上 下
3 / 49
第1章 パティシエはアーティスト?

第3話 理由は三つ

しおりを挟む
 コックコートを脱いでいるから京旗は私服だ。雑誌や新聞に載った写真と違うとでもいわんばかりに、男は、上から下まで何度か視線でさらい、
「君は、年齢のわりにはとてもしっかりしているな。だが、表情を別にして、顔そのものの造作や体格だけをよく見ると、確かにティーンで、高校生――というか、あそこを行くジュニア・ハイの連中と比べても、まったく変わらないくらいだね」
「あはは、中学生っすか。アジア人は実年齢よりガキッぽく見えるらしいっすからねー」
 オーダーしたカフェラテが、カウンターの中から差し出され、鏡みたいに磨き上げられたカウンターの上に置かれる。京旗は、そのカップに盛り上がった泡を無邪気に覗きこむフリをしつつ、男に、すっとぼけた返事をした。
 予想外に鋭い言葉に、実は、一瞬心臓がビョクンとなっていた。でも、おくびにも出さないよう、演技力でカバー、カバー。
「うむ。実によく言われていることだし、真実だと私も考えるところだよ。ところで、今日、お呼び立てした用件なのだが」
 男は単刀直入に、話に入った。
 ヘッドハンティングの交渉に。
「くぁ?」
 さすがに、初めてそんな話を聞いて、京旗は目を点にした。
「当社では、世界中の何人ものパティシエを検討した末、君に白羽の矢をたてた。今の仕事先を辞め、我が社に来ていただきたい」
 ニューヨークから、大西洋を飛び越えてやってきた男は、アメリカの会社のビジネスマンだった。
 自グループのとある会社に、京旗のパティシエとしての能力が欲しい。一年の契約で社員となって、商品開発に力を尽くしてくれないか――。
「全米展開するブランドの立ち上げが、仕事の中心だ。キミさえその気になってくれるなら、そのブランドにイッシキという名をつけてくれてもいいとまで、上層部では考えている」
 一気に全米デビューかよ、オレ!
 すごいチャンスが巡ってきた。顔はクールを装うのだが、心臓はもうバクバク踊りだしている。
 やった。やった!
 菓子職人にとって、一番の夢は、オーナーシェフになることだ。多くの若いパティシエは、親方のもとで修行しながら、夢を見続ける。いつになったら自分の店を持てるだろうか。明日は持てるか、来年は持てるか。希望と絶望に翻弄されながら、長い卵の時代を過ごす。
 全米ブランドになるというのは、そんな夢を軽々と突き抜けてしまうサクセスストーリーだ。どんなパトロンがついても、こんな壮大な話はそうない。
 男はしかつめらしい顔で、言葉を続けている。
「パティスリー・イッシキというブランド名はどうかね。ああ、ファースト・ネームの方をブランド名にするのもいいな。ケーキ・オブ・ケイキ。……面白くないかね。ふむ、そうか」
 男は無表情に言い、間をおいてから、勝手にうなずいた。
 ひくひくひく……。
 京旗は頬をひきつらせていた。
 男は、茶色の瞳をそわそわと彷徨わせ、手の指をくるくると回したあと、止めると、再び口を開いた。
「フランス菓子が専門なのだから、ネーミングにもフランス語を使う方がいいかね。ケーク・ド・ケイキ。……つまらんかね。ふむ、そうか」
 京旗は耐えかねて、棒読みで、
「ハハハ、面白いっすね」
 ちなみに京というのは日本語で兆の上の単位で、母親の名前が「兆」胡だとか、父親の名前が「億」良だったとか、そのほか祖父祖母やさかのぼった先祖には「万」丈(ばんじょう)や「千」歳(ちとせ)、「百」行(ひゃっこう)とか「十」和(とわ)とかいう名がのヒトビトがいて、自分の名前はそんな流れでつけられたもので……という話をする気はない。日本語のネイティブでもない相手に、うまく伝えられるとは思えない。めんどくせぇ。
「すいません、そういえば、お宅の会社の社名を伺いましたでしょうか、僕?」
 話を逸らすついでに本題に戻す。年俸は目の玉の飛び出るような破格で、既に提示されていた。
「ああ。電話で言わなかったかね? <キャタピラー・キャピタル>というグループだ。聞いたことがある、くらいは言ってくれると嬉しいのだが」
 そう言う男の顔には、謙遜しているぞ、と黒々と大書してあった。
 京旗は思わずゲッと目を見開く。詳しいことは知らないが、その名は、超有名だった。
 世界的な規模を誇るグループ。そこが持つ会社なら、そりゃあ全米展開だってするだろう。
 ただし、京旗は嬉しくて目を見張ったわけではなかった。
「お断りします」
「な、何故かねッ!!」
 男が叫び、カフェ中の客が、アメリカ人と日本人の歳の離れすぎた二人連れに振り返った。
 大注目。
 京旗は顔をしかめる。こういう下品な目立ち方は嫌いだ。
 そしらぬ顔で、ゆっくりカップを持ち上げる。残っていたカフェラテを、静かに飲み干す。自分の横顔に集まった視線が、散っていくのを辛抱強く待つ。
 ソーサーの窪みにカップを再び落ち着けて、二度と取らないで済むようにしてから、横の男に向かって、指を三本、つきたてて見せた。
「ひとつには、あんたの会社はファスト・フードのチェーンをやってて、僕はそれが好きじゃない」
 言って、指を一本折る。
「もうひとつ。あんたの会社が作ってる菓子は安いけど質がめちゃめちゃ悪くて、僕はその中でも、チョコレートが特に許せない」
 指をもう一本折って告げる。その時、鷹のように変化した京旗の目つきに、男がたじろいだ。
 迫力があったのだ。
 当然だ。
 <てめぇは菓子作りを舐めてかかってやがる>と親方は言うが、これでも本人は本気で菓子に情熱を持っている。
 そして、チョコの味わいについて本気で考えている、フランスという国のパティシエなら、そのアメリカ会社のチョコレートが、フランスでは「チョコレート」とは決して名乗れないものだということは、周知の事実だった。
 チョコとは呼べない合成物。
「ついでにもーひとつ。その<むかでキャピタル>って社名、恥ずくないっすか?」
 蔑みをこめて冷たく笑う。指は折らずにポケットに突っ込み、何ユーロか掴みだして、カフェラテ代を数えてカウンターに置いた。店員に最後の声をかけ、さっさと立ち去る。
「くっ……! この、小僧……!」
 不遜なガキの後ろ姿を見送って、アメリカ人は、しばらく額に青筋をたててわなわなと震えていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

ボクが追放されたら飢餓に陥るけど良いですか?

音爽(ネソウ)
ファンタジー
美味しい果実より食えない石ころが欲しいなんて、人間て変わってますね。 役に立たないから出ていけ? わかりました、緑の加護はゴッソリ持っていきます! さようなら! 5月4日、ファンタジー1位!HOTランキング1位獲得!!ありがとうございました!

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる

フルーツパフェ
大衆娯楽
 転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。  一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。  そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!  寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。 ――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです  そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。  大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。  相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。      

生贄にされた先は、エロエロ神世界

雑煮
恋愛
村の習慣で50年に一度の生贄にされた少女。だが、少女を待っていたのはしではなくどエロい使命だった。

[恥辱]りみの強制おむつ生活

rei
大衆娯楽
中学三年生になる主人公倉持りみが集会中にお漏らしをしてしまい、おむつを当てられる。 保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。

後宮の系譜

つくも茄子
キャラ文芸
故内大臣の姫君。 御年十八歳の姫は何故か五節の舞姫に選ばれ、その舞を気に入った帝から内裏への出仕を命じられた。 妃ではなく、尚侍として。 最高位とはいえ、女官。 ただし、帝の寵愛を得る可能性の高い地位。 さまざまな思惑が渦巻く後宮を舞台に女たちの争いが今、始まろうとしていた。

処理中です...