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揺れる心_6
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電話でもメッセージでも、ちゃんと聞けばいい。
なのに、それを確認するのが怖い。
ずっと、なんで? ばかりを繰り返してる。
仕事に集中すれば気にならないと思っても、思考は同じところをぐるぐる、ぐるぐると回って。
「帰り待ってて」という成瀬くんからのメッセージに返信する気にもなれず、最寄り駅からの帰り、少し明るい商店街を抜けた道を疲れた体を引きずるようにして歩いていた時だった。
ふいに電話が鳴った。
画面には直己の名前。
あの日から連絡のやりとりはしていなかった。
でも直己が言ったことを考える余裕もない。
沈む気持ちをなんとかもちあげるようにして、電話をとった。
「杏、今平気? 研修終わったから明後日の朝一で山梨戻るけど、その前にそっち行っていいか?」
前なら承諾なんて求めずに部屋に来たりしていたのに、連絡を寄越してからというのに一抹の寂しさを感じてしまう。
なんて身勝手なんだろう。
それから半刻も経たずに現れた直己は、玄関先でぎこちない笑みを浮かべて「入っていい?」と聞いた。
今までそんなふうに許可なんて求めたことなかったのに。
でもその距離感が、私が直己にしたこと。
それを悲しいとか淋しいとか感じるのは、ひどく勝手だと思いながら直己を部屋に通した。
「……考えたんだ」
直己が好きなコーヒーをテーブルに置くと、直己は礼を言ってそれをひと口飲んだ。
「やっぱ、杏が淹れたコーヒーが一番好きだな、オレ」
探していた言葉がよけいにどこかへ行った気がした。
俯くと、テーブルの隙間に落ちてしまった言葉を探しあぐねて、直己は立て続けにコーヒーを飲んだ。
秋の深い草のような柔らかなにおいが漂ってくる。
「あれからいろいろと考えて……。でもやっぱり、杏の気持ちがどこにあっても、オレが杏を好きな気持ちは変わらない。成瀬が好きならそれはそれで仕方ないけど、でもだからってオレが変わるわけじゃないんだ」
直己がテーブルに置いた私の手に手を重ねた。
「だから、何度でも言う。オレは杏が好きだよ。教育実習で会ってから、いいなと思って、大学戻ってから会ったり話したりするうちに、どんどん好きになった。それは今もだ。結婚を意識しはじめたというのも、やっぱり変わらない。そばにいてほしいと思ってる」
触れた手から伝わる直己の少し人より高い体温に、涙がにじみそうになった。
この人はこんなにも強くて、こんなにも大切にしてくれる。
他の男を好きだと言った相手に、裏切ったのは私なのに、直己はその腕を広げて待っていてくれる。
教師の道を断たれかねなかった私を励まし、私が教師になれるように本当に力を尽くしてくれた相手。
なのに、その相手を、私は。
「む、……無理だよ。だって、こんな形で直己の顔に泥塗ってるんだよ、私。臨採の、半人前の教師のくせに、じ、実習生の時みたいなことしてて、こんなことしてる場合じゃないのに、なのに直己を傷つけることまでしておいて」
「……杏、後悔してるの?」
ハッと口をつぐんだ。
学校で、成瀬くんと米川さんがキスしていた場面を思い出した。
成瀬くんとのことを後悔してないはずなのに、どうしてこんなに気持ちがかき乱されるのかわからなかった。
あれは事故だった、何か理由があるんだ、そう信じればいいだけのはずなのに、そうできない。
「4年だよ、杏。オレと杏の間には、4年。その間、すっごいケンカもしたし周りが引くくらい爆笑しあったこともあった。オレ、それ全部大切だよ。これからもずっと」
不安と恐怖と、疑いと哀しさと、そんなのでいっぱいいっぱいで、なのに、目の前の、4年も日々をともにしてきた直己はそれを軽々と超えて私の心に寄り添ってくる。
泣きそうになって、本当は泣いてしまいたくて、それを堪えるために慌てて話題をそらした。
「こ、コーヒー淹れてくるね」
立ち上がったとたん、ふらりと立ちくらんだ。
「杏!?」
目の前が暗くなってテーブルの端にしがみついたものの、その場にしゃがみ込んだ。
「大丈夫、ちょっと、めまい。すぐおさまるから」
そう言った瞬間、ふいに体が浮いた。
「顔見た時から変だと思った。体調悪いなら悪いって言ってくれよ」
厳しい口調で、直己は私を抱き上げてそのまま隣の勝手知ったる寝室へと向かったみたいだった。
「つらいの我慢するの、悪いくせだよ。こっちが心臓とまる」
そっとベッドに寝かせられたのがわかった。
「直己、ごめん、話……」
「それよりも休め。つうか、突然来たオレが悪かった」
「違う、直己は悪くない」
「いいから寝な。明日もあるだろ」
ふわりと頭に大きな手が置かれた。
そこからじわりと伝わる体温に、抗えないまま体が深く沈んでいく。
ゆっくり感覚を取り戻す中で目を開けた。
「ごめん、……せっかく、来て」
「いいから寝て。ほしいものあったら買ってくるし」
「でも」
「いいから、こういう時こそ頼れって。今日はついてるから」
直己は心配そうに、私の額からそっと後ろへと何度も撫でた。
「話す時間はまた作ればいい。今は、いいから休んで」
穏やかな声のトーンに、ごめんね、と呟きながら目を閉じた。
早く閉じなければ、鼻の奥のつんとした感覚がもっと広がっていきそうで。
泣いたら、たぶん、自分が決めた道に戻れなくなる。
そんな気がしていた。
なのに、それを確認するのが怖い。
ずっと、なんで? ばかりを繰り返してる。
仕事に集中すれば気にならないと思っても、思考は同じところをぐるぐる、ぐるぐると回って。
「帰り待ってて」という成瀬くんからのメッセージに返信する気にもなれず、最寄り駅からの帰り、少し明るい商店街を抜けた道を疲れた体を引きずるようにして歩いていた時だった。
ふいに電話が鳴った。
画面には直己の名前。
あの日から連絡のやりとりはしていなかった。
でも直己が言ったことを考える余裕もない。
沈む気持ちをなんとかもちあげるようにして、電話をとった。
「杏、今平気? 研修終わったから明後日の朝一で山梨戻るけど、その前にそっち行っていいか?」
前なら承諾なんて求めずに部屋に来たりしていたのに、連絡を寄越してからというのに一抹の寂しさを感じてしまう。
なんて身勝手なんだろう。
それから半刻も経たずに現れた直己は、玄関先でぎこちない笑みを浮かべて「入っていい?」と聞いた。
今までそんなふうに許可なんて求めたことなかったのに。
でもその距離感が、私が直己にしたこと。
それを悲しいとか淋しいとか感じるのは、ひどく勝手だと思いながら直己を部屋に通した。
「……考えたんだ」
直己が好きなコーヒーをテーブルに置くと、直己は礼を言ってそれをひと口飲んだ。
「やっぱ、杏が淹れたコーヒーが一番好きだな、オレ」
探していた言葉がよけいにどこかへ行った気がした。
俯くと、テーブルの隙間に落ちてしまった言葉を探しあぐねて、直己は立て続けにコーヒーを飲んだ。
秋の深い草のような柔らかなにおいが漂ってくる。
「あれからいろいろと考えて……。でもやっぱり、杏の気持ちがどこにあっても、オレが杏を好きな気持ちは変わらない。成瀬が好きならそれはそれで仕方ないけど、でもだからってオレが変わるわけじゃないんだ」
直己がテーブルに置いた私の手に手を重ねた。
「だから、何度でも言う。オレは杏が好きだよ。教育実習で会ってから、いいなと思って、大学戻ってから会ったり話したりするうちに、どんどん好きになった。それは今もだ。結婚を意識しはじめたというのも、やっぱり変わらない。そばにいてほしいと思ってる」
触れた手から伝わる直己の少し人より高い体温に、涙がにじみそうになった。
この人はこんなにも強くて、こんなにも大切にしてくれる。
他の男を好きだと言った相手に、裏切ったのは私なのに、直己はその腕を広げて待っていてくれる。
教師の道を断たれかねなかった私を励まし、私が教師になれるように本当に力を尽くしてくれた相手。
なのに、その相手を、私は。
「む、……無理だよ。だって、こんな形で直己の顔に泥塗ってるんだよ、私。臨採の、半人前の教師のくせに、じ、実習生の時みたいなことしてて、こんなことしてる場合じゃないのに、なのに直己を傷つけることまでしておいて」
「……杏、後悔してるの?」
ハッと口をつぐんだ。
学校で、成瀬くんと米川さんがキスしていた場面を思い出した。
成瀬くんとのことを後悔してないはずなのに、どうしてこんなに気持ちがかき乱されるのかわからなかった。
あれは事故だった、何か理由があるんだ、そう信じればいいだけのはずなのに、そうできない。
「4年だよ、杏。オレと杏の間には、4年。その間、すっごいケンカもしたし周りが引くくらい爆笑しあったこともあった。オレ、それ全部大切だよ。これからもずっと」
不安と恐怖と、疑いと哀しさと、そんなのでいっぱいいっぱいで、なのに、目の前の、4年も日々をともにしてきた直己はそれを軽々と超えて私の心に寄り添ってくる。
泣きそうになって、本当は泣いてしまいたくて、それを堪えるために慌てて話題をそらした。
「こ、コーヒー淹れてくるね」
立ち上がったとたん、ふらりと立ちくらんだ。
「杏!?」
目の前が暗くなってテーブルの端にしがみついたものの、その場にしゃがみ込んだ。
「大丈夫、ちょっと、めまい。すぐおさまるから」
そう言った瞬間、ふいに体が浮いた。
「顔見た時から変だと思った。体調悪いなら悪いって言ってくれよ」
厳しい口調で、直己は私を抱き上げてそのまま隣の勝手知ったる寝室へと向かったみたいだった。
「つらいの我慢するの、悪いくせだよ。こっちが心臓とまる」
そっとベッドに寝かせられたのがわかった。
「直己、ごめん、話……」
「それよりも休め。つうか、突然来たオレが悪かった」
「違う、直己は悪くない」
「いいから寝な。明日もあるだろ」
ふわりと頭に大きな手が置かれた。
そこからじわりと伝わる体温に、抗えないまま体が深く沈んでいく。
ゆっくり感覚を取り戻す中で目を開けた。
「ごめん、……せっかく、来て」
「いいから寝て。ほしいものあったら買ってくるし」
「でも」
「いいから、こういう時こそ頼れって。今日はついてるから」
直己は心配そうに、私の額からそっと後ろへと何度も撫でた。
「話す時間はまた作ればいい。今は、いいから休んで」
穏やかな声のトーンに、ごめんね、と呟きながら目を閉じた。
早く閉じなければ、鼻の奥のつんとした感覚がもっと広がっていきそうで。
泣いたら、たぶん、自分が決めた道に戻れなくなる。
そんな気がしていた。
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