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最終章 エピローグ編
第134話 カリオス=ド=アルマイトⅢ<愛>
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陽が落ちて、辺りがすっかり暗くなった頃になっても、その日やるべき仕事をあらかた片付けて一息ついていたカリオスは、昼間に鬱陶しい妹を厄介払いしたことをすっかり忘れていた。
王宮内にある、王族用の食堂――特別な用事がない限りは父・母・3人の子供達が揃って夕食を食べるのがいつものことだったが、あいにくと父・母はヘルベルト連合へ、長女のラミアも公務で王都を留守にしている。
久方ぶりの1人きりの食事――ではないはず。
『そうだ、リリライトは……』
いるべきはずのリリライトの姿を見ていない――そう思ったところで、カリオスが昼間のやり取りを思い出したのと、白薔薇騎士団長シンパが取り乱した様子で食堂に入ってきたのは、ほぼ同時だった。
普段は冗談など言わないしクスリとも笑わない堅物の女性騎士シンパは、今にも泣きそうな顔をしていた。
『な、なんだ。どうした?』
その今までに見たことがないシンパの表情に驚愕と不安を隠せないカリオス。
シンパはその絶望的な表情に似つかわしい、ほとんど泣き声に近い声で、カリオスに報告をする。
『申し訳ございませんっ! リリライト殿下の行方を見失ってしまいましたっ……』
□■□■
シンパを伴ったリリライトがへブリッジ薔薇園を訪れた時、園長はたいそう驚き、恐縮した様子で2人を出迎えた。
『ここここ、これは第2王女殿下にシンパ白薔薇騎士団長。このような片田舎の薔薇園にわざわざおこ、おここ……お越しいただけるとは……』
『今日は、白薔薇を探しにきました。兄様が大好きな白薔薇を。リリが兄様に頼まれたんですよ。えっへん』
生まれて初めて大好きな兄にお使いを頼まれたことが嬉しいのか、リリライトは腰に両手をあてて胸を張りながら、彼に宣言した。
『――は? 白薔薇……ですか。えぇと……』
そのリリライトの言葉に、園長が返答しようとしたところ、シンパが無言で視線だけでその言葉を制する。
『本日はリリライト殿下が、ご自身で探されますのでお構いなく』
『さ、左様でございますか』
園内に存在するはずのない白薔薇を、王女自身が探す?
園長はもう訳が分からなかったが、無言にも関わらず異様な威圧感を放ってくるシンパに何も言えなかった。
『よーし、頑張りますよ。兄様に喜んでもらうんですっ!』
ドレスの袖を腕まくりするような仕草をしてやる気に満ち溢れたリリライトは。その姿は、気品溢れる王女というよりは、どこにでもいるような兄想いの妹のように見える。そんなひたむきで純粋無垢なリリライトを姿を見ていると、園長は水を差すようなことは言えなかった。
そして、リリライトの奮闘が始まる。
『んんんっ……中々見つかりませんね。赤や青の薔薇はたくさんあるのに』
体力のないリリライトのこと、すぐに諦めるであろうというシンパの予想は呆気なく覆された。汗だくになりながら、純白のドレスを土に汚しながら、薔薇の他にも様々な花々で生い茂る草原を懸命に捜索するリリライト。
その表情にさすがに疲労は見えるものの、それ以上に嬉しさや楽しさが増しているようだ。
シンパはそこの第2王女の姿を見て辟易していた。
“戦士”の家系の姫だというのに、この姫は間違った方向に精を出している。同じ姫として、少しは姉のラミアを見習ってはどうだろうか。少しでも剣なり何なり、武芸を学ぶべきだ。
せっかく栄えある白薔薇騎士団の騎士団長になったはずのシンパは、最近はそれらしい任務をこなしていない。今回も本来ならばプリメータに付いてヘルベルト連合へ行きたかったが、そちらはルエールが護衛を担うということで、シンパは残ったリリライトのお守りを担うことになったのだ。
(――全く、どうしてこのような姫がアルマイトの家系に生まれたのか)
この時期は、後にリリライトの護衛騎士となるシンパも、彼女に対して良い思いを持ち寄せていなかった。
『王女殿下、そろそろお戻りになっては。兄殿下もご心配なされますよ』
『ん~、もう少し。兄様に喜んでもらいたいんです。兄様、兄様……』
へブリッジ薔薇園は、王都郊外の広大な土地を利用して営んでいる。広大なその敷地は、少なくとも10歳にも満たない少女では、1日で10分の1も見て回れないだろう。というか、そもそもこの薔薇園にリリライトが探し求める白薔薇など存在しない。カリオスがただ単に鬱陶しい妹を厄介払いするための口実にしただけだ。
もう半日以上も付き合わされているシンパは、いい加減うんざりしていた。
『――その頑張りを、もう少し武芸の方に向けてはいかがですか』
だから、思わず厳な口調でそういう言葉が出てしまった。
『むう。そういうことを言うシンパは嫌いです』
リリライトも、口うるさい騎士からそういうことを言われることは、実は普段からある。この頃から運動神経が壊滅的で、争いごとを好まないリリライトは、そういうことを耳にするたびに不機嫌になるのだ。
『いい加減にして下さい。貴女は聖アルマイト王国の第2王女、アルマイト家直系のご息女なのですよ。こんな花摘みなどで時間を浪費する暇があれば、少しでも兄君や姉君に近づくために、研鑽を重ねるべきです』
『やです! リリは戦うのが好きではありません! みんなが傷つくよりも、笑っている方が好きなんです!』
『――っ!』
なんという甘ったれた考えなのだろうか。これが、アルマイト家の次女たる態度であっていいのか。
決して、シンパが王家のことを、リリライトのことを軽く見ていることはない。むしろ彼女は聖アルマイト騎士の中でも、随一の忠誠心を持っている。
しかし、この時ばかりは、王妃の護衛騎士という本分を果たせず、カリオスに厄介払いを押し付けられて、リリライトのわがままに付き合わされるという、何重にも面白く無いことが重なってしまっていた。
ここまで面白く無いことが重なれば、シンパもやはり人間である、毒の1つも吐きたくなるのも当然だった。
『そんなことだから、兄君はリリライト殿下から好かれておられないのです』
最愛の兄を引き合いに出されて、リリライトはその碧眼を丸く見開いていた。
『――リリは……兄様のことが好きですよ?』
驚愕したように、ぼそりとつぶやくリリライト。まるでシンパから発せられた言葉が理解できないように--いや、実際に理解出来ないのだろう。脳内がお花畑のお姫様のことだ……兄に嫌われていることなど、露にも気づいていないに違いない。
そんなリリライトの態度が、シンパをより一層苛立たせる。
『残念ながら、カリオス殿下はリリライト殿下のことを嫌っておられます。愛されておられるのであれば、どうして可愛い妹を愛称で呼ばれないのでしょうか』
先ほどの王宮でのこと――リリと呼んで欲しいというのに、あくまでもリリライトと呼ぶカリオス――そんな小さなことをチクチク取り上げるシンパ。
但し、その毒を吐くシンパの胸もチクチクと痛んでいた。どうしてこんな陰険なことを言ってしまうのだろうか、と自己嫌悪しながらも、1度吐き出した毒は止まらなくなっていた。
『この薔薇園にも、白薔薇など存在するわけがありません。国内では子供も知っているような一般常識すら身に着けておられないリリライト殿下は、はっきり言って王宮内で嫌われ者です。だから、カリオス殿下も厄介払いをするために、貴女にこんな無意味な仕打ちをされたのです。無駄な時間を過ごしました……王宮へ戻りましょう』
『……らい』
シンパから怒涛のように毒の言葉を浴びせられて、リリライトはその小さな身体をフルフルと震わせていた。その残酷な言葉に、当然その美しい碧眼は涙に濡れている。
『そんなことを言うシンパは嫌いです! 嫌い、嫌い! 大嫌いです! 私は兄様に嫌われてなんていないです! そんなの嘘です! ここに白薔薇はあります! 兄様がそんな意地悪するわけありません! 絶対にあります! 兄様のために、ここで過ごした時間は……無駄なんかじゃありません!』
喉がはちきれんばかりに、リリライトは叫ぶ。ポロポロと涙を流しながら、懸命に訴えるように言う。
無邪気に信じていたものを木っ端みじんに破壊された姫――自らの言葉の刃で無残に心を引き裂かれたリリライトを見て、シンパはハッと我に返る。
――自分は、何ということを口走ってしまったのだろうか。
『もう、シンパはどこかに行って下さい! リリは白薔薇を見つけるまで、お城には帰りません! バカバカ! 大嫌いです! シンパの馬鹿! 嫌い、嫌いです! 兄様、兄様、兄様ぁぁぁぁ! うわぁぁぁぁんっ!』
今までは愛するカリオスが喜ぶ顔を思い浮かべながら、幸せいっぱいの顔で散策を続けていたリリライトが、怨嗟の声を出し、泣き叫びながら、とてとてと草原を駆けていく。
動きにくいドレスを着た年端もいかぬ少女の足。しかも運動神経も並み以下とくれば、簡単に追いつくことも出来たのだが、シンパはその場から一歩も動けなかった。
ーー取り返しのつかないことをしてしまった。
仕えるべき姫を無残に傷付けるなど、白薔薇騎士にあるまじき大罪だ。何をしているのだろう……激しい後悔と自己嫌悪に襲われるシンパだったが……
しかし、この時のシンパは騎士団長になったばかりでまだまだ精神的にも未熟。その己の罪を、理解は出来ても、認めることが出来ず、その原因を全て幼い姫に押し付けてしまう。
『少し、頭を冷やされるといいでしょう』
どうせ、空腹にでも耐えられなくなれば、すぐに戻ってくる。あの甘ったれた姫は少しくらい痛い目を見ないと分からないのだ。せいぜいありもしない白薔薇を探しているといい。
しかし、その後いくら待っても姿を現さないリリライト。
陽が落ち始めた頃に、ようやく頭が冷えたのはシンパの方だった。
リリライトから目を離したことを後悔しながら薔薇園を必死に捜索するシンパは、その途中に園内で、何かに食い散らかされたかのような無残な園職員の遺体を見つけて、戦慄したのだった。
□■□■
『リリライトは見つかったか?』
シンパの報を受けて、カリオスは王宮内ですぐに出撃できる1個小隊の龍牙騎士を引き連れてへブリッジ薔薇園へ訪れていた。辺りはすっかり夜の闇に包まれている。
カリオスの問いに、薔薇園の園長は首を横に振る。
『申し訳ありません、殿下。ここいらには戦える者もほぼおらず、捜索自体が思うように進んでおりません』
それも、仕方ないことだ。
シンパが発見した園職員の遺体に残された傷跡から、園内に入り込んだのは“魔獣”である可能性が濃厚だという。
かつてこの世界を恐怖に陥れた“魔王”が遺した遺物、人類の大敵――それが魔獣である。普通の野生動物よりも、何倍も獰猛で凶悪で危険な生き物である。
魔王討伐の際にそのほとんどが絶滅したが、それを逃れた僅かな生き残りが、たまにこうやって人里に降り立って危害を加えることは、珍しいものではあるが、馬車が人をひいてしまう程度の事故くらいには有り得るものだった。
そんな魔獣がいると知りながら、たかだが薔薇園を営む一平民に自らの命を犠牲にしてまでリリライトを助けることなど、カリオスから強要出来るはずがなかった。
『――まずいな。リリライトの行方が分からなくなってから、随分と時間が経っている』
広大な園内で、運よく魔獣と出くわすことなく迷子になっている可能性もないこともない……が、状況は明るくない。一刻も早く魔獣を討伐するか、リリライトの身柄を確保しなくてはいけない。
とはいっても、あまりに緊急だったためカリオスが連れて来ることが出来た龍牙騎士は20数人程度である。入り込んだ魔獣の大きさにもよるが、もしも大型魔獣が入り込んでいるのであれば、まともに戦うには心許ない。
すると優先すべきはリリライトの身柄確保である。
カリオスは、すぐに各個がばらばらに散開し、リリライトの捜索に当たることを決める。魔獣と出くわしたら全力で逃げるため、全員が騎馬でもって捜索に当たる。
『申し訳ありません、殿下。申し訳ありません……私が、私が悪いのです。この首を差し出しますので、どうかリリライト王女殿下をお救い下さい。申し訳ありませんっ……!』
捜索前に、シンパが絶望に涙を濡らして、何度も何度も謝りながら、カリオスに懇願するように言ってくる。そのあまりに悲壮な様子に、カリオスは大きく息を吐きながら
『滅多なことを言うな。これまでアルマイトに尽くしてくれたシンパのことはよく分かっているし、お前がリリライトにキツく当たった気持ちも分からなくはない。だから、そんなこと考えるよりも、さっさとリリライトを見つけて謝ってやってくれ』
かくして、へブリッジ薔薇園の大捜索が始まった。
□■□■
もしかすると、真っ先にカリオスがリリライトを見つけたこと。これは奇跡の一端だったのかもしれない。
『グルォアアアアアアアア!』
獰猛な獣の咆哮が聞こえて、カリオスは慌ててそちらへ馬を向ける。
『うわああああんっ! 兄様、助けて! 兄様、助けて下さい!』
カリオスが、魔獣と純白のドレスに身を包んだ妹を見つけたのはほぼ同時だった。逃げるリリライトとそれを追う魔獣が、カリオスの目の前に現れた。
ほぼ1日薔薇園を歩き回っていたリリライトは、懸命なのだろうが、もはや普通に歩くよりも遅い足取りだった。瞬く間に魔獣とリリライトとの距離は詰まり、その獰猛な牙が幼い姫の背中に迫るーー!
『どらぁぁぁぁぁっ!』
間一髪、カリオスが両者に間に割って入り、その牙を剣で受け止める。
しかし、いとも容易く剣はへし折られ、魔獣の牙はそのまま馬の頸部へ突き刺さり、カリオスが乗っていた馬は絶命して倒れる。咄嗟に馬から飛び降りるカリオスは、地面を転がるようにして体勢を整えると、リリライトを背後にかばうように移動しながら、魔獣と対峙する。
『兄様っ!』
すんでのところで現れた救世主に、リリライトは涙まみれになっていた顔を輝かせる。しかし、カリオスは絶望的な表情で目の前に君臨する魔獣を見上げていた。
『ブレードタイガーかよ。最悪だ』
黒い毛皮に覆われた虎のような四足歩行の獣――ただの虎と大きく違うのは、その巨躯と口から覗いている巨大な牙。
体躯は優に5メートルほどはあり、その牙は名前が示すように刃のように剣のように長く鋭く尖って、宵闇の中で鈍い輝きを放っている。
魔獣としては中型に分類されるが、この時のカリオスが1人で相対するには危険過ぎる魔獣だった。しかもブレードタイガーは、その巨躯に似合わずに俊敏であり、馬があったとしても逃げるのは難しいだろう。ましてや馬を失い、リリライトを連れてとなると……
--せめて、神器が使えれば。
何でもいい。どの神器でもいい。武器でも防具でもなんでもいい。アルマイトの血に許された力ーー神器の召喚さえ成れば、この程度の魔獣であればとうとでもなる。
そうして、神器を召喚するべく魔力を集中させるカリオス。
勿論、普段の訓練で一向に実現しないことが、今この窮地で都合よく出来るようになるはずがない。
いつもと変わらない、まるで魔力を空回ししたような空虚感にカリオスは絶望する。
『兄様っ……!」
背中に隠れギュッと捕まってくるリリライト。
神器が召喚出来なかろうと、剣が折られようと、妹を伴いこの魔獣から逃げきることは不可能だ。
(結局、最期までこの妹のお守りかよ)
ここまでさんざん迷惑を掛けられっぱなしだった妹に胸中で毒吐きながら、カリオスは覚悟を決める。
『兄様、ごめんなさいっ……!』
後ろで震える声でリリライトが言ってくる。突然、こんな魔獣に襲われたのだ。怖くて当然だろう。
『リリは、白薔薇を見つけられませんでしたっ……! 兄様にお願いされたことなのに、見つけることが出来ませんでしたっ! 兄様がリリを嫌いだって……そんなこと、嘘なのに……それなのに、リリは白薔薇を見つけられませんでした』
『お前……』
この期に及んでお門違いも良い所だ。
謝ることは、そんなことじゃないだろう。
何を言っているんだ、という苛立ちがカリオスの胸に――
――湧き上がって来ない。
『どうして……どうして、お前は……』
カリオスの胸がジンジンと痛む。
それは獰猛な魔獣を前にした恐怖すらも圧倒的に凌駕する程のもの。しかも容赦なく無慈悲にカリオスの胸を抉るように傷付けてくる。
――シンパの言っていたことは嘘じゃない。こんなところに白薔薇なんてない。俺はお前が嫌いで嫌いで仕方ないんだよ。だから目の前から消えて欲しくて、嘘を吐いたんだ。
それなのに、どうして、何故、お前が謝る。何がお前をそうさせる。
兄に嫌われ、護衛騎士に疎んじられ、その挙句に魔獣に襲われて……それでもなお、兄を信じて愛することが出来るのはなぜだ。
カリオスは、数年前と全く同じことを思う。
それは、もはや愚かさではなく強さだ。
そのひたむきな愛が、強さが、カリオスの胸を掻きむしるのだ。
少年時代にカリオスがリリライトに抱いていた嫌悪は、苛立ちは、間違いなく本物だ。妹を激しく嫌い、憎んでいた――しかし、それが今もそうならば、どうしてこんなにも胸が痛むのだ。苦しいのだ。泣きたくなるのだ。
『俺は……お前が嫌いで……仕方なくて』
『兄様……?』
一気に目の前の魔獣のことなど、どうでもよくなってしまった。
一瞬でも気を抜けば、途端に命を奪われる程の脅威である魔獣。
そんなことよりも重要なことが、今のカリオスにはある。
――実は、カリオスは気づいていた。
リリライトは強い。カリオスがこれまで接してきた人間の中でも随一の強さを持っている。
どれだけ嫌悪や憎しみを向けられても、それでもひたむきに人を愛せることが出来る人間がどれだけいるだろうか。その純白な想いは、賞賛されるべき気高く崇高な想いなのだ。
『俺は信じられなかった。だから、誰かに愛されていると確かめたくて……俺は、お前を……リリライトを嫌うふりをして――』
弱かったカリオスは、自分が愛されていると確かめたいために、何度も何度もリリライトを突き放した。それでも『兄様、兄様』と慕ってくるリリライトを見ることで、安心が出来ていた。少なくとも、妹には愛されていると感じることが出来て安心できたから。
カリオスは、そんな最低な方法でしか愛を感じられない最低な自分を認めたくなくて、「愚かな妹が嫌い」と、嘘で塗り固めてしまっていて。
それでも、いくら突き放しても、リリライトはいつもカリオスを慕っていた。その真っ直ぐな愛を向け続けたのだ。
その強い真っ直ぐな思いは、兄の歪んだ想いを変えた。
リリライトがその真っ直ぐで純粋な愛をカリオスへ注ぎ続けることで、いつの間にかカリオスもまたリリライトを愛するようになったのだ。
憎悪そのものを、そのまままとめて全部愛へと変えたのだ。驚愕すべき程の強さだ。それは父ヴィジオールや師ルエールはもちろん、ひょっとしたら母プリメータすらも及ばない強さかもしれない。
足りなかったのは、ただひたすらにカリオスの「強さ」。それだけだったのだ
何もなしに妹に愛されていることを信じられず、自分が最低な人間だと認めることが出来ず、カリオス派リリライトの強さに甘んじていただけだ。
本当は、もうとっくに妹のことを愛していたのに。
あの暑い夏の日、カリオスが訓練でへばっている所に、転んで、それでも泣くのを必死に堪えながら水を持ってくるようになった日から。ーーいいや、あの夜に、1人では恐ろ過ぎる深夜の王宮の廊下を、ありったけの勇気で乗り越えて、カリオスと仲直りをするために部屋までやってきた時から。
ずっと、ずっと、カリオスはリリライトのことを愛していたのだ。
『一番愚かなのは俺だ。最低の兄貴だ。首を差し出すべきは、俺だ』
己への呪詛を口にするカリオス。
リリライトに対して許さざれる行為を続けてきたのは、他でもない自分自身だ。そんな傲慢すぎる自分に、それでもリリライトはその強さで、愛を注ぎ続けてくれた。
ーーそして、カリオスはその愛に救われた。
『グルォアアアアアアアア!』
それまでまるで時が止まっていたかのような錯覚――それを打ち砕いたのは、ブレードタイガーの咆哮だった。
もう今すぐにでも襲い掛かってくるだろう。その牙を向けられれば、カリオスとリリライトの身体はまとめて串刺しだ。
しかし、カリオスの背中に隠れるリリライトに恐れはない。兄を信じているから。愛する兄は自分を助けてくれる「強さ」を持っていると信じているから。
だから、応援のつもりで、背中からありったけの想いを込めて叫ぶ。
『兄様っ! 大好きですっ!』
ところで、ルエール曰く、カリオスが神器を召喚出来ない理由は唯一つーー「強さ」が足りないと断じていた。
その足りない「強さ」は、たった今手に入れた。
と、いうことは--
『くたばりやがれっ!』
折れた剣を投げ捨てたカリオスの手に眩い光が集まる。
宵闇の中で、網膜を焼く程に強烈な光は、やがて1つの武器を形作っていき。
ブレードタイガーの牙と、カリオスが手に持った光が激突し、交差する。
共に動かなくなる、1人の人間と魔獣の巨躯。
宵闇の中、不自然な静けさが辺りを覆う。
リリライトは眼を背けずに、それを真っ直ぐと見据えていた。強い力がこもったその碧眼で。
カリオスが手にした神器『神槍グングニル』が、ブレードタイガーの牙をへし折り、そのまま魔獣の頭部を串刺しにしたのを。
そして、ブレードタイガーは断末魔すら上げられずに、大きな地響きと共にその巨躯を地面に横たわらせて、動かなくなる。
『はあっ……はあっ……ぜえ、ぜえ……』
アルマイト家に生まれた戦士として課せられた使命の1つ――カリオスは、今それを果たした。
これまで何度試しても決して出来なかった神器召喚――やはりカリオスに足りなかったのは「強さ」
リリライトの愛が、神器を扱うに足る強さをカリオスに与えた。
リリライトの愛が、カリオスを強くしたのだ。
しかし、今のカリオスには、長年に渡り悩まされていた重圧からの解放感や、困難を成し得た達成感より、何よりも--
『に、兄様っ! 兄様、兄様ぁっ! 兄様ぁぁぁっ!』
生まれて初めての神器召喚に、根こそぎ体力を持っていかれたカリオスは、召喚したばかりの神器を杖にしながら、やっとのことで耐えていた。そこにリリライトがその小さな体をぶつけてくるように飛びついてきて、抱き着いてくる。
よろめきながら、その小さくて暖かい身体を受け止めるカリオス。
妹に抱き着かれることが嬉しい――ようやく、素直にそう思える。それはカリオスが強くなったことの、何よりの証拠だ。
『兄様はやっぱりリリの兄様です。大好きですっ! 兄様ぁっ!』
抱き着いてくるリリライト。その背中に腕を回し、カリオスもまた愛する妹の身体を優しく抱きしめる。
『俺も、大好きだ。――リリ』
『に……兄様っ……?』
生まれて初めてだった――カリオスがリリライトへの愛を口にしたのは。
でも、これからは何度でも口にしよう。
もう大丈夫。妹に教えてもらった。自分は妹に愛されていると、皆に愛されていることを、妹の強さに教えてもらった。
だからその分、今度は兄として返してやらなければいけない。リリライトに愛されるよりも何倍もリリライトを愛してやり、強くしてやる。
兄として、妹なんかに負けられないからな。
『あ……ああぁ……リリは……リリは嬉しくてどうにかなりそうです』
兄が愛称で呼んでくれた。愛を口にしてくれた。
瞳から溢れる涙ーーそれは既に恐怖から喜びに変わっている。リリライトが歓喜に震えていると、カリオスがリリライトの金髪をくしゃくしゃにするようにして頭を撫でる。
『ばーか、嬉しくてどうにかなりそうなのは、こっちの方だ。ありがとうな、リリ』
遠くから、今の騒ぎを聞きつけた龍牙騎士達が集結してくる気配がする。どうもシンパもいるようだった。
しかし、それには構わず、カリオスはこれまでにリリライトに向けたことのないような――本来ならばそうするべき、そうしなくてはならなかった笑顔を向ける。
『愛ってのは、こんなに人を強く幸せにするんだな』
信じて愛し続けることこそが本当の強さ。そしてその強さは愛する人を強くする。
その汚れなき純白な想いを貫き通したリリライトは、清廉で気高く強かった。だからそんな妹に負けないよう、カリオスもこの日から強くあろうと――人を信じて愛し続けることを誓うのだった。
王宮内にある、王族用の食堂――特別な用事がない限りは父・母・3人の子供達が揃って夕食を食べるのがいつものことだったが、あいにくと父・母はヘルベルト連合へ、長女のラミアも公務で王都を留守にしている。
久方ぶりの1人きりの食事――ではないはず。
『そうだ、リリライトは……』
いるべきはずのリリライトの姿を見ていない――そう思ったところで、カリオスが昼間のやり取りを思い出したのと、白薔薇騎士団長シンパが取り乱した様子で食堂に入ってきたのは、ほぼ同時だった。
普段は冗談など言わないしクスリとも笑わない堅物の女性騎士シンパは、今にも泣きそうな顔をしていた。
『な、なんだ。どうした?』
その今までに見たことがないシンパの表情に驚愕と不安を隠せないカリオス。
シンパはその絶望的な表情に似つかわしい、ほとんど泣き声に近い声で、カリオスに報告をする。
『申し訳ございませんっ! リリライト殿下の行方を見失ってしまいましたっ……』
□■□■
シンパを伴ったリリライトがへブリッジ薔薇園を訪れた時、園長はたいそう驚き、恐縮した様子で2人を出迎えた。
『ここここ、これは第2王女殿下にシンパ白薔薇騎士団長。このような片田舎の薔薇園にわざわざおこ、おここ……お越しいただけるとは……』
『今日は、白薔薇を探しにきました。兄様が大好きな白薔薇を。リリが兄様に頼まれたんですよ。えっへん』
生まれて初めて大好きな兄にお使いを頼まれたことが嬉しいのか、リリライトは腰に両手をあてて胸を張りながら、彼に宣言した。
『――は? 白薔薇……ですか。えぇと……』
そのリリライトの言葉に、園長が返答しようとしたところ、シンパが無言で視線だけでその言葉を制する。
『本日はリリライト殿下が、ご自身で探されますのでお構いなく』
『さ、左様でございますか』
園内に存在するはずのない白薔薇を、王女自身が探す?
園長はもう訳が分からなかったが、無言にも関わらず異様な威圧感を放ってくるシンパに何も言えなかった。
『よーし、頑張りますよ。兄様に喜んでもらうんですっ!』
ドレスの袖を腕まくりするような仕草をしてやる気に満ち溢れたリリライトは。その姿は、気品溢れる王女というよりは、どこにでもいるような兄想いの妹のように見える。そんなひたむきで純粋無垢なリリライトを姿を見ていると、園長は水を差すようなことは言えなかった。
そして、リリライトの奮闘が始まる。
『んんんっ……中々見つかりませんね。赤や青の薔薇はたくさんあるのに』
体力のないリリライトのこと、すぐに諦めるであろうというシンパの予想は呆気なく覆された。汗だくになりながら、純白のドレスを土に汚しながら、薔薇の他にも様々な花々で生い茂る草原を懸命に捜索するリリライト。
その表情にさすがに疲労は見えるものの、それ以上に嬉しさや楽しさが増しているようだ。
シンパはそこの第2王女の姿を見て辟易していた。
“戦士”の家系の姫だというのに、この姫は間違った方向に精を出している。同じ姫として、少しは姉のラミアを見習ってはどうだろうか。少しでも剣なり何なり、武芸を学ぶべきだ。
せっかく栄えある白薔薇騎士団の騎士団長になったはずのシンパは、最近はそれらしい任務をこなしていない。今回も本来ならばプリメータに付いてヘルベルト連合へ行きたかったが、そちらはルエールが護衛を担うということで、シンパは残ったリリライトのお守りを担うことになったのだ。
(――全く、どうしてこのような姫がアルマイトの家系に生まれたのか)
この時期は、後にリリライトの護衛騎士となるシンパも、彼女に対して良い思いを持ち寄せていなかった。
『王女殿下、そろそろお戻りになっては。兄殿下もご心配なされますよ』
『ん~、もう少し。兄様に喜んでもらいたいんです。兄様、兄様……』
へブリッジ薔薇園は、王都郊外の広大な土地を利用して営んでいる。広大なその敷地は、少なくとも10歳にも満たない少女では、1日で10分の1も見て回れないだろう。というか、そもそもこの薔薇園にリリライトが探し求める白薔薇など存在しない。カリオスがただ単に鬱陶しい妹を厄介払いするための口実にしただけだ。
もう半日以上も付き合わされているシンパは、いい加減うんざりしていた。
『――その頑張りを、もう少し武芸の方に向けてはいかがですか』
だから、思わず厳な口調でそういう言葉が出てしまった。
『むう。そういうことを言うシンパは嫌いです』
リリライトも、口うるさい騎士からそういうことを言われることは、実は普段からある。この頃から運動神経が壊滅的で、争いごとを好まないリリライトは、そういうことを耳にするたびに不機嫌になるのだ。
『いい加減にして下さい。貴女は聖アルマイト王国の第2王女、アルマイト家直系のご息女なのですよ。こんな花摘みなどで時間を浪費する暇があれば、少しでも兄君や姉君に近づくために、研鑽を重ねるべきです』
『やです! リリは戦うのが好きではありません! みんなが傷つくよりも、笑っている方が好きなんです!』
『――っ!』
なんという甘ったれた考えなのだろうか。これが、アルマイト家の次女たる態度であっていいのか。
決して、シンパが王家のことを、リリライトのことを軽く見ていることはない。むしろ彼女は聖アルマイト騎士の中でも、随一の忠誠心を持っている。
しかし、この時ばかりは、王妃の護衛騎士という本分を果たせず、カリオスに厄介払いを押し付けられて、リリライトのわがままに付き合わされるという、何重にも面白く無いことが重なってしまっていた。
ここまで面白く無いことが重なれば、シンパもやはり人間である、毒の1つも吐きたくなるのも当然だった。
『そんなことだから、兄君はリリライト殿下から好かれておられないのです』
最愛の兄を引き合いに出されて、リリライトはその碧眼を丸く見開いていた。
『――リリは……兄様のことが好きですよ?』
驚愕したように、ぼそりとつぶやくリリライト。まるでシンパから発せられた言葉が理解できないように--いや、実際に理解出来ないのだろう。脳内がお花畑のお姫様のことだ……兄に嫌われていることなど、露にも気づいていないに違いない。
そんなリリライトの態度が、シンパをより一層苛立たせる。
『残念ながら、カリオス殿下はリリライト殿下のことを嫌っておられます。愛されておられるのであれば、どうして可愛い妹を愛称で呼ばれないのでしょうか』
先ほどの王宮でのこと――リリと呼んで欲しいというのに、あくまでもリリライトと呼ぶカリオス――そんな小さなことをチクチク取り上げるシンパ。
但し、その毒を吐くシンパの胸もチクチクと痛んでいた。どうしてこんな陰険なことを言ってしまうのだろうか、と自己嫌悪しながらも、1度吐き出した毒は止まらなくなっていた。
『この薔薇園にも、白薔薇など存在するわけがありません。国内では子供も知っているような一般常識すら身に着けておられないリリライト殿下は、はっきり言って王宮内で嫌われ者です。だから、カリオス殿下も厄介払いをするために、貴女にこんな無意味な仕打ちをされたのです。無駄な時間を過ごしました……王宮へ戻りましょう』
『……らい』
シンパから怒涛のように毒の言葉を浴びせられて、リリライトはその小さな身体をフルフルと震わせていた。その残酷な言葉に、当然その美しい碧眼は涙に濡れている。
『そんなことを言うシンパは嫌いです! 嫌い、嫌い! 大嫌いです! 私は兄様に嫌われてなんていないです! そんなの嘘です! ここに白薔薇はあります! 兄様がそんな意地悪するわけありません! 絶対にあります! 兄様のために、ここで過ごした時間は……無駄なんかじゃありません!』
喉がはちきれんばかりに、リリライトは叫ぶ。ポロポロと涙を流しながら、懸命に訴えるように言う。
無邪気に信じていたものを木っ端みじんに破壊された姫――自らの言葉の刃で無残に心を引き裂かれたリリライトを見て、シンパはハッと我に返る。
――自分は、何ということを口走ってしまったのだろうか。
『もう、シンパはどこかに行って下さい! リリは白薔薇を見つけるまで、お城には帰りません! バカバカ! 大嫌いです! シンパの馬鹿! 嫌い、嫌いです! 兄様、兄様、兄様ぁぁぁぁ! うわぁぁぁぁんっ!』
今までは愛するカリオスが喜ぶ顔を思い浮かべながら、幸せいっぱいの顔で散策を続けていたリリライトが、怨嗟の声を出し、泣き叫びながら、とてとてと草原を駆けていく。
動きにくいドレスを着た年端もいかぬ少女の足。しかも運動神経も並み以下とくれば、簡単に追いつくことも出来たのだが、シンパはその場から一歩も動けなかった。
ーー取り返しのつかないことをしてしまった。
仕えるべき姫を無残に傷付けるなど、白薔薇騎士にあるまじき大罪だ。何をしているのだろう……激しい後悔と自己嫌悪に襲われるシンパだったが……
しかし、この時のシンパは騎士団長になったばかりでまだまだ精神的にも未熟。その己の罪を、理解は出来ても、認めることが出来ず、その原因を全て幼い姫に押し付けてしまう。
『少し、頭を冷やされるといいでしょう』
どうせ、空腹にでも耐えられなくなれば、すぐに戻ってくる。あの甘ったれた姫は少しくらい痛い目を見ないと分からないのだ。せいぜいありもしない白薔薇を探しているといい。
しかし、その後いくら待っても姿を現さないリリライト。
陽が落ち始めた頃に、ようやく頭が冷えたのはシンパの方だった。
リリライトから目を離したことを後悔しながら薔薇園を必死に捜索するシンパは、その途中に園内で、何かに食い散らかされたかのような無残な園職員の遺体を見つけて、戦慄したのだった。
□■□■
『リリライトは見つかったか?』
シンパの報を受けて、カリオスは王宮内ですぐに出撃できる1個小隊の龍牙騎士を引き連れてへブリッジ薔薇園へ訪れていた。辺りはすっかり夜の闇に包まれている。
カリオスの問いに、薔薇園の園長は首を横に振る。
『申し訳ありません、殿下。ここいらには戦える者もほぼおらず、捜索自体が思うように進んでおりません』
それも、仕方ないことだ。
シンパが発見した園職員の遺体に残された傷跡から、園内に入り込んだのは“魔獣”である可能性が濃厚だという。
かつてこの世界を恐怖に陥れた“魔王”が遺した遺物、人類の大敵――それが魔獣である。普通の野生動物よりも、何倍も獰猛で凶悪で危険な生き物である。
魔王討伐の際にそのほとんどが絶滅したが、それを逃れた僅かな生き残りが、たまにこうやって人里に降り立って危害を加えることは、珍しいものではあるが、馬車が人をひいてしまう程度の事故くらいには有り得るものだった。
そんな魔獣がいると知りながら、たかだが薔薇園を営む一平民に自らの命を犠牲にしてまでリリライトを助けることなど、カリオスから強要出来るはずがなかった。
『――まずいな。リリライトの行方が分からなくなってから、随分と時間が経っている』
広大な園内で、運よく魔獣と出くわすことなく迷子になっている可能性もないこともない……が、状況は明るくない。一刻も早く魔獣を討伐するか、リリライトの身柄を確保しなくてはいけない。
とはいっても、あまりに緊急だったためカリオスが連れて来ることが出来た龍牙騎士は20数人程度である。入り込んだ魔獣の大きさにもよるが、もしも大型魔獣が入り込んでいるのであれば、まともに戦うには心許ない。
すると優先すべきはリリライトの身柄確保である。
カリオスは、すぐに各個がばらばらに散開し、リリライトの捜索に当たることを決める。魔獣と出くわしたら全力で逃げるため、全員が騎馬でもって捜索に当たる。
『申し訳ありません、殿下。申し訳ありません……私が、私が悪いのです。この首を差し出しますので、どうかリリライト王女殿下をお救い下さい。申し訳ありませんっ……!』
捜索前に、シンパが絶望に涙を濡らして、何度も何度も謝りながら、カリオスに懇願するように言ってくる。そのあまりに悲壮な様子に、カリオスは大きく息を吐きながら
『滅多なことを言うな。これまでアルマイトに尽くしてくれたシンパのことはよく分かっているし、お前がリリライトにキツく当たった気持ちも分からなくはない。だから、そんなこと考えるよりも、さっさとリリライトを見つけて謝ってやってくれ』
かくして、へブリッジ薔薇園の大捜索が始まった。
□■□■
もしかすると、真っ先にカリオスがリリライトを見つけたこと。これは奇跡の一端だったのかもしれない。
『グルォアアアアアアアア!』
獰猛な獣の咆哮が聞こえて、カリオスは慌ててそちらへ馬を向ける。
『うわああああんっ! 兄様、助けて! 兄様、助けて下さい!』
カリオスが、魔獣と純白のドレスに身を包んだ妹を見つけたのはほぼ同時だった。逃げるリリライトとそれを追う魔獣が、カリオスの目の前に現れた。
ほぼ1日薔薇園を歩き回っていたリリライトは、懸命なのだろうが、もはや普通に歩くよりも遅い足取りだった。瞬く間に魔獣とリリライトとの距離は詰まり、その獰猛な牙が幼い姫の背中に迫るーー!
『どらぁぁぁぁぁっ!』
間一髪、カリオスが両者に間に割って入り、その牙を剣で受け止める。
しかし、いとも容易く剣はへし折られ、魔獣の牙はそのまま馬の頸部へ突き刺さり、カリオスが乗っていた馬は絶命して倒れる。咄嗟に馬から飛び降りるカリオスは、地面を転がるようにして体勢を整えると、リリライトを背後にかばうように移動しながら、魔獣と対峙する。
『兄様っ!』
すんでのところで現れた救世主に、リリライトは涙まみれになっていた顔を輝かせる。しかし、カリオスは絶望的な表情で目の前に君臨する魔獣を見上げていた。
『ブレードタイガーかよ。最悪だ』
黒い毛皮に覆われた虎のような四足歩行の獣――ただの虎と大きく違うのは、その巨躯と口から覗いている巨大な牙。
体躯は優に5メートルほどはあり、その牙は名前が示すように刃のように剣のように長く鋭く尖って、宵闇の中で鈍い輝きを放っている。
魔獣としては中型に分類されるが、この時のカリオスが1人で相対するには危険過ぎる魔獣だった。しかもブレードタイガーは、その巨躯に似合わずに俊敏であり、馬があったとしても逃げるのは難しいだろう。ましてや馬を失い、リリライトを連れてとなると……
--せめて、神器が使えれば。
何でもいい。どの神器でもいい。武器でも防具でもなんでもいい。アルマイトの血に許された力ーー神器の召喚さえ成れば、この程度の魔獣であればとうとでもなる。
そうして、神器を召喚するべく魔力を集中させるカリオス。
勿論、普段の訓練で一向に実現しないことが、今この窮地で都合よく出来るようになるはずがない。
いつもと変わらない、まるで魔力を空回ししたような空虚感にカリオスは絶望する。
『兄様っ……!」
背中に隠れギュッと捕まってくるリリライト。
神器が召喚出来なかろうと、剣が折られようと、妹を伴いこの魔獣から逃げきることは不可能だ。
(結局、最期までこの妹のお守りかよ)
ここまでさんざん迷惑を掛けられっぱなしだった妹に胸中で毒吐きながら、カリオスは覚悟を決める。
『兄様、ごめんなさいっ……!』
後ろで震える声でリリライトが言ってくる。突然、こんな魔獣に襲われたのだ。怖くて当然だろう。
『リリは、白薔薇を見つけられませんでしたっ……! 兄様にお願いされたことなのに、見つけることが出来ませんでしたっ! 兄様がリリを嫌いだって……そんなこと、嘘なのに……それなのに、リリは白薔薇を見つけられませんでした』
『お前……』
この期に及んでお門違いも良い所だ。
謝ることは、そんなことじゃないだろう。
何を言っているんだ、という苛立ちがカリオスの胸に――
――湧き上がって来ない。
『どうして……どうして、お前は……』
カリオスの胸がジンジンと痛む。
それは獰猛な魔獣を前にした恐怖すらも圧倒的に凌駕する程のもの。しかも容赦なく無慈悲にカリオスの胸を抉るように傷付けてくる。
――シンパの言っていたことは嘘じゃない。こんなところに白薔薇なんてない。俺はお前が嫌いで嫌いで仕方ないんだよ。だから目の前から消えて欲しくて、嘘を吐いたんだ。
それなのに、どうして、何故、お前が謝る。何がお前をそうさせる。
兄に嫌われ、護衛騎士に疎んじられ、その挙句に魔獣に襲われて……それでもなお、兄を信じて愛することが出来るのはなぜだ。
カリオスは、数年前と全く同じことを思う。
それは、もはや愚かさではなく強さだ。
そのひたむきな愛が、強さが、カリオスの胸を掻きむしるのだ。
少年時代にカリオスがリリライトに抱いていた嫌悪は、苛立ちは、間違いなく本物だ。妹を激しく嫌い、憎んでいた――しかし、それが今もそうならば、どうしてこんなにも胸が痛むのだ。苦しいのだ。泣きたくなるのだ。
『俺は……お前が嫌いで……仕方なくて』
『兄様……?』
一気に目の前の魔獣のことなど、どうでもよくなってしまった。
一瞬でも気を抜けば、途端に命を奪われる程の脅威である魔獣。
そんなことよりも重要なことが、今のカリオスにはある。
――実は、カリオスは気づいていた。
リリライトは強い。カリオスがこれまで接してきた人間の中でも随一の強さを持っている。
どれだけ嫌悪や憎しみを向けられても、それでもひたむきに人を愛せることが出来る人間がどれだけいるだろうか。その純白な想いは、賞賛されるべき気高く崇高な想いなのだ。
『俺は信じられなかった。だから、誰かに愛されていると確かめたくて……俺は、お前を……リリライトを嫌うふりをして――』
弱かったカリオスは、自分が愛されていると確かめたいために、何度も何度もリリライトを突き放した。それでも『兄様、兄様』と慕ってくるリリライトを見ることで、安心が出来ていた。少なくとも、妹には愛されていると感じることが出来て安心できたから。
カリオスは、そんな最低な方法でしか愛を感じられない最低な自分を認めたくなくて、「愚かな妹が嫌い」と、嘘で塗り固めてしまっていて。
それでも、いくら突き放しても、リリライトはいつもカリオスを慕っていた。その真っ直ぐな愛を向け続けたのだ。
その強い真っ直ぐな思いは、兄の歪んだ想いを変えた。
リリライトがその真っ直ぐで純粋な愛をカリオスへ注ぎ続けることで、いつの間にかカリオスもまたリリライトを愛するようになったのだ。
憎悪そのものを、そのまままとめて全部愛へと変えたのだ。驚愕すべき程の強さだ。それは父ヴィジオールや師ルエールはもちろん、ひょっとしたら母プリメータすらも及ばない強さかもしれない。
足りなかったのは、ただひたすらにカリオスの「強さ」。それだけだったのだ
何もなしに妹に愛されていることを信じられず、自分が最低な人間だと認めることが出来ず、カリオス派リリライトの強さに甘んじていただけだ。
本当は、もうとっくに妹のことを愛していたのに。
あの暑い夏の日、カリオスが訓練でへばっている所に、転んで、それでも泣くのを必死に堪えながら水を持ってくるようになった日から。ーーいいや、あの夜に、1人では恐ろ過ぎる深夜の王宮の廊下を、ありったけの勇気で乗り越えて、カリオスと仲直りをするために部屋までやってきた時から。
ずっと、ずっと、カリオスはリリライトのことを愛していたのだ。
『一番愚かなのは俺だ。最低の兄貴だ。首を差し出すべきは、俺だ』
己への呪詛を口にするカリオス。
リリライトに対して許さざれる行為を続けてきたのは、他でもない自分自身だ。そんな傲慢すぎる自分に、それでもリリライトはその強さで、愛を注ぎ続けてくれた。
ーーそして、カリオスはその愛に救われた。
『グルォアアアアアアアア!』
それまでまるで時が止まっていたかのような錯覚――それを打ち砕いたのは、ブレードタイガーの咆哮だった。
もう今すぐにでも襲い掛かってくるだろう。その牙を向けられれば、カリオスとリリライトの身体はまとめて串刺しだ。
しかし、カリオスの背中に隠れるリリライトに恐れはない。兄を信じているから。愛する兄は自分を助けてくれる「強さ」を持っていると信じているから。
だから、応援のつもりで、背中からありったけの想いを込めて叫ぶ。
『兄様っ! 大好きですっ!』
ところで、ルエール曰く、カリオスが神器を召喚出来ない理由は唯一つーー「強さ」が足りないと断じていた。
その足りない「強さ」は、たった今手に入れた。
と、いうことは--
『くたばりやがれっ!』
折れた剣を投げ捨てたカリオスの手に眩い光が集まる。
宵闇の中で、網膜を焼く程に強烈な光は、やがて1つの武器を形作っていき。
ブレードタイガーの牙と、カリオスが手に持った光が激突し、交差する。
共に動かなくなる、1人の人間と魔獣の巨躯。
宵闇の中、不自然な静けさが辺りを覆う。
リリライトは眼を背けずに、それを真っ直ぐと見据えていた。強い力がこもったその碧眼で。
カリオスが手にした神器『神槍グングニル』が、ブレードタイガーの牙をへし折り、そのまま魔獣の頭部を串刺しにしたのを。
そして、ブレードタイガーは断末魔すら上げられずに、大きな地響きと共にその巨躯を地面に横たわらせて、動かなくなる。
『はあっ……はあっ……ぜえ、ぜえ……』
アルマイト家に生まれた戦士として課せられた使命の1つ――カリオスは、今それを果たした。
これまで何度試しても決して出来なかった神器召喚――やはりカリオスに足りなかったのは「強さ」
リリライトの愛が、神器を扱うに足る強さをカリオスに与えた。
リリライトの愛が、カリオスを強くしたのだ。
しかし、今のカリオスには、長年に渡り悩まされていた重圧からの解放感や、困難を成し得た達成感より、何よりも--
『に、兄様っ! 兄様、兄様ぁっ! 兄様ぁぁぁっ!』
生まれて初めての神器召喚に、根こそぎ体力を持っていかれたカリオスは、召喚したばかりの神器を杖にしながら、やっとのことで耐えていた。そこにリリライトがその小さな体をぶつけてくるように飛びついてきて、抱き着いてくる。
よろめきながら、その小さくて暖かい身体を受け止めるカリオス。
妹に抱き着かれることが嬉しい――ようやく、素直にそう思える。それはカリオスが強くなったことの、何よりの証拠だ。
『兄様はやっぱりリリの兄様です。大好きですっ! 兄様ぁっ!』
抱き着いてくるリリライト。その背中に腕を回し、カリオスもまた愛する妹の身体を優しく抱きしめる。
『俺も、大好きだ。――リリ』
『に……兄様っ……?』
生まれて初めてだった――カリオスがリリライトへの愛を口にしたのは。
でも、これからは何度でも口にしよう。
もう大丈夫。妹に教えてもらった。自分は妹に愛されていると、皆に愛されていることを、妹の強さに教えてもらった。
だからその分、今度は兄として返してやらなければいけない。リリライトに愛されるよりも何倍もリリライトを愛してやり、強くしてやる。
兄として、妹なんかに負けられないからな。
『あ……ああぁ……リリは……リリは嬉しくてどうにかなりそうです』
兄が愛称で呼んでくれた。愛を口にしてくれた。
瞳から溢れる涙ーーそれは既に恐怖から喜びに変わっている。リリライトが歓喜に震えていると、カリオスがリリライトの金髪をくしゃくしゃにするようにして頭を撫でる。
『ばーか、嬉しくてどうにかなりそうなのは、こっちの方だ。ありがとうな、リリ』
遠くから、今の騒ぎを聞きつけた龍牙騎士達が集結してくる気配がする。どうもシンパもいるようだった。
しかし、それには構わず、カリオスはこれまでにリリライトに向けたことのないような――本来ならばそうするべき、そうしなくてはならなかった笑顔を向ける。
『愛ってのは、こんなに人を強く幸せにするんだな』
信じて愛し続けることこそが本当の強さ。そしてその強さは愛する人を強くする。
その汚れなき純白な想いを貫き通したリリライトは、清廉で気高く強かった。だからそんな妹に負けないよう、カリオスもこの日から強くあろうと――人を信じて愛し続けることを誓うのだった。
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