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箱庭スローライフ編
第87話 9日目③おっさんはゲートルを巻く
しおりを挟むお茶休憩を終えてから、探索に出る為の準備をする。拠点からしばらく離れるので、急な雨に降られても大丈夫なように干してあったアイナメの干物や、それ以外の濡れては困る物もすべて片付けておく。
それから服装と装備も整える。俺は上は長袖のラッシュガード、下はカーゴパンツ。靴下をきちんと履いてから半長靴を履き、靴紐をしっかり結ぶ。サバイバルナイフと鉈と鋸をベルトに装着する。
リュックサックには採集物も入れるのである程度の空きスペースは確保して、救急用品と残り10㍍ほどになった麻紐とビニール袋と水筒と折り畳みスコップを入れ、カーゴパンツのポケットに軍手を入れる。
美岬の方は、上は俺と同じ長袖のラッシュガード、下は7分丈ジーンズだが右足は裾を膝上で切ってしまったので右だけハーフパンツ状態だ。美岬は靴下をスニーカーソックスしか持っていないから、このままだと脛やふくらはぎが剥き出しになってしまうので草地や森を歩くには無防備すぎる。
少し考えてから、救急用品に入っている包帯を足に巻くことで巻き脚絆にすることにする。
美岬を丸太椅子に座らせてジーンズの裾を少し捲ってもらってから、膝下からくるぶしまで包帯を足首の動きを阻害しないように工夫しながら巻いていく。
「ゲートルって昔の陸軍の兵隊さんがズボンの上から足に巻いてるやつっすよね。あれってどういう意味があるんすか?」
裸足の足に包帯を巻かれる間、手持ち無沙汰の美岬が聞いてくる。
「んー、まず、軍服のズボンの裾を引き締めることで、裾をどこかに引っ掛けたり巻き込まれたりするのを防ぐ役割が1つ。それとふくらはぎに巻き付けて締めることで鬱血を防いで浮腫みを抑えて長時間の行軍でも疲れにくくする役割がもう1つってところだな」
「え? こんなことで足の浮腫みを抑えられるんすか?」
「ああ。浮腫みのそもそも原因は、長時間立ちっぱなしの時に重力の作用で足先から血が戻りにくくなって疲労物質が蓄積することだからな。ふくらはぎを締めると疲労物質が蓄積しにくくなるから浮腫みを抑えられるんだ。巻き脚絆は明治時代にフランスから伝えられた物だが、それ以前の江戸時代でも飛脚や旅人たちは同じ目的で脚絆を足に着けていたからな」
「あー、なんか江戸時代の浮世絵とか大正時代を舞台にした漫画とかで見たことある気がするっす。あれってそういうことだったんすね。レッグウォーマーかおしゃれの一種かと思ってたっす」
「実は由緒正しい実用的な装備だったわけだな。今でも登山家なんかは脚絆を愛用してるぞ。……よし、終わりだ。足を動かしにくいことはないか?」
美岬が足首を曲げたり回したりして満足げに笑う。
「うん。いい感じっすね。もしや、これって足首を痛めない為のテーピング的な感じにもしてくれてるとか?」
「ああ。美岬のスニーカーは不整地向きじゃないからな。……さて、このままソックスとスニーカーを履いてちょっと歩いてみてくれるか?」
「あいあい」
美岬がスニーカーソックスとスニーカーを履き、靴紐をしっかり結んで立ち上がり、歩き回ったり屈伸したり跳び跳ねたりして調子を確かめる。
「うん。これなら問題ないっすね。あざっす」
「ん。じゃ、あとは虫対策だけしておこうか。今のところ虫はほとんど見てないが、本格的に森に分け入ったらどうかわからんからな」
「そっすね。虫除けにはハマゴウを使うんすか?」
「ああ。ハマゴウを生のまま燃やしてその煙を服と身体に纏えばある程度は虫除けになるだろう?」
「蚊取り線香の材料っすからね。たぶん効果はあると思うっす」
かまどの火はまだ残っているから、そこにハマゴウの葉やら小枝やらを投入すればたちまちモクモクと香りの強い白い煙が出始める。その煙に息を止めて顔を突っ込んだり、手や足をくぐらせたりして全身に煙の匂いをつけていく。
「なんか儀式じみてきたっすね」
「仏教の加持祈祷とか案外こういうところにルーツがあるかもな」
「あー」
そんなこんなで身体中に煙の匂いを纏わせて虫除け対策もしたので探索に出発する準備は完了だ。
美岬は愛用の鍬を手に持ち、いつも身に付けているアーミーナイフとファイヤースターターを通したパラコードを左肩からたすき掛けにして、2㍑の水ペットボトルだけを入れたスポーツバッグを反対の右肩からたすき掛けにしている。
「よし、じゃあ行くか」
「出発進行っ!」
前回の探索では、小川のこっち側の林を小川に沿って水源地まで遡上してスダジイのマザーツリーである【グランドマザー】まで到達した。
今回は小川を挟んだ向こう側の土地。小川と向こうの崖との間の未踏破部分を調べながらグランドマザーを目指して進んでいき、グランドマザーの周囲のスダジイの古木の幹に空いた虚を調べて貯蔵庫に適している場所を探すのが大雑把な予定だ。
拠点からまずは葦の生い茂る湿地帯に向かう。小川が細かく枝分かれしながら薄く広がり、地面を潤している湿地帯には葦以外にも、上流から流れ着いたジュズダマ、スダジイや桑やモチノキなどの若木や苗なども生育している。
小川は水源地で湧き出した水の流れがいくつも集まって1本の流れになり、俺たちが洗濯や水浴びに使っている辺りだと川幅が約2㍍で深い場所で20㌢ぐらいの水かさがあるが、河口付近になるこの湿地帯までくるともはや川の体を成しておらず、砂混じりの水捌けのいい土壌に吸い込まれて伏流水となって内湾に湧き出す。
水分を含んでしっとりと濡れた湿地帯の土を踏みながら渡河して小川の向こう側の土地に入る。
現在の位置関係は、正面に葛の群生地、右側に葦の生い茂る湿地帯とその向こうに内湾、後ろに拠点、左側に未踏破の土地となる。
今日はここから左に曲がって未踏破の土地に分け入る。
地面が潤っているこの場所だけは多種多様な植物が生い茂っていて歩きにくいが、そこから少し内陸側に足を踏み入れれば、植生は一気に変化する。
小川が灌漑用水の役割を果たしている、小川の水が届く範囲だけは立派な木が立ち並ぶ林になっているが、その範囲から外れると立ち枯れの木が目立ち始め、時おり降る雨によって生育する丈の低い植物だけが逞しく生き残っている平原となっている。まあこの辺りは拠点近くと状況は同じだな。
林の外縁の立ち枯れた木々は直径約5㌢、高さ4㍍ぐらいのだいたいどれも同じぐらいの成長具合で枯れている。ある程度成長するまではなんとか水が足りても、それ以上成長するのにこの場所では水が足りずに枯れてしまうのだろう。
このほぼ同じサイズの立ち枯れた木は俺たちにとっては宝の山だ。言うなれば統一規格の木材みたいなものだからな。枝を落とせば同じぐらいのサイズの丸太になるし、すでに乾いているのですぐに薪にも使える。拠点側の林の外縁部にある同様の立ち枯れの木はちょくちょく回収して薪に利用しているが、こっちでもこれが手に入ると分かったのは大きな収穫だ。
「この辺りは川向こうとだいたい同じっすね」
「そうだな。じゃあ次はこの平原を抜けて崖の方に行ってみるか。葛の群生地もそうだがこっちの崖下は向こうに比べるとけっこう崩れた石が堆積してるな」
「そうっすね。崖の色も違うっすよね。拠点の崖はかなり黒々してるのに、こっちは赤い部分が多いっすよね」
「よく見てるな。だがそれは重要なポイントだぞ。赤い崖はかなり崩れやすいからな。もし拠点の崖がそんな感じだったら恐ろしくて崖下には住めないな」
「確かに。あの赤い石って脆いっすもんね。石器にしたら一発でダメになるっすね」
「石のままで使ったらそうだな。純度が高いものなら加工すればいいけど」
「んー? その言い方からして……あの赤い石はただの石じゃないんすね?」
「まあな。ただ拠点近くで拾える奴は純度がイマイチっぽいからただの石ころだけどな。こっちの赤い崖の方ならもっと純度が高くて利用価値があるものも手には入るんじゃないかなと期待してる。ちなみに純度が高いやつはもっと軟らかくて簡単に粉々になるから」
「もー、そういう言い方されると気になるっす。あの赤い石の正体はなんなんすか?」
まあ、あまり勿体ぶるのもよくないな。
「赤鉄鉱。酸化鉄を多く含む鉄鉱石だ」
【作者コメント】
今回はゲートルと脚絆が登場しましたが、まあアレです。一例を挙げれば鬼滅の竈門炭治郎が足につけているのがゲートルで我妻善逸が足につけているのが脚絆です。
昔の日本では衣服はシーズン毎に糸を抜いてバラして仕立て直すのが普通だったので、身体の成長や体格の変化に対応できる衣服が好まれました。
そんな土台となる価値観があったので、明治になって軍の近代化が進められた時に元々あった脚絆や、陸軍のモデルとなったドイツのブーツよりもフランス式のゲートルが好まれ採用されたのも不思議ではありません。ゲートルはただの長い布なのでいざとなればほどいて包帯にもロープがわりにも補修布としても使えましたので汎用性に優れていました。
ゲートルは今ではすっかり廃れましたが、脚絆は今風の機能的かつオシャレなデザインで手に入ります。立ち仕事が多くて足が浮腫むなど、気になる方はアウトドアショップやワークショップをぜひチェックしてみてください。
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