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6、生きていて

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 * * *

 火の手はもうすぐそこまで迫っていた。
 額に滲む汗を手の甲で拭ったエデルは、馬の上で歯噛みする。
 もう、とうにわかっていたことだった。これは悪足掻きにすぎない。
 人間は敗北する。魔族に蹂躙される。

 数も力も、向こうが圧倒的だったのだ。最初から勝ち目がない戦いだったが、奇跡を信じてエデルは戦い続けた。
 辺境伯として普段から戦いの中に身を置き、時折現れる魔族を斬っていた。経験があるからこそ早々に理解した。

 もはや、これまでだ。
 眼下に広がる景色には、あちこちから黒い煙と炎が上がっている。どの町も村も焼かれているのだ。丘から見下ろしてみると、黒い粒のようなものがどこでも蠢いているのがわかる。あれが全て魔族なのだ。別の部隊も飛来してくるだろう。

 エデルは剣を握る手に力をこめた。どれほど力んだところで、何も得られない。救えない。
 数え切れないほど魔族を斬ってきた剣は名刀だったが、刃こぼれが酷く、血や脂がこびりついて使い物にならなくなってきている。

「エデル様……」

 名前を呼ばれてはっとした。
 隣には馬に乗る少年がいる。唯一残ったエデルの従者で、名前はユリウス。腰には剣を帯びていたが、エデルは一度も彼に剣を抜かせなかった。まだ戦闘に耐えられる技術を持っていないからだ。才能の片鱗は見せていたが、今の時点では足りない。

 ――この子だけは、生かさなくては。

 絶望に冷えていた心に、願いが燃える。ユリウスだけには生きていてほしい。何もかも失って、しかし自分にはまだこの子がいるのだ。

「ユリウス、よく聞いてくれ」
「はい。俺、エデル様のためなら何でもします!」

 剣を鞘におさめると、エデルはユリウスに笑いかけた。

「私とお前はここでお別れだ。私は今から陽動で東に走る。お前は西に行け。そちらはまださほど荒れていないから、身を隠す場所もあるはずだ。少しおとなしくして、それから周りがいくらか落ち着いたら……」
「待ってください!」

 ユリウスが目をむきながら大声をあげる。

「陽動って、なんですか? 応援も来るはずがないのに! 敵をおびき寄せて、どうするつもりなんです? それに、どうして俺だけ逃げなくちゃならないんですか!」
「私は生き残りと合流するよ。王都はもう落ちたが、全員殺されたわけではないはずだからな」
「でも……でも、奴らは人間を皆殺しにするつもりなんだ! 殺されちゃいますよ、エデル様!」
「ここにいても殺される」
「俺も一緒に死にたい!」

 ユリウスが目に涙をいっぱいためながら訴える。そんな彼が愛おしくて、とても厳しい言葉などかけられそうになかった。
 結婚してすぐ伴侶を失い、子供もいなかったエデルは、ユリウスを我が子のように思ってきたのだ。

「そう、魔族は人間を皆殺しにするつもりだろう。けれどユリウス、お前は半分、人間じゃない」

 エデルの言葉に、ユリウスがはっとする。エデルは続けた。

「その事実が、どれほどお前を傷つけただろう。魔族にも人間にも虐げられて、さぞ辛かっただろうな。だが、今はそのことに感謝しているよ。半魔人は確かに魔族の中では嘲られているが、殺戮の対象にはなっていないという話だ。お前なら逃げられる。逃げてくれ」

 おそらくこの先は魔人が支配する世界となる。その中で差別の対象となっているユリウスが生き抜くのは容易ではないだろう。しかし半魔人も少ないがいるにはいるそうだし、どうにか生きる道が見つかるかもしれない。
 それが、それだけが今のエデルの希望だった。
 馬を降りて、エデルは自分の荷物から使えそうなものを分けてユリウスの馬に積む。

「待ってください……! ねえ! 嫌だ! エデル様、そんなこと言わないで! 俺を一人にしないで! あなたのいない世界で生きてたって、意味なんてない!」

 泣き叫びながらユリウスも馬から飛び降りて、作業をするエデルにしがみついてきた。

「どうして俺を引き離そうとするんですか?! 俺が嫌いになった? 半分魔人だから? 嫌いでもいいです、お願いだから、あなたのそばにいさせてください!!」

 胸が引き裂かれそうな声に、エデルは強くユリウスを抱きしめた。

「わがままを……許してくれ。お前の気持ちは、よくわかっているけれど、お前には死んでほしくないんだよ……」

 一緒に死ぬか、ユリウスを逃がすか、そのニ択しかない。ユリウスの希望は一緒に死ぬことだろうし、それを叶えてやる方がいいのだろう。
 だが、エデルには耐えられなかった。
 敗北を受け入れて、全てを壊され、最後の大切なものまで八つ裂きにされるなど。

「私は酷い男だ。お前の願いを叶えずに、私の願いを叶えてくれと頼むのだから」

 生きてくれ、生きてくれ、とエデルは繰り返す。
 抱きしめられながら、ユリウスはしゃくりあげていた。
 ひとしきり泣いてから、ユリウスは言った。

「お、俺……、あなたに救ってもらってから、何一つ恩を返してない……。ここであなたの言うことを聞いたら、恩返しをしたことになりますか……?」

 エデルは涙をこらえながら頷いた。自分がどれほど酷なことを言わせているか自覚はある。
 恩など返す必要はないと、言ってやれない。頷くしかなかった。

「じゃあ、俺……、行きますよ。一人で、行きます。そうしたら、エデル様は幸せなんですね? 俺、あなたのこと助けてあげるような力がないから、これくらいしかできない。弱くてごめんなさい」

 震えているのがユリウスなのか自分なのかわからない。きつく抱きしめて、ユリウスの柔らかい髪を何度も撫でる。小さな角が手に触れた。

 ――私こそ、すまない。救ってやれなくて。お前をひとりぼっちにさせてしまう。

 大軍が移動する気配がする。おそらく一帯を焼け野原にでもするつもりなのだろう。背後の森が燃え上がっている。

「さあ、もう行け。気をつけて」

 エデルはユリウスを馬に押し上げ、自分もすぐに馬にまたがった。

「エデル様も、どうか生きてください」

 真剣な眼差しで、ユリウスが振り返る。約束はできなかったが、エデルは「ああ」と返事をした。最後まで戦うつもりではいるが、おそらく生き残ることは不可能だろう。

「また会いましょう。いつかあなたをさがしに戻りますから」
「行け、ユリウス!」

 一帯の気配に神経を集中させながら、エデルは剣を抜いた。ユリウスが逃げるのにはまだ間に合うはずだ。自分もまだ大軍と接触せずに安全な方へ抜けられる。
 馬を走らせるユリウスは、名残惜しそうに振り返りながら声をあげた。

「必ずですよ、エデル様……! 俺、あなたのことを……!」

 何を言ったのかは聞き取れなかった。
 はるか遠くより、遠雷のような雄叫びが響いてくる。魔王の復活を祝う声が地をどよもす。血に飢えた悪意が迫ってくる。
 エデルも馬を走らせ始めた。

 これでいい。あの子さえ生きていてくれたらいい。私は潔く散ろう。
 すまない、と繰り返しながらエデルは馬を駆った。
 まだこの時は、死よりも辛い運命が待ち受けているとは想像もしていない。

 生き残りの人間と合流し、最後まで徹底抗戦した。その後、「最も魔人を手にかけたとされるエデル・フォルハイン辺境伯を差し出せば他の者は助けてやろう」という提案を受け、人間に裏切られたエデルは魔人に引き渡されたのだった。
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