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第二楽章 信用と信頼

夢なんていらない

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どうせ勝てない、俺は心の中でそう思った。



終盤になっても、俺の元にボールはほとんどやって来なかった。

遠くで激しい攻防が繰り広げられている。

だからと言って、手持無沙汰なのかと言ってもそうではない。

俺の役割はボールを追いかけること。

時折、放物線を描いてこちらにやってくるボールに向かって走る。

時折、相手選手が蹴ったボールを走って追いかける。

その延々と続く動作を成すのが使命だ。

走り続けて疲労が溜まっていても関係ない。

足を伸ばせば届きそうな距離、目の前にあるボールを走って追いかける。

でも、寸前のところで隣の選手にパスが送られる。

再びボールを追いかけるゲームが始まる。

取れるはずがないのに、それでも何度も、何度も、何度も追いかける。

肺が裂けるような痛み、足を止めてしまいたいと何度も思った。

そんな苦痛を押し殺して、俺は再び走り続ける。

こんなゲーム面白いはずがないだろう。

それでも試合はまだ終わっていない。

だから、俺は役割を忠実に守る。



追いかけた先で再びボールが蹴られていく。

相手選手に蹴られたボールは大きく宙を舞い、味方の方に飛んでいった。



今度はあいつらが走り回る番だな……



その場に立ち止まりながら、俺はそう思った。

事実、俺の方にボールが来ることは無い。

自陣ゴール前で必死に走り回っている選手たち、その多くは俺のチームメイトだ。

相手に翻弄されて、無駄に走り回って、本当にかっこ悪い。



「あ」



大きく蹴られたボールがこちらに向かって来た。

来てほしくなかったのに、ボールは見事に俺の上まで迫って来た。

目の前に迫るボールに、俺は反応する。

でも、ボールを受け取る直前で相手選手に奪われてしまった。



「______ッ!」



身体をぶつけられて、その場に倒れ込む。

すぐに立ち上がると、目の前にあったボールは再び遠くで支配されていた。



……



自分の姿を確認すると、ユニフォームやソックスが泥だらけになっていた。



「かっこ悪……」



俺は一人、そう呟いた。

ちょっとでも動いたら、すぐにこんな結果になる。

自分が望む結果はやって来ない。

なのに、どうして頑張らなければならないのか。



早く終わればいいのに……



ボールがネットに吸い込まれる瞬間、俺は一人そう思った。







ーーー







「ただいま」

「悠馬お帰り…て、あんた汗だくじゃないの」



自宅に戻り、俺は第一声を浴びることになった。

いつもよりもその言葉に煩わしさを覚える。



「うるせーな……さっさと風呂入れば良いんだろ?」



履いていたシューズの紐を解きながら、俺は吐き捨てるように言った。



「洗濯物分けてからカゴに入れてよ? 白地に染みついちゃうから」

「分かってるよ」

「そんなこと言ってこの前分別しないで入れてたの、もう忘れたの?」

「だから気をつけるって言ってんだろ」



口煩く

汗ばんだ服から早く解放されたい。

その思いに急かされるように、俺は脱ぎ捨てた服をカゴに入れ、シャワーを浴びた。

でも、この場に長居するつもりはない。

全身を洗い、すぐにタオルで水分を拭き取る。

そして部屋着に着替えると、俺はすぐに風呂場から出た。



いつもの練習とは違う、フルタイムで走り続けた足は悲鳴を上げている。

廊下を歩くのでさえ苦痛だった。

早く横になりたい、そんな考えが頭を支配する。

その欲求に従って、俺は二階の部屋に向かおうとした。



「悠馬ー」



しかし、風呂場から出たことに気づいた母が俺を呼ぶ。

部屋に戻って睡眠を取ろうとしていた俺には、ただ鬱陶しい声だった。



……



確かに母は面倒だ。

でも、無視すれば余計面倒事になるのを俺は知っている。



「ったく、疲れてるのに……」



俺は声のするリビングに足を踏み入れる。

声の主は、キッチンで料理を作っていた。

まな板の上に広げられた野菜群を包丁で刻みながら、母は俺の登場を待っていた。



「何? 疲れたから寝たいんだけど?」

「もう寝るの? まだ夕飯前なのに? 勉強は?」



勉強……



その言葉が出た瞬間、俺は辟易した。



「……少し寝てからやるよ。今はやる気になれない」

「そんなこと言って…成績が落ちたらどうするの? このままじゃ秋人と同じ大学に行けないわよ?」

「……秋人くんは関係ないだろ? それに、今は眠いからちょっと仮眠をとるだけだし……」

「隣の近藤さん家の息子さんなんて寝る間を惜しんで勉強してたって言ってたわよ? 悠馬もそのくらいの根性でやんないと駄目よ?」

「根性、ね……」



何度目だろうか、この話は。

事あるごとに言われ続けて、もううんざりする。

母は俺のためを思って言っているんじゃない。

ただの見栄、外面、世間体。

俺を介して後ろにある価値、それにしか興味が無いのだ。

そんなことを直接言われたことは無い。

でも、言われなくても伝わってくる。

兄である秋人くんのように、母はそう言いたげな目をしていた。



……鬱陶しい



もう会話を終わらせたかった。

その思いが表に出てしまったのか、俺は話を強引に遮ろうとした。

己の気持ちに正直になってしまった。



でも、それがいけなかった。



「今日試合があって疲れてんだよ。部活の______」



あ……



俺は何も考えずに言葉を出してしまった。

疲労で頭が回っていなかったからか。

それでも、もう少し考えるべきだった。

言葉を発した瞬間、やってしまったと思った。



「部活、ね……」



母は俺の言葉を反芻し、野菜を刻んでいた包丁の手を止めた。

雰囲気が変わっていくのを肌で感じ取る。

視線を向けられ、俺は取り返しのつかない事をしたのだと後悔した。



「私言ったわよね? 大学進学が最優先だから部活を辞めて予備校に通いなさいって。部活に費やす時間が勿体無いから必要ないって、私何度も言ったわよね? それでも部活がやりたいって言うから条件付きで許したのに、その約束を破るの?」

「それは……」

「部活を続ける代わりに秋人の大学に受かるだけの成績を維持するって言ったのは誰? 悠馬なのよ? 今の成績を見ても同じことが言える?」

「……」



その通りだ。

最初に母が言っていた提言を無視して取り決めた条件、それを言い出したのは俺なんだ。

日中も学校で勉強、放課後も予備校で勉強、そんな切り詰めたような人生を送りたくなかったから。

そんな人生の縮図のような、息が詰まるような生き方をしたくなかった。

それは兄だから出来たんだ。

俺には出来ない。

だから、言い訳の捌け口に部活を使ったんだ。

無理やり放課後の時間を埋めてしまえば、俺はこの家の呪縛から逃れられる。

そう、思ったから、俺は条件を吞んだ。



「周りの受験生はもう一歩も二歩も先を行ってるのよ? それなのに勉強をしないって、あんた一体何を考えてるの?」



母の鬼気迫る表情。

昔はこんな顔されたことが無かったのに、ある時を境に母は変わってしまった。

でも昔の母の顔を思い出すことは出来ない。

もう既に、色濃く焼き付いたものに移し替えられてしまった。



……



身体は正直で、嫌にでも反応してしまう。

風呂から上がって時間が経っているはずなのに、額から何かが頬を伝う。

手で拭いたかったが、張り詰めた空気がそれを許さない。

指先まで強張ってしまったかのようにピクリとも動かない。

もう自分の意思など関係ない。

俺の言葉はもう母には届かなかった。







ーーー







結局、俺が解放されたのは随分後になってからだった。

普段からの勉強に対する姿勢から始まり、親への態度、敬いなど、段々と脱線して文句を言われてしまった。

なるべくそう言った話題にならないように注意していたから、母は募りに募っていたのだろう。

でも、よりによって今日爆発するとは思わなかった。

油断していた自分が悪いのだが、それでも、今日は駄目だ。



頬をタオルで拭きながら二階の部屋に向かう。

なるべく音を立てないように、ゆっくりと階段を上る。

音を立ててしまえば、あいつが気づいてしまう。

だから、ゆっくりと上がる。

そして、二階に着いたのを確認すると、俺は右手にある自分の部屋に身体を向けた。

もう少しで辿り着く、そう思った時、後ろから音がした。

結局、俺の僅かな努力は無意味になってしまった。



「おお、悠馬じゃん。お帰り」



無条件に開かれたドアの先から、今一番会いたくない人物が出て来る。



「……秋人くん」



その人物はスーツを纏い、ネクタイを結び直しながらこちらに向かって来た。



「母さんがうるさかったから目が覚めちゃったよ。まだ出るには早いけど、家にいて母さんにどやされ



カバンを整理しながら、兄は何かを探すように手を突っ込んでいた。

視線を落としていたので、その中身が垣間見える。

無数にある紙の束、ノートパソコン、手帳、分厚い辞書のようなもの……、小さいかばんにしては大量の持ち物だった。

それを眺めていると、ふと視線の先で輝きを放つ何かが落ちていた。

それを拾い上げ、兄に示す。



「探してるのって、これ?」

「あ! そうそう、それ!」



兄は俺の手のひらに置かれたものを見るとすぐに喜んだ。

それを受け取ると、自身に取り付けながら兄は声を出した。



「危なかったー。これがないと仕事が出来ないからさ。やっぱり悠馬は俺のことよ・く・見・て・る・な!」

「……別に」



兄は嬉しそうにしていた。

仕事道具が紛失したら、色々と問題になるからだろう。

でも、それとは別に、俺のした行動を好意的に受け取ったらしい。



……



でも、秋人くんは勘違いしている。



「そんな照れるなよ。今更言われてもって話だろ? ちゃんと分かってるから」



何も分かっていない.

俺がどんな思いで秋人くんを見ているのか。

あんたみたいに全てを持った人間には分からない。



「悠馬も俺みたいな弁護士になりたいって言ってたもんな。目標にされるのは恥ずかしいけど、お前が自慢出来るように俺頑張るから」



成績もトップクラスで、運動も出来て、周りには多くの人達がいて。

なのに、それに奢ることなく日夜勉学を惜しまずに努力して、自分の進む道を貫いた。

文武両才で、周りから信頼されて、認められて、そんな出世街道を歩んでいた秋人くんは誰から見ても天才だ。

そんな天才が近くにいる、それがどんなに苦しいのか、あんたには分からないんだ。



もういなくなってほしい。

俺の目の前から、視界から、頭から。

これ以上俺を縛らないでほしい。



「……もう時間だろ? 早くしないと遅刻するんじゃないの?」

「いや、まだ余裕があるけど……」

「秋人くんには悪いし、俺も部屋に戻るよ」

「え? ちょっと、どうしたんだよ?」



俺は強引に話を断り、部屋に戻った。

ドアノブを固く握り締め、心を落ち着かせる。

廊下から声が聞こえるが、次第にそれは消え、階段を降りていった。

その音が聞こえなくなるまで、俺は握り続けた。



……



静寂に包まれる。

それを認めると、俺は倒れ込むようにベッドに横たわった。

マットが波打つ。

俺はその心地良さに身を委ねた。



「はあ――……」



ようやく訪れた安寧の一時。

俺は噛み締めるように声を漏らした。

誰も返事する人はいない。

誰にも咎められない。

誰にも邪魔されない。

母にも、兄にも、誰にも。



……



どうしてこうなってしまったのか。

昔はこんなに居心地の悪い家ではなかった。

母も父もいつも笑っていたし、秋人くんとも仲が良かった。

秋人くんはいつも助けてくれた。

苛められている時も、困っている時も、秋人くんは有無を言わずに手を差し伸べてくれた。

それが嬉しかった。

高校受験の時も、自分の勉強があるのに色々と助けてくれた。

俺に勉強を教え、皆が寝静まった頃に一人自分の部屋で勉強をしている秋人くんを見た時、俺は秋人くんのことがもっと好きになった。

皆、自分の方が大切なのに、秋人くんは他人のために行動する。

他の人とは違う、自分のことを助けてくれる秋人くんは、まるでヒーローみたいだった。

だから、秋人くんが司法試験に受かった時、俺は誰よりも喜んだ。



弁護士は皆を助ける仕事なんだ______



そう言いながら笑みを溢す秋人くんはかっこよかった。

俺だけではない、皆を助ける姿はきっとこれまでよりも輝いて見えるだろう。

その姿を想像し、俺は目の前の人間を尊敬した。

俺もこの人みたいに、秋人くんみたいになりたい、本気でそう思った。



でも、そこから歯車が狂い始めた。

弁護士となった秋人くんは地域で有名となった。

元々、頭脳明晰で運動も出来る人だったから、近所からの評判も良かった。

そんな秋人くんが国家資格を取得したのだから、近所からの評判が上がるのは当然だろう。

外をぶらついていると秋人くんの名前が聞こえてくる、そんな日々が続いた。



そのせいで母がおかしくなった。

段々と外面を気にするようになり、俺に勉強を強いるようになった。

兄のように優れた人間になりなさい、そう言いながら俺を否定するようになった。



秋人のように、秋人のように、秋人のように____



そう繰り返される言葉に俺は辟易した。

秋人くんは確かにすごい。

秋人くんみたいになれたら自分をもっと好きになれるかもしれないと思った。

でも俺は秋人くんのように出来た人間じゃない。

勉強も運動も平凡、趣味のせいで友人を作るのも上手ではない。

そんな人間が秋人くんのようになれるとは思えなかった。

それでも母の期待は増していく。

秋人くんのような弁護士になりたい、漠然と感じていた俺の夢。

俺はその意味を穿き違えていた。

周囲の期待、視線、思い、それらを一身に背負って努力することは、俺の想像を絶する重圧を抱えることになるんだ。

期待に応えたい、家族に喜んでもらいたい、誰かを助けたい。

これは、意思が強い人間でなければ到底為すことの出来ないものだろう。

それに気がついた瞬間、俺は兄の偉大さを実感した。

俺みたいに誰かに助けられないと何も出来ないような人間には縁のない話だ。

俺には出来ない。



だから、俺は諦めた。

夢を捨て、兄とは別の道を進もうとした。

兄と同じ道を行けば、きっと今以上に兄との差を目の当たりにすると思ったから。

道を違えば、きっと誰にも非難されることは無いと思ったから。

諦めれば、きっと比べられる事は無いと思ったから______



「……」



結局、部屋の中にも安寧の場所は無いのだ。

逃げても逃げても、抱え込んだものは振り切れない。

家にいては、俺は縛られたままなんだ。



「……あと半年ってところか」



どの大学でも良い。

とにかく家を出る、それが叶えばもう何も言うことは無い。

大学に入って、一人暮らしをする。

一人自由な暮らしをして、趣味の合う友人を作って、目一杯遊んで人生を謳歌するんだ。

誰にも邪魔されない、最高じゃないか。

授業だって気ままに受けて、誰にも文句を言われる事がない環境。

長期休暇を使って長旅をするのも悪くない。

自動車免許を取って、東北をドライブする。

西の方に行って釣りを楽しむのもアリだ。

そのままゆったりとした学生生活を送って、そのまま就職すればいい。

やりたいことがあるわけじゃない。

でも、探せばきっと見つかるだろう、俺が求めていた仕事が。



……



でも、俺のしたいことって何だろう。

目的なんてない、目標だって存在しない。

やりたいことはたくさんあるはずなのに、俺には何もない。



考えた事すらなかった。

考えたって意味のないことだと思っていた。

今をどう生きるかなんて、そんなの俺には似合わない。

ただ目の前の出来事を享受して、流れに身を任せていれば、それで十分なんだ。

俺はそんな人間だから、それで良いんだ。

そう思っていたのに______



「……」



俺はカバンからあるものを取り出す。

ベッドで寝そべりながら、それを宙に掲げた。



「これ、あいつのだよな……」



猫のアクセサリー、あいつの趣味に合わないものだ。

年季の入ったデザインをしているが、表面は新品同然だった。

宙に掲げられたアクセサリーは、紐を通して回っている。

視界に揺れるそれは、俺は嘲るかのように自由に揺れ動いていた。



「夢を見ても良い、か」



祐介の言葉を呟く。



帰り道、あいつに言われた言葉。

今までと違う雰囲気で、そう告げられた。



中学生になった当時の俺はアニメや漫画が好きだからって理由で嫌がらせを受けていた。

小学生の時は同じ趣味を持った友人がいたけど、皆私立中学に進学し、同じ趣味を持った人間はいなくなっていた。

それでも中学生になれば、また新しい友人が出来るかもしれない、そう期待した。

だから、壇上で自己紹介をした時も、俺は隠さずに趣味を暴露した。

でも、そんな俺を待っていたのは猜疑の目だった。

皆が俺を異端だと位置付けて距離を取るようになった。

俺は訳が分からなかった。

人の趣味が理解出来ないからという理由で、俺が被害を被る環境に茫然とした。

次第にその動きは実効性を増し、エスカレートしていった。

助けてほしい、そう思った。

何も悪い事はしていなかったのに周りから疎まれる、そんな現実から抜け出したかった。



そんな時だ。

あいつが声をかけてくれたのは。



動けずにいた俺の元に駆け寄って、手を差し伸べてくれた。

苛めをしていたグループにはっきりとした口振りで言葉を発し、俺を解放してくれた。

ヒーローみたいだった。

それ以来俺達は一緒に行動するようになった。

同じ部活に入り、一緒に走って転んでボールを追いかけた。

正直運動に自信はなかったけど、自分が上手くなっていくのが楽しいと思えるようになった。

地域では弱い中学だったけど、初めて試合に勝った時の興奮は今でも覚えている。

自分の蹴ったボールがネットを揺らした瞬間、俺は世界の中心にいるような気分になった。

かけがえのない瞬間だった。

あの高揚感はもう二度と味わえないだろう。



中学に入って初めて出来た友人で、中学を卒業しても同じ高校に通って、そして今に至るまで、ずっと一緒にいたから互いの事はよく知っているつもりだった。

自分の趣味は祐介には合わなかったらしいが、それでも俺を疎むようなことはしなかった。

祐介の家庭事情だって、俺に言う必要が無かったのに言ってくれた。

信頼されている、そう思えた。



なのに、今日のあいつは俺の知っている祐介ではなかった。

いや、最近になって変わった。

俺と同じ人間だと思っていたのに、俺と同じく周囲に流される側にいたのに、あいつは変わってしまった。

まるで別人のようだった。



「ふざけんなよ……」



夢だの理想だのを掲げて、俺の前から消えていく。

叶いもしない理想に縋って、どうにもならない現実を思い知るんだ。

無駄な事に時間を割いて、後になって馬鹿な事をしたと後悔する。

初めからやらなければ良いのに、どうして無茶な方へ行ってしまうのか。

どうして夢を見てしまうのか。



「……ッ!」



手に持っていたアクセサリーを投げ捨てようとした。

このまま感情に任せて吐き捨ててしまいたかった。



……



でも投げる直前で気持ちを抑えた。

アクセサリーをカバンの中に戻す。

手持無沙汰になった両手を下ろし、俺はうずくまった。



「ちくしょう……!」



別れた後になって、何を思ったのか俺は振り返った。

誰もいるはずがない、そんなことは分かっていた。

でも、振り向かなければならないと思った。

その予感通り、祐介と別れた交差道には何かが落ちていた。

それを取りに戻ると、まだ視界の先に祐介がいた。

だから、落とし物を渡そうと近づいてしまった。

そして気づいてしまった。

祐介の本音。



「―――……!」



声にならない思いは言葉になる前に消えていく。

声に出さなくても良いのに、それでも続ける。

声にしなくとも頭の中で渦巻いているのに、それでも溢れ出る思いを吐き出さずにいられなかった。



母も、兄も、変わっていった。

祐介も変わっていく。

俺だけが取り残されている。

何が現実主義者だ。

何が賢く生きろだ。

変化を嫌って、今に取り残されている自分が正しい訳がない。

あんだけ現実を見ろだとか言っておいて、現実から逃げているのはどっちなんだ。

向き合うべきものに向き合わずに逃げてばっかりじゃないか。

見ないようにしていたから、俺は……





「助けて……くれよ……」



救いを求めても、もう誰も手を差し伸べてくれない。

目の前にいた人達はもういない。

その場に一人取り残される。

それでも俺は、縋るような思いでそう溢した。
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