時雨心地のあなたにも

遊塵わらべ

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【月光-2】

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キャットドアに引っかかった女の手を取り、部屋へと引っ張り込む。体は思っていたより容易く抜けた。まるでゴボウのように、ズルリと。

窮屈な隙間から開放された女は、四つん這いになって、はぁはぁと息を荒らげている。

「あの、たすけて……頂いて、ありが、とう…………ございます」
「あ、ああ。まぁ気にすんな」

女は袖の無いシャツにショートパンツというラフな格好だ。女物の服には詳しく無いが、きっとルームウェアの様なものだろう。

むき出しになっている肩や脚に目が行ってしまう。
一見華奢だが、女性らしい柔らかさを感じさせる肢体。
少し汗ばむ無防備な姿に、俺は年甲斐もなくドキッとしてしまった。

いやムラムラするという方が正しいか。

サイズ合っていないんじゃないかってくらいに、ショートパンツの丈が短い。
彼女の尻の方へ回り込めば、下着が見えてしまうんじゃないか?

そう言えば、深夜にコンビニで買い物してたときに、こんな格好した女がいた気がする。
今どきはこれくらい普通なのか? わからない。

「ふぅっ、すぅうぅ、ふぅっ…………はっ……」

ショートパンツ女は、深く息を吸い込み呼吸を整え、俺に向き直った。
澄んだ瑠璃色の瞳と目が合った。疑うことを知らなそうな純朴な眼差し。それが俺の、邪な目を捉えた。

俺は気まずくなってとっさに視線を外した。何か別のことを考えよう。まずは状況の把握だ。

この女は、俺を見ても慌てる様子がない。それなら俺が不法侵入したという可能性は低いだろう。ならこの女が同意した上で、俺はこの部屋に入ったということだろうか。

「なぁあんた、ここはどこなんだ? 俺、酒を飲みすぎたのか……ちょっと記憶がなくてだな……。なんでこんなところにいるのか、わからないんだ」
「まぁ、それは……。それで急に寝込んでしまったのですね、納得です。ここは、そうですね……私の家、のようなものでしょうか?」

なぜ疑問形なのだろうか。女は不安そうに続ける。

「それでは……先程の、お店でのことも忘れてしまったのですか?」
「店?」

どこのことだろうと思い、少し記憶を探ってみる。

俺の行動範囲で可能性があるのは、せいぜいスーパーかコンビニくらいだ。最近なら居酒屋という線もある。酔っていたことを考えると、居酒屋で知り合ったと考えるのが自然なのかもしれないが、個人的には納得できない。

俺はかなりの口下手、というか口が悪い。気を使って話していたとしてもすぐにボロが出る。どこで会ったにしても、俺が彼女と接点を持てるとは思えない。

ひとことふたこと話せたとしても、すぐに気まずくなるだろう。若い女とは共通の話題もないからなおさらだ。これまでの人生で母親以外の女と関わる機会などなかったのだから。

そんな俺が、この女と接点を持つ機会なんて……。
「……いや、待て」

彼女のいう店というのは……。
店……女……こいつの容姿……キレイだ。
家の中……男女で、ふたりきり……。

フウゾク?

それなら女が「私の、家、のようなものでしょうか?」と疑問形で言ったのにも、なんとなく納得がいく気がする。

風俗店に行ったことないから良くわからないが、この部屋はつまり、そういうことするためのスペースか?

だがあり得るか? 俺はこれまで一度も、そういったいかがわしい店に行ったことがない。
ああいうのは、時間も金も有り余ってる、道楽者の行くところだ。時間と金の浪費だ。俺にそんな金があったら……。

いや、今の俺は自分の稼いだ金を好きなように使える。ストレスが溜まりすぎて、酔った勢いに任せて、そういういかがわしい店に行った、そういう可能性も無いとは言い切れない。

つまり俺はこの女と……。
シちゃったの?

いやまて、結論を急ぐな。とりあえず、聞いてみないことには何もわからない。
俺は再度、女と顔を合わせる。まるで待てをされた犬のように、俺が何か話しかけるのを律儀に待っているようだった。

「なぁあんた、その店って言うのは……どんな店なんだ?」
「はい、赤い光が延々と連なる、幻想的なお店でした」
「いまいち良くわからないな。俺がそんな店に行くとも思えないし。他にその店の特徴とか無いか?」
「ええっとですね、そのお店では男も女も騒ぎ、乱れ、せわしなくしておりました」
「なんだそのやべぇ店」

ますますわからなくなった。そんな店、近所にあったか?

「けどその言いぐさだと、別にあんたが働いてる店ってわけじゃなさそうだな」

少なくともこの女は風俗とかの、嬢?、のようなものではなさそうだ。

「はい、そのお店で私たちは席が隣になったのです。あなたは獣のような鳴き声をあげ、机に突っ伏していました。しばらくして他のお客様があなたに、大丈夫か? と声をかけていました。あなたは男性に対し、このように申し上げておりました。」

女は唐突に、あーあーあーと発声練習をした。先程よりも声を低くして続ける。

「うるせぇ! 俺が不幸に見えるってのか? ああ!? 馬鹿にしやがって! 俺のどこが不幸だってんだ! 毎日酒だって飲めるようになったし! 別に住むとこにも困ってねぇ! ブランド品やら高ぇ車やらは買えねぇが、あんなの生まれたときから金持ちのボンクラボンボンどもが買うもんだ! わかるか! 俺が何をいいてぇのか!」

女は軽く咳払いをして喉を整えた。

「つまり俺は不幸じゃねぇ!、もう縛られて生きる必要はねぇし、何も不自由してねぇ! わかるか! 不幸なんかじゃねぇんだ! むしろ俺は今よぉ! 俺は、世界で一番、幸せなんだからよぉ!」

言い終わると、女は再び咳払いをした。どことなく誇らしげな微笑を浮かべている。
どうです、似ていたでしょう? とでも言いたげだ。
まさか今の、俺のマネか?

「……その店で、俺がそんなこと言ってたのか?」
「はい、一言一句。間違いはございません。このように話しておりました」
最悪だ。完全に面倒な酔っ払いだ。言ってることもめちゃくちゃだ。しかも心配して声かけてくれた奴に絡んでたのかよ。

「そんなあなたに、今度は私が声をかけたのです」
「よくそんな俺に話しかけたな。普通、関わりたくないだろ」
「いいえ、私にはあなたが必要です。あなたに、私の仕事を手伝ってほしいのです。それはご自身のことを、幸せだとおっしゃっていたあなたにしかできないことです」
「……それは、どういう」

俺は少し、戸惑った。
女の言うことがわからず質問しようとした。だが女が急に「あぁっ!」と声を上げ、それを遮った。

「そうでした! 私も忘れる所でした。ちょっと失礼します」

そういって女は俺の右手をとり、自身の胸に押し当てる。

「へぁ!?」

素っ頓狂な声が出た。
状況が全く理解できない。

手に吸い付くふんわりとした感触。マシュマロのように柔らかい。握り込むと何の抵抗もなく指が沈み込む。
手のひらには収まりきらないほど大きなそれは、わずかに汗で湿っていて、温かかった。

ずっとこうしていたいという抗いがたい欲求に支配され、手のひらの感覚を研ぎ澄ました。中指の付け根のあたりに、コリコリとした突起が当たった。

「んんっ」
突起に触れると、女は逃れるように身をくねらせた。

「う、うおぉぉぉぉぉぉぉう!」
俺は慌てて、胸から手を離す。
「な、な、なっ何するんだ急に!」

この女、何考えてるんだ? 俺に自分の胸を触らせやがった。しかも、ノーブラだった。痴女ってやつか!?
きっと俺の顔は真っ赤になっているだろう。下腹部に血流が集まるのを感じた俺は、気持ち少し前かがみになる。

「何と言われましても……あのお店でのお約束を果たそうと思ったのですが……」

そこまで言って女はハッとなる。

「すみません、覚えていらっしゃらないのですよね、先に説明すべきでした。仕事をお願いしたいと言うと、あなたが、胸を揉ませろそうしたら手伝ってやる、とおっしゃったので」
「嘘だろ……そんなこと言ったのか俺」

最悪だ。きっとかなり泥酔していたのだろうが、酷いセクハラだ。自分がそこまでのロクデナシだとは思わなかった。

「とても熱心な様子でした。私はどうぞ、と申し上げ、その場で胸を露出させたのですが、お店の方に追い出されてしまいました」
「そりゃあね、店の中でそんなことしたら迷惑だろう……」

やっぱり痴女だ。

「そういえば、胸に触ることの他に、何かしてほしいことがあると仰っていましたね。こちらに来る途中に。やはりそれも覚えていませんか?」
「……まだ何か頼んでたのか?」
「はい、胸を触るだけで良いのですかとうかがいましたら、今度はあなたはこうおっしゃったのです」

女は先程同様、あーあーあーと発声練習。

「もういいよそれ。普通に話して」
「あ……はい」

何故か少しがっかりしているようだった。

「ええっとですね、確かあなたはこうおっしゃいました。胸だけで満足しないってか? だったらいっそヤラせろよオラァ、と」

もうやめてくれ。

これ以上、自分を嫌いたくない。ただでさえ最底辺にいるような人間なのに。ああ、もういっそ消えてしまいたい。

俺は頭を抱えその場にくずおれた。

「ヤラせろとは、何をすればいいのですかとうかがったったのですが、ヤりゃあわかるだろうさと、道中ずっと教えてくださらなかったので、ひとまずお部屋に来て頂きました。さぁ、教えてください。私は何をすればよろしいのですか? 約束ですから。どんなことでもいたします」

女は胸を張って主張した。
こいつ、良く言えば純粋、悪く言えば……かなり常識知らずだ。何のためらいもなく胸を触らせるあたり、それがうかがえる。

それとも、そこまでしないと行けないほど、彼女は追い詰められているのだろうか。だとしたら俺は、彼女の弱みにつけこんで体を弄ぼうとしたクズだ。

「いや、その約束は……守らなくていい」
「え……しかしそれでは」

女は眉をひそめた。約束を果たさずに仕事を頼むのは申し訳ない、そう思っているのだろう。

「仕事を頼みたいんだったよな? なんでもするさ」
「本当によろしいのですか? 報酬は……」
「タダ働きでもなんでもいい。好きにしてくれ。もうどうだっていいさ」

えっ、と女は驚いた。俺の言っていることが信じられない様子だ。

俺はというと、完全に開き直っていた。

もうなんだって、好きにしてくれ。死ねと言われリャ死ぬし、危ない薬を飲めというのならそうしよう。
殺したいやつがいるっていうなら、俺が代わりに殺してやる。そうだ、ついでにバイト先の店長も殺してやろうか。
実際に、そこまでヤバいことを頼まれるなんて思ってないが。俺は店で行ったという自身の失態を思い、自暴自棄になっていた。

当の依頼主はというと、自分の胸に手を当て、納得がいかないような顔をしていた。

「胸を触っただけで満足してしまったのですか?」
「いやそういうことじゃなくてだな!」

女は手を口元にやって、ふふふっ、と可憐に笑う。

「でしたら、お願いしますね。お仕事と言っても難しいことではありません。ほんの少しの間だけこの部屋で暮らして頂きたいのです」
「この部屋で暮らす? それだけでいいのか?」

いまいち腑に落ちない。

「あんたはそれだけの理由で、あんなことまでしたのか? 何か他に理由がありそうなもんだが……」
「はい。厳密には何度か簡単な検査を受けていただきますが、あなたの方でしていただくことは特にありません。薬を用いない治験の様なものです。食事や衣服もこちらで用意しますし、ご要望がありましたら娯楽も提供します。ただし私の許可なく、この部屋から出るのは禁止です」
「……わかった」

治験のようなものと、この女はいっていたが、実際には監禁生活らしい。ドラマとかでみた脱出ゲームでもやらされそうだ。優しくしているのは全部演技で、実際にはマッドサイエンティストであるこの女は、被験者を過酷な環境下に配置し、どうやって生きのびるか高みの見物を決め込んでいる、みたいな。

そんな筋書きが見えてきそうだ。

それか宇宙人の侵略か? 地球の生命体、つまり俺を拉致して、じっくり観察しているとか。

……少し妄想が過ぎるな。そんなことあるわけ無い。

いずれにしても、わからないことをあれこれ考えていても仕方がない。俺は頭が悪いんだ。いくら考えたところで、正解にたどり着くことは無いのだから。

それに俺は、もうこの女に協力すると約束してしまったらしい。今更どうこうできないし、しようとも思わない。一度約束した以上は、最後まで付き合う義務がある。

「ところで、いつまでここにいればいいんだ?」
「そうですね。あなたなら早ければ明後日にでも終わるかと思います。よろしいですか?」

女の問いかけに、俺は少し拍子抜けした。なんだ、たったそれだけか。それなら、次の出勤日には間に合いそうだ。

「わかった。それだけなら全然構わない」
「よかった、ありがとうございます! ではまず、確認したいことがありますので、あちらの部屋で簡単な検査を受けていただきます」

女は扉の方へと移動する。先程這い出て来た、キャットドアがついているあれだ。

「この扉は、こちらからは開けられないようになっているんです。部屋から出るには反対側から扉を開ける必要があります。少しお待ち下さい」

女はキャットドアへ頭を突っ込んだ。なるほど、これは俺を閉じ込めるには都合がいい。
キャットドアは、この女がギリギリ通れるくらいの大きさだ。俺の肩幅じゃ、ここを通り抜けるのは無理だろう。

「そうすればあんたはこの部屋から出られるが、俺の方はそうは行かないってわけか。良く考えられてるな」
「ふふふっ、そうでしょう。私が考案したんですよ! これなら物理的に、私の許可なくこの部屋から出ることはできません。あなたがたとえ発展途上の星に住む野蛮な生命体だったとしても、私に危害を加えたらこの部屋から出られないということくらいわかるでしょう。すなわち、私の安全もこれで保障される、一切の無駄がない完璧な構造です」
「あ~、そうだな」

月光が差し込んでいる掃き出し窓を眺めながら、俺は空返事した。
色々言いたいことはあるが、そのキャットドアには致命的な欠陥があったと思う。

そんなこと知らずに、女は体をよじりながら向こう側へと潜っていく。時折「んんっ」とか「んぁっ」とか、悩ましい声を上げている。やめてほしい。

身をくねらせて進むその姿は、どこか色っぽくもあり、また滑稽でもあった。
いやはっきりいって相当無様だ。キャットドアが腰まで差し掛かったところで、この女は一層激しくもがきだした。尻を振り、体と脚をくねくねさせている。

まるで芋虫だ。

「そういえば……」

女が声をかけてきた。扉の向こうから話しかけているので、いささかくぐもった声だ。また助けでも求めてくるのだろうかと思ったが、そうではなかった。

「まだ名前を言ってませんでしたね。私は、ミンと申します」
「え、いま?」

確かに、自己紹介をした覚えはないが、なんでこのタイミングなんだ? 変なやつだ。

「はい。円滑なコミュニケーションにおいて、名前を知ることは大切ですから。あなたのお名前も教えてください」
「今更過ぎるな。いや、いいけどさ。俺は銅波清吾だ」
「ドウナミ、セイゴさん、ですね? なんとお呼びすれば良いでしょう? ドウナミさん? セイゴさん?」
「……ドウナミ、で頼む」

正直、下の名前で呼ばれるのは少し照れくさい。

「はい。わかりました、ドウナミさん。本日よりよろしくお願いします」
「あ、ああ。よろしく」

俺はこの女、ミンの尻を見て返事をした。くねくねとせわしなく動く尻。それを覆うショートパンツの隙間から別の布地が見えそうになり、とっさに顔を背けた。やっぱ丈、短ぇ。

「それでは自己紹介がすんだところで、ドウナミさん。あなたに頼みたいことがあるのです」

ああやっぱりな。

「俺は特に何もしなくていいんじゃなかったのか?」
「すみません、事情が変わってしまいました。大変申し訳ないのですが……」

ミンは尻すぼみな声でいった。

「ちょっとトラブルがありまして、これ以上先に進めません。そちらから、押していただけないでしょうか?」

腰のあたりがつっかかってしまっていたようだ。まぁこうなるとは思ってた。
だが事情はさっきは違う。致命的な問題がある。

「押せと言われても……どこを押せばいいんだ?」

さっきは上半身だったから、手を取って引っ張ることが出来た。だが今出てるのは下半身だ。
流石に、触るわけにはいかないだろう。

「どこ、といわれましても……どこでも構いません。押しやすい箇所で結構です。臀部が一番適切かと思います」

……ああそうだった、こいつ胸を平気で触らせるようなやつだ。

この女、本当に何を考えているのかわからない。何のために俺を監禁するのか。その結果どうなるのか。
正直いってかなり怪しい。やはりこの女は美人局で、扉の向こうにはヤクザがいた、なんて展開もありえそうだ。
まともな神経してるやつなら、ここから脱出する方法を考えるだろう。

だが、俺はそんなこと考えなかった。

別にこの女の体が目的だとか、そういう理由じゃない。
この女、ミンが言ってくれた一言。

(私にはあなたが必要です)

この一言が、とても嬉しかった。きっといままで生きてきた中で一番、嬉しかった言葉だ。
自暴自棄になっているのもあるが、ミンの期待に応えたい。そういう気持ちも無いわけじゃない。

俺は力一杯、ミンの尻を押した。

ちなみに尻も柔らかかった。
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