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26 人の国の王
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それは、イリス・トリーヴェルダが生まれる何百年も前のことだった。
この地方にはいくつもの小国が散らばっており、幾度となく小競り合いが繰り返されていた。
まだ五聖が地上にいた頃で、彼らはさほど人間に関心がなかった。戦争が始まっても、蟻同士が戦って縄張り争いをしているくらいにしか見えない。ああ、やっているんだな、という感じであった。
人が住み着くより前から聖獣達はそこにいて、だからそこは彼らの土地だった。散歩もする。どの聖獣も障害物のない空を移動するのを好み、獣の姿で天を駆ける姿を多くの人間が目にしていた。
人間にしてみれば彼らは自然の一部であり、意思を持ったつむじ風のようなものだった。遠目から見ては彼らを崇め、祈りを託した。
水、火、土、闇を司る聖獣達はいずれも人間に興味が薄く、気紛れに散歩する他は人里になど下りてこない。
ただその中で唯一、よく顔を見せたのは風を司る狼、セフィドリーフだった。
決して積極的に関わり合いを持とうとはしなかったものの、山から下りては興味があるのかないのかよくわからない顔で人間達のすることを見つめていた。
畑仕事に精を出す農民もセフィドリーフを何度となく見かけたが、さほど言葉を交わしたことがなかった。
「君達はそうやって、いつも仕事をしているのか?」
「いつもではありません、聖獣様。お休みの日もありますよ」
「ふうん」
こんな具合の他愛ないやりとりがたまにあるばかりだ。
銀色の被毛を輝かせる聖獣は、伏せて前足に顎をのせ、暇つぶしのように人間を観察していた。
その鋭い牙や爪を見て、人々は内心震え上がっていた。魔法を操ることからいっても、彼の機嫌を損ねれば一撃で命を奪われることは間違いない。
人間達はびくつきながらも彼の不興を買わないように暮らしていた。
セフィドリーフはこれといって人間を脅かしたこともないし、その存在を有り難がって敬う者が多かったが、迷惑がるものも当然いた。
彼は人々の身近な神だった。創造神から使わされた神。
どう付き合ってよいのかわからない。戸惑いは不満に変わり、その不満は為政者にぶつけられるようになった。
「リィ様、今年は山に面白いキノコが生えましたよ。叩くと音が鳴るんです。楽器になるんじゃないかな」
聖なる山で微睡んでいるセフィドリーフのもとに精霊アエラスがやって来て、笑いながら報告する。
なんでもそのキノコは噛んでも音が出るそうだ。それでは咀嚼する時に随分とうるさいのではないかと思う。
後で試しに食べてみようか。
聖獣はそう頻繁に食事をしなくても生きていくのに支障はない。食べれば力は増すから、場合によっては積極的に食物を摂取することもあるにはあるが、普段はどの聖獣もさほど食事をとらないのだ。
けれど、セフィドリーフはものを食べるのが好きな方だった。味や歯触りが違うのが面白い。生きるためというよりは娯楽の意味合いが強かった。
(人間達は、腹が弱いからだろうが、食材をいろいろ工夫して食べているみたいだったな。混ぜたり重ねたり、焼いたり浸したり。あれはちょっと興味があるな)
聖獣だって調理をしないでもないが、大体は生でバリバリ食べる。二つ足の姿になれば果物の実を絞って器に注いで飲んだり、発酵させて酒にする。でも、それくらいだろう。大体誰もが物臭なのである。
そよ吹く風に草が揺れている。その動きを見つめながら、セフィドリーフはキノコのことを考えつつ獣の姿で横になっていた。
すると、どこかから声が聞こえてきた。人の声である。珍しい。
聖なる山は他の山と違ってどこもかしこも白く、間違って人間が迷い込むといったようなことがない。今まで数度、迷子の子供を地上に送り返したことはあったが、こうして複数人の大人の声がするのは稀なことだった。
「陛下……! 引き返しましょう! やはり危険です。ここは聖獣の縄張りです!」
「知っている。だから来たのではないか。お前は今更何を言っているのだ」
「交渉なら我々がやりますから、陛下御自らお出ましになる必要はございません! 相手は獣ですぞ」
「人と同じ言葉を喋るそうじゃないか。何が危険なのだ? 誰も風の聖獣に傷つけられたという報告は聞かないが。大体私はまだ会ったことがない。会ったことがないのだから危険かどうか判断はできない」
「陛下! お願い申し上げます! お戻りください!」
「うん、お前達は帰ってもいいぞ。ご苦労であった。ここからは私が一人で行こう」
「そういうわけには……ああ、陛下!」
鷹揚な男の声と、懇願の声、悲鳴。
セフィドリーフは聴覚も優れているから、その人間達のやりとりはかなり離れたところからでも聞こえていた。
三頭の馬の足音と人声が近づいてくるのを感じながら、しかしセフィドリーフは微動だにしなかった。草むらの上をひらひら舞う、蝶に似た葉を見るともなしに見ているだけだ。
ついに足音はすぐそばまで迫ってきた。
誰かが馬から下りたようだ。
「風を司る、偉大なるセフィドリーフよ。お休みのところ申し訳ないが、私と話をしてはくれまいか」
セフィドリーフはゆっくりと首をもたげて、声のした方を向いた。
甲冑を身につけた三人の男がいる。二人は真ん中の男の護衛らしく、兜の中の顔は恐怖で青ざめていた。一方真ん中の男は脱いだ兜を脇に抱え、白い歯を見せて楽しそうに笑っていた。
真ん中の男が続けて言った。
「私の名は、フェリクス・フェンドリト。フェンドリト王国の王である」
フェンドリト王国。そんな名前は聞いたことがあるようなないような。
人間の住処の名前はころころとすぐ変わるから、記憶にとどめておくのが無駄なのだ。セフィドリーフにとっては山は山、平野は平野で、名前などない。それを現れては消えていく人間達が代わる代わる名付けていくのだ。人間は名前を付けて所有をした気になったり、知った気になるのが好きと見える。
「話をしてくれるか、セフィドリーフよ!」
はきはきと喋っている。随分と元気の良い男である。
「まあ、いいけど。暇だから」
「そうか! 恩に着るぞ。実は前々からあなたと話がしたかった。だが多忙でなかなか来られなくてな」
フェリクスは馬にくくりつけてある荷をほどき始め、それを掲げて見せる。
「酒だ! セフィドリーフ。あなたは酒を飲むだろうか? いらぬなら私一人で飲むが」
「飲めるよ」
「それはいい! なんだか腹が減ったな。昼餉にしようではないか、お前達。幸いなことに今日は天気が良いしな。青空の下で食べる飯はうまいぞ!」
護衛の騎士二人はげっそりとした表情をしているから、会話の内容と合わせて普段からの苦労がどことなく察せられた。
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