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第2章『クラベール城塞都市決戦』編

第83話 ジュリアス=ジャスティン(中編)

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「まだまだぁぁっ!」

 王都ユールディア内にある王立高等教育機関。

 その運動場で、文字通り顔に土を付けられたクリスティアが不屈の声を上げる。

「っへ、元気なことで。そういう女、嫌いじゃないぜ!」

 彼女の鍛錬に付き合っているのはランディである。余裕の表情で模擬剣を肩に担ぐようにしながら、指をクイクイと動かしてクリスティアを誘う。

「うああああああっ!」

「まだまだ、動きに無駄が多いんだよっ!」

 懸命にランディに食い下がるクリスティアだったが、後に「ミリアム世代」と呼ばれる世代のトップクラスの実力を持っていた天才を相手に敵うはずもなかった。

 結局、彼女はこの日もランディに手も足も出なかったのだった。

□■□■

「頑張りますね」

 ランディとの鍛錬を終えて身体中に出来た傷を簡単に手当てした後、外の水道で顔を洗っていたクリスティアにジャスティンはそう声を掛けた。

「……見ていたの?」

 タオルで顔を拭きながらクリスティアがそう聞くと、ジュリアスは微笑を浮かべながらうなずいた。

「――ありがとう。貴方がランディやミリアムを紹介してくれたから、こうして鍛錬に付き合ってもらえるようになったわ」

 あの日クリスティアと会った後、特にジュリアスに非があったわけでもないのだが、決勝戦を見逃したことを悔しがるクリスティアに、ジュリアスはミリアムとランディを紹介した。

 向上心が強いクリスティアは、即座に2人に鍛錬の相手をしてほしいとお願いしてから今日まで、その2人に代わる代わる鍛錬相手になってもらいながら、毎日容赦なく叩き伏せられていたのだった。

「すごいですね。本音を言うと2、3日くらいで音を上げると思っていました。申し訳ありません」

 ジュリアスアから見ても、それくらいクリスティアとミリアム、ランディとの実力差は開いていた。はっきり言ってしまえば、その2人にとってクリスティアは子供みたいなものである。クリスティアは必死なれど、全く相手にすらなっていない程だ。

 そもそも、クリスティアはその2人にも劣るジュリアスにすら遠く及ばないのだ。鍛錬とはいえ、クリスティアにとってはレベルが違い過ぎる相手。あまりに差があって、意味があるのかと疑える程である。

「この間も言ったでしょう? 私は余裕が無いから……絶対にあの2人よりも強くなりたいの。そして白薔薇騎士になって、龍牙騎士よりも上にならないといけないの」

 ある程度ジュリアスに対しては心を許したのか、敬語を使うことは無くなったクリスティア。そんな彼女の言葉を聞いて、ジュリアスは驚愕にも近い感情を胸に抱いていた。

 あれだけの実力差を思い知らされて尚、こうまで真剣にそんなことを言えるとは驚きである。しかも、ただその実力に追いつくだけではなく、追い抜こうとしているのだ。

 それを滑稽と嘲笑にするには、ジュリアスは誠実で優し過ぎる性格だったし、何よりもクリスティアの迫力がそれを許さなかった。

「すみません。失言、でしたね」

「別に気にしていないわ。自分でも、とんでも無いことを言っている自覚はあるもの」

 顔を拭き終わったクリスティアに、ジュリアスが彼女のために持ってきた水筒を渡す。クリスティアは少しだけジュリアスの顔を伺った後、素直にそれを受け取って乾いた喉に流し込んだ。

「どうして、こんなに私のことを気にしてくれるの?」

「どうして……でしょうか。私にもよく分かりませんね」

 ジュリアスはいつもの苦笑を浮かべる。

『誰よりも家名にこだわっているのは貴方だ。ジャスティン家長男、ジュリアス=ジャスティン』

 あの衝撃的な言葉が、起因となっていることは間違いない。

 だがそれがジュリアスに何の影響を与えているのか――図星だと受け止めているのか、認められないでいるのか――自分でも分からない。

 ジャスティン家として生まれた自分に、初めてああまで感情を剥き出しにしてぶつけられた言葉。それを発した彼女のことが気になり、もっとクリスティアのことを知りたくなった、というところだろうか。

「私の方こそ、この間はごめんなさい。いくら何でも言い過ぎだったと思うわ」

 そんなジュリアスの苦笑に察するところがあるのか、クリスティアは意外にも頭を下げて謝罪してくる。

 向上心で気が強くクールなイメージがあったが、さすがはレイオール家の人間だけであり、礼儀や節度は弁えている。感情を剥き出しにすることも少なくないが、しっかりと礼儀を守るところはクリスティアの美点であろう。

「でも、間違ったことを言ったとは思わない。私が貴方に対して苛立つのは、今の失言よりも何よりも、そういう所よ。良いことも悪いことも、全て家名のせいにしているところ」

 無表情で淡々と言い放つクリスティアは「ありがとう」と言いながら、ジュリアスから受け取った水筒を返す。

「――貴女は凄いですね」

 それは嫌味でも皮肉でもなんでもない、ジュリアスの素直な感想だった。

 名門レイオール家とはいえ、クリスティアは妾の娘。世間にはあまり表沙汰にしたくはない忌み子――とまでは言い過ぎかもしれないが――として、その出自から大きく劣等感を抱いていることは間違いない。

 自分の出自に劣等感を抱いているからこそ、こうまで強くあれるのだろうか。その強さはジュリアスが持ちえないものだ。

「今度は、貴方も鍛錬に付き合ってよね。ジュリアス」

 何だかんだで友好的に接してくるジュリアスに、さすがにクリスティアも少しは心を近づけてくれたのか、ほんの僅かに頬を緩めてそう言ってきた彼女。

 実力も生まれも決して敵わない相手に、心を折ることなく挑戦し続ける彼女はーー

 ジュリアスから見ると、美しい以外の言葉は無かった。

□■□■

 いつからか、負けることに慣れてしまっていた。それはおそらく、ミリアムやランディよりも自分が劣っていると認めた時からだ。

 それを認めたら、それから2人に負けることが悔しくなくなってしまった。2人は天才だからと、神に選ばれた人間だから負けるのは当然なのだ。勝てるはずがない。

 『ジャスティン家の血を引いているけど劣等生だから』という言葉で苦しんでいる風に見せて、その実は2人に対する劣等感から逃げていたのではないか。

 毎日毎日ミリアムとランディに叩きのめされるクリスティア。そんな彼女の評判は学内にしも知れ渡り、更に妾の子だということも明らかにされると、クリスティアは格好の噂の種となっていた。

「あのクリスティアってのも、ミリアム相手によくやるよな~。身の程ってのを知らないのかな」

「シンパ様と同じ家名だと思ったら、何でも愛人との間に生まれた子供みたいよ。道理で見た目も汚いと思ったのよね、汚らわしい」

 その多くは、彼女を揶揄し嘲弄するもの。

 しかしクリスティアは周囲の雑音など全く気にせずに、ひたすら自分を高めるために2人への挑戦を続けた。心も身体も打ちのめされているはずなのに、それでもクリスティアは前を見続けていた。

 そんな姿を、誰よりも側で見ていたのは他ならぬジュリアスだった。

 いつからか、クリスティアと日常的に接するようになり、お世辞にも愛想が良いとは言えない彼女と会話を重ねる中で、ジュリアスは考える。彼女の強く美しい姿を見て胸に重くのしかかるものを感じる。

 本当の強さとは何なのか。何故、ジャスティン家長男に生まれた自分は強くなれないのか。

「貴方の方から声を掛けてくるなんて珍しいわね、ジュリアス」

 すっかり聞きなれた不自然な幼い声でそう言ってくるミリアムは、その声にどこか嬉しそうな色を滲ませていた。

「色々と思うところがありましたので」

 その日の授業を全て終えた放課後、2人は屋外の鍛錬場にてストレッチをしていた。ジュリアスからミリアムへと、鍛錬に付き合って欲しいと声を掛けたのだ。

「ルール無用の実戦形式、で間違いないのね?」

「ええ。魔法の制限も何もなしの、真剣勝負でお願いします:

 真剣勝負とはいえ使用するのは訓練用の模擬剣ではあるが、ここまで本格的な実勢形式は珍しい。無暗に手合わせをするよりは、特定の技術を磨くために、それを合わせたルールなどを用いて手合わせをするのが一般的だ。

 このような完全実戦形式は、実力を磨くというよりは、純粋の互いの技能を競い比べることが目的となる。公的な授業でも年に数回程度しか用いられないものだ。

「ランディとはしょっちゅうやっているけど、何気にジュリアスとはあまり機会が無かったから楽しみね」

「お手柔らかに頼みますよ。私も胸を借りるつもりで――」

「ジュリアス」

 そんな謙遜が過ぎるジュリアスの態度を、ミリアムは諫めるような口調で言ってくる。

「貴方からこうして声を掛けてきたのは、貴方にも色々あるということは何となく分かるけど、私からは何も聞かないし何も言わない。だけど、そういう言葉は止めて。私達は同級生で、上も下もないでしょう? 世間的にはそうもいかないけど、少なくとも学内にいる間は家名も関係ないわ。そうでしょう?」

 それ以上の何かを訴えかけてくるような強い意志が込められた目で真っ直ぐ見られると、ジュリアスは自分を咎めるように首を振る。

「いけませんね……沁みついた負け犬根性というのは、実に恐ろしいものです」

 丁寧な口調はそのままだが、使っている言葉はあまりジュリアスらしからぬ粗雑なものだった。そんなジュリアスの言葉に、ミリアムは一瞬だけ目を見張るが

「それじゃ、そろそろ始めましょうか」

「ええ。……負けませんよ、ミリアム」

 お互いに口元を緩めながら、模擬剣を構える。

□■□■

 十数分後、ジュリアスは医務室のベッドの上に横たわっていた。

「目、覚めた?」

 ジュリアスが意識を失う前まで剣を交えていたミリアムが、ジュリアスの眼が開いたのをみて、優し気な笑みを浮かべていた。

「やっぱり、敵いませんでしたか」

「いや、結構危なかったわよ」

 そう言って笑ったミリアムは、すぐに「いたっ!」と言いながら、右脇腹を抑える。

「まともな直撃なんて受けたの、ルエール団長以外では初めてよ。ランディにだって、こんな一撃もらったことないのに。いてて……!」

 顔をしかめながらも、何故か嬉しそうに言うミリアム。それを聞いてジュリアスは意識を失う直前、決着の瞬間のことを思い出す。

 激しい剣戟の応酬の中で見つけたほんの僅かなミリアムの隙を突くために踏み込んだジュリアスだったが、それよりも早くミリアムの剣がジュリアスの首を打った。脳を揺さぶられて脳震盪を起こしたジュリアスはそのまま失神したのだ。それを思い出すと、首がジンジンと痛み。確実に痣になっているだろう。

「覚えているか分からないけど、意識を失う前に貴方の攻撃も私に届いていたのよ。――なんだか、これまでのジュリアスとは違った思い切った動きだったわね。正直、冷や冷やしたわ」

「……そう、ですか」

 ――負けた。

 自分の攻撃が届いたとはいえ、意識を刈り取られたのは自分の方。ましてや実戦であれば、自分の攻撃が届く前に首と胴体が両断されていただろう。

 クリスティアの姿を見て、自分なりに考えるところがあって全力で望んだ戦い。それが良い訳のしようもなく、誰から見ても明確な、容赦の無い完全な敗北だった。

「忙しいところを、ありがとうございました。ミリアム……」

「ううん。今日のジュリアスと手合わせ出来て良かったわ。またやりましょう」

 そうして2人は、いつもの中の良い学友同士の笑みを交わしたのだった。

□■□■

「ジュリアス、いい?」

 ミリアムが去った後も、しばらく医務室で身体を横にして休んでいたジュリアス。そんな彼を訪ねてきたのは、なんとクリスティアだった。

「クリスティア? どうしたんですか?」

「どうしたもなにも……今日はミリアムは別の人との約束があるからって断られたんだけど、貴方だったのね」

 そう言うクリスティアは、おそらくランディとでも手合わせをしていたのだろう。身体の至るところに、また新しい生傷が増えているのが分かる。相変わらず向上心の塊のような人間だと思うと、ジュリアスは苦笑した。

「全く、貴女には敵いませんね」

「何言ってるの、もう。傷は大丈夫?」

 そうやって気遣ってくれるのはありがたいが、やはり彼女も自分がミリアムに勝ったなどと夢には思っていないのだろう。実際その通りなのだが、ジュリアスの胸が重くなる。

「完全に叩き伏せられましたよ。本当に、恐ろしい程の使い手です」

「うわぁ……」

 応急処置として、首には痛み止めを貼り付けているのだが、その痛々しい見た目にクリスティアが微妙なため息を漏らす。

「でも、ミリアムが言っていたわ。これまでで一番手強かった……って。やるじゃない」

 そう言うクリスティアは、いつもの淡白な言葉とは違って、嬉しそうな感情が乗っかっているのが分かる。表情もいつもより僅かに明るい。

 そんな好意的な感情を寄せられたジュリアスだったが――

「う……うう……」

「ジュ、ジュリアス?」

 ジュリアスは涙を流す。

 それは、もうこれ以上ない単純で子供っぽい感情だ。

 すなわち『負けて悔しい』。

「負けるというのは……こんなに……こんなに悔しいものなんですね。私は全力で挑んだのに……ミリアムに、同級生に、女性に、ティンカーズ家に……完全敗北しました。ううぅ……」

「……」

 泣き崩れるジュリアスを、クリスティアはただ黙って見続けていた。

「分かっていたんです。貴女に言われるまでもなく……家名など関係ないと言っている自分こそだ、誰よりも家名にこだわっていた。いや、家名だけじゃない。性別や年齢や、そんな表面的なものでしか、私は自分も他人も見ることが出来なかった。全てから逃げていた……」

 ジャスティン家の家名を上げる。

 落ちぶれたジャスティン家に久しく生まれた有能者として、両親から期待されたジュリアス。それこそが自らの生まれた理由、存在価値だと信じて疑わずにここまで育ってきた。そしてこれまでの世界では優秀で常に頂点に君臨していたジュリアスを、否定する者など誰もいなかった。

 だから、ジャスティン家がティンカーズ家やレイコープ家などの格下の貴族に敗北するなど認めるわけにはいかなかった。だから自分はジャスティン家の落ちこぼれだと、ミリアムやランディと正面から向き合うこと避けた。特にミリアムに対しては、「女性」というあからさまな性差別をしていた。「男」である自分の方が遥かに弱いというのに。

 ジャスティン家だから、男だから、ジャスティン家稀代の天才だから自分は誰よりも強い。自分よりも強い相手でも、戦わなければ負けない。だから戦わない。

 だから、自分はミリアムにもランディにも負けていない。 

 それがジャスティン家の名誉を守るためにジュリアスが取った、なんとも臆病な選択肢だった。

「負けた……負けました。全力で挑んだのに、手も足も出ませんでした……私は……」

 悔しい。

 悔しい、悔しい。ただ悔しい。

 家名など関係ない。性別など関係ない。

 ジャスティン家やティンカーズ家など、男だの女だのは関係ない。

 ジュリアスという人間が、ミリアムという人間に挑んで勝てなかったという事実ーーただこれだけのこと。この事実ががただ悔しい。

 これが心の底から悔しいということ。

「私は……強くなりたい」

 ジュリアスはここに来て、本当の意味での「家名など関係ない」――その意味を思い知ったのだった。

 そして本当の強さとは何か、ようやくそれを本気で学ぶ覚悟を決める。

「きっと、大丈夫」

 ジュリアスにそのきっかけを与えたクリスティアは、これまで誰にも見せたことのないような、そよ風を思わせる優しい笑み浮かべると、泣き崩れるジュリアスの髪を優しく撫でる。

「貴方なら、きっと強くなれるわ」
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