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第二章 汐里と亮太

第5話 汐里と亮太 真実

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「勝手に部屋に入ったのは悪かったと思ってる……でも、臭いが出るほど部屋中ゴミだらけにしたら、近所迷惑になるじゃない?」

 何を言ってるんだろう、私。

 少し潔癖症な亮太。
 隣近所に迷惑をかけるのを、なにより嫌っていた亮太。
 そんな彼が部屋をこんな状態にするはずがないのは、私が一番よくわかっている。

 あなたはどうしてこんなに変わってしまったの?

 私が本当に口にしたいのは、こっちの問いだった。
 だけど、それはあまりに怖すぎる。

「せっかく居心地が良くなってきたのに、これじゃ台無しだ」
 亮太は私がまとめて置いたパンパンに膨らんだゴミ袋の山をちらりと見て、肩を竦めた。

 なに? その仕草?

「返してもらおうか」
 亮太はすっと手を差し出した。
「えっ……なにを?」
「部屋の鍵だよ。今後、勝手に入られては困るからね」
 口調が違う。
 亮太の口調じゃない。
 声音は亮太のものなのに。

「なんで……」
「冷却期間を置こうと言ったのは、君の方なのだろう?」

 私の胸がさあっと冷たくなった。

 亮太はニヤリと笑う。
「君が感じている違和感は正しいよ。この男はもう、君がよく知っている石田亮太ではない」
「やっぱり……どうして……」
「さあ、これで心置きなく別れられるだろう? さよならだ、鍵を返せ」

 心置きなく、ですって⁉

「冗談じゃないわよ! 亮太を元に戻しなさいよ!! なんなのよ、あんた!!」

 恐怖心と怒りとで混乱したまま、私は叫んだ。

「私が何者なのかは、聞かない方がいいと思うぞ……それに、真実を聞いたところで君は信じまい」
「信じるか信じないかは、私が決めるわ……早く言いなさいよ!」

 私はありったけの勇気をふり絞って、薄ら笑いを浮かべている亮太を睨みつける。
 心臓の鼓動が早くなって、呼吸が苦しい。

「やれやれ、君は勇敢だね……それでも受け入れられないと思うがね……私は虫だよ。君達人間が、薬剤でポンポンポンポン簡単に殺している、あの害虫さ」

 思いがけない単語に、頭が真っ白になった。
 まだ部屋の中に残っている蝿が、ぶぅんと音をたてて耳元を通り過ぎた。

「害虫ですって? 何言ってんのよ、あんな虫なんかにこんなことできるわけないじゃない! 馬鹿にしないでよ!」
「常識の範囲を超えた現実は、とても恐ろしいだろう?」

 亮太は唇の端を持ち上げ、さも可笑しそうに言った。

「いや、常識の範囲外っていうか、そんな話、もう映画とかアニメとかの世界じゃない!」
「だから言ったではないか……本当の事を言ったところで、君は信じないとね」
「うっ……そ、そんなこと言ったって、信じるなんて無理……いや、もうあんたの正体なんてどうでもいい、亮太を元に戻してよ!」
「それは無理だ」
 亮太は真顔で言いきった。
「無理? なんで……」
「なぜなら、今の状況は亮太こいつ自身が望んだ事だからだ」
 私は耳を疑った。

 亮太が……望んだ?
 こうなることを?
 そんなの嘘だ……

「嘘! そんなわけない!」
「君のせいだよ」
 亮太の放った一言が、一瞬で私の胸を深くえぐった。

 私のせい?
 私が……冷却期間を置こうなんて言ったから?

「君は知らなかったかもしれないが、亮太こいつは劣等感の塊みたいな男でね……君と一緒にいた時ですら、ずっと自問していたようだよ……このままで、君を幸せにできるのか……君は他の男と生きた方が幸せになれるのではないか、とね」

 私は視線を亮太に向けられなかった。
 まるで意識に入らない床の汚れ一点を、ただ呆然と見つめる。

 私が亮太と付き合いながら、ずっと抱えていた漠然とした不安。
 だけど、亮太は私が好きで……私は亮太が好きで……それだけでいいじゃない。

 いいや、それは単なる誤魔化しの言葉に過ぎない。
 亮太は私との将来を考えてくれていた。
 私の幸せをちゃんと考えてくれていた。
 私は?
 私は、亮太の幸せをちゃんと考えていた?
 いや……私は、単に自分の願望だけを亮太に押しつけていただけだ!

「ごめん……亮太……」

 あぁ、なにも考えられない……頭がガンガンする。
 どうしよう、どうしたらいいんだろう……

「さあ、これで諦めがついただろう? さっさと鍵を置いて出ていきたまえ」
「嫌だ……」
「なに?」
「出ていかない! 鍵も返さない! 私は亮太とやり直す! ちゃんと亮太と話をする……だから、諦めないっ……!」

 それは自分でも驚くほどの、腹の底からの叫び声だった。
 亮太は真顔で黙り込む。
「君に、ひとつ聞きたいことがあるんだがね。これは、私には確認できないことだから聞くのだが」
 言い、亮太は自分の頭を指さした。
「君には、ここに白い花が咲いているのが見えるか?」
「白い花……」
 私は亮太の頭頂部をじっと見つめた。

 そこには、さほど派手ではないが、真っ白な花びらを誇らしげに広げている花がある。

「見えるわ……白い花……それがどうしたっていうのよ?」
「ふぅん……やはりか……なるほど、それならゲームができそうだ」
「ゲーム?」
「この白い花は、誰にでも見えるものではない。お互いに強い感情を抱いている場合にのみ見える、いわば亮太こいつの最後の悪あがきだ」

 悪あがき……ということは、亮太が元に戻る可能性はゼロじゃないって事なんだ!
 こいつの話を信じたわけじゃないけど、元の亮太に戻ってくれるなら、もうなんだっていい!

「私と君とでゲームをしよう。一週間以内に、亮太こいつがこちらに戻ってくれば君の勝ち。戻らなければ私の勝ちだ」
「なんですって……なんで私がゲームなんかしなくちゃいけないのよ! 亮太と話をさせてよ! そしたらすぐに亮太は戻ってくるわ!」
「ほう、それは随分自信過剰な意見だ……暗闇の中を生きてきた亮太こいつに君が強烈な光を与え、その光を君自身が奪ったというのに」

 くっ……また……

 私の胸がずきりと痛む。
「その光がどんなに愛おしく、眩しいほど光り輝くものだったか……君に想像できるかね? 奪うなら、最初から与えなければ良かったものを!」

 満面に笑みを浮かべる亮太の言葉に、私は何も考えられなくなった。

 私は……知らない……
 亮太の過去も、亮太の気持ちも……

亮太こいつを取り戻せる期限は、次の火曜日……日付が変わるまでだ。君がこの部屋を出ていかないのなら、私が出ていく」
 くるり、亮太が私に背を向ける。
「ど、どこに行くのよ」
「安心しろ、最終期限の火曜の夜には、この部屋に戻るさ……さあ、思う存分抗いたまえ」
 バタン、とドアが閉まった。

 途端に体から力が抜けて、私は床に座り込んだ。
 視界が滲んで、床にぼたりぼたりと水滴が落ちる。

「亮太……」

 ごめん、こうなったのは全部私のせいなのに……
 泣いても、とうてい許されることじゃないのに。

 どうしても止められない涙を放って、私は膝を抱えてうずくまった。
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