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第3章『”剣士”覚醒』編

第137話 ヴァルガンダル家の物語Ⅹ――幸せな時(前編)

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「子供を授かってからは、ルエールは本当に変わったな……」

 カリオスが持ってきたお茶をベッドの上で啜りながら、ヴィジオールは遠い目をしながらつぶやいた。

「あのルエールが親馬鹿など、とても信じられませんね。私にとっては鬼教官でしかなかったですから」

 そうしてカリオスは笑うと、ヴィジオールも僅かに表情を緩める。

「子供が生まれた後のあいつには、笑える話がたくさんあるぞ」

 そんなことを言いながら、くっくっくと笑う父王の顔を、カリオスは意外そうに見つめていた。例え親子2人きりとはいえ、今までカリオスが見たことのないような顔だった。

「出来れば一つ一つ聞かせてやりたいが、キリがないからな」

「そんなに、ですか?」

 カリオスが苦笑して答えると、ヴィジオールは再び笑いながら

「さて、どの話を聞かせてやろうか」

 そして再び始まるのは、おそらくルエールが当主を務めていたヴァルガンダル家において最上の幸せの時の話からだった。

    ▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼

 御前会議。

 国王ヴィジオールが主催する、聖アルマイト王国の最高意思決定機関である。

 ヴィジオールを中心とした、国家の中枢に携わる者達で構成される会議である。王宮に仕える高級官僚や軍部の上級幹部、それに各領地を任されている領主の中でも特に有力な諸侯が集められて開催される。

 ここで決定されることは、国家の将来を直接左右するような重要な会議である。それ故に会議に招聘された者は、他にどんな重大な用件であっても差し置いても、御前会議を優先しなければならない。

「……ルエールはどうした」

「欠席です」

 御前会議の場で、圧を込めたヴィジオールの重々しい言葉に、隣に座るプリメータがニコニコ顔で明るく答える。

「龍牙騎士団の騎士団長が、御前会議を欠席か?」

 その重々しい口調に、僅かに怒気が込められているのを感じると、会議の出席者の面々は心底震え上がる。

「御前会議よりも優先する用事があると? 理由はなんだ、プリメータ」

 参加者の中で唯一事情を知っていそうな王妃に、ヴィジオールはぎょろりと目を向ける。普通の人間ならば、それだけで竦み上がって動けなくなりそうなくらいに鋭い眼光だ。

 しかしプリメータは、ニコニコとしたまま答える。

「奥さんの体調が悪くて赤ちゃんのお世話が出来ないので、今日はルエールパパがおむつを変えたりミルクを飲ませたりするらしいですよ」

「――ぶっ!」

 あっけらかんと言い放つプリメータの言葉に思わず噴き出したのは、彼女の側に立っている護衛騎士アイリーンである。ヴィジオールの視線が自分に突き刺さるのを感じると、アイリーンは慌てて胸を張って

「も、申し訳ございませんっ! 失礼いたしました!」

 いつも冷静沈着な彼女にしては珍しく取り乱しながら大声で答える。

「子供如きで、御前会議を欠席などと……」

 その重圧のある声は、恐怖という人間の本能を直接刺激して狂わせる程のもの。噴火を直前に控えた火山のような危機感を参加者全員に抱かせ、気の弱い者など既に涙を浮かべている。

「あらあら、いいじゃありませんか。育児休暇ってやつですよ。国が平和な証拠です」

 しかしプリメータは、ニコニコとしたまま答える。

 まるで聞かん坊に言い聞かせるように、指を振りながら。

「幸いにも、西方・北方諸国、ネルグリア帝国との関係も順調で、ファヌスもイルギルス王子が王位を継いで安定しています。それに龍牙騎士団のことなら私と陛下が大体把握しているでしょう? 戦争が起こる気配もないし、今日の御前会議にルエールの出る幕なんて、なーんにもありません。――アイリーンも、別に休んでよかったのに」

「そ、そう言うわけにはいきません!」

 ヴィジオール相手に平気でこんな口が叩けるのは、正妃とはいえ恐るべき人物である。ただの怖いもの知らずというだけかもしれないが。

 しかし、だからこそヴィジオールはプリメータの態度に戸惑う。今まで、こんなふうに自分に意見をしてくる者など存在しなかったからだ。特に、このような高官や諸侯が集まる場で、妻にどのように接していいのか分からなくなることなど、珍しくない。

 それでもヴィジオールが激昂しないのは、気性は荒々しくも、愚王ではないことの証左だった。

「リリライトは……?」

 しばらく口を閉ざして考え込んだ結果、ヴィジオールが妻のプリメータへとようやく発した言葉はそれだった。

 末娘のリリライトの出産は、ルエールの娘の出産時期とそう変わらない。つまりプリメータも絶賛子育て中のはずなのに、この御前会議に参加しているのだ。

「リリライトには、とってもとっても頼りになるお兄ちゃんとお姉ちゃんがいるじゃありませんか。今日は会議で忙しいと言ったら、カリオスってばはりきってリリのお世話をするって、おむつを交換する練習をしていたんですよ。はぁぁぁ……やっぱり男の子は萌え~ですねぇ。陛下もお忙しいとは思いますが、ラミアだけではなくカリオスにももっと構ってあげて下さいな」

「会議を始める!」

 話の方向が、触れられれば痛い方向になりそうなのを察して、ヴィジオールは慌ててプリメータの言葉を遮ると、会議の開始を宣言する。

 それは、力で世界を安定させようとする気性荒い覇王などの姿とはかけ離れた、妻に頭の上がらない夫の姿そのもの。怯えていた参加者は一転、そんな国王夫婦のやり取りに微笑ましくなるが、勿論我慢する。

「プリメータ様、勘弁して下さい。寿命が縮みます……」

 会議が始まった傍らで、側に立つアイリーンがそっと耳打ちしてくる。プリメータの護衛騎士たる立場の彼女は、ヴィジオールとプリメータが喧嘩するとなれば、どちらにつけばいいのか。そんなどうでも良いことで、アイリーンはびっしょりと冷や汗をかいていた。

 しかしプリメータはやはりニコニコしながら、「ごめんなさいね」と謝ると

「いつか、こうやって子供のことを優先することが当然のこととなるような優しい世界になるといいですね」

 プリメータはそのために、その時を生きていた。

□■□■

 長女アンナが生まれてから、ヴァルガンダル家の屋敷は騒がしい日々が続いていた。

「たたた、助けてくれ! ミュリアル!」

 自室のベッドの上で、侍女ミンシィから準備した薬湯を飲んでいると、慌てた様子のルエールが助けを求めて駆け込んできた。

 誇り高き龍牙騎士団団長であり、名誉あるヴァルガンダル家の当主、世界を救った4英雄の1人”剣士”の直系でこの世のありとあらゆる絶望を切り裂くことが出来るという王国最高の騎士が、情けない顔で妻に助けを求めていた。

 その胸にはぎゃあぎゃあと泣き止まない赤子が抱かれている。

「お、おおおお……おむつは変えたんだ! それなのに、全然泣き止まない! 病気か? 何か悪い病にでも……よもや不治の病にでもなったのか?」

 子供が生まれる前など決して見られなかったルエールの狼狽ぶりに、ミュリアルはバレないようにクスクスと笑い、ミンシィは頬を膨らませて両手を腰に当てている。

「もう、旦那様! ミュリアル様のお体に触れますから、もう少し静かにしていただけませんか!」

「す、すまんっ……」

 まさか一介のメイドが、王国を代表する騎士であるルエールを叱りつけている。レア過ぎる光景だ。ミュリアルが「まあまあ」とミンシィを諫めると、ベッドからルエールへと両手を伸ばす。するとルエールは、胸の中で泣き止まない娘を母の手に渡す。

「よしよし……大丈夫ですか、アンナさん」

「ぎゃああっ! ぎゃああ……きゃはっ! きゃはははっ!」

 あれだけルエールが孤軍奮闘しても泣きわめくだけだったアンナが、途端にご機嫌になって笑いだす。

「ま、魔術か? 魔術なのか? いつの間にミュリアルは魔術などを……」

「あ~、よちよち。こんなお父ちゃまだと、大変でちゅね~」


 あまりにも的外れなルエールの言葉を、ミンシィは小馬鹿にするようにして、ミュリアルに抱かれてご機嫌なアンナに言葉を掛ける。しかしルエールは何も言えない。

「ルエール様を困らせてはいけませんよ、アンナさん」

「きゃっ、きゃっ♪ ……ふええええ」

 ミュリアルに抱かれて笑っていたアンナだが、また表情を曇らせて泣きそうになっている。

「な、何故泣くのだ? やはり病気では……?」

「お腹が空いたのかしらね? そう言えば、そろそろおっぱいの時間ね」

 相変わらず的外れな推察をしておろおろとするルエールは全く無視されながら、ミュリアルは胸元を緩ませる。

「はい! いくら旦那様でも男性は出て行って下さいな! はい、はい!」

「ち、ちょっと待ってくれミンシィ。どうしてミュリアルは、アンナのことが分かるんだ? 私には全然懐かないのに。まさか、ミュリアルも何かしらの英雄の直系では……」

「馬鹿なこと言ってないで! 一緒に出ていきますよ! ほら!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐルエールをミンシィは強引に部屋の中から追い出すように、一緒に外に出る。

 外に出てもルエールの狼狽えた声とミンシィのぴしゃりとした声が響いてくるが、とりあえず室内は静かになった。

 ミュリアルはベッドの上で胸元をはだけさせると、すぐにアンナは乳房の先端部に吸いつく。

「本当に、可愛い……」

 出産時は、生まれてきた子が女だったことに、この世の終わりだと思うくらいに絶望していたミュリアルだった。しかし今こうして母乳を与えながら、胸に抱く娘の頭を優しく撫でる彼女の顔は、娘を愛する母親の顔以外の何者でもなかった。

    ▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼

「……嘘だろ?」

 ルエールの笑える話――その1つ目の話で、カリオスは思わず素の声を父王に返してしまった。そんなカリオスの反応がおかしいのか、ヴィジオールはベッドの上で笑う。

「あのルエールが、そんな……」

「だから笑えると言っただろう」

 カリオスが成人してからは特に、こんな顔を父に見せることなど無かった。久しぶりに王と王子ではなく、ただの父と息子になったような気分にでもなっているのか、ヴィジオールの表情は何かに満たされているように見える。

「こんな話、いくらでも出てくる。しかし本当にキリがないからな。話を進めるとしようか」

 ヴィジオールはそう言いながら、記憶にあるエピソードを整理する。

 ルエールのことを知りたいというカリオスにとって有益な情報を分かり易く伝えるために、何をどのように伝えるのか。

 思案しながら、ヴィジオールは続ける。

「この時、ヴァルガンダル家は順調だった。とはいえ、逆風が皆無だったわけではない。ルエールにとっては、ともすれば立ち直ることも難しいだろう絶望もあった。しかし、それでも奴が心を折ることが無かったのは、紛れもなく妻と娘の愛が本物だったからだろうな」

 ヴィジオールがどんな話をしようとしているのかカリオスには見当もつかない。だからヴィジオールの言葉の意図が、いまいちつかめない。

「だから、この頃のルエールは間違いなく幸せだった。それは間違いのないことだ。既に逝ってしまったルエール=ヴァルガンダルの人生最高の幸せの時は、間違いなくこの時だった」

 何度も注釈するようにヴィジオールは続けながら、話を続ける。

    ▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼

 ミュリアルは元々虚弱体質で、少し精神的なショックがあれば1~2日寝込んでしまう程の繊細な体質だった。

 その体質は娘を出産した後から更に顕著となった。

 熱を出してベッドの上で横たわる日が増え、むしろベッド以外の場所にいる時間の方が少なくなっていった。

 それでもルエールやミンシィなどの周囲の人間の助力を得ながら、ミュリアルは愛する娘のため、なんとか母親の使命を果たしていた。

 そんな虚弱な母が、お転婆なアンナの面倒を見ている光景は極めて珍しい。

「――そうしてお姫様は、白い馬に乗った剣士と恋に落ちたのでした」

 優しい声で絵本の内容を読み上げるミュリアル。

 これはミュリアル自身も幼い時、母親によく読んでもらった絵本。ミュリアルが初めて聞いた恋物語。悪者に攫われたお姫様を、白馬に乗った英雄が助けて2人は恋に落ちるという、とても素敵な恋物語。ミュリアルのお気に入りの物語だった。

「ふわ~ぁ……」

椅子に座った母の膝の上で、間もなく2歳を迎えようというアンナは大きな欠伸をしている。

「アンナさんには、退屈だったかしら?」

 自分が大好きな恋物語にあまり興味を示してくれない娘に、ミュリアルは困ったような笑みを浮かべる。それはちょっと悲しいけど、ミュリアルは自分がこうして娘を一緒の時を過ごせることに、無上の喜びを感じていた。

「ぅ~……」

 眠そうに眼を擦るアンナは、目に入れても痛くない程に可愛い。

 出産直後から、とても女のことは思えないくらいにぎゃあぎゃあと泣き喚いていたアンナは、それからもずっと男の子顔負けの暴れっぷりを見せていた。家の中で本を楽しむよりも、山や野を駆け巡るのが大好きな女の子。

最近ではルエールの剣の鍛錬をどこかで目にしたのか、父親の真似を言わんばかりに棒状の物に興味を持ち、まるで剣を振り回すように棒を振り回していた。

 だから、こうした虚弱な母との穏やかなひと時は、アンナには少々退屈なのかもしれない。

「ふふ。それじゃ、一緒にお昼寝しましょうか」

 それでもいい。この娘と一緒に過ごせるのならば。

 ミュリアルは穏やかな母の顔を浮かべながら絵本を閉じると、愛しい愛しい我が子の髪を優しく撫でる。

「帰ったぞ、ミュリアル! アンナはどこだ!」

 アンナが生まれてからもう2年は経とうかというのに、相変わらずルエールの親馬鹿変貌ぶりは留まることを知らない。

 さすがにバタバタと騒ぎ立てることは少なくなった――少なくなっただけで、ゼロにはなっていない――が、その冷静を装った表情と語気には、浮かれぶりが全く隠せていない。

 屋敷に返ってくるや否や即座にミュリアルとアンナの元にやってくるルエール。ルエールの姿を見たアンナは、しかしトロンと眠そうな顔を向けるだけだった。今日は外でもたくさん遊んだし、疲れているのだろう。

「パパ……」

 今にも寝落ちしそうな顔でつぶやくアンナの声を聞いて、椅子に座る母娘へと近づいてくる。

「アンナさん。あなたもヴァルガンダル家の娘なのだから、そのような言葉は――」

「まあ、そんなこと気にするな。どうせ今だけだ」

 ヴァルガンダル家の妻として、ヴァルガンダル家の娘に相応しい教育をしなければならない。優しさと甘やかしは違う。ミュリアルは己の甘さを厳に戒めようと、常に意識しているのだが、一方のルエールが拍子抜けするほど甘々なのである。

「プリメータ様の影響だろう。あの方は、アンナの前で面白可笑しくルエールパパと言うからな」

 プリメータがリリライトも生んだ後、ミュリアルはお互いの娘を紹介し合うように何度か会う機会に恵まれた。そこにルエールも立ち会うこともあり、プリメータがことあるごとにルエールをからかうのだった。おそらく、プリメータが悪意地を働かせて、アンナにそう言うよう仕込んだまであると思っている。

「ミュリアル、お前もアンナの母親なんだ。娘をさん付けするなんて、不自然だぞ」

「……でも」

 そのことは今に始まったことではない。かねてからずっと言われていることだ。ミュリアルは表情を曇らせる。

「私には、ヴァルガンダルの血は流れていません。でもアンナさんは、ルエール様と同じヴァルガンダルの血を継いだ子ですもの。親娘とはいえ、一商家の人間とは身分が違います」

「……」

 それはミュリアルが払拭出来ない劣等感。彼女の低すぎる自己肯定感による、極めて後ろ向きの考えだ。

 あまり良いことではないし、何よりアンナにとって良い影響があると思えない。それは分かっていながらも、ルエールの立場から強要すれば、それはミュリアルにとって負担にしかならない。だから、ルエールはそれ以上のことを言わない。

「アンナさん。パパではなく、”おとうさま”ですよ。言えますか?」

「ふぇっ……おと……? おとう……」

 母から教えられた言葉を、首を傾げながら寝ぼけ眼のまま紡ごうとする。眠いながらも懸命に母に応えようとする娘に、思わずミュリアルもルエールも胸中で旗を振って応援してしまう。

「……おとう……パパさま!」

「っぷ。ふふふふふ」「わはははははは!」

「パパさま! パパさま! きゃははは!」

 頑張って紡いだ言葉があまりにもな言葉で、ルエールとミュリアルはお笑いする。そうして嬉しそうに笑う両親を見て、眠そうにしていたアンナも笑う。

「もう、アンナさんったら。パパ様だなんて……ふふ、おかしい」

「ははは。パパ様か……参ったな。またプリメータ様にからかわれてしまいそうだ」

 しかしそんなことを言いながら、ルエールは嬉しそうな顔をしていた。またプリメータに自慢できるネタが出来た、くらいに思っているのだ。

 そして隙あらば、ルエールは手を伸ばして、ミュリアルの膝の上のアンナを抱き上げようとするが。

「――や」

 無情にも、その父親の手は拒絶される。

「ねむねむはママさまと。パパさま、バイバイ」

 笑っていたアンナだったが、やはり一杯遊んで疲れているのだろう。すぐにまたまどろんだ瞳で、母の胸に身体をもたれさせる。

 娘を溺愛する父親への残酷過ぎる言葉の刃。ルエールは表情にこそあまり出さないが、そんな幼い娘の言葉にショックを受けて、明らかに落ち込む。その両肩に重りが乗っているのが見えるようだ。

「ル、ルエール様はお仕事の疲れもあるでしょうし、1人でゆっくりなさって下さい。寝かしつけたら、すぐに私も参りますから」

 仕事で疲れたからこそ、ルエールの癒しは娘に構うことだったのに。

「いや、ミュリアルもアンナと一緒に少し横になると言い。無理をすれば、また体調を崩すぞ」

 ルエールは努めて冷静を務めるが、明らかに表情も声も落ち込んでいる。力無い声でそう言うルエールを見ると、アンナが生まれるまでの寡黙で冷静なルエールを知っているミュリアルとしては、いけないと思いつつも笑えてきてしまう。

「全く、ミュリアルには構わないな。お前は凄いよ」

「――え」

 ”凄い”。

 よもやヴァルガンダル家の当主に、英雄”剣士”の直系に、王国最高の騎士に、龍牙騎士団長に、『凄い』などと言われる日が来ようなどと、どうしてミュリアルに想像が出来たろうか。

 それはルエールから認められているということだ。つまりヴァルガンダル家の妻として、ルエールの妻として、自分はここにいても良いということで。

「ママさま……?」

「どうした、ミュリアル? 具合でも悪いのか?」

 思わず零れた涙を指摘されて、ミュリアルは自分の表情を隠すように口元を手で隠す。そんな母の様子を、胸に抱いているアンナはきょとんと見ている。

(――本当、ルエール様は鈍感なんですから)

 そうやって、胸中であっても、ミュリアルがルエールのことを毒吐くなんてありえなかった。しかし、あまりにも見当はずれなルエールの心配に、毒吐かずにはいられない。

 だって、夫婦だから。同じ娘を愛する対等の立場の夫と妻だから。鈍感な夫に対して、たまには妻が愚痴を吐いたっていいだろう。プリメータだって、さんざんヴィジオールについてミュリアルに愚痴を言っているのだ。

 そうやって涙をこぼすミュリアルは笑っていた。だからその涙は喜びの、嬉しさの涙だ。さすがに鈍感なルエールも、ミュリアルのその表情を見て何となく察したようだった。

「ルエール様、ありがとうございます。ではアンナさん、一緒にお昼寝しましょうか」

 既に胸の中にうつらうつらとしているアンナを抱きかかえて椅子から立ち上がるミュリアル。そんな妻と娘と寝室まで付き添おうとするルエール。

 ――そんな幸せな父・母・娘の光景に、あまりにも無作法な存在が割り込んでくる。

「ルエール卿」

 ノックもなしに部屋へ入ってきたのは、ある意味ではこのヴァルガンダル邸においてはある意味当主であるルエールよりも上の立場の人間。

「親族会議の時間だ。もう皆集まっておる。アンナはミュリアルに任せて、貴公もすぐに参られい」

 明らかに不機嫌な声で、睨みつけるような眼光を送ってくるのは――

「義父上……」

 ガンドロフ=オブライト。

 ミュリアルの父でありアンナの祖父。そしてルエールには義理の父に当たる存在で、聖アルマイト王国にも多大な影響力を持つ大人物。

生まれてくるのは男でも女でもいい。

 ただ、元気であれば。そして幸せであれば。願わくは、周りの人も幸せにしてくれるような子であれば。

 しかしこの世界はそこまで優しくも、甘くも、青くもない。

 聖アルマイト王国でも指折りの有力貴族であるヴァルガンダル家を継げる男児が生まれなかったことは、幸せな時を過ごすルエールへ逆風の1つとなって吹き付けてくる。

 逆風その1――ヴァルガンダル家とガンドロフ家を中心に絡み合う、権力・地位・名誉のしがらみ。
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