ねえ、センセ。―粘着系年下男子の憂鬱

ゴトウユカコ

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センセ、と永遠のキスでささやいて_10

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「杏ちゃーん、いつ結婚するのー!?」

 現代文の教科書を手に廊下を歩いていると、途中の教室から顔を出した生徒が声を張り上げた。

 体育館で蒼くんがほぼ全校に近い生徒の前でプロポーズしたのも、そして生徒たちに担がれるようにして模擬結婚式をしたのも1ヶ月前。
 それは、蒼くんの姿が高校になくなってからの時間と等しい。

「まだ先です」

「えー! でもそれ、結婚指輪じゃないのー?」

「これは婚約指輪」

「まだなんですかー? もう公認だし、早くしないと成瀬先生とられちゃうよー」

「そうそう、成瀬先生、大学生だし年下なんだからー」

「そう言われても、じゃあ明日、ってわけにはいかないの」

「そうかもしんないけどー。早く結婚式の写真見たいのに!」

「どうせ、成瀬先生を見たいだけでしょ?」

「だって成瀬先生、絶対かっこいいもーん。絶対絶対見せてください!」

「はいはい。わかったから、そろそろ授業でしょ」

「はあーい」

 きゃあきゃあと騒ぎながら中に入っていく生徒たちに思わずため息をつきながらも、授業をする教室へと向かいかけてふと視界の端を見知った姿が横切った。
 流れるような黒髪をなびかせて、友人たちと笑いながら私の方を見ることもなく歩き去っていく。

 米川さんだ。

 風の噂では、卒業したら海外に留学し、大学も日本は希望していないという。
 進学クラスでもトップクラスの彼女がその選択をした理由を知りたくもなければ、詮索するのも無意味だ。

 蒼くんに対しても私に対してもどう折り合いをつけたのかはわからないけど、彼女の嫌がらせはそれどころじゃなかったせいか、気づけばなくなっていたし、非難されてからは顔を合わせたり言葉を交わすこともなかった。
 もともと3年生を受け持っているわけではない私が、3年の生徒と接点をもつ機会などあるはずがなかった。
 相手から接触してこない限り。

 だから、たぶん、これから先も私と米川さんの道は交わることはないのだろうと思う。

 彼女の姿が廊下を曲がって消えたのを見送り、ふっと窓の外を見た。
 見下ろす中庭は、静かだ。

 あんなに屋台があって、そして大きな存在感を放っていたステージは、まるで夢だったかのように跡形もない。

 文化祭が終わってから2週間後、私は学校に復帰した。
 文化祭のことは先生の間で少し問題になったけれども、結局は「おめでとう」の言葉とともに安藤校長の注意だけで済んだ。

 でもあの日がなければ、きっともう少し休養していたと思う。

 あの模擬結婚式の後、太陽も沈んだ後夜祭で生徒たちがはしゃいでいるのを教室の窓から見下ろしながら、蒼くんが打ち明けてくれたのは、記憶のすり替えだった。

 放送室で起きたこと、そしてそれまでに繰り返された一連のことで、学校というものが嫌な場所になりつつあった私に、蒼くんがいない学校での時間をその記憶だけにしておきたくない。
 私にとっての学校が、希望をもって働いていたはずの職場が、あの記憶に染まってしまうのはどうしても嫌だった。

 そう話し始めた蒼くんの、後夜祭を見下ろすその眼差しはとても強い光をたたえていた。

「学校をあのことよりオレとの思い出の場所だけにしたくて、そうするにはどうすべきか、ずっと考えてた。そんときに、杏のクラスの子とかが、杏に辞めてほしくない、学校に出てきてほしいから、どうにかできませんかって相談されたんだよ」

 打ち明けられた生徒たちの思いに、胸の奥がじわりと熱くなって、思わず暗いのに生徒の顔を探すように見つめた。

「もう、オレが杏を好きなことも恋人だってことも、バレてたしね。体育館のはオレがやりたかったんだけど、その後のは、完全にオレもサプライズ。あそこまでやるとは思ってなかった」

「本当にびっくりしたけど……でもすごく嬉しかった。あんなふうにプロポーズされて、まさか文化祭で結婚式みたいなのするなんて、普通想像できないよ。二度と忘れられない」

 そう言った時、ふいにドンッという大きな花火音がした。

 本当に文化祭の終わり、締めくくりの花火だ。
 ほんの数十発程度の小さな規模のものだけど、それでも、あがる花火は確かにこの高校にいる生徒や先生、そして私や蒼くんたちのためだけのものだ。

「フィナーレって感じ」

「ほんと。綺麗……」

 中庭の生徒たちがいっせいに見やすい位置へとそれぞれ騒いだり走ったりしていく。

「……私、今日のこと、一生忘れない。蒼くんがしてくれたこと、あの子たちがしてくれたこと、絶対忘れない」

 小さくても夜空を彩る花火を見つめながらはっきり言うと、蒼くんが私の腰を引き寄せ、腕の中にすっぽりと包み込んだ。

「オレも」

 ぱあっと連続する音とともに夜空が鮮やかに光る。
 最後なんだろう、消える前に打ち上げられる小さな花火の連続に見入る。

「でも、オレとは今日で終わりじゃないから」

 頷くと、蒼くんの私を抱きしめる腕の力が少し強くなった。

「杏」

 少しあらたまった声に顔をわずかに蒼くんの方に向けた。

 どきりとして、息を飲んだ。
 いつもは無邪気で悪戯な光ばかり宿すのに、深く柔らかな目が私を見つめていて。
 ゆっくりと花火のかけらが空を落ちていくのがそこに映りこむ。

「オレのそばに、一生いてーー」

 蒼くんが甘くささやきながらそっと顔を傾け、私の視界から花火の鮮やかな光が消えた。
 花火の音がいつのまにかやんでいた。





 本当に最後の最後まで幸せな思い出だけをこの学校に残して、蒼くんは大学に戻った。

 淋しくないといえば、嘘になる。
 でも、この学校のどこにいても、蒼くんが生徒とふざけていたり、私を見つけて意味ありげに見つめてきたり、生徒のいない時にキスをしてきたり、それ以上のことをねだってきたりしたのをふっと思い出す。

 なにより、4年前に理由なんてなく惹かれて、ミント味のするキスを交わしたあの瞬間。

 そこから始まった2人の時間の隔たりも、そして再会してからの切なさも愛しさも、積み重ねられていて。
 その確かさがあるから、私はこうしてまた学校で先生として授業を続けている。

「センセ」

 ふと、あの甘えるような切なさに染まった声で呼ばれたような気がして振り返った。

 授業が始まろうとする廊下を行き来する生徒たちの中で、先生と口にした誰かがいたのだろう。
 制服姿だった蒼くんの姿も、そして教育実習生姿だった蒼くんの姿も、そこにはない。

 でも家に帰れば、大学生の顔をして私を迎えてくれる蒼くんがいる。

「センセ」と口にする代わりに、「おかえり」と笑って甘えるようにキスをする彼が。


〈了〉
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