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58 私達の楽園
しおりを挟む「リリアーナ」
セフィドリーフに名を呼ばれ、リリアーナは彼に視線を向けた。
「人々をお救いくださいと、祈りを捧げていたのは君か?」
「そうです。特に聖獣様に向けていたわけではありませんでしたが……」
「君の声が聞こえたおかげで、私はこの騒ぎに気づいたよ」
セフィドリーフは二つ足の姿に変化した。狼は消えて、そこに立つのは銀色の髪を背中に流す、一人の美貌の青年だ。人間ではない証に、頭には尖った耳、後ろにはふさふさとした尾が生えている。
マデリンとリリアーナは驚いているようだったが、声は発さなかった。
「リリアーナ。君は神官だったな。私がこれから言うことを、神官長に伝えてくれ。これが聖獣の王、セフィドリーフが出した結論だ」
結論、という言葉に、その場にいる人間達はにわかに緊張した。
セフィドリーフは、イリスや二人の女性を眺めて口を開く。
「私は聖なる山への道を閉ざす。人間が容易に私のもとへたどり着けないようにしようと思う。しかし、私は山を去らない。君達を見守り続けることに決めた」
考えもなしに地上へ降り立ち、人々に混乱を招いたことをセフィドリーフはいたく反省していると言った。
「私は君達とは異なる生き物だ。群れて社会を築いて暮らさないから、常識が異なる。君達の正義は私の正義ではないんだ。無闇に願いを叶えるのは人間のためにはならないだろう。私は聖獣の王だから、導くのは同胞だけ。君達も君達の手で同胞を導くべきだ。けれど私は君達をこの世界で暮らす仲間だと認識している。いつまでも見守ろう。君達を信じるよ」
聖獣の王は、人間を滅ぼさないことを誓う。セフィドリーフは宣言した。
「そして、善き祈りが私のところに届いた時は、力を貸そう。リリアーナ、先ほどの君の祈りのようなものだ。誰かを思いやる、純なる願いは聖なる山に伝わるだろう。人間の手に余るような事態が起きた時は、私が助ける。ただし……」
セフィドリーフは笑った。
「私は神様じゃないんだよ。ただの一頭の獣に過ぎない。好き嫌いがあるし、全てに平等にはできない。おまけに気紛れだ。あんまり頼りすぎては困る。忘れるな、私は風だ。四つ足と二つ足の姿を持つ、気ままに生きる風の狼だよ」
これが、セフィドリーフの方針だった。悩んだ末に出した結論。
人間に深く干渉しすぎず、しかし離れすぎることもない。彼は人間の、これまでの自分に対する所業を特に責めもせず、見守り続けるという。
――あなたは、やっぱり、優しすぎますよ。
同胞から呆れられるのも無理はない。だが、イリスはセフィドリーフのそういうところも好きだった。
「マデリン。君は息子に感謝しなくちゃいけないよ。私がこう思えるようになったのも、全て心優しい君の息子のおかげだからね」
喋りかけられたマデリンはまだ顔色が悪く、眉間にしわを寄せたままセフィドリーフに眼差しを注いでいる。
「……さて。それで、マデリン・トリーヴェルダ。君は今まで随分息子を苛めてきたらしいな。どんな理由があったとしても、それは許されることではない。君には罰を受けてもらおう」
予想もしない言葉に、イリスは慌てた。まさかセフィドリーフがそんなことを言い出すとは。イリスは母が責められるのは望んでいない。
人に手を下すような方ではないはずだが、イリスを大切に思うあまり彼女に報復したくなったのだろうか?
自分のことではつむじを曲げない彼だが、イリスのこととなると違うのかもしれない。
でも、駄目だ。母が傷つけられるのも、セフィドリーフが傷つけるのも。
やめてください。そう言いかけたイリスの肩を、セフィドリーフがつかんで引き寄せた。
「君の息子は私がもらう。この子を私の番にする」
「……え?」
引き寄せられて彼に体をくっつけたイリスは、ぽかんとセフィドリーフの方を見上げる。セフィドリーフは片方の口の端を吊り上げて笑んでいた。
「大嫌いな聖獣に、君の息子は貰われるんだ。これが君への罰だ、マデリン」
え、え、とイリスは困惑の声をあげ続ける。頭が真っ白になっていて、意味がよく理解できない。
もらうって言った? 番って?
マデリンは息子と同じように硬直していて、リリアーナだけが「あらあら」と鷹揚な反応を見せている。
「あの、あの、あの、セフィドリーフ様……」
「君はこれからも私と一緒に暮らすんだよ、イリス。でも、閉じた山で私の番となって暮らすとなると、何百年も生きることになるだろうな。成長したのを喜んでいたところ悪いけど、君はそのままの姿で私と長く一緒にいることになる。もう老いないんだ」
イリスは一瞬、息をするのも忘れていた。セフィドリーフがさらりと話した内容が、ゆっくりと頭に浸透していく。
それって、つまり。
「私は、セフィドリーフ様と、ずっと一緒にいられるんですか?」
「そう。ずっと、ずっとね。まあ……君が山の暮らしに飽きたら地上に帰すこともできるから心配しなくていいよ」
「私は、これからもセフィドリーフ様をお守りしてもいいんですね? あなたと一緒に生きていけるんですね……?」
目頭が熱くなり、ぶわりと、涙が浮かんだ。
視界がゆらゆらと揺れて歪む。溢れる涙が次々に頬を伝っていって、止められそうになかった。
嬉しい。こんなに嬉しいことがあるだろうか。彼のそばにいることを諦めなくてもいいんだ。別れを恐れる必要もないんだ。彼を悲しませる心配もなくなる。
ずっと、一緒。その言葉が心を温めて、全ての不安が払拭される。
「君を泣かせるつもりはなかったんだが……」
セフィドリーフが片手で抱き寄せ、頭を撫でてくる。
どうにか泣きやもうとするが、涙腺がどうかしてしまったのか、涙はとめどなく溢れ続けた。
「……アエラスの予言が当たったな」
と、セフィドリーフは苦笑していた。
何度かイリスの頭を撫でて落ち着かせると、セフィドリーフはリリアーナのもとへと近寄った。腰を落とし、彼女の足に手をかざす。
柔らかい光にリリアーナの足は包まれて、セフィドリーフは頷くと手を差し出した。
「立って。リリアーナ」
リリアーナは不思議そうな顔をしていたが、素直に従ってセフィドリーフの手をとり、足に力を入れる。
あっさりと彼女はその場で立ち上がった。
まあ、とリリアーナは驚きに目を丸くしている。
「あの時に助けてやれなくてすまなかったね。これは個人的な礼だ。イリスが私に良くしてくれたから、彼の母の友人である君に礼をする」
「聖獣様。素敵な贈り物をありがとうございます」
「これからも、人々が善き祈りを捧げることを私は望む。そして信じよう。いつか聖なるものと人々が結ばれ、皆が健やかになり、楽園が訪れることを」
リリアーナは優しげな顔に微笑を浮かべ、彼の言葉を噛みしめるように頷いた。
楽園は遠い。けれどそこに至る道を、皆はまだ諦めていないのだ。
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