捜査一課に呪いを添えて

七綱七名

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世間知らずの袈裟男

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 鎌上灯《かまがみ あかし》は憂鬱だ。米三合、ウインナーひと袋、卵十個にボウル一杯の野菜サラダ。控えめな食事を平らげ、身体をスーツに押し込む。

 そして今日も嫌々会社に通う。その最中に、まず天敵がいた。

 スーツ姿の中年男性。少々腹が出ており、時折髪に白いものが混じっている。特に奇異な外見ではないが、灯は彼が視界の隅に入っただけで緊張する。彼は、歌うのだ。

 今日も彼は演歌を口ずさみ出した。灯と同時に、周囲のサラリーマンが眉間に皺を寄せた。歌が、あろうことに隣の席から聞こえてくる。悪い意味で、心がわしづかみにされた。

 大声ではない。せいぜい、隣の二~三人に聞こえる程度だ。しかし、この微妙な音量が絶妙に腹立たしい。耳元を蚊が飛んでいる時と同じ感覚だ。灯は車両を変えながら乗っているが、週に二度はこの演歌男と遭遇してしまう。嫌な運命だ。

 これがまだ歯切れ良く上手ければ救いもあるのだが、数ヶ月経っても一行に上達の気配がない。灯は眠ろうとするたびに、だらだら続く下手なサビで起こされる羽目になった。

 運が悪い。わかってはいたが、自分の栄光は学生時代で終わったのだと、思い知らされる。部活で活躍し、何度も大きな大会でトロフィーをもらった。自分の頑張りがすぐに結果として反映されるのが楽しくて仕方無かったし、それで多くの人が喜んでくれた。

 しかしそれはあくまで、学生スポーツという狭い枠の中でのこと。社会に出たらそんなことは関係ない。灯より派手な功績をあげたものなど沢山いて、話などする前に日々の仕事に忙殺されていく。

 上司は話を聞いてくれないし、後輩は自分を舐めきっている。客は話を翻して怒り、灯の落ち度だと申し出てくる。うまくやってもそれは当然のこととして扱われ、ミスをしようものならネチネチと責められた。

 ただ誰のためでもなく、給料日になれば金が入るという、それだけのために黙々と出社する。その金も家賃と食費を払えば大半が消え、ほとんど残らない。だから一食にかかる米を三合に抑えたりして、なんとかしのいでいる。

 仕事が終わって自室に帰ると、ほっとすると同時に早くも明日が来るのが嫌で仕方無かった。慣れなければと思っていても、この演歌男のように些細なことが棘のように心を刺した。

 気を抜くといつでも、会社などやめてしまってあの刺激に満ちた日々に帰りたいと思っている自分がいる。お金さえあれば海岸沿いを無限に走りまくれるのにと、無駄に宝くじ売り場を見ている自分がいる。

 気にしすぎよと姉は言う。きっとその通りなのだろう。灯は無理に視線を落とした。周囲のそんな我慢をよそに、男は機嫌良く歌い続けている。

 全身全霊で男を無視する構えをとったその時、ふっと車内に風が吹く。心なしか、ミントのようなさわやかな香りもした。

 顔をあげると、電車が駅に止まっていた。演歌男の右隣があいている。そこに、誰かがすっと腰を下ろした。いったいどんな人が座ったのだろう、と興味本位で灯は目を向け──眠気が覚めてしまった。

 座ったのは若い男性。そして、黒い僧服と金糸がふんだんに入った袈裟を身にまとっている。美しい光沢はあるが華美には感じず、しっとりとした雰囲気をかもすしつらえの見事さは、宗教事に興味の無い灯の興味さえも引いた。

 男の顔に目をやると、目元涼しい俳優のような容貌に、肩まで伸ばした長髪。そして体から発する、周囲を圧倒するなにか──凡人にはない気配。

 車内の老人はもちろん、若い女性たちはこぞって彼を見つめている。それに動じずじっと座っているさまが、いかにもモテてきた男といった風情でねたましい。

 灯は邪推を続ける。頭を剃っていないから、本職ではなさそうだ。コスプレを初めてやってみたのだろうか。見たところ、灯と同年代のようだが……なかなか攻めた思考をしている。彼はこれからどこへ行くのだろう。

 そうやって考えていると、不意に演歌男の歌が止まった。袈裟の男が声をかけたからだ。

「おい」
「な、なんだよ」
「まだ公衆の面前で歌わない方がいいぞ。下手だから」

 袈裟の男性にきっぱりと言われて、演歌男は首まで真っ赤になった。周囲から押し殺したような笑いがあがる。肩が上がっている彼を見ながら、灯は心の中で快哉を叫んだ。

「……俺は不慣れなので聞くが。天咲駅というのは、次か」

 汗をかいている演歌男を飛び越えて、袈裟男が灯に話しかけてきた。問われたそれは職場の最寄り駅だったので、灯は迷うことなく答えた。

「次の次です」

 灯は案内図を指さした。

「そうか。すまん」

 男は軽くうなずき、頭を下げた。灯は仕事を果たしたような気分になって、背筋を伸ばす。

 やけに緊張する。日本人だから、神主と坊主には無意識に敬意を抱くのだろうか。それにしては、身体に残った緊張感が大きい。男から、なにか気配のようなものを常に感じるせいだろうか。灯は答えが出せずに、首をひねった。

 悩んでいる間にも電車は動きつづけ、山手駅に到着する。結構な人数が立ち上がって荷物をつかんだ。

 灯も前へ進む。だが、ふと何かが引っかかって、急に振り向いた。──袈裟の男の気配が、全く後をついてこないのだ。

 不安は的中し、彼はまだ座席に腰を下ろしたままだった。

「……ここで降りるんじゃないんですか?」
「そのつもりだが」

 袈裟男は、灯の問いに力強くうなずく。しかしその割には、彼は両足を床につけ、椅子にどっしりとかけたままだ。背筋が真っ直ぐなのがかえって腹立たしい。

「早く立たないと、降りられなくなりますよ」

 灯は男に、前に進めと促した。しかし男の尻は上がらない。

「何故だ。扉が開ききってから出なければ、挟まれてしまうぞ。あれは痛い!」

 体験したのかよ。

「いや、そんなお嬢様みたいなこと言ってると──」

 灯と男が押し問答をしているうちに、扉からどっと乗客が入ってくる。たちまち、身動きがとれなくなった。

「だから言ったでしょ……」
「うむ、理解した」

 灯は萎えた口調で言った。男が重々しくうなずくと同時に、電車が動き出す。

「遅刻だ……」

 灯はようやくその事実に気付いて、弱々しくつぶやく。さっきの遠慮は消え失せ、恨みがましい視線を男へ放ってやったが、ぶ厚い袈裟に跳ね返された。
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