ねえ、センセ。―粘着系年下男子の憂鬱

ゴトウユカコ

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魔の手_9

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 結局この月曜日、橘先生を見かけることはなかった。
 自宅まで押しかけてきた割にはその静けさが嵐の前触れのようで怖い。
 でも文化祭の準備とそろそろ用意しなくちゃいけない試験準備に追われることで、本当はホッとしている。

 ただ、月曜日に話したいと言っていた成瀬くんは、実習を欠勤したらしい。
 メッセージを送って既読にはなるのに、返事がない。
 それがどんなに不安にさせられるか。
 信じなきゃと思うのに、米川さんの言葉が抜けないトゲみたいで。

 あれから2日、会っていない。声も聞いてない。
 それだけで、こんなに不安になる自分の弱さが悔しかった。

 とぼとぼと最寄り駅から自宅に向かって歩いていると、背後から誰かが走ってくる足音に振り返った。
 その瞬間、その場に凍りついた。
 今日は、校内で見かけなかった男がいた。

 なんで、ここに橘先生が?

 逃げることさえ思いつかず、ただ走ってくる相手を茫然と見ていた。

「片桐先生、会えてよかった。さあ行きましょう」

「……は?」

 いつも通り生徒の前にでもいるかのような橘先生の言葉に、自分でもまぬけな声が喉の奥から出た。
「な、んで」と声がつまった。

 なぜ私が住むこの街に、目の前の男がいるんだろう。
 そう思って、自分の間抜けさに笑い出したくなった。

 金曜日の夜、私の部屋の玄関の前にいたのは、この男だと直感したはずじゃなかったのか。

「なんでって、返事をいただけないようだから」

 橘先生がさも当然のように、私の腕をとろうとして、反射的に身を引いた。

「そ、そんな昨日の今日で返事なんて! って、違う、――な、なんで、ここにいるんですか? なんで、い、異常です、こんなの。自分が、何をしてるかわかってますか。これ立派な犯罪です、ストーカーですよね」

「落ち着いて、片桐先生、落ち着いてください」

 伸びてきた手を避けて、さらに後ずさりした。
 商店街の灯りが向こうに見えて、あそこまで逃げれば安全かもしれない、と混乱した頭を必死で働かせる。
 でも視線がさまよったのに気づいた橘先生が先回りするように、商店街と私の間に立ちはだかった。

「大丈夫です。何もしませんから」

 そう言いながら橘先生が右手を伸ばし、それを交わした瞬間、左手で私のトートバッグの把手をつかんだ。
 それを必死に取り戻そうと綱引きみたいになる。

 でもどっちが力が強いかなんてわかりきっていた。
 恐怖で涙が出てくる。

「何してる!」

 ふいに怒鳴り声が響いて、橘先生が驚いたように振り返った。
 肩を怒らせた直己がそこにいた。
 その姿を見た瞬間、橘先生は舌打ちして逃げ出した。

「ちょ、待て! おい、お前!」

 直己がすかさず追いかけて、私はその場にへたりこんだ。
 こんなふうにされたら、女子生徒なら助けを呼ぶ声さえあげられない。
 大人の私でもこんなに恐怖で震えてるのに。

「ごめん、逃した」

 すぐに直己は戻ってきて、私のそばにしゃがんだ。

「直己」

「間に合うはずだったんだけど、ごめん。怖い思いさせた」

「――っ、なんで、だって仕事は?」

 差し出された手につかまって立ち上がりそう聞くと、直己は少し表情を曇らせた。
 どこか諦めたような淋しい笑みとともに。

「部屋、あがっていいかな。話すよ」
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