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第十三章 後側文芸部
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十三
「難しい問題じゃない」
靴を履きかえると、高柳くんは私のそばへ来た。
「そうかしら」
「うん」
立ち話になる。がらんとした昇降口で、彼は並んだ下駄箱を見回して話し始めた。
「順を追って考えていこう。まず最初の問題だけれど、あの革靴は一体誰のものだったのか。考えられる可能性はふたつ、藤枝さん本人のものである場合とそうでない場合だ」
「前者ではないわね」
「そう、自分の靴を投げ落とすなんて、普通はやらない。では誰のものか」
「私のよ」
「本当にそうだろうか」
そこで疑うのか。
「私の下駄箱は空っぽだったのよ」
「ではなぜ、靴は消失したのか」
それが問題だ。
私たちは最短ルートを通って一階へ下りた。藤枝さんたちが先に下りて靴を回収したとは考えにくいし、そもそもそれなら投げ落とす必要などない。
「これは、下で誰かが待機していたと考えるべきだろう。投げ落とされた靴は、藤枝さんと打ち合わせをしていた誰かが拾っていった」
「つまらないほど妥当な結論ね」
「だが、今のままでは理由が不明だ。君の靴を隠すのになぜそんな手段を採ったのか」
「見当もつかないわね」
私の靴を隠すのなら、下駄箱から持ち出してすぐに投げ捨てればいいだけの話だ。二階まで持っていき、落とす理由など考えられない。
「そう、見当もつかない。だからここで一応の結論が出る。あの靴は君のものではなかった。藤枝さんが投げ落とした靴は君とは関係ない」
「オーケイ、降参よ。嘘ついてごめんなさい」
それまでずっと組んでいた腕をほどき、諸手を挙げた。白旗だ。
「貴方、回りくどすぎ。嘘をつくなってひとこと言ってくれれば良かったのに」
「それも悪い気がした」
彼は目を逸らした。変なところで罪悪感を抱く人だ。
「どうして嘘を?」
聞かれて、私は嘆息した。
「とっさに、つい、ね。恥ずかしくなったの」
「恥ずかしいとは」
静かな低い声で追及される。
「見てもらえば分かるかしら。来て」
二人で下駄箱の前へ行き、開けてみせた。彼の推理通りに私の革靴がそこにある。そこまではいつも通りだが、靴の中には異物が入れられていた。画鋲だ。
「斬新な悪戯だ」
私が靴を手に取ってみせると、彼は感嘆の声をあげていた。
「斬新って貴方……」
「なるほど。踏むと痛い」
大真面目らしい。突っ込むべきかどうか迷ううちにタイミングを失した。私に言わせればこんな時代錯誤の悪戯、感心する人の脳味噌のほうがよほど斬新だ。
だが、もたらされたダメージは思いのほか大きかった。
「誰の仕業か知らないけど、とっさに恥ずかしくなったの」
私の「供述」である。恥ずかしくなったという言葉を、思いのほか簡単に口にすることができた。さっきまではそれを言うこと自体が恥ずかしかったというのに。
「私はね。靴がなくても傘がなくても、自分一人でどこまでも歩いていけるつもり。そう信じているの」
「文学的表現だね。分かると思う」
「靴も傘もないならないで、別にいいのよ。最初から手ぶらなら気楽」
「うん」
「でもこの画鋲は明らかに邪魔よね。これは確かに行く手を遮ってる。嵌まったら立ち止まらざるを得ない、そういう罠」
「意志を貫くのは難しい。僕ならひるむ」
「気づかいはいいわよ。貴方はひるまない」
「ひるむさ」
「話を続けるわよ。私はひるんだだけじゃなく、怖くなったの。そしてそんな自分を恥じた。だからとっさに靴はないと答えてしまった」
靴を隠された自分のほうがよっぽどましだなんて、我ながらわけの分からない理屈だ。
なんのことはない。悪戯された事実が嫌で、なかったことにしたかったのだ。それだけのことだ。
「結局、甘えているのね。なにもなくても歩いて行けるなんて言って、与えられたものにはしっかり甘えて、それが傷つけられれば動揺して」
「僕もそうだ」
「気休めはいいってば」
「気休めではないよ」
彼の返答に嘆息した。この同級生はなんでも理解しているように見えて、ときどきまったく話が通じない。
私の手のひらの画鋲を、彼はそっと摘まみ取ると凝視した。たかが画鋲なのに、珍しいものでも眺めるような目つきだ。
「僕もたくさんのものを与えられている。それが傷つくのは怖いことだ。とても悲しいことだ」
目線がこちらを向く。どきりとして、私はごまかすように付け加えた。
「いま思えば、倉持くんにもお礼を言うべきだったわ」
私が与えられた好意と傘と小説の感想――。すべてを受け取りながら、癪だなどと思っていた私である。礼を述べた記憶がない。与えられたものを自分で傷つけていれば世話はない。
私は生まれてからずっとそうだった。当たり前のことに気付くのに、いつも普通の人の何倍もの時間がかかる。長い遠回りが必要になる。優しくなればいいだけなのに。もっと優しくなればいい、ただそれだけの話なのに。
「でも僕は思うよ。与えられたものの価値が分かれば、もう甘えてはいない。少なくとも、そのものとの関わり方はもう変貌している」
関わり方の問題か。
「感謝……かしら」
脈絡なく呟くと、急に思い出したように彼は言った。
「そうだ今日は読んでほしいものがある」
「読んでほしい?」
「前から書いていたものができた。まだ草稿の段階だけれど、形は整ったと思う」
例のハウツー本のことか。
「分かったわ」
唐突な話である。靴を履きかえつつ少し焦った。頭を切り替えなければ。
ちなみに補足しておくと、藤枝さんが投げ落としたあの靴はクラスメイトの女子のものだった。その女子はさる体育会系の部活に所属していたが、この日は先輩の目を盗んで抜け出したかった。そのためには昇降口を通らずに最短ルートで靴の受け渡しを行う必要があったのだ。藤枝さんはそれに協力したのである。後で知った話だ。
補習からの逃走に、現実逃避の八つ当たりに、脱走の手伝い。藤枝さんにとって逃げることとは、どうやら人生のテーマであるらしい。
外はぽつぽつと雨が降り始めていた。
「難しい問題じゃない」
靴を履きかえると、高柳くんは私のそばへ来た。
「そうかしら」
「うん」
立ち話になる。がらんとした昇降口で、彼は並んだ下駄箱を見回して話し始めた。
「順を追って考えていこう。まず最初の問題だけれど、あの革靴は一体誰のものだったのか。考えられる可能性はふたつ、藤枝さん本人のものである場合とそうでない場合だ」
「前者ではないわね」
「そう、自分の靴を投げ落とすなんて、普通はやらない。では誰のものか」
「私のよ」
「本当にそうだろうか」
そこで疑うのか。
「私の下駄箱は空っぽだったのよ」
「ではなぜ、靴は消失したのか」
それが問題だ。
私たちは最短ルートを通って一階へ下りた。藤枝さんたちが先に下りて靴を回収したとは考えにくいし、そもそもそれなら投げ落とす必要などない。
「これは、下で誰かが待機していたと考えるべきだろう。投げ落とされた靴は、藤枝さんと打ち合わせをしていた誰かが拾っていった」
「つまらないほど妥当な結論ね」
「だが、今のままでは理由が不明だ。君の靴を隠すのになぜそんな手段を採ったのか」
「見当もつかないわね」
私の靴を隠すのなら、下駄箱から持ち出してすぐに投げ捨てればいいだけの話だ。二階まで持っていき、落とす理由など考えられない。
「そう、見当もつかない。だからここで一応の結論が出る。あの靴は君のものではなかった。藤枝さんが投げ落とした靴は君とは関係ない」
「オーケイ、降参よ。嘘ついてごめんなさい」
それまでずっと組んでいた腕をほどき、諸手を挙げた。白旗だ。
「貴方、回りくどすぎ。嘘をつくなってひとこと言ってくれれば良かったのに」
「それも悪い気がした」
彼は目を逸らした。変なところで罪悪感を抱く人だ。
「どうして嘘を?」
聞かれて、私は嘆息した。
「とっさに、つい、ね。恥ずかしくなったの」
「恥ずかしいとは」
静かな低い声で追及される。
「見てもらえば分かるかしら。来て」
二人で下駄箱の前へ行き、開けてみせた。彼の推理通りに私の革靴がそこにある。そこまではいつも通りだが、靴の中には異物が入れられていた。画鋲だ。
「斬新な悪戯だ」
私が靴を手に取ってみせると、彼は感嘆の声をあげていた。
「斬新って貴方……」
「なるほど。踏むと痛い」
大真面目らしい。突っ込むべきかどうか迷ううちにタイミングを失した。私に言わせればこんな時代錯誤の悪戯、感心する人の脳味噌のほうがよほど斬新だ。
だが、もたらされたダメージは思いのほか大きかった。
「誰の仕業か知らないけど、とっさに恥ずかしくなったの」
私の「供述」である。恥ずかしくなったという言葉を、思いのほか簡単に口にすることができた。さっきまではそれを言うこと自体が恥ずかしかったというのに。
「私はね。靴がなくても傘がなくても、自分一人でどこまでも歩いていけるつもり。そう信じているの」
「文学的表現だね。分かると思う」
「靴も傘もないならないで、別にいいのよ。最初から手ぶらなら気楽」
「うん」
「でもこの画鋲は明らかに邪魔よね。これは確かに行く手を遮ってる。嵌まったら立ち止まらざるを得ない、そういう罠」
「意志を貫くのは難しい。僕ならひるむ」
「気づかいはいいわよ。貴方はひるまない」
「ひるむさ」
「話を続けるわよ。私はひるんだだけじゃなく、怖くなったの。そしてそんな自分を恥じた。だからとっさに靴はないと答えてしまった」
靴を隠された自分のほうがよっぽどましだなんて、我ながらわけの分からない理屈だ。
なんのことはない。悪戯された事実が嫌で、なかったことにしたかったのだ。それだけのことだ。
「結局、甘えているのね。なにもなくても歩いて行けるなんて言って、与えられたものにはしっかり甘えて、それが傷つけられれば動揺して」
「僕もそうだ」
「気休めはいいってば」
「気休めではないよ」
彼の返答に嘆息した。この同級生はなんでも理解しているように見えて、ときどきまったく話が通じない。
私の手のひらの画鋲を、彼はそっと摘まみ取ると凝視した。たかが画鋲なのに、珍しいものでも眺めるような目つきだ。
「僕もたくさんのものを与えられている。それが傷つくのは怖いことだ。とても悲しいことだ」
目線がこちらを向く。どきりとして、私はごまかすように付け加えた。
「いま思えば、倉持くんにもお礼を言うべきだったわ」
私が与えられた好意と傘と小説の感想――。すべてを受け取りながら、癪だなどと思っていた私である。礼を述べた記憶がない。与えられたものを自分で傷つけていれば世話はない。
私は生まれてからずっとそうだった。当たり前のことに気付くのに、いつも普通の人の何倍もの時間がかかる。長い遠回りが必要になる。優しくなればいいだけなのに。もっと優しくなればいい、ただそれだけの話なのに。
「でも僕は思うよ。与えられたものの価値が分かれば、もう甘えてはいない。少なくとも、そのものとの関わり方はもう変貌している」
関わり方の問題か。
「感謝……かしら」
脈絡なく呟くと、急に思い出したように彼は言った。
「そうだ今日は読んでほしいものがある」
「読んでほしい?」
「前から書いていたものができた。まだ草稿の段階だけれど、形は整ったと思う」
例のハウツー本のことか。
「分かったわ」
唐突な話である。靴を履きかえつつ少し焦った。頭を切り替えなければ。
ちなみに補足しておくと、藤枝さんが投げ落としたあの靴はクラスメイトの女子のものだった。その女子はさる体育会系の部活に所属していたが、この日は先輩の目を盗んで抜け出したかった。そのためには昇降口を通らずに最短ルートで靴の受け渡しを行う必要があったのだ。藤枝さんはそれに協力したのである。後で知った話だ。
補習からの逃走に、現実逃避の八つ当たりに、脱走の手伝い。藤枝さんにとって逃げることとは、どうやら人生のテーマであるらしい。
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