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第二話「策謀」②
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時を同じくして、三月十四日の午後、長江北西岸に陣取る王渾ら揚州軍陣営にて。
「安東将軍殿、伝令にございます、龍驤将軍殿率いる巴蜀軍が牛渚を陥落させたとのこと!」
その一声を聞いた王渾は、雷に打たれたように固まり、驚倒した。それほど巴蜀軍の快進撃は常軌を逸していた。
「噂には聞いておったが、まことに神のような進軍速度でござるな。現実のこととは俄には信じられぬ。本当に間違いは無いのであろうな。」
「はい、将軍。実際に牛渚にとんでもない大きさの戦艦が集まっているのを物見の者が対岸から見ております。万に一つも、間違いはございません。」
揚州刺史の周浚は、苦虫を噛み潰したような表情で、伝令を王渾に伝えた。
(クソッ、それ見たことか、このまま巴蜀軍が建業を落とせば、我が揚州の兵が陸戦で挙げた功績など霞んでしまうな。)
「安東将軍、如何なされまするか?」
周浚は、わざとらしく聞いてみた。
「如何も何も、龍驤将軍が、まずは報告を寄越すのが順番であろう。こちらからの使者を先に出してしまっては、どうも問責に近くなってしまう。まずは当然あるべき先方からの報告を待つ以外あるまい。」
総司令の王渾は、巴蜀軍が長江を降ってくれば、事前の手筈通り、自らの節度を受けて、その差配に甘んじるはずであるとタカを括っている。名族であったとしても、この上司には想像力や決断力が欠如していることを周浚は既に知っていた。
「報告が来なければ、如何なされる?」
周浚は、追い込むように問い正した。
「いや、だから報告が無いわけがなかろう。常勝の勢いがあるといえども、軍規は軍規である。」
(やはり聞くだけ無駄か。このままではまずい、強く出る以外あるまい。)
周浚は腹を決めた。
「安東将軍、確かに軍規によれば、報告があって然るべきでございますが、もしも報告のないまま、龍驤将軍が秣陵を落とせばどうなりましょう? 我ら敵陣に切り込み、白刃を犯して手にした功績は、泥土に打ち捨てられ、単に大船に乗って来ただけの者共が、時流に乗って青史に名を残すことになりまする。これは、我ら豫州軍全体の問題です。」
「うーむ、確かにそうではあるが。」
「では、これにて如何? 龍驤将軍の顔を立てる意味でも、今日は一日待ちましょう。それもよいでしょう。そうは言っても巴蜀軍の方は、明日の朝には賊軍の本拠である石頭城にむけて出立するでしょうから、こちらも早く動かぬと見る間に石頭城を落とされてします。既に孫呉に戦力は幾許も残っておりますまい。まぁそれこそ吾らの功績ですが。それ故、今日中に報告が来ないようなら、明日は早朝にも此方からも動いて、王濬の動きを止める必要がございます。」
「よし。わかった。汝の言葉の通りに致そう。」
「ご高配、有難き幸せ、しかし、これだけでは少々手ぬるい。将軍、万一ではございますが、王濬めが将軍のご指示に従わない場合はお考えでしょうか?」
「まさか、そこまで奴も無謀ではあるまい。現時点でそこまで考える必要はなかろう。」
「お言葉ですが、王濬はそういう男にございます。彼奴も既に年七十を越え、今回の機会を逃せば、次はもうありますまい。孫呉を平定して太平の世を迎える大功をあげる機会など、まさに千載一遇。それ故に、王濬のごとき欲に目が眩んだ俗物は、何をするか分かりません。今すぐ大本営に掛け合って節符をもって統制する用意をするべきです。大本営の項城までは、ちょうど千里。今から早馬を出せば、ギリギリ明日には間に合います。その上で尚、王濬が節度を乱すことがあるなら、大本営の賈充都督に更に報告申し上げ、廷尉に付すべきです。」
「わかった。いくら温厚な余でも、コケにされてまで黙っておるわけでない。もしも奴が軍規を違おうものなら、全力をもって、その非を咎めることを確約いたそう。」
「安東将軍殿、それでこそ我らが将帥でございます。我ら揚州軍、身を粉にして、将軍に仕える所存でございます。聞くところによると、王濬めは途上、荊州では杜預将軍から随分と焚き付けられたとのこと、そんなことで王濬めが思い上がったとすれば、まことに迷惑千万な話でございます。」
「まことか、杜預殿も東呉さえ屈せれば、余事は意に介さぬとでもと思っているのか。いつまで経っても人事の機微には鈍い男よ。王濬もここまで鳴かず飛ばずだった老い耄れだけに、有頂天になっているな。ふん、分際を忘れるとどうなるか、今に思い知ることになろう。」
「仰る通りで御座います。準備は全てこの周浚めにお任せください。では。」
相談が終わると、周浚は、踵を返して足速に帷を出た。陣営の入り口の直ぐ右隣には、小柄で華奢な体つきに戎装(軍装のこと)が似合わない男が侍り、周浚を直視していた。
「何惲よ、其方の言う通りであったな。全くよく人を見るものよ。早馬を支度せよ。そうだ、項城の賈都督だ。報告は、龍驤将軍に独断の虞れあり、だ。虎符を取ってこい!!」
「はっ、直ぐにも出発いたします。既に万事整えております故、明日には必ず虎符を持って参上致します。」
揚州刺史・周浚の部下、別駕従事である何惲は、下知を聞くや否や、直ぐにも厩舎へと駆け出した。
***
「別駕さま、本当にそのような格好で宜しいので?」
厩舎の世話係が、鎧兜を外して平服姿になった何惲に訊ねた。
「よいのじゃ。此度のことは、とにかく速度じゃ。何がなんでも急がねば成らぬ。それに吾はもとより重苦しい甲冑は好まん。それより、煎餅(小麦粉に葱などをまぜ平たく焼いたもの)と肉干(八角・桂皮などで香り付けした干し肉)じゃ、行李に多めに入れておいくのじゃぞ。」
「何も別駕従事、御身自らが、急行なさらなくとも・・・」
「そう言ってくれるな、項におられる賈都督には、必ず同意してもらわねばならん。下手を打つと後々には内訌にもなりかねない大切な役目じゃ。それに軍を代表して賈都督に御目通りする機会など、そうはあるまいに。」
何惲はそういうと、厩舎に入っていった。そして厩舎でも特に際立つ黄金色の馬の前で立ち止まると、その毛並みを撫でながら独り言のように言った。
「こいつがあの名高い大宛馬か。」
「はっ、さすが別駕どの、お目が高い。その通りでございます。千里とは行かぬやもしれませぬが、休みなく五百里は行きますので、途中の寿春までは一気でござろう。そこで乗り継げば、項城までも早ければ、日の変わらぬうちにつきましょうて。」
世話係が馬の轡を引いて、厩舎から出しながらそういった。
「それでは別駕どの、くれぐれもお気をつけて。あまり鞭を入れる必要はございませぬ。飛ぶ様に走ります故。」
世話係がそう言い終わらぬうちに、何惲の細身が軽やかに宙に舞ったかと思うと、何惲は、さっと黄金の毛並みの上に飛び乗っていた。
「あいわかった。」
食材の重みで少しずっしりした行李を馬上にて世話係から手渡されると、何惲は、「駕、駕!」との掛け声と共に、勢いよく駆け出していった。巻き上がった後塵に思わず目を細くした世話係が、再びその目を開けた時、何惲の姿は遥かに点景へと遠ざかって、そして、見る間に彼方へと消えていった。
こうして、各陣営は、それぞれの思惑を持って、運命の日、三月十五日を迎えたのであった。
「安東将軍殿、伝令にございます、龍驤将軍殿率いる巴蜀軍が牛渚を陥落させたとのこと!」
その一声を聞いた王渾は、雷に打たれたように固まり、驚倒した。それほど巴蜀軍の快進撃は常軌を逸していた。
「噂には聞いておったが、まことに神のような進軍速度でござるな。現実のこととは俄には信じられぬ。本当に間違いは無いのであろうな。」
「はい、将軍。実際に牛渚にとんでもない大きさの戦艦が集まっているのを物見の者が対岸から見ております。万に一つも、間違いはございません。」
揚州刺史の周浚は、苦虫を噛み潰したような表情で、伝令を王渾に伝えた。
(クソッ、それ見たことか、このまま巴蜀軍が建業を落とせば、我が揚州の兵が陸戦で挙げた功績など霞んでしまうな。)
「安東将軍、如何なされまするか?」
周浚は、わざとらしく聞いてみた。
「如何も何も、龍驤将軍が、まずは報告を寄越すのが順番であろう。こちらからの使者を先に出してしまっては、どうも問責に近くなってしまう。まずは当然あるべき先方からの報告を待つ以外あるまい。」
総司令の王渾は、巴蜀軍が長江を降ってくれば、事前の手筈通り、自らの節度を受けて、その差配に甘んじるはずであるとタカを括っている。名族であったとしても、この上司には想像力や決断力が欠如していることを周浚は既に知っていた。
「報告が来なければ、如何なされる?」
周浚は、追い込むように問い正した。
「いや、だから報告が無いわけがなかろう。常勝の勢いがあるといえども、軍規は軍規である。」
(やはり聞くだけ無駄か。このままではまずい、強く出る以外あるまい。)
周浚は腹を決めた。
「安東将軍、確かに軍規によれば、報告があって然るべきでございますが、もしも報告のないまま、龍驤将軍が秣陵を落とせばどうなりましょう? 我ら敵陣に切り込み、白刃を犯して手にした功績は、泥土に打ち捨てられ、単に大船に乗って来ただけの者共が、時流に乗って青史に名を残すことになりまする。これは、我ら豫州軍全体の問題です。」
「うーむ、確かにそうではあるが。」
「では、これにて如何? 龍驤将軍の顔を立てる意味でも、今日は一日待ちましょう。それもよいでしょう。そうは言っても巴蜀軍の方は、明日の朝には賊軍の本拠である石頭城にむけて出立するでしょうから、こちらも早く動かぬと見る間に石頭城を落とされてします。既に孫呉に戦力は幾許も残っておりますまい。まぁそれこそ吾らの功績ですが。それ故、今日中に報告が来ないようなら、明日は早朝にも此方からも動いて、王濬の動きを止める必要がございます。」
「よし。わかった。汝の言葉の通りに致そう。」
「ご高配、有難き幸せ、しかし、これだけでは少々手ぬるい。将軍、万一ではございますが、王濬めが将軍のご指示に従わない場合はお考えでしょうか?」
「まさか、そこまで奴も無謀ではあるまい。現時点でそこまで考える必要はなかろう。」
「お言葉ですが、王濬はそういう男にございます。彼奴も既に年七十を越え、今回の機会を逃せば、次はもうありますまい。孫呉を平定して太平の世を迎える大功をあげる機会など、まさに千載一遇。それ故に、王濬のごとき欲に目が眩んだ俗物は、何をするか分かりません。今すぐ大本営に掛け合って節符をもって統制する用意をするべきです。大本営の項城までは、ちょうど千里。今から早馬を出せば、ギリギリ明日には間に合います。その上で尚、王濬が節度を乱すことがあるなら、大本営の賈充都督に更に報告申し上げ、廷尉に付すべきです。」
「わかった。いくら温厚な余でも、コケにされてまで黙っておるわけでない。もしも奴が軍規を違おうものなら、全力をもって、その非を咎めることを確約いたそう。」
「安東将軍殿、それでこそ我らが将帥でございます。我ら揚州軍、身を粉にして、将軍に仕える所存でございます。聞くところによると、王濬めは途上、荊州では杜預将軍から随分と焚き付けられたとのこと、そんなことで王濬めが思い上がったとすれば、まことに迷惑千万な話でございます。」
「まことか、杜預殿も東呉さえ屈せれば、余事は意に介さぬとでもと思っているのか。いつまで経っても人事の機微には鈍い男よ。王濬もここまで鳴かず飛ばずだった老い耄れだけに、有頂天になっているな。ふん、分際を忘れるとどうなるか、今に思い知ることになろう。」
「仰る通りで御座います。準備は全てこの周浚めにお任せください。では。」
相談が終わると、周浚は、踵を返して足速に帷を出た。陣営の入り口の直ぐ右隣には、小柄で華奢な体つきに戎装(軍装のこと)が似合わない男が侍り、周浚を直視していた。
「何惲よ、其方の言う通りであったな。全くよく人を見るものよ。早馬を支度せよ。そうだ、項城の賈都督だ。報告は、龍驤将軍に独断の虞れあり、だ。虎符を取ってこい!!」
「はっ、直ぐにも出発いたします。既に万事整えております故、明日には必ず虎符を持って参上致します。」
揚州刺史・周浚の部下、別駕従事である何惲は、下知を聞くや否や、直ぐにも厩舎へと駆け出した。
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「別駕さま、本当にそのような格好で宜しいので?」
厩舎の世話係が、鎧兜を外して平服姿になった何惲に訊ねた。
「よいのじゃ。此度のことは、とにかく速度じゃ。何がなんでも急がねば成らぬ。それに吾はもとより重苦しい甲冑は好まん。それより、煎餅(小麦粉に葱などをまぜ平たく焼いたもの)と肉干(八角・桂皮などで香り付けした干し肉)じゃ、行李に多めに入れておいくのじゃぞ。」
「何も別駕従事、御身自らが、急行なさらなくとも・・・」
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何惲はそういうと、厩舎に入っていった。そして厩舎でも特に際立つ黄金色の馬の前で立ち止まると、その毛並みを撫でながら独り言のように言った。
「こいつがあの名高い大宛馬か。」
「はっ、さすが別駕どの、お目が高い。その通りでございます。千里とは行かぬやもしれませぬが、休みなく五百里は行きますので、途中の寿春までは一気でござろう。そこで乗り継げば、項城までも早ければ、日の変わらぬうちにつきましょうて。」
世話係が馬の轡を引いて、厩舎から出しながらそういった。
「それでは別駕どの、くれぐれもお気をつけて。あまり鞭を入れる必要はございませぬ。飛ぶ様に走ります故。」
世話係がそう言い終わらぬうちに、何惲の細身が軽やかに宙に舞ったかと思うと、何惲は、さっと黄金の毛並みの上に飛び乗っていた。
「あいわかった。」
食材の重みで少しずっしりした行李を馬上にて世話係から手渡されると、何惲は、「駕、駕!」との掛け声と共に、勢いよく駆け出していった。巻き上がった後塵に思わず目を細くした世話係が、再びその目を開けた時、何惲の姿は遥かに点景へと遠ざかって、そして、見る間に彼方へと消えていった。
こうして、各陣営は、それぞれの思惑を持って、運命の日、三月十五日を迎えたのであった。
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