ひどい目

小達出みかん

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真夏の夜のにわか狂乱(6)

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襖の向こうから、光がさしこんでいる。ああ、朝だ。千寿はパチリと目を開けた。起き上がると、体に妙な倦怠感がある。


(ああ、昨日は夢政様にひどいことされたんだった。それから…)


 その時、ガラッと襖があいた。


「おい千寿、待ちくたびれたぞ」


 現れたのは怒り顔の梓だった。


「あっ」


 そうだ、練習…!


「ごめんなさい梓さん、練習だったの、忘れていました…」


 千寿は布団から飛び出て謝った。


「別にどうでもいいよ、練習なんて。それよかさぁ」


 梓がぐっと千寿に迫った。


「昨日、菊染とやったの?」


「はっ?」


 千寿は目を白黒させた。


「やったのかってきいてんの」


 まずい。法度をやぶったわけではなく、仕事上の行為だということを説明しなければ。


「やったっていうか、仕事で」


「へえ。気持ちよかった?」


「はっ?」


 千寿は答えにつまった。


「なに恥ずかしがってんだよ。遊女のくせして」


「仕事ですから…お互い客の要望に答えただけですよ」


「ふ~~~ん」



「法度破りとかじゃないんで!」


「ふ~~~~~ん」


「だ、だからそんな顔しないでくださいよ!」


「別に千寿が法度を破るとは思ってねえから、安心しろよ」


 梓は不機嫌そうに言った。


「ただなんか、面白くねぇだけ」


「え」


「昨日おれとくちづけしたくせに、そのあとすぐ菊染とやってるなんてな」


 梓と、口付け…。そうだ、昨日そんなこともあったんだった。夢政の衝撃で忘れかけていた、鈴鹿の忠告を思い出す。

 千寿の部屋に2人きりのこの状況。かなりまずいのではないか…?


「うわっだめです梓さん、今すぐ練習に向かいましょう」


 千寿は梓の手を引っ張りすぐさま部屋を出た。


「な、なんだよいきなり」


「時間は限られてるんですから、さっそく練習にとりかからないと!鈴鹿も待ってるし!」


 千寿は夢中で梓を引っ張りながら裏庭へ向かったのだった。


(なんだよ、どんな顔してるかと思って見にきたら…)


 昨夜のことがあって、絶対にしょげかえってるだろうと見にきたら、いつもより元気じゃないか。


(そんなに、良かったのか…?)


 自分が戯れにでも手を出そうとすると、あんなに拒否するくせに。梓は無性にイライラした。

 その理由は、深くは考えなかったが。








「どうしたものですかねぇ・・・・」


 松風は、誰に聞こえるともなくつぶやいた。

 ここのところ、梓と千寿の仲が、妙に気になる。

 俄の役者に、千寿を入れないほうが良かったか…。だがもう遅い。彼女が主役で踊ることが決まってしまった。


 梓は、その気になればとことんやる性格だ。これまで何度、煮え湯をのまされてきたことか。松影は顔をしかめた。

 …とにかく、法度が起こらないためにも二人をよく監視しなくてはならない。 この店のためにもだ。

ひとり思案する松風に、下女が声をかける。


「松風様、灯紫様がお呼びです、衣装が届いたと」


「俄のですね。今行きますと伝えなさい」


 ああ、またお金がかかる。松風はひとりごちた。









 なまぬるく湿った風が、にぎわう花街の大通りをのんびりと吹きぬける。夏も本番になってきた夜の街を、一仕事終えた千寿は歩いていた。


(ああ、次の客は誰かな…)


 できることなら、その前に冷たい水風呂にでも入って、さっぱりしたい。


「ただいま戻りました」


 千寿は遣り手部屋の松風に声をかけた。


「ああ、千寿。ちょうど良かった」


「次はどこへ向かえばよろしいでしょうか」


「次の仕事の前に、一度灯紫様の部屋へ行きなさい」


 灯紫様の部屋は、廊下の先の奥まった座敷にある。暗いが、手入れが行き届いて豪奢な廊下を通って千寿は部屋へと向かった。


「失礼します…」


 千寿が部屋の襖をあけると、そこには灯紫だけでなく、鈴鹿と梓もいた。


「あれ、皆そろってどうしたんですか」


「やっと来たね、千寿。」


 灯紫様は機嫌がよさそうで、千寿はほっとした。


「さあさあ、はやく見せてくださいよ、灯紫様!」


 鈴鹿が待ちきれないとばかりに催促している。


「たのんでいた俄の衣装が、やっと届いたんだよ、ほら!」


 灯紫様がばっと衣装を広げた。


「これが梓の、これは鈴鹿、そしてこれが千寿!」


 色とりどりの布が広がる。座敷が色の洪水でうめつくされた。


「これがわたしの!」


 鈴鹿は楽しげに萌黄色の振袖を羽織って見せた。


「どう?千寿!」


「とても似合っています」


「千寿も羽織ってごらんよ~~」


「え、わたしもですか?」


「いいからいいから…あら、素敵じゃない!ね、灯紫様!」


「そうだねえ、帯はどんなのがいいかね」


 わき合い合いとした空間にひとり取り残された梓がぼそっとつぶやいた。


「俺、もう行ってもいい?」


「ちょっとお待ち。あんたたち、肝心の舞の練習はどうなってんだい?わたしもなんだかんだ忙しくて見

にいけなかったからね、そこんとこ、ききたくてね」


「だいたい毎日練習していますよ。3人で」


「じゃ、明日の本番も心配ないね?」


「ええ、そりゃもちろん」


「はい、がんばります」


「一番目立ってやるから、期待しててくれよ」


 三者三様に、灯紫に答えた。

 あれ以来、毎朝3人で練習していたのでだんだんと上達し、なんとなくだが連帯感のようなものが生まれた。だから明日に向かって3人とも気持ちは高揚していた。


「明日、楽しみだねぇ」


「やっぱり緊張しますね…」


「千寿は大勢の前で踊るのなんて慣れっこだろ」


「そんなことないですよ、すごく緊張します」


「へぇ~。俺はぜんぜんそういうのないわ」


「あんたも少しは緊張感持たないと、明日トチるんじゃない?」


「はっ、鈴鹿こそ!」


 灯紫様の部屋をあとにした3人は、笑いあいながらそれぞれの仕事に戻っていった。






 そして、八月一日。千寿は早起きして外の天気を確かめた。入道雲が空いっぱいに広がった、夏晴れの朝だった。

 これから一ヶ月間、俄のお祭り騒ぎだ。初日の今日は、いちばん目立って騒いで踊って、客をいっせいに胡蝶屋にひきつけなければいけない。見世同士の意地をかけた戦いだ、と灯紫様は言っていた。


「よし、準備にかかるか」


 千寿は気合を入れて、昨日もらった着物を着付けた。






「おーい千寿、鈴鹿、準備はまだか~?」


 梓が大階段の下で叫んだ。


「はい、今いきます!」


 支度を終え、階段を駆け下りながら千寿は返事した。


「あ、千寿」


 そこでちょうど踊り場にいた菊染とすれちがった。


「菊染、おはよう!」


 いつになく元気にあいさつすると、菊染はしげしげと千寿をながめた。


「へぇ、なんか新鮮だな、そんなかっこ。目だっていいかもな」


「菊染もそう思う?ふふ」


「ああ。頑張れよ、その…応援、してるから」


 菊染はちょっと目を伏せて言った。


「菊染も、見世のほうよろしくおねがいしますねっ!」


「おう。任せとけ」


 あれ以来、菊染とはよく世間話をする仲だ。体を重ねたにもかかわらず、仲の良い朋輩が増えたようで千寿は純粋に嬉しかった。…菊染のほうは、少し違う気持ちだったが。







「おおー、いいじゃん、いいじゃん」


 おりてきた千寿を見て梓は意地悪に目を細めた。


「男の格好、よく似合ってるよ」


 千寿は馬役なので、男装なのだ。


「梓様も、いつもどおり振袖と花笠が良くお似合いで」


 千寿は皮肉でなく、心からそう言った。


 艶のある黒髪と玉のような白い肌に、浅葱色の振袖がよく映えている。花笠をかぶったその姿は、まさに花も恥らう乙女、といったところだ。ところが梓はは皮肉ととらえたようで口をとがらせた。


「ふーん、お前、言うようになったじゃねぇか」


「ほんとにきれいですよ。さすがです」


「お前ってほんと、変なやつ」


 すると、梓はふいに千寿の頬をつねった。


「いたっなにするんですか!」


「ふん。すまし返ってるんじゃねーよ」


 ののしりながら、梓はぷいっとそっぽを向いた。


「もしかして…照れてます?」


 千寿が聞くと、梓は鼻で笑った。


「はん?んなわけないだろ、ったく」


「そうですか…」


「っていうか最近お前、俺のこと避けてたろ?」


 千寿はギクリとした。


「えっ?そんなことないですよ、だいたい毎日練習してたじゃないですか」


「俺と二人になるの、避けてたろ」


 梓がじっと千寿を見た。


「あ、梓さん、こんなところでやめましょう、皆みてます」


「あーそう皆が見てなきゃいいんだな」


「なんでそうけんか腰なんですか、落ち着いてください」


 千寿がしどろもどろ言っている途中で、鈴鹿が階段からおりてきた。


「遅くなっちゃった~!ごめん千寿!梓!」


「あ、鈴鹿…!大丈夫ですよ、まだ時間はありますから!」


 千寿のあからさまに安心した顔を見て、梓は再びイラっとした。


(あとで見てろよ・・・。)


 灯紫様に見送られ、千寿たちは大勢の芸者、幇間衆たちと店を出た。


「一番目立ってくるんだよ、さあいっといで!」


 千寿はバンと背中を押された。


「見て千寿、もう俄騒ぎがはじまってる!」


 鈴鹿が目線を向けた方向に、獅子舞をかついだ派手な集団が見えた。別の見世からは、揃いの着物と提

灯の集団が出てきたところだ。


「すごい派手…」


「ぼやぼやすんな、はじめるぞ、そーれっ!!」


 梓が号令をかけた。とたんに鈴鹿の笛と、逸郎の太鼓がはじまる。千寿もさっと気持ちを切り替えて馬

に集中した。


 いまの私は…跳ね馬だ!


 赤と黒の千寿が跳ねると、涼しい浅葱色の梓がそれをふわりとなだめて進む。

 ああ、この格好は振袖とちがって体が軽い。太鼓も笛も、跳べ、跳べと言っているようだ。今ならいくらでも、跳ねることができる。


 ふと、梓が千寿の手綱を引いた。その瞬間、2人の目が合う。


「おい、海老屋の角を曲がるぞ!」


 息を上げながら、梓が言った。


「奥の神社まで、一気にいきましょう!」


 ものすごい数の見物人の中を胡蝶屋一団はつっきって、海老屋の角をまがった。他の店の俄勢も、負けぬものかとどんどん押してきて、胡蝶屋の荒馬もしだいに速さを増していった。


どちらを見ても人、人、人…色の洪水の中、暑い日ざしを浴びながら、梓とともに千寿ははればれとした気持ちで舞った。







「はぁ~~~っ、すごい人だったわ!」


「そう、です…ね…!」


 神社の庭でひとまず腰を下ろして、鈴鹿がほーーっと息をついた。

 踊り通しだった千寿はぜいぜいしながら馬をおろした。さすがにこの吉原中を跳ね回った後は梓も千寿も息が切れた。


 だが、神社も見物客があふれている。


「さっ、千寿と梓はあっちの木陰でちょいと休んでてちょうだい」


 逸郎が背負っていた三線を受け取ると、鈴鹿はそれを掻き鳴らし始めた。


〈―恋の分里、武士も道具を伏編笠で、張りと意気地の吉原・・・・・〉


 千寿は思わず聞き入った。鈴鹿の歌を聞くのは始めてだ。


〈―花の都は、歌でやわらぐ敷島原に、勤めする身は誰と伏見の墨染め・・・・〉


 各地の遊里を歌い上げるこの歌は、誰もが知っている流行歌だ。


〈ー煩悩菩提の撞木町より、難波四筋に通い木辻に、禿立ちから室の花咲き・・・・〉


「いい声してるよな、鈴鹿」


 千寿の隣に腰をおろし、梓は言った。


「本当ですね。聞き入ってしまいます」


 鈴鹿の人柄がにじみ出た、暖かい声だ。


〈ー下の関路も共にこの身を馴染み重ねて、仲は丸山、〉


 千寿もつらられて、口ずさんだ。


「ただ丸かれと、思い染めたが縁じゃ・・・・っ」


 うたの続きをつぶやく千寿の唇が、不意に梓の唇に音を封じられた。


「っ・・梓さんっ!」


 一瞬の間に、梓は千寿から離れ、からかうように笑った。


「おっ、油断したなー?!」


「油断ってなんですか!やめてくださいよ、誤解されるようなことは!」


「誤解ってなんだよ?」


 松風の顔が千寿の脳裏によぎった。


「恋仲と疑われたら困ります!梓さんだって松風さんに怒られますよ!」


 すると、梓は表情を曇らせた。


「何でそこで松風が出てくるんだよ」


「だって、それは…!」


 言いかけた千寿を、小ばかにした表情で梓はさえぎった。


「たかだか口付けひとつで大騒ぎしやがって。俺が本気になるとでも思ったのか?バカなやつ」


 そう言って、梓は立ち上がった。


「さっ、鈴鹿に加勢してやるか」


 唖然とした千寿を木陰の下に取り残して、人垣にかこまれた鈴鹿のほうへ梓は歩き出した。その顔は笑

っていたが、内心は、穏やかではないのだった。


(疑われたら困る、だって?菊染とはやっても、仲がいいくせして…)







「もう!なんなの!あの男!」


 千寿は湯殿のふちに置かれた酒をぐいっとあおった。


「めずらしいね~、千寿がそんな怒るなんて」


「だって!」


 千寿たちの荒馬踊りは、俄騒ぎの中でもかなり目立ったほうで、灯紫の目論見どおり多くの客が胡蝶屋に登楼した。商売繁盛だ。ご機嫌の灯紫に送り出され、2人は今日の疲れを癒しに湯屋に来ているのだった。


「へぇ~、私が歌ってた間にそんな事が」


 千寿のぐちを一通りきいた鈴鹿が意外そうにあいづちを打った。


「あの後2人とも険悪だったからどうしたのかと思ったよ」


「それが、そういう事だったんです!」


「でもさぁ…私ちょっと安心したよ」


「…え?」


「今日ちゃんと千寿が怒ったから、梓もさすがにもう懲りたでしょ」


「懲りた、ってわけでもなさそうでしたが…」


 おそらく千寿がきっぱり拒絶したから面白くなかった、というだけだろう。


「もう松風ににらまれる心配もないってことじゃない」


「なら、いいんですけど…」


「いい虫よけになったよ。あーんなちゃらんぽらん男のいう事なんて、真に受けることないんだからさ。

ムシムシ。虫は無視だよ千寿」


「はい。永遠に無視してやります」


 千寿は決意をこめてうなづいた。今まで千寿はそれなりに敬意を払って梓に接していたのに、今日はさすがに腹が立った。

 声を荒げてしまったのはちょっと大人げなかったかなと後悔したが、だいたい仕事でいつも男に媚を売っているのだ。

 嫌な事を言われても、口説かれても笑って流すのは疲れる。客以外の男にいちいちそんな事やってられるか。千寿はぐいっと酒をあおった。


「あ~~酔った酔った…!」


「う…鈴鹿、重いです…」


 いつもどおり、2人はへべれけによっぱらって、胡蝶屋に戻ってきた。鈴鹿を部屋に送った千寿はよろよろと自分の座敷へ向かった。すると、誰かが向かいから現れた。


「おいおい、そんなに酔って大丈夫かよー」


 梓だ。飛んで火にいる夏の無視・・・ならぬ虫とはこのこと。千寿は思いっきり無表情でその場を通り過ぎた。


「なんだよ、気にしてんのかよ、悪かったな」


 梓が後ろで言った。・・・・あんなこと、か。そりゃあそっちからしたらその程度のことだろうよ。千寿は胸中で吐き捨てた。


(…売れてるからって天狗になって、あんな風にはならないようにしよう)


「おい!千寿!」


 ふいに肩を後ろからつかまれ、強引に呼び止められた。


「この俺が悪かったって言ってんだぞ」


 意外に真剣な表情に、一瞬ほだされそうになったが、千寿は心を鬼にしてその手をはずした。一瞬、梓と目が合う。


…梓は、面食らった顔をしていた。


 少し罪悪感を感じたが、そのまま千寿は自分の部屋に向かった。体はくたくたに疲れている。


 今日は余計な事は考えず、ぐっすり眠れるはずだ。
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