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第七章
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そして秋田に引っ越して、初めての一人暮らしとなった。
最初の頃は孤独感があり、家族や高校時代の友人――春子や中岡を含む――と頻繁に連絡を取り合っていたが、半年もすると新しい生活に慣れて、むしろ一人の生活を満喫するようになっていた。掃除、洗濯、炊事も苦にならず、大学での友人にも恵まれた。むしろずっと秋田で生活したいと思ったほどだ。
一度だけだが、春子も遊びに来てくれた。留学先から一度帰国した折に秋田を訪れてくれたのだ。
「すごいね! 秋田って風が強いんだ。やっぱり海沿いだから?」
なんてことはない田舎の中都市なのだが、駅前に降り立って一陣の風を浴びただけでも彼女は喜んでくれた。久しぶりに帰国したという彼女は、垢抜けたというよりもますます奇麗になって、大学生の時期を通り越して一足先に大人になってしまったような雰囲気だった。
「ああ、これが稲庭うどんなんだね。めちゃめちゃ美味しい。こういう味が、あっちにはないからね……」
駅前のお店で、秋田の伝統料理の稲庭うどんを馳走した時の表情は、まるで少女のようだった。高校時代は、彼女のこんな笑顔は見たことがなかった気がする。そこだけ、反対に幼い頃に戻ってしまったかのようだ。それとも、そうした仕草こそが、日本以外の国の空気の中で身に付いたものなのか。
「春子は、留学生活は楽しい? 私はこの通り、秋田でのんびり過ごしてるけど」
稲庭うどんの後、駅前のデパートの最上階にある喫茶店でお茶にした。パフェをつつきながら私は尋ねた。
「うん。先生もクラスメイトもフレンドリーで助かってる。高校の頃みたいな湿っぽさとか、閉塞感みたいなのはあまりないかな?」
湿っぽさと閉塞感――。私は高校生活をそんな風に感じたことはあまりなかった。一瞬、私が感じていた「高校の頃」と、彼女が感じていた「高校の頃」のイメージの違いが思われて、気持がヒヤッとする。
「カナダは多言語の国だよね」
「そうそう。多文化で多言語。公用語が英語とフランス語の二つだから、英語しか分からない私はいきなりフランス語で話しかけられると面食らったりするけどね。でも、あっちの人たちはそういうのも慣れてるから」
「へええ。食べ物はどうなの? 私、海外に行くのをイメージすると、食べ物が日本と全然違うかも知れないって考えちゃって、そこで気後れするんだよね」
「月並みだけど、プーティンと本場のメープルシロップは納得の美味しさだったよ。プーティンは、よかったら後で亜由美んちで作ってあげる。普通の材料でも作れるから」
「ありがとう」
食べ物の話になったら、さらにテンションが上がっていた。
「春子も、なんだかすごく明るくなった気がする」
「そう? だとしたら、変わったというよりも、元に戻っただけかも。そもそも私、そんなにガリ勉で人との交流を避けるタイプじゃないし」
「そっか」
「それにしても、このパフェ美味しいね。地蔵パフェっていうんだっけ? お地蔵さんの形の器に入ってくるなんて、日本でしかありえないよね。これはいい記念になるわ」
という感じで、一泊二日の短い日程だったものの、春子は久しぶりの私との再会を心から楽しんでくれたようだった。
「ホテルもいいけど、私、亜由美が生活してるアパートに泊まってみたい」
「オッケー。そう言ってたもんね」
というわけで、その日彼女は私の部屋に泊まっていった。アパートへ向かう途中、スーパーに寄って材料を購入し、彼女は宣言した通りプーティンも作ってくれた。そして、お互いにこの間からやっと飲めるようになったアルコール類で乾杯した。ビールと、安い白ワインだ。
「これが、亜由美の住むアパートかあ。昭和の造り?」
飲みながら、春子は床から天井まで眺め回す。アルコールで頬が紅潮していた。
「うん。偶然なんだけど、なんと私と同い年。だから春子とも同じってことになるね」
「そうかあ! なんか、すっかり古ぼけてるような、そうでもないような……」
「でも、これも偶然なんだけど、築○年にしては耐震設計がちゃんとしてるんだって」
「そうなの? じゃあ、ちょっとした揺れなら安心だ。――ねえ、ここに彼氏とか連れ込んだりしたの?」
「それはないよ! ぜんぜん縁がないし、生活で手一杯」
それは本当のことだった。一度合コンに参加したことはあるが、どうも場の空気に耐え切れず、一次会で逃げ出すように帰ってしまったっけ。
「ふーん。じゃあ、あの少年とはどうなってるの。前に話してくれたことあったじゃん、高校でずっと同じクラスだった子がいるって」
「ああ、中岡?」
そこに触れてくるとは思わなかった。中岡の奴ってば、お互いに新天地で大学生活が始まってからは何度かメールをくれて、最初は「いずれそっちに遊びに行くよ」なんて言っていたのに、今や半ば音信不通だ。男子なんてテキトーなものである。もっとも、新天地での生活が楽しいのはお互い様なので、今頃になって遊びに行くと言われても私の方が困るかも知れないが。なんのことはない、どっちもテキトーなのだ。
春子は、夜もそのまま泊まっていった。貧乏学生の安アパートで、湿気ってるような余り布団で寝ることの何が楽しいのかと思ったが、それすらも心地良かったようだ。
その日は、高校時代の話題はほとんど出なかった。ただ、夜に二人で布団を並べて寝る直前、真っ暗な部屋の中で春子がこう話しかけてきた。
「こうやって、亜由美と一緒に部屋で寝たりする日が来るなんてねえ。なんか、たったの二、三年前のことなのに懐かしいよ。亜由美と二人で電車で帰った日々」
「そうだね。春子は卒業式にも来なかったけど、どうなの? なんか中途半端な感じはしなかった?」
「それはないな。もともと私、あの学校への帰属意識が薄かったっていうか……。将来に向かうために通るだけの、単なる渡り廊下みたいな気持ちで過ごしてたから」
渡り廊下という単語が飛び出してきて、あの、中岡がいじめっ子を狙撃した時のことを思い出した。ドキッとするが、それに気付く由もなく春子は続ける。
「先生たちも悪い人じゃなかったけど、私は正直、嫌なことの方が多かったからねえ。成績だけは無駄によかったから、その点だけは一目置かれてヘンないじめに遭うことはなかったけど。どのみち、そういう無意識のランク付けの存在も嫌だったな。友だちなんて言えるのはほんと、亜由美くらいだったよ。亜由美がいてくれたおかげで、私は救われてた」
「え、そうなの?」
「そうだよー。あの、帰り道で電車に乗ってる二十分くらいのやり取りがどれだけ楽しかったことか」
それを聞いたら、不覚にも涙がポロポロ溢れてきた。思い出したのは中岡の狙撃だけではなく、言うまでもなくあの時振り上げられたいじめっ子の手を止められずにいた、不甲斐ない私自身のことだった。枕カバーが濡れる。
「ごめん。なんか、泣けてきた」
「あはは、大丈夫? 酔ってるんじゃない」
「かもね。今日はもう寝るよ」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
暗闇に呼びかけるようにして声をかけあい、私はすっと眠った。
寝入りばなに、空想とも夢とも違う鮮明なイメージが浮かんでくることがあるのは私だけだろうか? 大抵、そのイメージに身をゆだねるうちにいつの間にか寝てしまうのだが、この日浮かんできたのは高校時代の帰り道の電車の中だった。
春子と一緒に吊革につかまり、流れていく風景を眺めながら何かをしゃべっている。二十分、たったの二十分だ。その短い時間で春子は救われたと言ってくれた。そして、彼女がそう言ってくれたことで、私自身もたった今救われた。
翌朝は、だらだらと過ごした。昨夜のお風呂上がりの春子もとても新鮮だったが、寝起きの彼女もまた鮮烈だった。実は春子は低血圧だったのである。ぼーっとした表情で、いかにも起きるのが辛そうな様子で布団の上で座り込んでいる彼女からは、妙に甘ったるい香りがした。もしかしてこれが本場のメープルシロップの香りだろうか、などと思った。
しばらくパジャマ姿で過ごしてから、着替えて近所の𠮷野家へ。朝食を採り、昼過ぎの電車で彼女は帰ることになった。見送りのため私も一緒にバスに乗って駅へ向かう途中、彼女は昨夜の話に付け足すように、ぽつりとこう口にしていた。
「自分で言うのも変だけどさ。春子は、私のこと尊敬する感じで付き合ってくれてたよね」
「ん? ああ。まあそうだね」
否定はしなかった。春子は高校時代の私にとって憧れの存在だった。
「今も、そういう気持ちってあるの?」
「どうかな。なくはないけど。でも、ちょっと大人になると、不思議にそういうのは均されていくのかなあ。今こうやって話してると、憧れの存在から、尊敬に値する友だちっていうくらいの位置づけになっている気がする」
「うん。それでいい。それでいい」
よほど大事なことなのか、二回も繰り返して言われた。
「そう思ってくれるのはうれしいけど、私はぜんぜん特別じゃないからね。均されてるのなら大いに結構。これからも呼び捨てで、てきとうに付き合ってよ」
「それじゃ、また来てね」
「もちろん。今回秋田に来てみて、私どうして亜由美がここの大学を選んだのか、分かった気がしたよ。最初は、海沿いで風も強いだろうし雪深いだろうし、どうしてわざわざ生活にも学業にも苦労しそうな場所の大学を選んだんだろう? なんて不思議だったんだけどさ。うまく言えないけど、雪があってどこかのんびりしてて……そういうところが、きっと亜由美は好きなんだよね。亜由美のことをもっとよく知るために、私またここに来たい」
「ぜひぜひ。私はカナダには行けないからさ」
「だよね、簡単には足運べないって。――でさ、ちょっと話を戻すけど、私は全然特別じゃないってこと。高校の時、私がヤリマン扱いされてた理由をいろいろ説明したじゃない? 付き合ったとか別れたとか」
「うん。なんか、噂を吹き込まれて怖気づいた男子にブチ切れたんだよね」
「そうそれ! 覚えててくれたね」春子は嬉しそうに笑って、「たぶん私、亜由美には、あたかも自分が優柔不断な男子に対して毅然かつ堂々と振る舞っていたみたいに話したと思うんだ。でも違うの」
「そうなの?」
「全然違うのよ。私もやっぱり見栄っ張りでさ、亜由美にはそんな風に見られたかったのね。本当はもっとグチャグチャしてた。今でも、本当はどんなやり取りがあったのか、話すのも恥ずかしいくらい」
「今も笑っては話せない、か」
「無理だね。なんかさ、みっともない体験談も『お話』にしちゃうと妙にカッコよくなっちゃうものじゃない。若気の至りとか、青春特有の痛みあるいは切なさとか、今ではすっかり笑い話、みたいな話に落とし込んじゃうと、急にキレイになって。うまくいけば人に共感させたり、感銘を与えたりすることだってできる。でも本当はどんなに上手にそういうのを語ったり書いたりしてる人でも、いい『お話』に落とし込む前の、筆舌に尽くしがたい惨めな体験があると思うんだよね。言葉で言い表すのも憚られる、名付けられる以前の、グチャグチャの感情にまみれた瞬間が」
「分かる気がする。春子も、実際にはそんな感じでグチャグチャだったの?」
「グチャグチャだったよ。感情的になって夜に電話してみたり、思い詰めて手紙を書いてみたり、恨み言を口にしたり……おっとこれ以上は言えない」
春子はおどけて自分の口を手で覆った。
「そういうのって、どんなにカッコいい言葉で飾っても消せないし忘れられないんだよね。自分と、自分の感情をぶつけた相手だけが知っている、最悪に惨めな部分だけは、名前を付けられないまま残っちゃうんだ。その、どうしたって残っちゃうっていう事実に、最近改めて驚いてるよ」
「ふうん。私はどうかな。家族との間でなら、そういうことはありうるかも」
「あるね、家族ならなおさらある。夜に家族喧嘩して、次の朝に顔を合わせる時の、あのなんとも言いようのない苦くて渋い感情。そう、そんな感じ」
「春子の言ってること、分かる気がするよ」
「ありがとう。だからね、私は普通なの。亜由美が憧れて声をかけてくれたあの時にはもう、すでにグチャグチャだったの。あなたがあの日、声をかけてくれたから、私はカッコつけることができるようになったんだと思う。大げさかも知れないけど、あなたのまなざしのおかげで、私は新しい自分を発見できた」
そこまで話したところで、バスは駅前のロータリーを回って停留所に着いた。ぱっと席を立ちながら、春子はこの会話を締めにかかった。
「私の言いたいのはね、これからもよろしくってこと」
そして私の手を握り、続けて立ち上がろうとしたところで引っぱってくれたのだった。
私は切符を買って駅のホームまで同行した。彼女が秋田新幹線に乗り、去っていくまで見送っていた。車両が完全に見えなくなるまでホームにいて、その後はすぐにメールを送った。「来てくれてありがとう。また来てね」。実に月並みだがそれ以上の言葉は浮かばなかった。
「きっと、この秋田市っていう町はね、亜由美にとって一生忘れられない大好きな町になるよ。必ずまた来るから」
すぐにそう返事が来た。その宣言通り、彼女は半年に一度は秋田まで遊びに来てくれた。四年生になってからの最後の半年だけは、お互いに就職活動で忙しくなりそれどころではなかったけど、連絡だけはずっと取り合った。
そして秋田に引っ越して、初めての一人暮らしとなった。
最初の頃は孤独感があり、家族や高校時代の友人――春子や中岡を含む――と頻繁に連絡を取り合っていたが、半年もすると新しい生活に慣れて、むしろ一人の生活を満喫するようになっていた。掃除、洗濯、炊事も苦にならず、大学での友人にも恵まれた。むしろずっと秋田で生活したいと思ったほどだ。
一度だけだが、春子も遊びに来てくれた。留学先から一度帰国した折に秋田を訪れてくれたのだ。
「すごいね! 秋田って風が強いんだ。やっぱり海沿いだから?」
なんてことはない田舎の中都市なのだが、駅前に降り立って一陣の風を浴びただけでも彼女は喜んでくれた。久しぶりに帰国したという彼女は、垢抜けたというよりもますます奇麗になって、大学生の時期を通り越して一足先に大人になってしまったような雰囲気だった。
「ああ、これが稲庭うどんなんだね。めちゃめちゃ美味しい。こういう味が、あっちにはないからね……」
駅前のお店で、秋田の伝統料理の稲庭うどんを馳走した時の表情は、まるで少女のようだった。高校時代は、彼女のこんな笑顔は見たことがなかった気がする。そこだけ、反対に幼い頃に戻ってしまったかのようだ。それとも、そうした仕草こそが、日本以外の国の空気の中で身に付いたものなのか。
「春子は、留学生活は楽しい? 私はこの通り、秋田でのんびり過ごしてるけど」
稲庭うどんの後、駅前のデパートの最上階にある喫茶店でお茶にした。パフェをつつきながら私は尋ねた。
「うん。先生もクラスメイトもフレンドリーで助かってる。高校の頃みたいな湿っぽさとか、閉塞感みたいなのはあまりないかな?」
湿っぽさと閉塞感――。私は高校生活をそんな風に感じたことはあまりなかった。一瞬、私が感じていた「高校の頃」と、彼女が感じていた「高校の頃」のイメージの違いが思われて、気持がヒヤッとする。
「カナダは多言語の国だよね」
「そうそう。多文化で多言語。公用語が英語とフランス語の二つだから、英語しか分からない私はいきなりフランス語で話しかけられると面食らったりするけどね。でも、あっちの人たちはそういうのも慣れてるから」
「へええ。食べ物はどうなの? 私、海外に行くのをイメージすると、食べ物が日本と全然違うかも知れないって考えちゃって、そこで気後れするんだよね」
「月並みだけど、プーティンと本場のメープルシロップは納得の美味しさだったよ。プーティンは、よかったら後で亜由美んちで作ってあげる。普通の材料でも作れるから」
「ありがとう」
食べ物の話になったら、さらにテンションが上がっていた。
「春子も、なんだかすごく明るくなった気がする」
「そう? だとしたら、変わったというよりも、元に戻っただけかも。そもそも私、そんなにガリ勉で人との交流を避けるタイプじゃないし」
「そっか」
「それにしても、このパフェ美味しいね。地蔵パフェっていうんだっけ? お地蔵さんの形の器に入ってくるなんて、日本でしかありえないよね。これはいい記念になるわ」
という感じで、一泊二日の短い日程だったものの、春子は久しぶりの私との再会を心から楽しんでくれたようだった。
「ホテルもいいけど、私、亜由美が生活してるアパートに泊まってみたい」
「オッケー。そう言ってたもんね」
というわけで、その日彼女は私の部屋に泊まっていった。アパートへ向かう途中、スーパーに寄って材料を購入し、彼女は宣言した通りプーティンも作ってくれた。そして、お互いにこの間からやっと飲めるようになったアルコール類で乾杯した。ビールと、安い白ワインだ。
「これが、亜由美の住むアパートかあ。昭和の造り?」
飲みながら、春子は床から天井まで眺め回す。アルコールで頬が紅潮していた。
「うん。偶然なんだけど、なんと私と同い年。だから春子とも同じってことになるね」
「そうかあ! なんか、すっかり古ぼけてるような、そうでもないような……」
「でも、これも偶然なんだけど、築○年にしては耐震設計がちゃんとしてるんだって」
「そうなの? じゃあ、ちょっとした揺れなら安心だ。――ねえ、ここに彼氏とか連れ込んだりしたの?」
「それはないよ! ぜんぜん縁がないし、生活で手一杯」
それは本当のことだった。一度合コンに参加したことはあるが、どうも場の空気に耐え切れず、一次会で逃げ出すように帰ってしまったっけ。
「ふーん。じゃあ、あの少年とはどうなってるの。前に話してくれたことあったじゃん、高校でずっと同じクラスだった子がいるって」
「ああ、中岡?」
そこに触れてくるとは思わなかった。中岡の奴ってば、お互いに新天地で大学生活が始まってからは何度かメールをくれて、最初は「いずれそっちに遊びに行くよ」なんて言っていたのに、今や半ば音信不通だ。男子なんてテキトーなものである。もっとも、新天地での生活が楽しいのはお互い様なので、今頃になって遊びに行くと言われても私の方が困るかも知れないが。なんのことはない、どっちもテキトーなのだ。
春子は、夜もそのまま泊まっていった。貧乏学生の安アパートで、湿気ってるような余り布団で寝ることの何が楽しいのかと思ったが、それすらも心地良かったようだ。
その日は、高校時代の話題はほとんど出なかった。ただ、夜に二人で布団を並べて寝る直前、真っ暗な部屋の中で春子がこう話しかけてきた。
「こうやって、亜由美と一緒に部屋で寝たりする日が来るなんてねえ。なんか、たったの二、三年前のことなのに懐かしいよ。亜由美と二人で電車で帰った日々」
「そうだね。春子は卒業式にも来なかったけど、どうなの? なんか中途半端な感じはしなかった?」
「それはないな。もともと私、あの学校への帰属意識が薄かったっていうか……。将来に向かうために通るだけの、単なる渡り廊下みたいな気持ちで過ごしてたから」
渡り廊下という単語が飛び出してきて、あの、中岡がいじめっ子を狙撃した時のことを思い出した。ドキッとするが、それに気付く由もなく春子は続ける。
「先生たちも悪い人じゃなかったけど、私は正直、嫌なことの方が多かったからねえ。成績だけは無駄によかったから、その点だけは一目置かれてヘンないじめに遭うことはなかったけど。どのみち、そういう無意識のランク付けの存在も嫌だったな。友だちなんて言えるのはほんと、亜由美くらいだったよ。亜由美がいてくれたおかげで、私は救われてた」
「え、そうなの?」
「そうだよー。あの、帰り道で電車に乗ってる二十分くらいのやり取りがどれだけ楽しかったことか」
それを聞いたら、不覚にも涙がポロポロ溢れてきた。思い出したのは中岡の狙撃だけではなく、言うまでもなくあの時振り上げられたいじめっ子の手を止められずにいた、不甲斐ない私自身のことだった。枕カバーが濡れる。
「ごめん。なんか、泣けてきた」
「あはは、大丈夫? 酔ってるんじゃない」
「かもね。今日はもう寝るよ」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
暗闇に呼びかけるようにして声をかけあい、私はすっと眠った。
寝入りばなに、空想とも夢とも違う鮮明なイメージが浮かんでくることがあるのは私だけだろうか? 大抵、そのイメージに身をゆだねるうちにいつの間にか寝てしまうのだが、この日浮かんできたのは高校時代の帰り道の電車の中だった。
春子と一緒に吊革につかまり、流れていく風景を眺めながら何かをしゃべっている。二十分、たったの二十分だ。その短い時間で春子は救われたと言ってくれた。そして、彼女がそう言ってくれたことで、私自身もたった今救われた。
翌朝は、だらだらと過ごした。昨夜のお風呂上がりの春子もとても新鮮だったが、寝起きの彼女もまた鮮烈だった。実は春子は低血圧だったのである。ぼーっとした表情で、いかにも起きるのが辛そうな様子で布団の上で座り込んでいる彼女からは、妙に甘ったるい香りがした。もしかしてこれが本場のメープルシロップの香りだろうか、などと思った。
しばらくパジャマ姿で過ごしてから、着替えて近所の𠮷野家へ。朝食を採り、昼過ぎの電車で彼女は帰ることになった。見送りのため私も一緒にバスに乗って駅へ向かう途中、彼女は昨夜の話に付け足すように、ぽつりとこう口にしていた。
「自分で言うのも変だけどさ。春子は、私のこと尊敬する感じで付き合ってくれてたよね」
「ん? ああ。まあそうだね」
否定はしなかった。春子は高校時代の私にとって憧れの存在だった。
「今も、そういう気持ちってあるの?」
「どうかな。なくはないけど。でも、ちょっと大人になると、不思議にそういうのは均されていくのかなあ。今こうやって話してると、憧れの存在から、尊敬に値する友だちっていうくらいの位置づけになっている気がする」
「うん。それでいい。それでいい」
よほど大事なことなのか、二回も繰り返して言われた。
「そう思ってくれるのはうれしいけど、私はぜんぜん特別じゃないからね。均されてるのなら大いに結構。これからも呼び捨てで、てきとうに付き合ってよ」
「それじゃ、また来てね」
「もちろん。今回秋田に来てみて、私どうして亜由美がここの大学を選んだのか、分かった気がしたよ。最初は、海沿いで風も強いだろうし雪深いだろうし、どうしてわざわざ生活にも学業にも苦労しそうな場所の大学を選んだんだろう? なんて不思議だったんだけどさ。うまく言えないけど、雪があってどこかのんびりしてて……そういうところが、きっと亜由美は好きなんだよね。亜由美のことをもっとよく知るために、私またここに来たい」
「ぜひぜひ。私はカナダには行けないからさ」
「だよね、簡単には足運べないって。――でさ、ちょっと話を戻すけど、私は全然特別じゃないってこと。高校の時、私がヤリマン扱いされてた理由をいろいろ説明したじゃない? 付き合ったとか別れたとか」
「うん。なんか、噂を吹き込まれて怖気づいた男子にブチ切れたんだよね」
「そうそれ! 覚えててくれたね」春子は嬉しそうに笑って、「たぶん私、亜由美には、あたかも自分が優柔不断な男子に対して毅然かつ堂々と振る舞っていたみたいに話したと思うんだ。でも違うの」
「そうなの?」
「全然違うのよ。私もやっぱり見栄っ張りでさ、亜由美にはそんな風に見られたかったのね。本当はもっとグチャグチャしてた。今でも、本当はどんなやり取りがあったのか、話すのも恥ずかしいくらい」
「今も笑っては話せない、か」
「無理だね。なんかさ、みっともない体験談も『お話』にしちゃうと妙にカッコよくなっちゃうものじゃない。若気の至りとか、青春特有の痛みあるいは切なさとか、今ではすっかり笑い話、みたいな話に落とし込んじゃうと、急にキレイになって。うまくいけば人に共感させたり、感銘を与えたりすることだってできる。でも本当はどんなに上手にそういうのを語ったり書いたりしてる人でも、いい『お話』に落とし込む前の、筆舌に尽くしがたい惨めな体験があると思うんだよね。言葉で言い表すのも憚られる、名付けられる以前の、グチャグチャの感情にまみれた瞬間が」
「分かる気がする。春子も、実際にはそんな感じでグチャグチャだったの?」
「グチャグチャだったよ。感情的になって夜に電話してみたり、思い詰めて手紙を書いてみたり、恨み言を口にしたり……おっとこれ以上は言えない」
春子はおどけて自分の口を手で覆った。
「そういうのって、どんなにカッコいい言葉で飾っても消せないし忘れられないんだよね。自分と、自分の感情をぶつけた相手だけが知っている、最悪に惨めな部分だけは、名前を付けられないまま残っちゃうんだ。その、どうしたって残っちゃうっていう事実に、最近改めて驚いてるよ」
「ふうん。私はどうかな。家族との間でなら、そういうことはありうるかも」
「あるね、家族ならなおさらある。夜に家族喧嘩して、次の朝に顔を合わせる時の、あのなんとも言いようのない苦くて渋い感情。そう、そんな感じ」
「春子の言ってること、分かる気がするよ」
「ありがとう。だからね、私は普通なの。亜由美が憧れて声をかけてくれたあの時にはもう、すでにグチャグチャだったの。あなたがあの日、声をかけてくれたから、私はカッコつけることができるようになったんだと思う。大げさかも知れないけど、あなたのまなざしのおかげで、私は新しい自分を発見できた」
そこまで話したところで、バスは駅前のロータリーを回って停留所に着いた。ぱっと席を立ちながら、春子はこの会話を締めにかかった。
「私の言いたいのはね、これからもよろしくってこと」
そして私の手を握り、続けて立ち上がろうとしたところで引っぱってくれたのだった。
私は切符を買って駅のホームまで同行した。彼女が秋田新幹線に乗り、去っていくまで見送っていた。車両が完全に見えなくなるまでホームにいて、その後はすぐにメールを送った。「来てくれてありがとう。また来てね」。実に月並みだがそれ以上の言葉は浮かばなかった。
「きっと、この秋田市っていう町はね、亜由美にとって一生忘れられない大好きな町になるよ。必ずまた来るから」
すぐにそう返事が来た。その宣言通り、彼女は半年に一度は秋田まで遊びに来てくれた。四年生になってからの最後の半年だけは、お互いに就職活動で忙しくなりそれどころではなかったけど、連絡だけはずっと取り合った。
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