっと抜けてきたよ」


「なぜ。今すぐもどりなさい」


「戻るよ。千寿が解放されたら」


「あなたには関係のないことです」


「・・・あるよ。こんな儲けの機会を逃す奴があるかよ」


「?」


 松風が怪訝な顔をする。梓は飄々と言い放った。


「なあ、その客はまだ座敷にいるんだろ、だったら俺が代わりに行くよ」


「…は?」


 千寿も松風も、耳を疑った。


「俺なら、損を取り戻せる」


「馬鹿な事を。今日あなたに会いに来た客はどうするのです」


「うまく廻して相手するよ。いつもの事だ。名代が足りなきゃ、千寿の禿にやらせればいい」


「そんな無理がまかり通るとでも思っているのですか、だいたい貴方は――」


「脱がなきゃ男なんてばれねえよ。最悪、手と口だけで満足させりゃいい。とにかく損をなくして儲けりゃいいんだろ。それさえできればどうなろうが、関係ないだろ」


 梓がそう言い切ると、松風はふっと皮肉に笑った。


(私とした事が…仕事に私情を持ち込むなど)


 たしかに梓のいう事ももっともだ。これ以上折檻を引き延ばしても千寿は聞き入れそうにない。そして、梓にかかれば初めて遊郭に足を踏み入れたお坊ちゃんなど、赤子の手をひねるようなものだ。

 損得で考えれば、願ってもないだろう。


「・・・わかりました」


「交渉成立だな」


 うなずく梓に、すれちがいざまに松風はささやいた。


「なぜそこまでして、彼女をかばうのですか…」


「それは…」


 梓は言葉に詰まったが、彼はその様子を見ることもなく庭を後にしていた。


――理由などない。ただ、千寿が折檻されているのを見ていたくないだけだった。


「…千寿、大丈夫か」


「梓さん…なんで」


 梓は千寿をそっと抱き起こした。


「いい。喋るな」


「すいませ…っ」


 千寿を抱きかかえて梓が立ち上がった瞬間、千寿の顔が痛みにゆがんだ。


「喋るなって。辛いよな、背中」


 梓は千寿を部屋まで運んだ。襖の前までついた瞬間、スパンと襖が開きゆきが飛び出してきた。


「千寿さま…!」


「大丈夫だよ。無事だ。布団は?」


「あ、あちらに敷いてあります」


「わかった」


 布団の上に千寿を横たえると、すかさずゆきがかいがいしく布をかけ、白湯を差し出す。


「・・・さて、と。俺は行くかな」


 それを見届け、梓は部屋を出ていこうとした。


「あ、梓さん…」


 千寿が声を絞り出す。


「だから喋んなって。後のことは気にせず寝てな」


「ありがとうございま…す…」


「礼ならゆきに言いな。必死で松風を止めてくれって、俺に頼みにきたんだから」


 そう言って、梓は部屋を出ていった。


「ゆき…ありがとう…」


 ゆきの願いを、仲たがいしていた梓が了承したのは信じがたかったが、ぼんやりとした頭で千寿は礼を言った。


「いいんです姉さま…お休みになって下さい」


 千寿はその言葉に甘えて、目を閉じた。


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