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第一話「三月十四日」 その①
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咸寧六年(280年)三月十四日。西晋の巴蜀軍と豫州軍は、合同で孫呉の首都を目指していた。そして、その日の豫州軍軍属の汝南国相、左衛将軍・馮紞は、どことなく不機嫌であるように見えた。
「左衛将軍殿、先ほどの軍議は如何なさいましたかな? あまり気色が宜しくお見受けしませんでしたが。確かに少しゴタつきはございましたがね。」
巴蜀(現在の四川省)から建業(江蘇省南京市)へと向かう西晋の征呉の大船団を監視する任務にあたる豫州軍属の軍司・張牧は、同じく豫州軍属の左衛将軍の馮紞と行動を共にしている。張牧は、どこか仏頂面でぶっきらぼうな印象を与えるこの同僚のことを、元来からそういう性格なのだろうと、漠然と感じていたが、この日の早朝の軍議において、それが本来の性格的なものではないらしいことを悟った。
張牧は巴蜀出身、母は氐族、その父は蜀の大将軍・姜維に従った武人であった。それが十五年程前の景元四年(263年)、西晋が蜀漢を併合するに及んで、当時まだ気鋭の青年であった張牧は、首都洛陽にて一旗上げんと上京し、いずれの日にか一軍を率いんことを望んだ。ただ洛陽の現実は青年が思うほどには甘いものではなかった。一介の匹夫に過ぎず、しかも敗戦国出身である彼は、当然ながら、洛陽に特別なる血縁や地縁があるわけでもなく、実力よりも門資が重く見られる当時においては、出世は望むべくもない寒門の士という扱いであった。若き日の張牧は、こうして陽の目に当たることもなく、煩雑で泥臭い軍務をただ悶々と努めるうちに、瞬く間に年月は過ぎて行った。ところが、今回、孫呉平定という世紀の一大決戦にあたって、張牧が任命された長征の総軍の監察を司どる「軍司」としての随行は、誰もがあっと驚いた意想外の抜擢人事であって、上京以来、長い下積みの上に初めて際会した絶好機に、彼の胸は、若き日の青雲の志に燃えていた。
そんな中、晋国開基以来の最大の軍事作戦の遂行にあたって、縁あって軍務上の同僚となった馮紞は、組織構成上では明確な上下関係があるわけでもなく、大雑把にいってしまえば、二人の立場は同等ではあったが、一方で、年齢的に二回りほども年上であり、外では郡太守、内では武帝側近の武官職である左衛将軍と中央官僚として申し分ない来歴を誇っており、政治的現実からすれば、馮紞は相当に格上の存在であった。それ故に、年来から二ヶ月に及ぶ軍旅においても、二人の間では、特に親しい交流があったわけでもなく、軍議の際に事務的な事柄を話す程度の関係なのであった。
「これは、軍司殿、何もありませんよ、龍驤将軍の率いるこの征呉の軍団は、まさに神の如き速さにて進撃しております、天下太平の世もいよいよ近くございます。何を憂慮することがございましょう。賊軍の恃む秣陵の石頭城と言いましても、我が軍団の勢いの前では一たまりもありますまい。」
張牧への質問に対して、馮紞はことさらに慇懃な調子で答え、若い同僚の心配を打ち消した。
龍驤将軍とは、都督梁益二州諸軍事と言う少々長い肩書きを持つ王濬のことであり、遥々巴蜀の地から長江を下ってきたこの大船団の総責任者である。総勢八万人の戦力を誇る大船団は、巴蜀軍を主力に、馮紞と張牧ら率いる大本営直属の軍隊である豫州軍などが合流する形で構成されていた。そしてこの大船団は今朝に長江上の軍事要衝、牛渚を攻略した所である。牛渚は、現在の安徽省馬鞍山市にあたり、当時の孫呉の首都である建業、すなわち西晋人が言う「秣陵」から長江を二百里(80キロ程度)ほど上流にある。凡そ二ヶ月程前に巴蜀から遠路遥々と進撃してきた王濬らにとってすれば、遂に敵の本拠である建業を指呼の間に捉えたのであった。
「左衛将軍殿、仰るとおりでございますな、我々の船旅もいよいよ終わりにして、早く美酒に酔いしれたいところでございます。」
(今日の馮紞殿はどこか様子がおかしい)
同僚として、ありがちな遣り取りではあるが、普段より微かに饒舌になっている同僚のことを張牧は訝《いぶか》しんだ。
(多分、我は馮紞という人間について、全く理解できていないのだ。)
そんなことを思いながら、張牧は、先ほどの軍議がちょっとごたついたことを思い返した。
***
「諸将の尽力もあり、要衝の牛渚もほぼ抵抗なく占拠できた。ご苦労であった。平呉の大功までいよいよあと一歩である。それでは、いよいよ、あしたの明朝には出立して、このまま流れに乗って秣陵に向かい石頭城を抜く。こと此処に至れば、江賊どもも碌な抵抗も既にできぬであろう。皆の者、よもや異存はございますまいな?」
龍驤将軍・王濬は、軍議の冒頭から威勢よく切り出した。銀色の頭髪からも既に老境に入ったと云うべき年齢であることには間違いないが、常勝の船団を指揮するだけあって、その気迫は有無を言わせぬものがある。
「失礼ながら、将軍。進撃、進撃もまことに尤もではございますが、江北の安東将軍殿のご意向はよろしいので?」
もっともらしく作戦行動の全体を見据えて助言を行ったのが、王濬の左手に座った側近の参軍・李毅である。李毅(字は允剛という)は、王濬に扈従する懐刀と言って良い人材で、平時には文官の益州刺史であった王濬が、中央に秀才として推挙し、今回の大船団には参謀として従軍している。
この李毅の心配するところの江北の安東将軍というのは、巴蜀軍とは、別働する陸軍主体の揚州軍の総指揮を採っている王渾のことで、寿春(現在の安徽省淮南市)から陸軍を率いて出軍した揚州軍は、既にこの時には、反撃を企図した宰相・張悌が率いる孫呉の中軍を大いに撃破しており、長江の北西岸、横江と呼ばれる場所にて王濬らとの合流を待っていた。洛陽朝廷での事前の計画では、孫呉の首都である建業攻略は、あくまで王渾ら揚州軍を主体とするのが手筈であった。
「允剛よ、何を詰まらぬことを申すか。石頭城とは既に目と鼻の先。兵事には勢いというものがある。このまま秣陵を駆逐するまでよ。安東将軍殿の御手を煩わすほどのこともあるまい。」
王濬はそう言い切った。ところが意外にも更なる反対の意見が上がった。
「それでは、安東将軍殿の手柄を奪うことになりかねませんぞ、太原王氏といえば、我が大晋の顕族。立てるところも立てぬとあっては、何事も順調には進みますまい。兎にも角にも戦後も揚州を統括される安東将軍殿の差配を仰ぐのが筋でござろう。賊軍の本拠、秣陵を落とすとなれば、一国の興廃を決める一大事。その功績も特別に大なれば、融和の姿勢を徹底しなければ、功利に焦ったと捉えられかねません。」
歯に布を着せぬように直截に意見したのが、副将格の広武将軍・唐彬である。ここまで大船団を陣頭指揮して八面六臂の活躍を続けてきた人物であるが、唐彬は、元来、王濬の部下と言うわけではなく、洛陽朝廷から実力を買われて副将とされているだけに、物言いにも遠慮はない。
「唐将軍、その祖国からの聖詔を奉じればこそ、我らこうして死地に身を投じておるのですぞ。賊国偽呉の暴政を一刻も早く終わらせ、人士と民草を塗炭の苦しみから救うことが第一義じゃ。戦場は水の流れのように形なきもの、船を操る様に流れを見極めることこそが肝心。形式に拘泥しすぎるのは、それは平時の考えが抜けきっておらぬのではないか。恵興よ、汝はどう考える?」
王濬の右手に座って、どこか醒めた感じ、もっと言えば心ここに在らず、といった面持ちで、真っ直ぐと中空を凝視していた何攀(字を恵興という)に、王濬は少々唐突に話を振った。
「えっ…、王将軍、私などよりは、豫州軍を代表するお二方のご高見こそお伺い致すべきかと。」
何攀は、蜀郡出身の人士である。彼もまた、王濬の参軍として従軍しており、大船団をもって長江を降ると言う今回の計画の下工作や補給面など、主に中央との連携役や船団結成にまつわる実務を一手に取り仕切っていた。
「なるほど、言われてみればそれも尤もじゃな。左衛将軍殿、如何でござろう?」
王濬は、どこか自信ありげに話を馮紞に振った。
「我ら豫州のものは、あくまで見届け役というところでありますが・・・。」
一方の馮紞の方は、少々渋々といった面持ちで、俯き加減の目線はそのままに、ゆっくりと切り出した。
「まず、王将軍の仰るとおりですな。中朝の意向は、一日でも早い太平にございます。陛下もそのことを望まれておりますれば、我らこうして助力に参じておるわけにございます。王将軍の仰る通りかと…。」
「うーむ、それでは、これで決まり申したかな。」
李毅は、一瞬の躊躇いの後、そう告げた。
「陛下の御意向とあれば、もとより決まっていることよ。それでは皆のもの、今度こそ異存あるまいな?」
王濬が畳みかける。張牧がよくよく思い出してみると、何故かこの時、王濬は少し馮紞の方を一瞥して、何か勝ち誇ったような雰囲気があった気がする。そこには何か意味深な含みがあり、馮紞の様子が少しおかしいことも、或いはこの瞬間のことだったかもしれないな、張牧はそう思った。
「異存はありませぬが、明日の進軍は、我が手勢は差し控えることとさせて頂けぬでしょうか? 正直、どうも気の進まぬこと故、体調までも悪くなって参りました。秣陵は風前の灯、どうせ大勢には影響もせぬかと思います。」
副将格の広武将軍・唐彬は、なおも頑なに消極を示した。聞くからに取ってつけた理由で、これでは、明らかな職務放棄である。張牧は流石に少し耳を疑った。
「唐将軍は殊勝なことよの。征呉の最大の手柄を前に謙譲の姿勢を見せようとは。足下の仰せの通り、賊国にはもう兵力もあるまい。気の進まぬことを無理強いするのは、連戦の御身にも辛かろう。そう言うことであるなら、広武将軍の手勢は後詰めと言うことで良いじゃろう。」
王濬の方も、敢えて強制することはしない。
揚州軍の指揮官である王渾は、皇帝・司馬炎の娘を息子に娶らせるほどの権勢の持ち主で、太原出身の王氏は、晋皇室の司馬氏と密接な協力関係にあり、下手に反感を買うと今後の出世や保身にまで大きく影響しかねないことは、もちろん王濬も心得ている。唐彬と言う人は、故・文帝(司馬昭)にその才能を認められた人物でもあり、今後も中央での出世が見込める人物であった。危ない橋はあくまで渡ろうとしないことも理解できぬことではない。根っからの実務派で、征呉の大功を人生最後の会心事として考える自分とは大きく立場が違うことは、王濬も弁えていた。
張牧はといえば、途中から巴蜀の大船団に便乗する立場でもあり、巴蜀軍の大将と副将の間の詳しい事情には通じていない。敵本拠を前にこうも余裕があるものかと、二人のやり取りを目を丸くして聞いていた。
「それでは、石頭城攻略後の処置じゃが、第一の目標は孫皓の身柄の確保である。そのためにも早急に包囲の体制を展開することが肝要じゃ。偽王宮を抑えるとともに、南と東の要衝を占拠することを最優先とする。包囲・展開においては、当然ながら略奪の類は、厳に禁じることとする。違反したものは、当然、最終的には龍驤将軍の名に置いて処断することになるが、その前に軍司殿に逐一報告することが肝要じゃ。諸将はくれぐれも狼藉の無いように各牙門に通知し徹底させよ。また・・・」
こうして軍議は、建業陥落後の事後処理についての方針の確認作業へと進んでいった。張牧の軍司と言う役割は、その主目的を大雑把に述べると、長江を下る大船団の監督にある。遠く巴蜀の地から出発した船団は、既に総勢八万人と言う前代未聞の規模に膨張しており、また巴蜀の兵卒には、氐族や羌族といった異民族が多く混ざって、雑婚も進んでいる。そうした輩が遠征先で騒乱を起こさないように監督することが、張牧の基本的な役割であった。
こうして、牛渚攻略後の長かった軍議もやっと終わり、各々は王濬の旗艦にある作戦室から戻っていた。冒頭の馮紞と張牧がたわいも無い会話を交わしたのは、午後の日差しも幾分か和らいで来たこの時である。
***後半に続く
「左衛将軍殿、先ほどの軍議は如何なさいましたかな? あまり気色が宜しくお見受けしませんでしたが。確かに少しゴタつきはございましたがね。」
巴蜀(現在の四川省)から建業(江蘇省南京市)へと向かう西晋の征呉の大船団を監視する任務にあたる豫州軍属の軍司・張牧は、同じく豫州軍属の左衛将軍の馮紞と行動を共にしている。張牧は、どこか仏頂面でぶっきらぼうな印象を与えるこの同僚のことを、元来からそういう性格なのだろうと、漠然と感じていたが、この日の早朝の軍議において、それが本来の性格的なものではないらしいことを悟った。
張牧は巴蜀出身、母は氐族、その父は蜀の大将軍・姜維に従った武人であった。それが十五年程前の景元四年(263年)、西晋が蜀漢を併合するに及んで、当時まだ気鋭の青年であった張牧は、首都洛陽にて一旗上げんと上京し、いずれの日にか一軍を率いんことを望んだ。ただ洛陽の現実は青年が思うほどには甘いものではなかった。一介の匹夫に過ぎず、しかも敗戦国出身である彼は、当然ながら、洛陽に特別なる血縁や地縁があるわけでもなく、実力よりも門資が重く見られる当時においては、出世は望むべくもない寒門の士という扱いであった。若き日の張牧は、こうして陽の目に当たることもなく、煩雑で泥臭い軍務をただ悶々と努めるうちに、瞬く間に年月は過ぎて行った。ところが、今回、孫呉平定という世紀の一大決戦にあたって、張牧が任命された長征の総軍の監察を司どる「軍司」としての随行は、誰もがあっと驚いた意想外の抜擢人事であって、上京以来、長い下積みの上に初めて際会した絶好機に、彼の胸は、若き日の青雲の志に燃えていた。
そんな中、晋国開基以来の最大の軍事作戦の遂行にあたって、縁あって軍務上の同僚となった馮紞は、組織構成上では明確な上下関係があるわけでもなく、大雑把にいってしまえば、二人の立場は同等ではあったが、一方で、年齢的に二回りほども年上であり、外では郡太守、内では武帝側近の武官職である左衛将軍と中央官僚として申し分ない来歴を誇っており、政治的現実からすれば、馮紞は相当に格上の存在であった。それ故に、年来から二ヶ月に及ぶ軍旅においても、二人の間では、特に親しい交流があったわけでもなく、軍議の際に事務的な事柄を話す程度の関係なのであった。
「これは、軍司殿、何もありませんよ、龍驤将軍の率いるこの征呉の軍団は、まさに神の如き速さにて進撃しております、天下太平の世もいよいよ近くございます。何を憂慮することがございましょう。賊軍の恃む秣陵の石頭城と言いましても、我が軍団の勢いの前では一たまりもありますまい。」
張牧への質問に対して、馮紞はことさらに慇懃な調子で答え、若い同僚の心配を打ち消した。
龍驤将軍とは、都督梁益二州諸軍事と言う少々長い肩書きを持つ王濬のことであり、遥々巴蜀の地から長江を下ってきたこの大船団の総責任者である。総勢八万人の戦力を誇る大船団は、巴蜀軍を主力に、馮紞と張牧ら率いる大本営直属の軍隊である豫州軍などが合流する形で構成されていた。そしてこの大船団は今朝に長江上の軍事要衝、牛渚を攻略した所である。牛渚は、現在の安徽省馬鞍山市にあたり、当時の孫呉の首都である建業、すなわち西晋人が言う「秣陵」から長江を二百里(80キロ程度)ほど上流にある。凡そ二ヶ月程前に巴蜀から遠路遥々と進撃してきた王濬らにとってすれば、遂に敵の本拠である建業を指呼の間に捉えたのであった。
「左衛将軍殿、仰るとおりでございますな、我々の船旅もいよいよ終わりにして、早く美酒に酔いしれたいところでございます。」
(今日の馮紞殿はどこか様子がおかしい)
同僚として、ありがちな遣り取りではあるが、普段より微かに饒舌になっている同僚のことを張牧は訝《いぶか》しんだ。
(多分、我は馮紞という人間について、全く理解できていないのだ。)
そんなことを思いながら、張牧は、先ほどの軍議がちょっとごたついたことを思い返した。
***
「諸将の尽力もあり、要衝の牛渚もほぼ抵抗なく占拠できた。ご苦労であった。平呉の大功までいよいよあと一歩である。それでは、いよいよ、あしたの明朝には出立して、このまま流れに乗って秣陵に向かい石頭城を抜く。こと此処に至れば、江賊どもも碌な抵抗も既にできぬであろう。皆の者、よもや異存はございますまいな?」
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「失礼ながら、将軍。進撃、進撃もまことに尤もではございますが、江北の安東将軍殿のご意向はよろしいので?」
もっともらしく作戦行動の全体を見据えて助言を行ったのが、王濬の左手に座った側近の参軍・李毅である。李毅(字は允剛という)は、王濬に扈従する懐刀と言って良い人材で、平時には文官の益州刺史であった王濬が、中央に秀才として推挙し、今回の大船団には参謀として従軍している。
この李毅の心配するところの江北の安東将軍というのは、巴蜀軍とは、別働する陸軍主体の揚州軍の総指揮を採っている王渾のことで、寿春(現在の安徽省淮南市)から陸軍を率いて出軍した揚州軍は、既にこの時には、反撃を企図した宰相・張悌が率いる孫呉の中軍を大いに撃破しており、長江の北西岸、横江と呼ばれる場所にて王濬らとの合流を待っていた。洛陽朝廷での事前の計画では、孫呉の首都である建業攻略は、あくまで王渾ら揚州軍を主体とするのが手筈であった。
「允剛よ、何を詰まらぬことを申すか。石頭城とは既に目と鼻の先。兵事には勢いというものがある。このまま秣陵を駆逐するまでよ。安東将軍殿の御手を煩わすほどのこともあるまい。」
王濬はそう言い切った。ところが意外にも更なる反対の意見が上がった。
「それでは、安東将軍殿の手柄を奪うことになりかねませんぞ、太原王氏といえば、我が大晋の顕族。立てるところも立てぬとあっては、何事も順調には進みますまい。兎にも角にも戦後も揚州を統括される安東将軍殿の差配を仰ぐのが筋でござろう。賊軍の本拠、秣陵を落とすとなれば、一国の興廃を決める一大事。その功績も特別に大なれば、融和の姿勢を徹底しなければ、功利に焦ったと捉えられかねません。」
歯に布を着せぬように直截に意見したのが、副将格の広武将軍・唐彬である。ここまで大船団を陣頭指揮して八面六臂の活躍を続けてきた人物であるが、唐彬は、元来、王濬の部下と言うわけではなく、洛陽朝廷から実力を買われて副将とされているだけに、物言いにも遠慮はない。
「唐将軍、その祖国からの聖詔を奉じればこそ、我らこうして死地に身を投じておるのですぞ。賊国偽呉の暴政を一刻も早く終わらせ、人士と民草を塗炭の苦しみから救うことが第一義じゃ。戦場は水の流れのように形なきもの、船を操る様に流れを見極めることこそが肝心。形式に拘泥しすぎるのは、それは平時の考えが抜けきっておらぬのではないか。恵興よ、汝はどう考える?」
王濬の右手に座って、どこか醒めた感じ、もっと言えば心ここに在らず、といった面持ちで、真っ直ぐと中空を凝視していた何攀(字を恵興という)に、王濬は少々唐突に話を振った。
「えっ…、王将軍、私などよりは、豫州軍を代表するお二方のご高見こそお伺い致すべきかと。」
何攀は、蜀郡出身の人士である。彼もまた、王濬の参軍として従軍しており、大船団をもって長江を降ると言う今回の計画の下工作や補給面など、主に中央との連携役や船団結成にまつわる実務を一手に取り仕切っていた。
「なるほど、言われてみればそれも尤もじゃな。左衛将軍殿、如何でござろう?」
王濬は、どこか自信ありげに話を馮紞に振った。
「我ら豫州のものは、あくまで見届け役というところでありますが・・・。」
一方の馮紞の方は、少々渋々といった面持ちで、俯き加減の目線はそのままに、ゆっくりと切り出した。
「まず、王将軍の仰るとおりですな。中朝の意向は、一日でも早い太平にございます。陛下もそのことを望まれておりますれば、我らこうして助力に参じておるわけにございます。王将軍の仰る通りかと…。」
「うーむ、それでは、これで決まり申したかな。」
李毅は、一瞬の躊躇いの後、そう告げた。
「陛下の御意向とあれば、もとより決まっていることよ。それでは皆のもの、今度こそ異存あるまいな?」
王濬が畳みかける。張牧がよくよく思い出してみると、何故かこの時、王濬は少し馮紞の方を一瞥して、何か勝ち誇ったような雰囲気があった気がする。そこには何か意味深な含みがあり、馮紞の様子が少しおかしいことも、或いはこの瞬間のことだったかもしれないな、張牧はそう思った。
「異存はありませぬが、明日の進軍は、我が手勢は差し控えることとさせて頂けぬでしょうか? 正直、どうも気の進まぬこと故、体調までも悪くなって参りました。秣陵は風前の灯、どうせ大勢には影響もせぬかと思います。」
副将格の広武将軍・唐彬は、なおも頑なに消極を示した。聞くからに取ってつけた理由で、これでは、明らかな職務放棄である。張牧は流石に少し耳を疑った。
「唐将軍は殊勝なことよの。征呉の最大の手柄を前に謙譲の姿勢を見せようとは。足下の仰せの通り、賊国にはもう兵力もあるまい。気の進まぬことを無理強いするのは、連戦の御身にも辛かろう。そう言うことであるなら、広武将軍の手勢は後詰めと言うことで良いじゃろう。」
王濬の方も、敢えて強制することはしない。
揚州軍の指揮官である王渾は、皇帝・司馬炎の娘を息子に娶らせるほどの権勢の持ち主で、太原出身の王氏は、晋皇室の司馬氏と密接な協力関係にあり、下手に反感を買うと今後の出世や保身にまで大きく影響しかねないことは、もちろん王濬も心得ている。唐彬と言う人は、故・文帝(司馬昭)にその才能を認められた人物でもあり、今後も中央での出世が見込める人物であった。危ない橋はあくまで渡ろうとしないことも理解できぬことではない。根っからの実務派で、征呉の大功を人生最後の会心事として考える自分とは大きく立場が違うことは、王濬も弁えていた。
張牧はといえば、途中から巴蜀の大船団に便乗する立場でもあり、巴蜀軍の大将と副将の間の詳しい事情には通じていない。敵本拠を前にこうも余裕があるものかと、二人のやり取りを目を丸くして聞いていた。
「それでは、石頭城攻略後の処置じゃが、第一の目標は孫皓の身柄の確保である。そのためにも早急に包囲の体制を展開することが肝要じゃ。偽王宮を抑えるとともに、南と東の要衝を占拠することを最優先とする。包囲・展開においては、当然ながら略奪の類は、厳に禁じることとする。違反したものは、当然、最終的には龍驤将軍の名に置いて処断することになるが、その前に軍司殿に逐一報告することが肝要じゃ。諸将はくれぐれも狼藉の無いように各牙門に通知し徹底させよ。また・・・」
こうして軍議は、建業陥落後の事後処理についての方針の確認作業へと進んでいった。張牧の軍司と言う役割は、その主目的を大雑把に述べると、長江を下る大船団の監督にある。遠く巴蜀の地から出発した船団は、既に総勢八万人と言う前代未聞の規模に膨張しており、また巴蜀の兵卒には、氐族や羌族といった異民族が多く混ざって、雑婚も進んでいる。そうした輩が遠征先で騒乱を起こさないように監督することが、張牧の基本的な役割であった。
こうして、牛渚攻略後の長かった軍議もやっと終わり、各々は王濬の旗艦にある作戦室から戻っていた。冒頭の馮紞と張牧がたわいも無い会話を交わしたのは、午後の日差しも幾分か和らいで来たこの時である。
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