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第一部 再会
48、この人は優しい
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白百合公リーリヤが恋というものがわからない理由は、いくつかあると菫のイオンは思っている。
彼自身の考え方もあるが、花の子という生き物の生態も関係しているだろう。
おそらくリーリヤは、花の子にとって恋というものが生きていくのに不可欠なものだとは思っていない。
花の子は土から生まれ、番を求める必要がない。
生物の求愛と交尾の先にあるのは生殖だ。よって恋い慕うという感情は本能の欲求によるもので、花の子のような生き物には備わっていないと考える者もいる。
恋をしなくても、生きていける。
我々は、一人で咲くことができる。
それは間違っているのでは、とイオンは反論しない。事実、恋人を求めずに生きている者は多い。
人の国では男女が夫婦となって子を授かり、家族という単位で一生を過ごすのが普通だそうだが、そういう文化は花の子にはない。一つの種族で固まって生活することがほとんどだ。
花の子の恋とは、何なのだろう。
戯れの遊びだろうか。独占欲や支配欲、駆け引きを楽しむゲームでしかないのだろうか。
本来番を必要としない種族による、他種族の真似事。
花の子の恋は、まやかしなのか。
――違う。
我々とて、確かに誰かを欲することがある。強い愛を抱き、狂って乱れて、時には壊れる。
そばにいたい。あなたが欲しい。あなたに欲してもらいたい。
恋は、生殖のためにあるものではないのだとイオンは断言する。それは、魂の安らぎのためのものなのだ。
誰かにとっては不要だけれど、誰かにとっては必要で。
こんなにも美しく、しかし時にはつらくさせるものもない。全ての恋が成就するわけではないからだ。
イオンは一人、廊下を歩きながら考える。
(あなたには、わからないでしょうね。リーリヤ)
ジェード王子がどれほど切ない思いであなたに触れるか、理解できないのでしょう。
恋い焦がれるジェードの瞳に共感を覚えて、イオンはたまにリーリヤに苛つくこともあった。
リーリヤは、おそらくジェードに特別な好感を抱いている。すでにジェードはリーリヤの心に一歩踏み込んでいるのだ。
しかし、その先になかなか進めない。リーリヤは己の内面に目を向けて、気持ちを解剖してみるのをためらっているように見える。
リーリヤが解釈の仕方を間違えば、彼らの関係はおかしな方へ進んでいくだろう。母親のようにジェードを慈しみ、リーリヤは満足してしまう。
それはジェードの望みではないし、一度そうなってしまえば後戻り出来なくなる。
(リーリヤ。皆を愛するリーリヤ。あなたにも、特別な愛というものを知ってもらいたい。それは、とても……)
イオンは目的の場所である書庫の前で一度足を止め、自嘲気味に呟いた。
「とても、苦しいものでもありますけど」
一人で歩いていると、こうしてとりとめのないことを考えてしまう。かぶりを振って、書庫へと入っていく。
人の子というものにあまり興味がなく、関わり合いもなかったため彼らに関する知識が薄れてきている。今まではそれでもよかったのだが、こうも続々宮殿にやって来ると無視もしていられない。
経験上、これは嵐の前の静けさといったやつなのだ。どういった種類の嵐で、何が起こるのか見当もつかないが、可能な限り準備はしておくべきだろう。
人の子の国の歴史や、石持ちのこと、彼らの魔術について少しでも多く知っておかなくては、と思い、書庫にやって来た。
が、中に入ったイオンは足を止めて硬直する。
書庫には机と椅子が置かれて、誰でもそこで書物を読むことができるのだが、そこには先客がいた。
上品な赤紫の髪。数少ない常識人で会合を仕切ることを任され、宮殿の秩序を守ろうと尽力している花の貴人。天竺牡丹公ギアルギーナが座っている。
まさかこんなところで出くわすとは考えもしなかったイオンは、息も止めてギアルギーナを凝視していた。
とっさにきびすを返しそうになったが、向こうがこちらに気づいて顔をあげた。
「菫公イオン」
ギアルギーナはごく普通の声音で声をかけてきた。こちらも顔をひきつらせてはいられない。
「……ご機嫌よう、天竺牡丹公ギアルギーナ」
あからさまに避けているわけではなく、すれ違えば挨拶はしているし会話もするが、二人きりになるのはいつぶりだろう。いつもであれば互いに侍従を連れているし、こんな密室では出会うことなどまずない。
窓から差し込む光が、ギアルギーナの姿を照らしている。
肩にかかるくらいの長さの髪。大輪の天竺牡丹のように顔立ちは華やかだが、表情はいつも引き締められておりやや厳しさを感じる。
髪に近い色をした衣服がよく似合っていた。
イオンはギアルギーナから目をそらす。今すぐ部屋の外へ逃げ出したかったが、それではあまりに無礼だ。
一応用事があって来たのだし、さがしているものを見つけてさっさと出て行こう、と書架へ歩き出す。
「何かさがしているのか」
「ええ、まあ」
ギアルギーナの声を背中で聞く。
並ぶ背表紙に目をこらすが、気もそぞろだった。何でもいいからいくつか抜き出して行ってしまおう、と焦る自分と、取り乱すんじゃないと叱る自分がいた。
平常心を保って、目的を果たさなければ。そうでないと、また、私は――。
目線を上げると、人の子に関することが書かれているらしい本の題字が目に飛び込んできた。ちょうど求めていたような分野だ。
手を伸ばしたが、届かなかった。つま先立ちをしても、まだ足りないから舌打ちしそうになる。
イオンは小柄な花の子で、それで劣等感を抱いたりはしないが、時折こうして不便な目に遭うことはあった。
踏み台がどこかにあるだろうが、そのために移動して彼の姿が視界に入るのが耐えられない。一刻も早くここから立ち去りたい。
思い切り手をのばした時だった。
「これか」
ふと背後に気配を感じて、イオンは影に包まれる。
ギアルギーナが本を抜き出す。
目を見開いたイオンは、ギアルギーナを呆然と見上げた。
彼の美しい顔に視線が吸い寄せられたまま、差し出された本をのろのろと受け取る。
「……ありがとう、ございます……」
その顔立ちは凛々しくて独特の気品があり、いつだって見とれてしまう。鼓動が速まっているのを感じた。
「イオン」
ギアルギーナがこちらを見下ろして名前を呼んだ。
「あれから、何か困っていることはないのか?」
見つめ合いながら、イオンはどうにか頭を働かせた。
返事をしなくてはならない。表情を作らなくては。変な空気になってしまう。
――笑え。笑うんだ。
礼儀を失しない程度の、貴人としての控え目な微笑みを浮かべるよう自分自身に命令する。他意のない、微笑みのための微笑みを。
不自然に見えないようにと祈りながら口角を上げる。
「お気づかい感謝します。何の心配もありません、天竺牡丹公。それでは私は、本も見つかったことですし、失礼いたします」
顔を背けて離れようとした途端、腕をつかまれた。
「……イオン、本当に何もないのだな?」
名前を呼ばれると、胸にこみ上げてくるものがあった。それを全部強引に、奥底へと押し込める。
わななく唇をイオンは噛みしめた。
この人は優しい。胸が痛くなるほどに。
悪いのは彼ではないのだ。
「平穏に暮らしておりますよ、ギア。あなたのおかげです」
腕をつかむ力はそれほど強くはなく、加減されている。イオンは自分の手を引き抜いて、歩き出した。
ギア。それはイオンだけが呼ぶ彼の愛称だった。この名を口にする時、かつては喜びが溢れ、今は苦々しく切なくなる。
強がって、あえてそう呼んだ。
廊下は、室内より光が満ちていて安心する。イオンは胸一杯に空気を吸い込んだ。
(彼も、よく私にああやって声をかける気になるものだ。やはり面倒見が良いからだろう)
――あなたと恋人ごっこをしていると、みじめになるだけなんです! ですから、もう、お別れしましょう!
一方的にそう言って去った恩知らずの男を、今も彼はこうして気にかけてくれている。
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