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第一部 高嶺の蝶

笑顔の練習

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その後、潤は週に何度か店に来るようになった。


「…またなの?いいのに、義理でこなくたって…」


 この間のふるまいを反省しているのか、彼は妙に優しくなった。それ自体はありがたいが、見返りに差し出せるものなんて自分にはないのだ。そう思うと玲奈はその優しさがすこし怖かった。


「ちげーよ。ここで飲みたいから飲んでんだ」


「お客さんに怒られない?」


「営業ってことにしてる」


「それならいいけど…」


「エリカは結局、連絡とったのか?」


 玲奈は黙り込んだ。


「どうしたんだよ?」


「力になるから、戻ってきてって言ったら…私には知られたくなかったって。潤のいう通りだったのかもね」


 ラインにはそう書いてあった。「ありがたいけど、もう私とかかわらない方がいいよ」と。笑いながらも、玲奈の胸は痛んだ。唯一の…友だち以上の存在を、また失ってしまった。


「そうか…エリカは、可哀想だったな」


「そんな…終わったことみたいに言わないでよ!」


「ごめん、玲奈」


 玲奈ははぁとため息をついた。


「潤に言う事でもなかった。こっちこそごめん」


 潤は玲奈の顔を覗き込んだ。


「いいよ。別に」


「…潤ってそんな性格だっけ」


「そうだよ。俺は元々優しいんだよ。ホストだって向いてない」


「どうだか」


「だから来月やめる


「えっ」


 玲奈は驚いた。


「やめて…どうするの?」


「実はもう就職先決まってんだ。外資系の、狙ってたとこ入れてラッキーだったよ」


「えぇぇ!?」


 玲奈は大げさに驚いた。そして、羨ましかった。


「はは、驚いた?」


「うん、すごいじゃん」


「じゃ、付き合ってくれる?」


「いやそれはちょっと」


「チッ、ケチだな」


「でもいいな。羨ましいよ。私もちゃんとした仕事に早くつきたい」


「キャバ辞められないの?」


「うん、今はね…」


「やっぱ借金?」


 まさか未成年で、保護者になってくれる引き換えにしているとは言えない。


「うん…そんなもんかな」


「金なら都合つけられるぜ」


 玲奈は首を振った。


「お金で解決できないんだよね。だから、大丈夫」


「俺には言えない?信用、できない?」 


 そういう彼の目は真剣だった。


「そういうわけじゃないんだけど…ある意味私も、エリカさんと似たようなものなのかも」


「なんだよそれ、どういう事?」


「落ち着いて、大丈夫。別にひどいことさせられてるわけじゃない。むしろ私、今の状況はだいぶましなんだ。だから心配しないで」


「でもな」


 納得しない潤に、玲奈は笑ってみせた。


「大丈夫だから。それより新しい仕事、頑張って。応援してるよ」


「ああ。また連絡するから、飯でもいこうぜ」


潤は何とも言えない顔で私を見たが、すぐに切り替えてそう言った。そういうところはさすがだった。







それから、潤からはラインが来るようになった。と言っても頻繁にではなく、近況報告のような形だ。新しい仕事はなかなかきついようだが、頑張っていることが文面から伝わってきた。


(や…やるじゃん)


 それを見るたび玲奈は焦りともどかしさを自分に対して感じた。私はこんなところでまだ何をしているんだと。


「なぁ、明日俺初めての給料日なんだ!焼肉食べにいいこうぜ。よかったら…だけど」


 こうなってくるともう潤をバカにはできない。むしろ先輩だ。玲奈は素直にラインを返した。


「いいよ。私がおごったげるよ。就職祝いってことで」


 待ち合わせ場所に現れた潤は、とてもうれしそうだった。

「レイ!待ったか?ごめんな」



「大丈夫だよ」


 金曜日の夜。新宿はごった返している。


「どこにする?まさか力めし?」


 私はわらった。


「まさか。よくいく焼肉屋があるから、そこいこ」


 潤は実によく食べた。食べっぷりがよくて、一緒に食事する相手としては楽しいなと玲奈は思った。


「うめぇなぁ、焼肉!今日昼食ってなくてさ」


「そんな忙しいの」


「ああ。会社泊まるとこもよくある」


 それは…ブラックなのでは、という言葉を玲奈は飲み込んだ。


「でも忙しい分給料は高いし、なんつうか、やりがいもあるし」


「そっか、向いてるのかもね、よかったじゃん」


「まぁ、時々寝落ちしちゃったりするけど」


 玲奈は素朴な疑問を口にした。


「…きゅうにホストやめて、よく耐えられるね。戻りたくならないの」


 なんといってもホストは自由出勤だし、高給だ。一度漬かってしまえば金銭感覚や楽な勤務になれてしまい、会社勤めはむずかしい。


「だってホスト嫌いって言ったのお前だろ」


「えっ、私のせい?」


「たりめーだろ。俺はお前に見合う男になるんだから」


 こてこての口説き文句に、玲奈は苦笑いになった。


「今まで馬鹿にして悪かったよ、もうしてないよ」


 潤はむくれた顔をした。


「今更謝んなよ。ほんとお前ってやつは」


 どう答えたらいいかわからず、玲奈はとりあえず笑顔を作った。


「まぁまぁ…もっと頼もうか?」


 その仕草を、潤はじいっと見た。


「前から思ってたけど…レイの笑顔って、嘘くせえんだよな」


 玲奈の表情はこわばった。それはよく一ノ瀬にも注意されることだった。もっと自然な笑顔をできないのか、と。


「う…そう、だよね…」


 潤は頭をかいた。


「いや、責めてんじゃないんだ。なんでかなって見てたんだけど…お前、口は笑ってても目が笑ってないんだよな」


「そ、そうなんだ」


「ほら、ちょっと笑ってみ」


 潤は玲奈の顔をスマホで撮った。それを見せて潤は解説した。


「目の笑いが、足りない。もっと目をこう、細めるんだ」


 玲奈は言われた通りやってみた。潤はスマホを見て嬉しそうに言った。


「ほら、さっきのと見比べてみろよ、ちがうだろ」


 2枚の写真をみせられた玲奈は、驚いてうなずいた。


「ほんとだ、こっちの方が自然な笑顔だ」


「うん、吹き出しで幸せ!って言ってそうな顔だろ」


 これで仕事がもっとスムーズにいくかも。そう思うと玲奈はありがたかった。







 ひとしきり食べたあと、玲奈と潤は店を出てエレベーターに乗った。


「笑顔のレクチャーありがとう、これで店長に怒られなくて済むわ」


「そりゃよかったな」


 潤は肩をすくめた。


「どう?」


 今しがた習得したばかりの満面の笑みを、玲奈は潤に向かってしてみた。すると、潤はいきなり玲奈を抱きしめた。


「なぁ…キスしていい?」


「…」


 玲奈は無言で首をひねって潤を見上げた。潤の手が玲奈の顎を捕らえて、あっという間に唇が重なった。潤の舌は前よりも優しく、しかし熱く玲奈の口の中へ侵入してきた。


 が、エレベーターのドアが開いたので二人は顔を放した。エレベータを降りた潤はふいに立ちどまった。


「俺の言ったこと、忘れるなよ」


「…笑顔が不自然だって?」


「ちげぇよ。自分を大事にしてくれって言っただろ」


 あの時のことを思い出して、玲奈は意外な気持ちになった。


「キャバ嬢にそれ言う?…でもまぁ、ご心配なく。できる範囲でやってるから」


 潤はふっとわらった。


「わかったよ。じゃあな」
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