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20、私は救われた
しおりを挟む再び黙っているうちに、空は夕焼けに染まっていく。あんまりのんびりしすぎていると、館に戻るのが遅くなってしまうだろう。
そう思いながらも、刻々と移りゆく景色が美しく、エデルは立ち上がることができなかった。
後少し。あの真っ赤な夕陽が沈む、最後の瞬間が見たい。
藍色の闇が忍び寄る。鳥が飛び立ち、ねぐらへと帰っていく。密やかな夜の気配が空を覆っていった。
「……エデル」
不意に沈黙を破って口を開いたユリウスが、懐から短剣を取り出した。身を寄せて、こちらに握らせてくるからエデルは困惑する。
「あなたは、すごくつらい目に遭わされてきましたね。魔族がさぞ憎いでしょう。俺も魔族です。もしそうして気が済むのなら、俺を殺してください」
ユリウスはいたわるように目を細めて、手はしっかりと、短剣を握らされたエデルの手を包んでいる。
エデルはユリウスの顔を凝視していた。
「殺すのは抵抗がありますか? そうですよね。あなたは優しいもの。でしたら、俺の目を抉ってください。耳をそいでもいいですよ。指を切り落としますか? 何でもいい。俺を罰してください。その方が俺も気が楽だし、あなたも少しは鬱憤が晴らせるかも」
もっと早くに助けるべきだったのに。彼の目には後悔による憂いが滲んでいた。
「エデルに殺されるなら、刻まれるなら、幸せです。俺のご主人様」
何かの儀式で、二人で短剣を捧げ持っているかのようだった。
ユリウスがゆっくりとうなだれていく。刑に処されるのを待つ、罪人のように。
そのために、私を今日ここまで連れ出したのだろうか。誰の邪魔も入らないよう、こんな遠い、ひと気のないところまで。
エデルは手を引き抜くと、短剣を捨てた。
「顔を上げてくれ、ユリウス。どうして私が、可愛いお前を傷つけることができるんだ」
半ば予想していた言葉だったのか、ユリウスは顔をしかめている。
「俺は、あなたをめちゃくちゃにした魔人と同じ種族なんですよ。半分だけだとしても、確かに魔人です。許さないで」
「お前は私にとって、ユリウスという一人の人間でしかない」
エデルはユリウスの頬に両手をあてて微笑んだ。
「世界でたった一人の、愛しい子だ。どこで生まれようが、どんな血が流れようが、関係ないんだよ。なあ、聞いてくれ。私は一時、すべてを失ったと思った。私自身さえも。けれどお前が現れて、そうでないことを知ったんだ」
昔日の欠片を、苦痛なく思い出せるようになってきた。バラバラになった心を、彼が再生させたのだった。
こんな汚れた惨めな私をこれほど愛してくれる者は、この世でただ一人。ユリウスだけだ。
「お前は私の全てだよ、ユリウス!」
力強く、エデルは囁く。
ユリウスは目を大きく開き、何かをこらえてでもいるかのように眉をしかめる。形の良い唇がわずかに震えていた。
「俺はあなたが欲しいんです。浅ましい男だ。欲しくて欲しくてたまらない。殺すなら、今のうちです」
落ちた短剣を手探りで拾おうとするので、エデルはその手をつかんで止めた。
「お前のものにしていい。このエデル・フォルハインをお前は買った。もう私は、身も心もお前のものだよ」
エデルが服を脱ぎ始めるのを、ユリウスが呆然としながら見つめている。
「抱いてくれ、ユリウス」
「あなたが……そう仰るのは、俺に恩を返すためでしょう? エデルは律儀な方だから、」
「違う。お前が好きだからだよ。愛しているから抱いてほしいんだ。お前の愛を私にくれ」
そそがれる愛はいつも本物だった。いつしかエデルはその愛に溺れ始めていた。
私こそ浅ましい男だと、自分を罵りながら。息子のように思った子から与えられる快楽にすがり、嬌声とともに彼の名を呼ぶ。
少し前は、確かに彼に何か返せればと思い体を許した。現実から逃れるために絡み合った。けれど今は違う。
「俺……は、あなたの体が欲しくて、たまらなくて……」
「知っている」
「卑劣なんですよ」
「そんなことはない。お前はいつだって私の体を好きにできたのに、そうしなかった」
力ずくであれ、言葉であれ、賢いユリウスはすぐにエデルの肉体を手に入れることが可能だった。けれど常に、エデルの意向を確認していたのだ。
それが、どんなにいじらしく感じられたことか。
魔人の欲求の強さを、エデルは嫌というほど知っていた。ユリウスが自分に好意を抱いているなら、本能はエデルを蹂躙することを渇望しただろう。彼の言うように、確かに半分は魔族なのだから。
そんな本能と戦って、ユリウスはエデルを尊重し続けた。
「お前は、私が触れるなと言ったら、この世の終わりまで指一本触れなかったはずだ。違うか?」
ユリウスは泣き笑いのような表情を見せた。
「俺は、一生あなたのしもべです。ご主人様の命令に、従わないわけがないでしょう?」
エデルはその場に立ち、大空の下で裸体をさらした。
長きに渡り無数の魔人に汚されてきたとは思えないほど、肌には傷跡ひとつ、染みひとつなく、奴隷としての商品価値を保ち続けている肉体。
実年齢よりは遙かに若い外見は瑞々しく、見る者の情欲をあおる。
エデルはユリウスにまたがると、口づけをした。火を移すかのように。その与えた火が、瞬く間に彼を焦がすのを想像しながら。
これが私の答えなのだと、ユリウスに教える。
ユリウスはすぐに応じてきた。瞳が鋭くなり、残忍な魔族の雰囲気を漂わせる。そんな様子すら、愛おしく思えた。
ユリウスがエデルの体を愛撫して、肌に舌を這わせ、胸の飾りを柔く噛む。つとめて優しく、しかしこらえきれない欲望を感じた。
エデルの脱いだマントを敷物代わりにして、ユリウスはそこにエデルを組み敷く。
「あなたが欲しかった……エデル様……」
「思う存分、好きにしてくれ。私がそう望んでいるんだ」
二人はそこで、長いこと交わり続けた。
周囲は刻々と暗くなり、エデルの下腹部の淫紋が青白く浮かび上がっている。
過剰なまでに感じるように改造された体には、いつだってその行為は刺激が強い。熱い塊が内部をこする。奥を穿つ。
何度果てても、まだ欲しかった。
愛してほしい。長いこと、誰も私を愛してくれなかった。踏みにじられるために存在し、蔑まれるために繋がれていた。
けれど今は、ユリウスが愛してくれる。
「は、あ……嬉し……いっ、ユリウス……!」
何度も腰を打ちつけられて、背中をしならせながらエデルは笑い声をあげた。幸福でたまらなかった。
息を荒くしたユリウスが、獣のようにエデルのうなじに噛みつく。何をされても感じてしまって、恍惚とした心地になった。
疲れ知らずのユリウスと、飽くことなく絡まり続ける。どんな姿勢が魔人が気に入るのか、エデルはよく知っていた。挑発するような格好を見せると、ユリウスは心底嬉しそうな顔をする。
「ユリウス……ユリウス……」
名前を呼ぶごとに、彼と魂までも絡み合っていくかのようだった。涙が出そうになるほど幸せで、強く、かつての従者にしがみつく。
――やっと、私は救われたのだ。
◇
「これは、こうして見てみると、案外美しいものだな」
裸でマントの上に横たわっていたエデルは、体を起こして淡い光を放つ淫紋に触れた。隣にはシャツを肩にひっかけているユリウスがいる。
「お前と私を繋ぐものの一つだと思うと、愛おしく思えてくる」
体まるごと厭わしく思っていたのに、今ではこの印があることが嬉しい。ユリウスのものであるという証拠なのだ。
「エデル、俺はあなたのこと、奴隷なんて思ってませんよ」
「じゃあ、情人というのはどうだ?」
横になって、ユリウスの体に額を寄せる。
「情人?」
もう、エデルはユリウスの主人を名乗ることはできない。ユリウスがエデルの主人だと言えば、彼は嫌がる。
魔人同士の関係というのは、とても淡泊だ。彼らは家族という社会の構成単位をあまり重んじていない。
妻よりも愛人を可愛がるのが普通だった。快楽を分け合い、相手を好ましく思って寄り添う。
「……いいですね」
この件で言い合うことは避けたいらしい。複雑な笑みを浮かべたユリウスは、エデルの顔をのぞき込んだ。
「もしあなたが全てを壊したいのなら、俺が叶えてあげましょう。エデルのために、みんなみんな、滅ぼしますよ」
いつか言ったようなことを繰り返す。その優しい提案に、エデルは笑って首を横に振った。
「いいんだ。私は決めた。この世界で、お前の隣で生きていく」
エデルは夜空の星に手をのばした。満天に輝く星は、昔と変わらない。
しかし世の中は大きく変化した。
人間の英雄と言われたエデル・フォルハインは徹底的に虐げられ、かろうじて発狂せずにユリウスに救われた。
あの頃の、人間の世界はもう戻って来ないだろう。立ち上がり、魔人を根絶やしにしようという気概はエデルにはなかった。
エデルの生命はユリウスの手に預けたのだ。彼と共にいたい。彼の愛を貰い、彼に愛を授けたい。それだけが願いだ。
「ずっと、一緒にいよう」
私に笑顔を取り戻させてくれた愛し子に、全てを与える。
ユリウスが微笑んで、エデルの体に自分のマントをかぶせた。
黒い巨大な鳥が、翼の下にエデルを守っているかのようだ。それがとても心地良い。この暗闇が今のエデルのよすがであった。
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