ねえ、センセ。―粘着系年下男子の憂鬱

ゴトウユカコ

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センセ、と永遠のキスでささやいて

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 大きく息を吐かれたその音が暗い喫茶店の天井にまで響いたように思えて、私はそっと目を伏せた。

「ごめんなさい」

「……まあ、もう、わかってたし」

 小さく直己が呟いて、背をイスの背もたれに預けた。
 ギッときしむ音がして、それはチェーン店ではない喫茶店のその静けさにひどく似合っていた。

「それで、今は成瀬のとこにいるの? もう大丈夫なのか?」

 頷く。
 結局、蒼くんの部屋に移ったのは、翌日の金曜日のこと。

 蒼くんは高校の実習に出勤する必要があったから、私が鍵を預かって1人で部屋に向かったのだ。

 そして、事の顛末を知りたいという直己の連絡があったのが昼前。
 山梨に戻る都合もあるためすぐに時間をとってくれた直己と、部屋の近くの喫茶店で私は向き合っていた。

 直己にも確かに守られていたのに、その日はついこの間のはずなのに、まるで遠い出来事みたいに感じる。

「気持ちは、変わらない……よな」

 言って後悔するように言葉尻が消えた。
 直己を見ると、泣き笑いのような顔をしている。

 思わず胸の奥が痛くなった。

「勝負は……ついてたんだよな。もう、4年前の教育実習の時から。……今回の件で、あいつ、オレに土下座したんだ」

「土下座?」

「4年前と同じ。あいつ、オレに杏の連絡先教えてくれって、頭さげて。オレがだめだって言っても、何度も頭下げてさ。ついには土下座までして。一見テキトーそうに見えるあいつがさ。必死だった。かっこ悪いとか未練たらしいとか野次られても、それでも杏に会いたいって、あの時と同じ。……今回も、何度も連絡してくるし、わざわざ山梨のオレの家まで来るしさ」

「家まで……」

「だったら手を引け、って言った。杏に近づくな、って。そしたらそれだけは譲れないってぬけぬけと言いやがって。でもオレの力がなければ、杏を救えない、って言うんだ。最悪だよ、杏を助けたいのはオレだって同じだし、でも……あーあ、負け。オレの完敗」

 乾いた笑いで、直己が大きく伸びをした。

「ま、オレの出る幕はもうないわ」

「本当にごめんなさい。いろいろと橘先生の過去のことで力を貸してくれたって聞いてる。なのに、」

「それ以上言うなよ。オレはオレがしたいようにしただけだ。オレだって、杏の力になりたかった。杏を助けるヒーロー役やりたかったよ。……でも、負けた。年数とかじゃなくて、あいつの方が想う気持ちが強かった。それだけ」

 直己の自嘲的な言葉に俯いた。

「杏、教師は続ける?」

 湿っぽい雰囲気を切り替えるように、直己がはきはきした声を出した。

「できれば続けたい」

「そっか。なら、いい。杏が教師の道を諦めないでいるなら、オレも自分が杏に出会った意味あると思うし」

 さばさばとそう言いながら、直己は目の前のコーヒーを飲み干した。

「ま、母さんは悲しむかもしれないけど、成瀬のあの一途さはオレにはかなわないわ。わざわざ杏に会いたいがために、教育実習に潜り込むようなやつに負けたのは癪だけど」

「え? 先生になりたいとかじゃなく? それだけのために?」

 戸惑う私に、直己は同情するような目を向けた。

「あいつ、もう他で内定もらってんだよ。実習でだめなら内定辞退して先生になって追いかけるって、先生の仕事そんな簡単に考えてんじゃねーってムカつくけど……ま、杏のためなら火の中水の中も行きそうだし。厄介な男で大変だと思うけど」

 複雑な顔をしながら直己が立ち上がった。

「……杏、もうオレは力になれないけど、でも成瀬がそばにいるんだからさ、先生続けるの諦めんなよ。それがオレへの罪滅ぼし」

 冗談めかして直己が意地悪そうに笑った。

「直己、私、なんて言えばいいか」

「いい。何も。いいよ、終わりなんだから。本当にオレ、杏のこと好きだったよ。結婚したいと、本気で思ってた。そう思えるほどの女なんだからさ、ちゃんと幸せになれよな。じゃあそろそろ山梨帰るわ。さすがに有休使いすぎたし、しばらくは無心で先生やって生徒たち放っておいた埋め合わせしないとなんないから」

「本当に、ありがとう。いろいろと心配ばかりかけて」

「本当、最後まで心配ばっかりだ」

 笑いながら言った直己が表情を引き締めた。

「でも橘が罪を償って、十年とか二十年とか後にまた別の県で教職に戻って来ないとも限らない。今の仕組みだと懲戒免職で教員免許が失効しても時間が経てば再申請できるからさ。その時のことも踏まえればあまり悠長にしてられないからな。
 橘は本当に今まで聞いた中で最低に悪質だけど、橘みたいな教師が他にいないわけじゃない。そういう教師がいつまた杏の前に現れるかわからない。それでも生徒はいる。杏の教え子がそういう教師の被害にあわないとも限らない。だからこそ、経験した杏にしか伝えられない、杏だから教えられるようなことがたくさんあるとも思う。それ、武器に変えて、いい先生になれ」

 直己がそっと座ったままの私の髪を撫でて、それからほおに触れた。

「さよなら、杏」

 直己は最後にそう言うと、かすかに唇の端に笑みを浮かべ。
 そしてふいに歪んだ顔を隠すようにしてさっと伝票を手に踵を返した。

 その背中を引き止めたい衝動を抑え、「さよなら」と呟く。
 最後に見せた直己のその優しい瞳にもりあがった涙の、言葉にならなかった言葉に別れを惜しみながら。
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