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哀しいほどの空回りの先
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大きく深呼吸した。
大丈夫、と自分に何度も言い聞かせる。
実験準備室に橘先生がいるのはわかっていた。
今の私にできることは、一つ。
橘先生の要求を飲むこと――。
彼を私に引きつけておければ、その間に成瀬くんと直己がきっと何か橘先生の教師としての息の根を止める方法を見つけてくれる。
だから、一時的に自分にひきつけておく。
直己が成瀬くんと電話してるのを見て、思いついたことだった。
もう一度息を深く吸い込んだ。
ノックをする。
「どうぞ」
中から声がした。
「……片桐です」
ガタン、と何かにぶつかるような大きな音がして、すぐにドアが開いた。
白衣を着た橘先生が驚いた顔のまま、私を迎えた。
足が震えそうになるのを抑えて、「今、よろしいでしょうか?」と声をかけた。
「もちろんです」
眼鏡の奥の目が喜びに輝いている。
「あなたから来てもらえるなんて、夢のようですよ。薬品くさい部屋で申し訳ありませんが、どうぞ、お入りください」
足を踏み入れると、作業途中だったのか、実験テーブルにはビーカーや試験管、アルコールランプといった器具がいくつか置いてあり、そばには橘先生の直筆らしいノートとタブレットも置いてあった。
「どうぞ、そこに座って。今、コーヒーを淹れましょう」
勧められた丸椅子に腰掛けると、いそいそと水道の前に橘先生が立った。
心臓が痛いほどに早く打っている。
緊張で手の中が汗ばむ。
できれば今すぐ逃げ出したい。
「……橘先生がおっしゃったことを、考えました」
声が震えてしまう。
「それは嬉しいですね。で、心は決まりましたか?」
マグカップのコーヒーを手にした橘先生が振り返ってにっこりと笑った。
こんなにもコーヒーの香りで空間は穏やかな雰囲気なのに、私と橘先生の間の空気も、そして彼のメガネの奥の鋭い目も、全然笑っていない。
コーヒーのカップを私の前に置いた橘先生が、壁際の丸椅子をそばにもってきて座った。
「橘先生は、……本当に、私が先生の意にそうなら、2人には手出しをしない、んですよね?」
「確かにそう言いました」
言いながら、橘先生は長い足を組んで優雅にコーヒーを飲んだ。
「それは、どこまで信じたらいいんですか?」
「……どこまで、でしょうね」
「ごまかさないでください」
「では、信じてください、としか僕には言えません。あなたが欲しいだけ、そうずっと伝えてきていますが?」
コトリ、とコーヒーのカップを置いた橘先生が立ち上がった。
緊張が走って、膝の上の手が震えるのを必死で抑え込む。
「……そんな怯えなくても……せっかく淹れたコーヒーが覚めてしまいます」
淋しそうな声がした瞬間、ふいに髪を後ろからつかまれ、ぐっと背中側にひっぱられた。
のどを天井に無理にさらすような姿勢に悲鳴をあげた。
「いっ……たい!」
慌てて橘先生の手の力から逃れようと髪の毛を抑えた時、目の前が陰った。
そして息つく間もなく、橘先生の手が私のあごを捉えて、そのまま唇を重ねられた。
「ん、んんー!」
逃れようとしても、橘先生の髪を引っ張る力は揺るがない。
痛みと、橘先生にキスをされているショックとで、涙があふれた。
橘先生の体を拳で叩いて暴れると、さらに髪を強く引っ張られて、仰向かされた分、唇が開いた。
そこにすかさず、ぬるり、と舌が唇を割って侵入してくる。
塞がれている分、声にならない悲鳴をあげ。
「……っう!」
かな錆びた味が口の中に広がった瞬間、橘先生が飛び退くように離れ、私も丸椅子から立ち上がって距離をとるように離れた。
「……ひどいじゃないですか。片桐先生。あなたは、ここに、僕の要求にイエスと答えるために来たんじゃないんですか?」
唇の血を拭い、小さく舌打ちしながら、橘先生が剣呑とした声で言った。
「だ、だから、って、こんな、ふ、不意打ちでこんなことするなんて、どうかしてます!」
「……震えてますね」
静かにそういった橘先生は乱れた白衣を整えるようにしながら、憐れむように私を見た。
「あなたは選んだんじゃないんですか? だってそうでしょう? 成瀬くんにしても間中先生にしても、僕にとってはどうだっていいんですよ? 彼らがどこでのたれ死のうと、僕の心はどこも傷まない。でも、片桐先生は違いますね。2人とも大切だ。友人か恋人か、はたまた2人とも恋人か。うらやましい。あの2人はあなたの体の隅々まで知っている。僕はそれを知らない。許せないでしょう? 僕はあなたをこんなに愛しているというのに」
ゾッと怖気が走った。
怖い。
怖くてたまらない。
自分でもわかるほどに、指が震え、足が震えていた。
「片桐先生。僕はあなたに危害を与える気など毛頭ないんですよ。ただ、あの2人より、あなたを、あなたのそのすべてを、僕のものにしたいだけです。片桐先生、あなた次第なんですよ?」
橘先生が手を差し出した。
「あなたが、僕のこの手をとりさえすれば、僕はもう、他に何もいりません。でもとらなければ……僕は僕のもてる力すべてで、成瀬くんを、そして間中先生を、つぶします」
差し出された手を見つめた。
少しの間、我慢すればいい。
目の前の橘先生の意識を自分にだけ向けさせて、時間稼ぎさえできるなら。
そう決意して、この準備室を訪ねたのだ。
震えを必死で抑えこみながら、その手の方へ、自分の手を伸ばしていく。
嫌だと全身で拒絶するのを理性だけで抑えこみ、さらに恐怖を抑えこみ、男にしては細い指をもつ白い手に。
「や、約束して、ください。成瀬くんにも、間中先生にも、手を出さないと」
「もちろんです」
「それから、生徒たちにも、今後一切、この前の生徒も含めて、手を、出さないと、約束してください」
「何か誤解をされているようですが……ーーまあ、いいでしょう。約束します。他ならぬあなたのお願いならば」
橘先生のその手がついっと動いて、私の手を強く引っ張った。
バランスを崩して私の体が橘先生の腕の中に倒れ込む。
同時に、橘先生が白衣の中に私を包み、これまでにないほどに嬉しそうに言った。
「……ようやくつかまえた」
橘先生が血に濡れて艶かしく赤い唇に笑みを浮かべた。
その唇が私の顔に降りてくる。
背けると、橘先生の手があごを強く掴んで固定した。
力を込めてもびくともしない。
成瀬くんならあんなに簡単に、目の前の男を床にのせるというのに。
「約束のキスをしましょう。あなたが僕のものだという」
嫌だと言った言葉が、その口に吸い込まれ。
全身に鳥肌が立つほどの嫌悪感の中で、突き飛ばしたくなる衝動にもがきながら、血の味のキスをさせられた。
大丈夫、と自分に何度も言い聞かせる。
実験準備室に橘先生がいるのはわかっていた。
今の私にできることは、一つ。
橘先生の要求を飲むこと――。
彼を私に引きつけておければ、その間に成瀬くんと直己がきっと何か橘先生の教師としての息の根を止める方法を見つけてくれる。
だから、一時的に自分にひきつけておく。
直己が成瀬くんと電話してるのを見て、思いついたことだった。
もう一度息を深く吸い込んだ。
ノックをする。
「どうぞ」
中から声がした。
「……片桐です」
ガタン、と何かにぶつかるような大きな音がして、すぐにドアが開いた。
白衣を着た橘先生が驚いた顔のまま、私を迎えた。
足が震えそうになるのを抑えて、「今、よろしいでしょうか?」と声をかけた。
「もちろんです」
眼鏡の奥の目が喜びに輝いている。
「あなたから来てもらえるなんて、夢のようですよ。薬品くさい部屋で申し訳ありませんが、どうぞ、お入りください」
足を踏み入れると、作業途中だったのか、実験テーブルにはビーカーや試験管、アルコールランプといった器具がいくつか置いてあり、そばには橘先生の直筆らしいノートとタブレットも置いてあった。
「どうぞ、そこに座って。今、コーヒーを淹れましょう」
勧められた丸椅子に腰掛けると、いそいそと水道の前に橘先生が立った。
心臓が痛いほどに早く打っている。
緊張で手の中が汗ばむ。
できれば今すぐ逃げ出したい。
「……橘先生がおっしゃったことを、考えました」
声が震えてしまう。
「それは嬉しいですね。で、心は決まりましたか?」
マグカップのコーヒーを手にした橘先生が振り返ってにっこりと笑った。
こんなにもコーヒーの香りで空間は穏やかな雰囲気なのに、私と橘先生の間の空気も、そして彼のメガネの奥の鋭い目も、全然笑っていない。
コーヒーのカップを私の前に置いた橘先生が、壁際の丸椅子をそばにもってきて座った。
「橘先生は、……本当に、私が先生の意にそうなら、2人には手出しをしない、んですよね?」
「確かにそう言いました」
言いながら、橘先生は長い足を組んで優雅にコーヒーを飲んだ。
「それは、どこまで信じたらいいんですか?」
「……どこまで、でしょうね」
「ごまかさないでください」
「では、信じてください、としか僕には言えません。あなたが欲しいだけ、そうずっと伝えてきていますが?」
コトリ、とコーヒーのカップを置いた橘先生が立ち上がった。
緊張が走って、膝の上の手が震えるのを必死で抑え込む。
「……そんな怯えなくても……せっかく淹れたコーヒーが覚めてしまいます」
淋しそうな声がした瞬間、ふいに髪を後ろからつかまれ、ぐっと背中側にひっぱられた。
のどを天井に無理にさらすような姿勢に悲鳴をあげた。
「いっ……たい!」
慌てて橘先生の手の力から逃れようと髪の毛を抑えた時、目の前が陰った。
そして息つく間もなく、橘先生の手が私のあごを捉えて、そのまま唇を重ねられた。
「ん、んんー!」
逃れようとしても、橘先生の髪を引っ張る力は揺るがない。
痛みと、橘先生にキスをされているショックとで、涙があふれた。
橘先生の体を拳で叩いて暴れると、さらに髪を強く引っ張られて、仰向かされた分、唇が開いた。
そこにすかさず、ぬるり、と舌が唇を割って侵入してくる。
塞がれている分、声にならない悲鳴をあげ。
「……っう!」
かな錆びた味が口の中に広がった瞬間、橘先生が飛び退くように離れ、私も丸椅子から立ち上がって距離をとるように離れた。
「……ひどいじゃないですか。片桐先生。あなたは、ここに、僕の要求にイエスと答えるために来たんじゃないんですか?」
唇の血を拭い、小さく舌打ちしながら、橘先生が剣呑とした声で言った。
「だ、だから、って、こんな、ふ、不意打ちでこんなことするなんて、どうかしてます!」
「……震えてますね」
静かにそういった橘先生は乱れた白衣を整えるようにしながら、憐れむように私を見た。
「あなたは選んだんじゃないんですか? だってそうでしょう? 成瀬くんにしても間中先生にしても、僕にとってはどうだっていいんですよ? 彼らがどこでのたれ死のうと、僕の心はどこも傷まない。でも、片桐先生は違いますね。2人とも大切だ。友人か恋人か、はたまた2人とも恋人か。うらやましい。あの2人はあなたの体の隅々まで知っている。僕はそれを知らない。許せないでしょう? 僕はあなたをこんなに愛しているというのに」
ゾッと怖気が走った。
怖い。
怖くてたまらない。
自分でもわかるほどに、指が震え、足が震えていた。
「片桐先生。僕はあなたに危害を与える気など毛頭ないんですよ。ただ、あの2人より、あなたを、あなたのそのすべてを、僕のものにしたいだけです。片桐先生、あなた次第なんですよ?」
橘先生が手を差し出した。
「あなたが、僕のこの手をとりさえすれば、僕はもう、他に何もいりません。でもとらなければ……僕は僕のもてる力すべてで、成瀬くんを、そして間中先生を、つぶします」
差し出された手を見つめた。
少しの間、我慢すればいい。
目の前の橘先生の意識を自分にだけ向けさせて、時間稼ぎさえできるなら。
そう決意して、この準備室を訪ねたのだ。
震えを必死で抑えこみながら、その手の方へ、自分の手を伸ばしていく。
嫌だと全身で拒絶するのを理性だけで抑えこみ、さらに恐怖を抑えこみ、男にしては細い指をもつ白い手に。
「や、約束して、ください。成瀬くんにも、間中先生にも、手を出さないと」
「もちろんです」
「それから、生徒たちにも、今後一切、この前の生徒も含めて、手を、出さないと、約束してください」
「何か誤解をされているようですが……ーーまあ、いいでしょう。約束します。他ならぬあなたのお願いならば」
橘先生のその手がついっと動いて、私の手を強く引っ張った。
バランスを崩して私の体が橘先生の腕の中に倒れ込む。
同時に、橘先生が白衣の中に私を包み、これまでにないほどに嬉しそうに言った。
「……ようやくつかまえた」
橘先生が血に濡れて艶かしく赤い唇に笑みを浮かべた。
その唇が私の顔に降りてくる。
背けると、橘先生の手があごを強く掴んで固定した。
力を込めてもびくともしない。
成瀬くんならあんなに簡単に、目の前の男を床にのせるというのに。
「約束のキスをしましょう。あなたが僕のものだという」
嫌だと言った言葉が、その口に吸い込まれ。
全身に鳥肌が立つほどの嫌悪感の中で、突き飛ばしたくなる衝動にもがきながら、血の味のキスをさせられた。
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