水平線と夜の闇

鹿嶋 雲丹

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第二十話 思い出

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 路面電車を乗り継ぐこと、一時間。レンとサトが向かった先は、大きな人工池がある広い公園だった。
 約百七十ヘクタールある園内では、様々な木々や花が園内のあちらこちらに植えられ、一年中何かしらの花が楽しめるようになっている。
 子供達が遊ぶような遊具もあれば、人工池には足漕ぎ式手漕ぎ式のボートがあった。三十分制だ。
 サトとレンが選んだのは、腕力と腹筋がものをいう手漕ぎ式のボートだった。

「漕ぎたい!」

 目を輝かせて名乗りをあげたサトをジャンケンで負かしたレンが、池の真ん中辺りでボートをとめた。

「お前は、なぜ大会に出ないんだ?」

 レンはいまだにふくれっ面のままでいるサトをじっと見つめる。その先のサトの視線は、ずっと深緑色の水面に向けられたままだ。

「急に、なんの話だよ?」
「社内の剣術大会の話だ。年に一度、毎年開催されているだろう? お前は、なぜそれに出場しない?」
「……あぁ、あれか……気になんのか?」
「そりゃあな。俺はお前が先生の愛弟子だったのを知っているから」
「……あのさ、大会の歴代優勝者って調べてみた?」

 サトの口調はどこかのっぺりしたものだ。

「いいや。調べるまでもない。俺が入隊してから今回まで、優勝してるのは俺だからな」
「えっ、そうなの?」

 サトは目を丸くして、ようやく目の前のレンに視線を向けた。

「なんだ、知らなかったのか?」

 レンは呆れ顔で小さくため息を吐く。

「ああ、悪ぃ……自分が出てない大会の結果なんて、さらさら興味がなかったからな……そっか……隊長、そんなに強かったのか……てことは、じいちゃんの道場を辞めた後も、剣道続けてたんだな?」
「まあ、元々好きだったしな……俺が隊長職に昇格したのは、大会を連覇してる事と空席のタイミングによるものだってことが、これでわかっただろう?」
「……なるほど、コネじゃなくてあくまで実力でってことね……悪かったよ、疑ったりしてさ……ってことは、その前の年の優勝者の事は調べてないんだな?」
「前の年?」

 レンは怪訝そうな表情を浮かべる。

「そっ。私が入隊した年のやつ。つまり、隊長が初優勝した二年前のやつだ」
「……その優勝者がお前か」

 レンが話の先を読み、それを口にした。

「そうさ。入隊したばっかりの小娘が、なんと優勝しちまったわけさ!」

 サトはニヤリと笑った。

「そしたらさ、どうなったと思う? 次の大会以降出場禁止だってさ! 負けず嫌いにも程があるだろ!」
「なに?」

 レンは眉根を寄せる。

「上層部の連中、面白くなかったんだろなあ。若輩者、しかも女になんか負けたのがさ……まあ、わからなくもないけどね……私も大会に出場出来ないのが悔しかったからさ、基礎の鍛錬は今だに続けてるよ……それにしても残念だったなあ……もしあの後も出場してたら、隊長と対戦できたかもしれないのに……あ、もちろん私が勝つけどな」

 ふふ、とサトが不敵な笑みを浮かべる。

「なにを言ってる? 俺が勝つに決まってる」
「おっ、強気だね……こればっかりは、やってみなきゃわからないからな」
「俺は、お前にだけは負けたくない」

 レンの台詞に、サトはムッとした。

「なんだよ、それ? あっ、もしかして今朝のあれ……」

 サトは今朝のヤジロウの言葉を思い出す。

『お前らは、昔ワシから一緒に叱られた仲じゃろが』

「……もしかして、根に持ってるとか?」
「ん? なんの話だ?」
「今朝、じいちゃんから聞いたんだ。私はまったく覚えてないんだが、昔私と隊長は一緒に怒られたらしいんだ」
「そうか……覚えてないのか」

 レンは深いため息を吐いた。

「あっ、やっぱりそれを根に持ってるんだな! 悪かったよ! あの頃はさ、自分がサボりたくて他の連中をよく巻き込んでたんだよ!」

 サトはバツが悪そうに一気にまくし立てた。

「……その事に関しては、別に怒っていない。お前に負けたくないのは、別の理由からだ」
「え……なんだ、そうなのか……」

 サトは拍子抜けしたように、ホッと安堵のため息を吐いた。

「まあ、別に理由なんてどうでもいいか……とりあえず私の存在があったから、隊長は強くなったってことだろ? 役に立ったって良かった!」

 レンは、サトの言葉を聞きながらオールを動かし始める。そろそろ船着き場に向けて戻らないと、間に合わなくなる頃だった。

「役に立つもなにも、俺の原点はお前なんだ……」

 レンはぽつりと呟く。

「え? なにか言った?」

 ぼんやりと風景を眺め始めていたサトには、オールが水を掻き分けていく音しか聞こえていなかった。
 かき消された言葉は、レン一人の胸に深く沈んでいく。

※※※※※

「お前、こんなところでなにしてるんだ?」

 日の当たらないフェンスに座り込んでいたレンは、声の主を見上げた。
 そこには癖の強い髪をポニーテールにした女の子がいた。
 当時八歳だったレンより少し歳上に見える。

「……その格好……うちの道場生だろ?」

 女の子もレンと同じ服装をしていた。天貝剣術道場に通う児童が訓練時に身につけるものだ。

「私はサトっていうんだ。孫なんだ、じいちゃんの……あ、道場では先生って呼ばれてるあのじいさんのことな!」

 サト、と名乗った女の子はにこりと笑った。

「……お前、大人しいな……まあ、ちょうどいいや」

 ずっと押し黙ったままのレンの手を取り、サトは走り出した。

「ど、どこに行くの?」
「おっ、やっと喋ったな」

 息を切らしながら訊ねるレンに、サトはニヤリと笑った。その視線はまっすぐに前を向いている。

「お前も練習サボりたいんだろ? あんなとこに座り込んでてさ……あんなとこに一人でいるより、私が面白いもん見せてやるよ」
「お、面白いものって?」
「それは、着いてからのお楽しみってやつだ!」

 どのくらい走ったのか、サトがようやく足を止めたのは一本の大木の前だった。
 その場所は森公園と呼ばれていた公園の、すぐ脇にある林の中だ。
 ゼイゼイと切れる息を整え、それが落ち着くとサトはにこりとレンに微笑みかけた。

「お前、名前は?」
「……レン」
「よし、レン! お前に私のコレクションを見せてやろう!」

 サトは自信満々の体で大木の根本にあるくぼみから数冊の本を取り出した。

「じゃーん、見ろ!」
「……なに、これ?」

 地面に置かれた厚さ約三センチほどの本を見つめながら、レンは首を傾げた。

「漫画だ! 女子向け男子向け、いろいろあるからな。好きなのを読んでいいぞ!」

 サトはワクワクした表情で座り込み、数冊の漫画雑誌から一冊を選んで読み始めた。
 レンは少しの間困惑したようにサトを見ていたが、その視線を一向に気にせず楽しそうに本を読んでいるサトが段々と羨ましくなってきた。
 そして、おずおずと一冊の漫画雑誌に手を伸ばす。

「…………」

 そこには、レンが初めて見る世界が広がっていた。
 その話の内容は全て理解できなくとも、様々なキャラクターの表情や感情、風景などが大波のようにレンの中に流れ込んでくる。
 レンはあっという間に漫画の虜になっていた。

「やばい……そろそろ謝りにいかないと!」

 高かった日が傾き始め、辺りの空気が少しひんやりとしている。
 サトは手にしていた漫画雑誌をパタンと閉じ、傍らで夢中になって漫画を読んでいるレンを見た。

「おいレン。そろそろじいちゃんに謝りに行くぞ!」

 その声に、レンはハッとして視線を上げる。

「……大丈夫か?」

 呆然としているレンの手から漫画を取り上げ、サトは地面に転がった数冊の本と一緒に元の木の窪みにそれらを隠した。

「続きが読みたかったら、いつでもここに来て、勝手に読んでいいからな」
「……え……いいの?」
「うん。だから、ひとまずは帰ろう……怒られるのはイヤだけど、帰らないとばあちゃんの飯食えないし」
「……お、怒られたらどうしよう……」

 サトに手を引かれながら、レンは怯えていた。

「あのさ……練習サボったんだから、怒られるに決まってんだろ。まあ、安心しろよ。主犯は私だからな。お前は多分一ヶ月、私は三ヶ月ってとこかな」
「……なんのこと?」
「道場の雑巾がけのこと。まあ、私は既に罰受けてるから、延長って感じかな……あのさ、雑巾がけって足腰鍛えられるんだぜ! 道場もピカピカになるしよ!」

 すっかりしょげ返るレンに、サトはにかっと笑いかけた。

「いいことだらけだろ、雑巾がけって!」
「……う、うん……」
「まあ、じいちゃんの怒鳴り声はおっかないけど、それは気にせず聞き流せ」
「う、うん……できるかなぁ……」

 二人の目に、天貝剣術道場の看板が見え始める。
 サトはレンの手を握る手のひらに力をこめ、深呼吸した。

「よし、行こう」

 キュッと引き締まるサトの横顔が、レンにはなぜかかっこよく見えた。
 サトが一緒なら、怒られても怖くないかもしれない。
 レンは、ほんの一瞬だけそう思っていた。


 ところが現実はそう甘くなかった。
 ヤジロウからの叱責を受け、レンは涙ぐんでいたしサトもじっと唇を噛み締めていた。

「サト、お前はレンよりお姉さんなのに、何をやっとるんじゃ! 罰として雑巾がけの期間と往復の回数追加じゃ!」
「……はい」
「……レンは……この後、ここに残りなさい。サト、もう行っていいぞ」

 サトはすくっと立ち上がり、膝の上で握りこぶしを震わせているレンを見た。

「じい……いや、先生! この子を誘ったのは私です!これ以上怒るのは、私だけにしてください!!」

 サトはヤジロウに懇願するが、ヤジロウの面にはもう先程の怒りはなかった。

「……それは知っとる。もう叱ったから、これ以上はせんよ。心配いらん」

 サトはホッとため息を吐くと、おもむろにレンの頭をくしゃくしゃと撫でた。

「?」

 レンが何事かと見上げると、そこには柔らかなサトの笑顔があった。
 急に気恥ずかしくなり、レンは頬に血を上らせて、すぐに視線を道場の床に戻す。

「じゃあまたな、レン」

 サトはそう言い残し、道場を出ていった。

「……行ったか……」

 ヤジロウは、ほぅとため息を吐いて腕を組み、目の前で縮こまっているレンを見た。

「のぅ、レン……お前はなぜ、練習を休みたいと思ったんじゃ? さっきも言った通り、ワシゃ怒らんから正直に話してみぃ」

 耳が痛くなる程の沈黙が、ただひたすらに流れた。
 だがどんなに時が経っても、レンはヤジロウの問に答えなかった。

「……そうか……なら、練習したくない時は練習時間が始まる前か後にここへ来て、雑巾がけをせい。期間は一ヶ月。お前は初めてだから一往復からスタートじゃ。サトのように常習になると、二往復三往復と増えて行くからの」
「……はい……」

 ヤジロウは、レンが真面目な性格であることを知っていた。初等部入学時の六歳からこの道場に通っていて、週三回の練習を休んだことは今までに一度もなかった。
 ヤジロウは、怒るというより心配していた。
 しかし、レンが抱えてしまった重いなにかを乗り越える為には、当の本人が強くなるしかないのだ。
 長い人生の道のりの中で、それは避けて通れない。むしろそれは、レンが強くなるために必要な工程なのかもしれなかった。

「やれやれ……しばらくは見守るとするか……」

 とぼとぼと一人家路に着くレンの小さな背は、とても頼りない。その後ろ姿をじっと見守りながら、ヤジロウは一人呟いていたのだった。
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