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物語に繋がるプロローグ(現代編)

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夢を見た。

俺は、見覚えのある背の高い石造りの建物の中の一角にいる。
幾つかに仕切られた部屋の中だ。
入り口には給湯室と書かれている。

「茉莉香先輩、休憩ですか?」

ひょっこり顔をのぞかせたのは、後輩の観月香苗(ミズキカナエ。)
こんな堅そうな会社には不似合いな、ふわふわっとした外見をしているが、
実はがっつりとオタクじみた科学者肌の彼女。
曰く、外見まで気にしなくなると、
女としての自分を捨ててしまいそうで怖いと言う。
自分に対しての抵抗だそうだ。

「うん、ちょっと疲れちゃってね。」

そう言いながら、メーカーにカップをセットし、ボタンを押す。
抽出されたコーヒーに、ミルクは2つ砂糖なし。


「ふ、ふ、ふ。茉莉香先輩、私見ちゃったんですけどー。」

「え、香苗ちゃん。な、何かなー、何見たのかなー。」

彼女がこの顔をするのは、いつも良からぬ事を企んでいる時。

「い、ま、さ、ら。往生際悪いですよー。
昨日のクリスマスイブ、と言ったら分かりますか。」

うーわ。最悪。それって、絶対言い訳できない事だよね。

「とある高級ホテルの前、都築課長と手をつないで中入って行ったの、
私の見間違いでなければ――。」

「あー、分かった。それ以上言わなくてもいい、認めるから。
はい、それは私です。」

「やっぱりー、て言うか間違いないと思ってはいたんですがね。
いやー茉莉香先輩と課長がねー、でも、考えてみればお似合いですわー。」

「もうそれ以上言わないで、恥ずかしいから。
で、口止めの条件は?あなたの事だから、何か有るんでしょ?」

「やったっ!さすが茉莉香先輩、話が早い。
それじゃ、先輩の秘蔵本、『現代科学の真実と矛盾』貸してください。
あれ、絶版になって見つからなかったんです。」

「うー、仕方ない、その代わり絶対に破損厳禁。汚したりしないでよね。」

「勿論ですとも。」

「わかった。明日持ってくるわ。」

「あざっす。
ところで、都築課長とホテルってことは、
もう当然そういうことしちゃったということで……。」

ぶほっ!私は思わずコーヒーを吹き出しそうになった。

「香苗ちゃん、そ、そういう表現はもう少しソフトに、ね。」

「えー充分ソフトでしょ、私、エッチしました?なんて言ってないし。」

「か、香苗ちゃーん、もう少し声を押えようね。」

「で、で、都築課長って優しそうだから、どんなんですかー。」

「ノーコメント、そうゆうの、すべてノーコメント。」

「えーつまんない。」

「交換条件出した以上、もう詮索なし。Do you understand?」

「noted。」

そう返事をしながら、香苗ちゃんは自分用のブラックコーヒーを入れている。

「では、本、楽しみにしてますねー。」

そう言いながら、コーヒー片手にスキップでもしそうな雰囲気で
彼女は給湯室を出て行った。

「とうとうバレたかー。」

私はふっと息を吐きだす。

「何がばれたって?」

ひえっ、振り向くと噂の本人、都築課長だった。

「課長、お疲れ様です。
いえ、ちょっとした問題発生でしたが、すでに対処済みです。」

「なんだ、茉莉香、ずいぶん他人行儀だな。」

「いえ、他人ですから。」

「……確かに今は他人だが、いずれ夫婦となる他人とか、せめて恋人とか、少し格上げしてくれないかな。」

「へっ、本気ですか?」

「かなり。」

今日は馬鹿に、驚く事が有る日だ。
課長だってそんな事、私に面と向かって言った事など無いわよね。

「んー、それって、こんな場所では無く、
もう少し違ったところで聞きたかったな。」

「すまん、茉莉香が他人なんて言うから焦った。」

「ごめんなさい、会社だからと思って、つい。
…その案件につきましては、
少々お時間をいただいてからのお返事でよろしいでしょうか?」

「やはり、即答はしてくれないか。
まあよろしく、いい返事を楽しみにしている。
ところで、何がばれたんだ?」

「昨日のクリスマスイブ、目撃者あり。」

「おお、だれに?」

都築課長、ちょっと嬉しそうなのはなぜでしょう。

「第2研究室の観月香苗ちゃん。すでに口止め済みですのでご安心下さい。」

「なんだ、口止めしちゃったんだ。」

え、それってばれてもいいてこと?

「言っただろ?恋人だって、いずれ妻にしたいって。
社内恋愛が禁止されている訳でもなし、自分的にはオープンしたってかまわない。
いや、逆にオープンにして、茉莉香は俺の物だと防衛線を張りたい。」

「何言ってるんですか、そんな必要ないですよ。」

この会社に来て、課長と付き合うまで、かなりの時間が有ったけど、
浮いた話など何もない。

「そう思ってるのは茉莉香だけだぞ。今度気を付けて周りを見てみろ。どうしてあんなに苦労して、俺の下に引っ張ってきたのか分からないのか?
俺の目の届かない、狼だらけの部署に、お前を置いとけなかったからだ。」

「あの急な異動は、そんな理由だったんですか?
信じられない、職権乱用じゃないですか。」

「なんとでも言え。まあ、あの部署のたった一人の女性をかっさらったんだ、
かなり恨まれているとは思うが、そんなこと知ったことじゃない。
俺は茉莉香さえ傍に居てくれればいいんだから。」

「よく、恥ずかしげもなく、そんなセリフ吐けますね。」

「おお、いくらでも言ってやるぞ。」

「やめて下さい。」

聞いてるこっちのほうが恥ずかしくなってくる。

「それより課長、
いつまでもこんなところで油売ってないで、さっさと席に戻って下さい。
お茶ですか?コーヒーですか?入れてお持ちしますから。」

「茉莉香が冷たい。」

「何とでも。」

こんな所を誰かに見られる訳には行かない。
男ばかりの部署では、男同士の噂話がガッと広がる。
課長に迷惑をかける訳には行かないもの。

「仕方ない仕事するか。じゃ、コーヒーを頼む。」

「はい。ミルクなし、砂糖1つですね。」

「うん、よろしく。」

そういうと都築はしぶしぶ給湯室を出ていき、
茉莉香は都築のためにコーヒーカップを手に取った。



ある日、定時を1時間ほど回ったころで、
もう少し残業していくという都築に挨拶をし、茉莉香は一人、帰宅した。
冬の日暮れは早い。真っ暗になった自宅近くのホームに降り立ち、寒さをこらえながら歩きだす。

「そういえば冷蔵庫の中、ほぼ空っぽだったっけ。
スーパーをうろつくのは面倒くさいな。
仕方ない、コンビニに寄って行くか。」

私は駅近くの店に寄り、適当な食料を調達し、家へ向かった。
荷物がちょっと重い。買いすぎたかな、早く家へ帰ろう。
しかし、道すがらのガード下をくぐろうとすると、
なぜか大きな水たまりがあった。

「おかしいな。
ここのところ、雨なんか降ってないのに、なぜ水たまりがあるんだろう?
水道管から水漏れでもしてるのかな?」

そう思いながら、しばらく佇んだ。
何せ、道いっぱいに広がっている水たまりだ。
道路と歩道を分けるガードはかなり高い。
とてもじゃないけど、今日のスカートでは乗り越える事など出来そうにない。

「明日は別の靴を履いて行くしかなさそうね。」

私は靴の中に水が入ってしまうのを覚悟で、水の中に踏み出した。
ところが3歩ほど進んだところで、ずぶずぶと足元が不安定になっていく。

「何よこれ、アスファルトが剥がれて、底は泥にでもなっているの?」

ところが、それは泥状態どころではない。
どんどん足が、沈んでいくのだ。
足首が、膝が、腿が、ズブズブと沈んでいく。
這い上がろうとしても、全然抜ける様子がない。

「誰か!誰か助けて!」

大声を張り上げても、誰もいる様子はない。

「そうだ、携帯!」

茉莉香は、バックから携帯電話を取り出し、都築のアドレスをタッチした。
しかし電話は呼び出し音すらしない。

「しまった、電池切れ?」

でも、目盛りは充分残っている。
何も反応しない電話に向かって、茉莉香は必死になって叫ぶ。

「都築さん!都築さん!隆さん!!!!」

その間も体は容赦なく沈んでいき、とうとう茉莉香の姿は消えた。
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