上 下
45 / 53
第二章 汐里と亮太

第15話 亮太の祖父 民宿

しおりを挟む
 慌ただしくなる空気。
 ただひたすら楽しみにしていた心持ちが、一転して緊迫したものに変わる。
 もう、あれから24年が経つ。
 あの日生まれてきた亮太に、罪はない。
 単に、運が悪かったとしか言えなかった。
 亮太とて、仮死状態だった。
 私は二人目の孫のことが一番に気になったけれど、息子の龍彦は違った。

『奥さんは、厳しいかもしれません』

 運命は、残酷だ。
 新しい命の誕生という喜びと同時に、愛しい妻の命が奪われる。
 私は薄暗い待合室の椅子でうなだれる龍彦に、なに一つ声をかけられなかった。

「不幸は、一つだけで十分腹いっぱいだってのにな……」
 私は見慣れた天井を見上げて呟いた。
 ここは、私の後輩が経営している民宿だ。若い頃は手伝いに来たりもしていた。
「誰なんだい、あのお嬢さんは?」
 湯気のたつ白いコーヒーカップをかたりと置きながら、後輩でありこの民宿のオーナーでもある辰巳たつみが言った。
「どうやら、亮太がお付き合いしている……いや、別れる寸前と言っていたな、確か」
「えっ、亮太の彼女さん⁉ いやちょっと待て、別れる寸前だって?」
 辰巳の疑問はもっともだ。
「いや、付き合ってて今度結婚するから挨拶に来たっていうんなら話はわかるけどさ」
「うん……でもあの娘さん、さっき車の中で、亮太とやり直すためにここに来たって言ってたんだ」
「やり直す為? うーん、いまいちよくわかんねぇけどさ……あの娘さんの服、龍彦がやったんだろ?」
 渋い表情かおの辰巳が言う通りだった。
 龍彦は、家に来る気に入らない人間に、酒や水をぶっかけて追い返すということをよくやる。
 辰巳は、それをよく知っているのだ。
 龍彦がなぜそうなってしまったのか、その理由も。
 私は黙って辰巳が淹れてくれたコーヒーを口にした。
「相変わらずだなぁ……年くって、少しは丸くなりゃいいのに……まあ、気の毒だとは思うよ……でも、死んだ人間は生き返らないだろ」
 しんとした空気に、金魚が泳ぐ水槽のポンプの音だけが響く。
「龍彦はまだ、そこまでじじいじゃないさ……」
 でも、この先あいつはどうなってしまうんだろう。私ももう77歳だ。昔のような体力はない。妻も昨年逝ってしまったし……
「あんな荒くれ者じゃ、後妻さんも難しいだろうしな……」
「もう、家のことはいいよ……それより突然客を連れて来たんだ、夕食はちゃんと出せるんだろうな?」
「あぁ、それは大丈夫だ。お前の分もある。あのと話をするんだろ? ゆっくりしていけよ」
 ぐらり、事情をよく知る後輩の気遣いに心が揺れる。

 突然やってきたあの娘さんは、いったいなにを抱えてここにやってきたんだろうか。
 それは、なにか暗い感じのもののような気がしたけれど。
 私と話をすることで、あの娘さんの闇が光に変わって……龍彦を暗闇から引き出してくれないだろうか……
「それは、期待し過ぎだな」
 私はかすかな期待を抱いた自分に苦笑し、すぐにそれを振り払う。

「すみません、本当にお世話になりました……服、申し訳ないんですがクリーニングに出してください……よろしくお願いします」
 部屋からやってきたのだろう、あたたかな湯上がりの気配をまとったあの娘さんは、先ほどとはまるで別人のように愛らしく見えた。

 そうか……亮太、お前は幸せだったんだな……
 良かったよ……
 でも、どうしてこの娘さんと別れようとしてるんだ?

 申し訳なさそうに服を辰巳に渡す娘さんを見つめながら、私は見知らぬ今の亮太に問いかけたのだった。
しおりを挟む

処理中です...