亜由美の北上

きうり

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第十一章

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 ガソリンスタンドに行くと、ちょうどよく中岡がいた。サービスルームの前に車を停めて中に入った。
「いらっしゃいませ……あれ? こんな時間にどうした」
 彼はセルフスタンドのモニターの前に座っていたお客が来たので一瞬立ち上がりかけたが、私だと分かってまた座り直し、すぐまた立ち上がった。
「タイヤ交換してくれる? もう作業時間過ぎてるのは分かってるんだけど」
「ええ? いや、本当にお前の言う通り、もう作業時間終わってるんだけど……そもそも、もうすぐ閉店だし」
 私の顔と壁掛け時計を交互に見ながら、彼は困っていた。このスタンドは、冬になると営業時間が短くなる。
「っていうか、まだ交換してなかったのか。ずぼらだな」
「そんなのどうでもいいから。お願い」
 睨むようにして頼み込むと、中岡は訝しげな表情になった。
「なんか鬼気迫ってるっていうか、切羽詰まってるな。どうかしたの」
 そこで、今から秋田に行くことを説明した。話の流れで、春子が今どうしてるのかも話した。中岡がこのスタンドの所長をやっているのは前から知っていたし、スタンド自体もしょっちゅう利用しているが、こうしてきちんと話して春子の現況まで教えるのは初めてだ。
「幣原春子さんか、懐かしい名前だな。……しかしこの雪の中、本気で被災地の秋田まで行くつもりなのか。ご家族がきちんと了承してるなら、俺は何も言わないけど」
「だから交換してくれる? 冬タイヤはここに預けてるはずだけど」
 すると中岡はしばらく悩ましげに考え込んでいたが、やがて踏ん切りがついたようだった。
「よし、ちゃっちゃとやるか。予報じゃまだ道路は凍結しなさそうだけど、とにかく雪が降ってるからいつスリップするかも分からん。行くなら行くで、ちゃんと装備を整えてから行け」
「ありがとう! 今度、ここで車検受けるから」
「気にしなくていいよ。亜由美は農協だろ? ちゃんと農協の整備工場使えって。……ところで、秋田に行くだけのガソリンはつまってるの?」
「いや、ちょっと不安かな。今からつめるつもりだった」
「ああ、じゃあそっちを先にやってくれ。タイヤ交換なんてレジ締めてからでもできるけど、閉店後の給油はまずい」
「オーケー」
 こうして、私は高校時代の縁で秋田に行くことになり、同じく高校時代の縁で、秋田行きのためのタイヤ交換も済ませることができたのだった。作業中に閉店時間になったので明かりを消し、私は真っ暗になったガソリンスタンドから出発することにした。
「たぶん旦那さんからも言われてると思うけど、本当に気をつけろよ。被災地じゃ、スタンドも閉まってるかも知れないからな。それに、警察や行政の救助やら支援やらが今どう動いてるかは分からないけど、場合によっては通行止めになってるかも。ここは通れないとか、危ないとか感じたらすぐにUターンだ」
 直前に彼はそう言って、自販機から温かい缶コーヒーを買ってきてくれた。運転席にいた私は、窓越しにそれを受け取る。
「いやー本当にありがと。昔からかゆいところに手が届く男だよね。当てたい的にきちんと狙撃してくれるイメージ」
「わけ分かんねえって」中岡は苦笑した。「もうガンマニアは卒業したし、そんなの完全に忘れてたよ。もう、お前みたいに二十年も前のことを昨日のことみたいには思い出せなくなってる。――じゃあな」
「行ってきます」
 こうして、半ば追い出されるように見送られて、私は北へと出発した。
 片道四時間は長いし、しかも暗い。夫や中岡に言われなくても、とにかく慎重を期して目的地へ向かうつもりだ。とりあえずスタッドレスタイヤで三十分ほど走ったあたりでコンビニに入り、夫にラインを送った。
「今、冬タイヤで秋田に向かってるよ。まずは○○のコンビニで休憩してる」
 すると即座に既読マークがつき、「了解」のスタンプ。時間的に、今頃は嫌がる茉莉をなんとか説き伏せて歯磨きをさせようと悪戦苦闘している頃だろう。中岡にもらったコーヒーを飲んで、車内で五分ほど目を閉じていたらスッキリしたのでまた出発した。
 高速道路は使わずに、普通の道路をのんびり走った。茉莉が生まれる前は、半年に一度くらいのペースで秋田に遊びに行っていたからルートは分かっている。
「ああ、秋田県に入る前にコンビニで食糧買っていこうかな。冷蔵庫も止まってるだろうし、食べ物なくて困ってるかも。それに水も……」
 運転していると、いろんなイメージや考えが自然に湧いてくる。秋田県に入るギリギリ手前のコンビニってどこだっけ? と思って、次のコンビニで車を停めるとスマホで検索した。コンビニでコンビニの場所を検索するというのも滑稽な話だ。別にこのコンビニで物資を買い込んでもいいのだが、あまり荷物が増えるとそれだけガソリンが減る。物資購入は被災地入りする直前にしたかった。
「無事に着きますように……」
 エンジンをかけると、改めて春子の家の住所をスマホのナビに登録して出発した。ラジオをつけたら、FMだと地震の続報が、AMだと普段通りの番組で合間合間に地震の続報が挟み込まれたものが放送されている。てきとうに両者を切り替えながら運転していると、窓にベトベトと大きな牡丹雪が落ちてきた。そこで、ワイパーだけは夏装備のままだったことを思い出す。でも、まあいいや。それくらいなら何とかなる。私はアクセルを踏み込んだ。
(今度は大丈夫)
(今度こそ、亜由美なしでも乗り切って見せるから)
 ハンドルを繰りながら、春子のラインの文面を思い出す。今度は。今度こそ。その二つの言葉が、実は彼女も、ある種の負い目や不甲斐なさを私の見えないところで抱え続けてきたことを示しているように思えた。まるで、今までは私がきちんと春子のことを助けてきたかのような、私にはあまり心当たりのない不思議な言葉だった。
 ――そんなことないよ、春子。
 私は、今までもあなたに何もしてこられなかった。
 中岡がいじめっ子の女の子を狙撃したあの日、私はこっそり見ていることしかできなかった。春子自身はあの時のことを忘れているかも知れないし、あるいは今になって話を持ち出したところで、全く気にしていないと答えるかも知れない。そう、きっと彼女は、私がいるだけでただ嬉しかったと言ってくれるだろう。
 しかし、一番肝心なところで行動に出られなかったという「借り」はいまだに私の中にある。それは、自分がただいるだけで返したことになる類いのものだとは、私にはどうしても思えないのだった。私はまだ、この足で一歩を踏み出し、手を差し伸べることもしていない。
 思えばこの二十年あまり、私はそれを果たすタイミングを見計らい続けていた気がする。さっき、中岡は見事に私のそんなあり方を見抜いていた。二十年前のことを、私は未だに昨日のことのように思い出し続けている。きっと私は、いつか自分がそこに戻って「借り」を返す時機が来るのを、虎視眈々と狙っていたのだろう。そして今日の私は、今こそがその時だという確信を得たのだ。
 ラジオから、不意に松倉佐織の『君は愛を持ってる』が流れてきた。

   この長いカーブが終わるともうすぐ
   生まれた町が見えてくる
   こんな僕のことを
   君は笑うかな
   少しだけ休ませてと言ったら

 へえ、と思った。松倉佐織の歌――しかも八センチシングルのカップリング曲――をリクエストするという渋い人がいるんだな。折しも、その時私は国道十三号線で山道から平地の道路へと下りる大きなカーブを曲がり切ったところだった。大きなカーブの内側には田んぼが広がっており、昼間であれば、季節によっては鮮やかな田園風景が見られる道だ。息苦しい山道を抜けて、ここでパッと視界が開けるのが気持ちいいのだが、雪の降りしきる夜道ではそうもいかなかった。
 するとその時、ぐらりと車が揺れた。最初、自分がめまいを起こしたか、横風にハンドルを取られたかと思い焦った。だがどちらでもなく、また大きめの地震が来たのだった。私はどこかで教わった通りに、落ち着いてすみやかに路肩へ車を停める。
「あっ、いま揺れましたね。揺れました。……県内、まだ余震が続いているようです」
 ラジオが言う。家にいた時と同じように、しばらくの間はまだ揺れているような心地だった。ラジオで揺れが収まったのを確認してから、後ろから車が来ないか見てアクセルを踏み、ハンドルを繰った。
「もしかしておれ、死んじゃうんだべが。死ぬのんねべねー」
 苦笑しながら、独り言で自分で自分にジョークを飛ばし、再び走り出す。
 ここで思い出したのは、さっき家を出る直前に、夫が一瞬だけ抱きしめてくれたことだった。あの時は、松尾芭蕉が旅に出るシーンでもあるまいに何を大げさな……と思ったのだが、今になってみると分かる。被害状況もどうなっているか分からないような地震の被災地に、家族が一人で、しかも真冬の夜に車をとばすというのはそういうことなのだ。例えば、万が一道路が地震で陥没しているのに気付かなければ、私はそこに転落して死んでしまうかも知れない。そんなことを想像したら、今頃になって、夫に余計な心配をかけてしまったなと罪悪感をおぼえた。今の今まで自覚がなかったけれど、自分は、文字通り死地に赴いているのだ。
 だけど大丈夫だ。春子が私の住むアパートに来てくれたあの日、彼女と話したじゃないか。すっかり古ぼけているようでも、私たちと同い年のあの建物は、意外と耐震設計もちゃんとしていた。だから、地震などに少しばかり揺さぶりをかけられても、私たちは今度こそ乗り越えられる。今度こそ――。
 学生時代、春子が秋田市へ遊びに来てくれた時に、彼女が別れ際に口にした言葉を今も覚えている。きっとこの町は亜由美にとって生涯忘れられない場所になるだろうとか何とか、そんな感じだった。
 あの時、どうして彼女はそれを確信したのか、私は今でも分からない。結果を見ればこの通り。片道四時間かかる隣県の学生街と、その周辺の街並みは、忘れるなんて不可能なほど私の頭の中に染みついている。しかもそこには今、春子が住んでいる。もしかすると私は、あの町へ、あらゆるものをわざと置きっぱなしにしてきたのかも知れなかった。
 雄勝トンネルを抜けて間もなく、雪が降りしきる中で゙ようこそ秋田べと書かれた看板がライトで照らされた。やや古ぼけた看板である。そこには壺装束姿で市女笠をかぶった、こまち娘という名前らしい女の子のキャラクターが描かれている。見慣れたその看板の傍らを通り過ぎる瞬間、私は思わずそれに向かって声をかけていた。
「ただいま」

(了)
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