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第二部 旅
74、国の境
しおりを挟む船で進んでも国境までは半日かかる。日暮れよりは前に着くが、それまでは暇を持て余していた。
ジェードと離れて何人かの貴人と話をしていたリーリヤだったが、彼が船縁で一人手にした何かを見つめているのに気づいて近寄った。
「それは……」
ジェードが宮殿に来たばかりの時、リーリヤに見せた例の花の種だった。百年前にリーリヤが与えたものである。
「まだお持ちだったのですか?」
「私の持ち物の中で、これが何より一番大切だった。お前と出会った証だからな。いつもこの種を見て、お前を思い出していた」
食料として渡したはずのものを後生大事に持っていたと知ると、何やら気恥ずかしくなる。
一度会っただけの青年をリーリヤはすぐに忘れて、彼がリーリヤを想っている時もきっと自分は鼻歌でも歌いながら花の世話をしていたのだ。ジェードの一途さに申し訳なさが募る。
「もう少し新鮮な種を用意しましょうか」
百年経っても種は食べられるが、食料としての質は新しいものよりわずかに劣る。
ジェードはかぶりを振って笑った。
「種を作るための行為をするのは勿論歓迎だが、この種を新調するつもりはない。これは私の宝物だ」
百年前の出会いの印を、ジェードはこれからもずっと懐にしまっておくらしい。
彼の笑顔が、するりとリーリヤの心の中に入り込んできた。不思議な温かさを感じて心地良くなり、リーリヤも口元を綻ばせてはにかんだ。
こういういじらしいところを見ると、抱き締めたくなってしまう。どう頑張ってもリーリヤの体格ではジェードを包み込めないが、もしそうできるのならすっぽりと腕の中に閉じ込めて、頭を撫で回してやりたくなるのだ。
口づけでもしたくなる雰囲気だが、隠れる場所もないのでそういうわけにもいかない。
「よろしいんですよ、別に」
後ろから声をかけられ、びくついて振り向くとイオンが立っている。
「皆にはよそを向いているように言っておきましょう」
「そのような気の回され方をすると、余計に恥ずかしいです、イオン」
口づけしなかったからといって特に支障はない。いつでもところ構わず接触するほど節操のない男達ではないのである。
ねえ? と同意を求めてジェードの方を見上げたリーリヤは、物欲しそうな視線とぶつかって目をそらすしかなかった。
いよいよ国境が近づいてくる。花の国と人の国の境には、特に印もなくただひたすら森が広がっていた。といっても普通の森ではない。
人間が住む土地にもところどころにある、いわゆる「惑いの森」で、それのうんと広いものだ。ひとたび足を踏み入れれば容易に引き返せない。
幻獣が生きていた古代から存在する植物で、強い魔力が宿っている古代樹によって森は構成されている。毒を出したり幻を見せて、近づく者を惑わせるのだ。
花の子も滅多に森へは入らないが、植物同士、近い種というのもあって、古代樹に襲われる危険は少ない。
あの森が人間の侵入を拒むので、花の国への壁にもなっている。
「人の子に空を飛ぶ手段がないのだとしたら、ジェード様はどちらを通ってこられたのですか?」
密生している樹冠を見下ろしながら、リーリヤは疑問を口にした。花の国と人の国の間に道はある。品物を運搬するための道だ。他には近頃花の貴人が人の子の協力者を呼ぶために開いた道がいくつかあり、樹林を避けて行くようになっていた。
こちらは時間がかかる。ところがジェードは花の国に来ると決めてから、三日でたどり着いたと聞いている。
「森に入った」
ジェードによると、まともに歩けば数ヶ月かかる距離も、最も危険な道を選べば森に宿る魔力によって空間を飛んで行けるそうだ。
だが心身共に相当負担がかかる道のりである。大昔に大魔術師が一人通り抜けたという記録が残っていて、他に試した者は全滅だったそうだ。
話を聞いたイオンも仰天していた。
「よく命を落とされなかったですね。あれは千年の呪術を凝縮したような道なのですよ。普通は発狂しますし、魔力の圧に耐えきれずに、体が圧縮されるか四散するそうですから」
無茶をしたとは聞いていたが、それにしたって常軌を逸している。リーリヤも冷や汗をかきそうになった。
「無謀なことをなさいますね、ジェード様は。気が狂ったらどうするつもりだったのです」
「お前と会えない百年ですでに気が狂いそうだったからな。あんな道は何の問題もない」
そういうところはある意味もう狂っているのではと思わないでもないリーリヤだった。この方は私のためならとんでもない無理をするのだと肝に銘じておかなければならない。
船は森の上空で停止した。
いきなり攻撃を受ける恐れは低いものの、念のため森の向こうには目立たない小舟で移動する予定であった。
イオンが他の貴人と協力をしてその場で宙に小舟を編み上げる。そこへ赤薔薇のローザと白薔薇のヴァイスもやって来た。
「白百合、いつの間に髪が縮んだんだ」
「切ったのですよ、ローザ」
「そうか。僕もたまに短くしてみようかな? 僕はどんな姿になっても誰より輝いているからな。いや、やっぱり切らない! 長い方が派手に見える」
この手の会話に慣れているヴァイスとリーリヤは「そうだね」「そうですね」と適当に相づちを打っておいた。
イオン、リーリヤ、ジェードが小舟へと乗り込む。
順調にことが進めば、当分の間は花の国とも花の子達ともお別れである。
リーリヤは船に乗る面々を見下ろして、言葉をかけようと口を開きかけた。しかし、ローザが先に言う。
「待ってるから、早く戻って来いよ、白百合」
彼は赤薔薇色の長髪を煌めかせながら、真面目な顔をしてリーリヤの方を見上げていた。
「お前ならやり遂げられる」
ローザの口調は確信に満ちていた。何故そう思いますかと尋ねても、まともな返答は期待できなさそうではあった。ローザは直感で生きている花の子だからだ。
けれど何やら勇気を貰った。彼のよくわからない自信がリーリヤを元気づける。
美しく無垢な赤薔薇だけが持つ力があり、それがリーリヤに伝わってきた。
「ありがとうございます、ローザ。必ずや使命を果たして帰りましょう」
ローザは頷き、白薔薇や他の貴人達に見送られながら、小舟は進み始めた。
しばらく行くと、地上を目指して少しずつ高度を下げていく。舳先に近いところに立つイオンは魔力で舟を操っていた。
特に怪しい影を見つけることもなく、目的の地点へと小舟は音もなく着陸する。森を抜けたところで、多くの崖がそびえており見通しは良くはない。
リーリヤとジェードは舟から降りた。
森を背後にしているが、やはりここは人の国なのだと思わせる。空気が違うのだ。魔力の質が異なると言うべきか。
ジェードは腰に帯びた剣の柄を握り、気配をさぐっている。先に国には連絡を入れており、迎えの者を寄越しているからこの先で待っているはずであった。
しかし、敵が潜んでいる可能性もある。ジェードは地上が近づいてくるにつれ、警戒の色を濃くしていた。どこでテクタイトの息がかかっている者が現れるか知れず、気が抜けないのだろう。
ジェードが一人先の様子をうかがって、馬車が来ているのを確認した。
「では、イオン。私達は行きますね」
イオンはこれから待機している大船に戻って皆と合流するのだ。
小舟を浮かばせるイオンは、相変わらず不安に顔を曇らせている。リーリヤに言いたいことは山とあるだろうが、気が済むまで言っていては日が暮れてしまうというのを彼もわかっているようだ。
「ジェード殿下。どうか白百合公リーリヤをお守りください」
「ああ。約束する」
イオンは唇を堅く結び、二人から目を離さずに舟を浮上させた。魔力を示すいくらかの菫の花弁が舞い、幻のように消えていく。
「あなた達の旅路に、多くの光が降り注ぎますように」
祈りの言葉を囁くと、イオンは上昇する速度を速め、やがて空へと去って行った。
リーリヤはジェードと並んで、しばらく友の姿を見送っていた。宮殿にも異分子が入り込んでいる。互いに無事に再会できるようリーリヤも祈った。
そしてジェードと共に、待っている馬車の方へと向かう。王子が帰還するからといって、大々的に幾人もの従者を迎えに来させてはいなかった。道中目立つのを避けるため、目を引かない馬車と、御者も一人しか来ていないそうだ。
馬車に近づくと、待っていた御者が腰を低くしてやって来る。
「これは、ジェード殿下。お待ちしておりました……」
深々と礼をする若い男を、ジェードは冷ややかな目をして見下ろしている。この、御者の役目を仰せつかった男は城から手配された者であり、詳しい事情は聞かされていないかもしれないが、何も知らないわけでもないだろう。王子が花の国からひっそりと戻り、客を一人連れているというくらいは聞いているはずだ。
ジェードがいきなり剣を抜く。あまりに自然な動作であったので、リーリヤが驚きに目を見張ったのも一拍遅れてのことだった。
射るような目つきで御者に剣を突きつけると、ジェードは忠告した。
「妙な真似をすれば命はないものと思え。何かしでかす暇もなく、この刃がお前の首をはねるであろう」
御者の男は息をのんだが、このように脅されるのも承知済みといった感じで再び頭を下げる。
「殿下を裏切るなど、考えたこともございません」
感情に訴えかけるような声音ではなく、あくまで男は冷静であった。わざとらしさを避けるためなのかもしれない。ジェードのこの様子であれば、泣いて地面に頭をすりつけても何の効果もないだろう。
花宮殿でくつろいでいた時の彼とはまるで面相が違う。仮面をかぶって心を閉ざしたようで、普段と印象がかなり変わった。人の国での彼は、常にこんな顔をして過ごしているのだろうか。
ジェードは馬車の扉を開けると中をざっと確認し、リーリヤに乗るよう促した。二人が着席すると御者も定位置につき、馬に鞭をくれて馬車がゆっくりと動き出す。
「あのように、弱き者へ冷酷に接した私を軽蔑するか?」
「いいえ。驚きはしましたけど」
少々男に同情はした。ジェードに凄まれればそれだけで生きた心地はしないだろう。
「どれだけ弱そうであっても、無害そうに見えても、気を許せば命取りになる。用心するに越したことはない」
ジェードが決して居丈高に振る舞うような男でないのはリーリヤも知っている。おそらく、幾度となく敵を身近に送り込まれたので、誰彼構わず威圧しなければならなくなってしまったのだろう。リーリヤの想像を遙かに上回る危機に直面してきたのだと思われる。
リーリヤはジェードにも同情した。彼は望みもしないのに近づく人間をとりあえず敵視しなければならず、命を守るために誰にも心を開けないのだ。
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