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第二章 汐里と亮太
第4話 汐里 異臭と胸騒ぎ
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見慣れたいつもの駅は、雨に濡れていた。
「傘……持ってないや」
ポツポツ程度なら傘がなくても気にしないけど……
これは、傘ささないと濡れちゃうな……
仕方ない、コンビニでビニール傘買うか……
改札を出て、一番近くにあるコンビニまで走る。
このコンビニは、私と亮太が出会った場所だ。
亮太は今も、金曜と土曜の週2日、夜から明け方までこの店でバイトをしている。
「走ったのなんか久しぶり……あーあ、少し濡れちゃったな」
私はバッグからタオルハンカチを取り出す。
「亮太になにか差し入れでも買っていこう……今日は祝日だから、会社は休みのはずだし」
私は肩の雨水を拭き取りながら、腕時計を見た。
9時半か……亮太、起きてるかな……
『大丈夫だから、もう電話してこなくていいよ』
ビニール傘と買い物かごを手に、店内を歩く。
視線は棚に並ぶ商品を捉えていても、頭にこびりついているのは先日の電話越しの亮太の声だ。
大丈夫って……
もう電話するなって……
なんであんなに明るい声で……
私、あんな亮太の声、聞いたことない……
私は亮太の好きなプリンに手を伸ばす。
それとも、私が知らなかっただけなの?
私が知らないところで、亮太は明るく楽しく生きていたの?
引っ込めかけた手を再び伸ばして、私はプリンをカゴに入れた。
確かめたい。
嫌われてもいいから、ちゃんと亮太の目を見て謝りたい。
「嘘……嫌われたら、私、絶対泣いちゃう……」
そう呟く私はもう、既に泣きそうになっている。
憂鬱な色の空から降り注ぐ雨を一瞬だけ見上げて、私は亮太のアパートに向かって歩き始めた。
「なに、この臭い……」
亮太の部屋、203号室のドアの前に立ち、私は思わず鼻と口を手で覆った。
何かが腐った臭いだ。
おそらく、生ゴミかなにかだろう。
「ゴミを出し忘れて、どこかにでかけちゃったってことなのかな? あの亮太が?」
亮太には少し潔癖症なところがある。
部屋には最低限の家具しかないし、ゴミを出し忘れていたことなんて一度もない。
嫌な予感が胸をよぎる。
まさか、部屋の中で倒れているとか……
「亮太?」
私はうるさい心臓の音を聞きながら、ドアをノックした。
亮太の部屋には呼び鈴がないのだ。
反応がない。
コンコン、ドンドン!
「亮太!」
「ちょっとあんた!」
「わあ、すみません!」
不意に背後から掛けられた声に、私は即座に謝った。
「あんた、隣んちによく出入りしてた人よね……もしかして彼女?」
声は不機嫌そうな若い女性のものだ。
私はそっと顔を上げた。
ライトグレーの綿Tシャツに同じ色のスウェットのズボン。
155センチの私より身長が高くて、伸ばした髪をそのままにしている。
歳は二十代後半くらいに見えた。
「はあ、まあ、一応……」
全体的に気だるそうな雰囲気に、苛立ちが追加されている女性に向かって、私は曖昧な返事をした。
そういえば、さっきバタンと音がしてたから、きっと隣の部屋の人なんだろう。
私が亮太の部屋のドアを強く叩いてしまったから、きっと耳障りで出てきたんだ。
「すみません、ノックの音、うるさかったですよね」
「いや、そんなことよりさ、この臭いだよ!」
女性は溜まったものを吐き出すかのように叫んだ。
あ……やっぱりか……
「っとにさ、顔合わせるたんびにどうにかしろって言ってんのにさ、なんにも変わらないんだよ! にやにや笑ってさ……ちょっとオカシクなっちゃったんじゃないの? 言っちゃ悪いけどさ、すっごい無愛想だったたじゃん、あんたの彼氏」
え?
亮太、部屋にいるの?
それに、にやにや笑ってたって……
「すみません、最近忙しくてあまりここに来ていなくて」
「まあ、そうなんだろうね! とてもじゃないけど、こんなひどい臭いのする部屋にいるなんて、正気じゃないもんね!」
それは確かにこの女性の言う通りだ。
「あんた、彼女なら合鍵くらい持ってるんだろ? 燃えるゴミの日、次は金曜だから! 絶対に捨てといてよね! っとに、最近気温も高くて臭いやすいんだから……頼んだわよ!」
「はい……すみません」
頭を下げた私に背を向けて、女性はバタンとドアを閉めた。
ガチャン、という施錠の音がその後に続く。
「合鍵、持ってるけど……」
亮太の自転車は、階段下に置いてある。
それは一番初めに確認した。
どこかに行っているとすれば、徒歩でだ。
私は予備のマスクを取り出す。
マスクを二重にすれば、ほんの少しでも臭いがマシになるだろう。
「隣近所に迷惑かけるなんて……亮太が一番嫌うことじゃん」
私はバッグの内ポケットから鍵を取り出してドアを開けた。
「うわっ、蝿っ!」
私は一瞬怯んだ。
開けたドアから室内を見ると、沢山の虫が飛び回っているのが見える。
そして、生ゴミの腐敗臭。
私は無言で部屋の明かりのスイッチを入れる。
「ひどいな……ゴミだらけだ」
汁の残ったカップラーメンは、うっすらと埃が被っている。
そんなのが、そこらにいくつも放置されていた。
私はゆっくり室内に入る。
シンクは汚れた食器と食べ残しがそのまま放置されていて、山盛り状態だ。
これは、普通じゃない……
亮太は、絶対に部屋をこんな状態になんかしない。
いったいどうしちゃったの? 亮太……
ドキドキしながら部屋全体を見回したけれど、亮太の姿はなかった。
良かった、急に具合が悪くなって倒れてたりしてなくて……
そういえば、私が送ったメッセージには、ちゃんと既読がついてたじゃない。
きっと今は、食材の買い出しにでも行ってるんだろう。
雨が降ってるから、自転車じゃなくて歩きで。
私はもやもやを片隅に追いやる。
「確か、まだゴミ袋のストックがあったはず……」
シンクの下からゴム手袋とゴミ袋を取り出し、私は片付けを始めた。
開けられる窓は全て開ける。
角部屋じゃないから、ベランダとキッチン、玄関、風呂場くらいのものだけど。
外は雨が降っているけど、そんなこと言ってられない。
「この蝿……殺虫剤、あったと思ってたけどないや……後で買ってこよう……まずはシンクから片付けないと汁物が捨てられない」
頭の中で片付けのシュミレーションをする。
私は無我夢中で皿を洗い、きれいになったシンクにカップ麺に残った汁を捨てる。
あちこちに落ちている生ゴミやそれ以外のゴミをゴミ袋に放り込み、口を縛ったものをさらにビニールに入れた。
この方が、臭いが外にもれにくくなるから。
「すごい量になったな……」
まとめたゴミ袋を全部玄関近くに置いて、私は床掃除を始めた。
後で、お風呂とトイレも掃除しなくちゃ……
バタン、と玄関先で音がした。
開け放したドアが閉まった音だ。
「亮太?」
きっと、買い物から帰ってきたんだ。
私は嬉しいのと心配なのとが複雑に入り混じった気持ちで、玄関先の人影を振り返った。
私は目を見開く。
私より20センチ高い亮太の頭に、白い花が揺れている。
それに、今まで見たことがないほどの満面の笑み。
私の脳裏に、控えめに笑ういつもの亮太の笑顔が浮かんだ。
なんだろ……
この人……
確かに亮太なんだけど、全然亮太らしくない……
気がつけば、腕に鳥肌が立っている。
私は深呼吸して、そっと自分の腕に手を添えた。
「だから、来なくていいよって言ったのに」
不自然なほど釣り上がった口角から、調子の良い亮太の声が漏れる。
私は愕然として、目の前の亮太を見つめた。
『大丈夫だから、もう電話してこなくていいよ』
それは確かに、一昨日電話越しに聞いた亮太の声と同じものだった。
「傘……持ってないや」
ポツポツ程度なら傘がなくても気にしないけど……
これは、傘ささないと濡れちゃうな……
仕方ない、コンビニでビニール傘買うか……
改札を出て、一番近くにあるコンビニまで走る。
このコンビニは、私と亮太が出会った場所だ。
亮太は今も、金曜と土曜の週2日、夜から明け方までこの店でバイトをしている。
「走ったのなんか久しぶり……あーあ、少し濡れちゃったな」
私はバッグからタオルハンカチを取り出す。
「亮太になにか差し入れでも買っていこう……今日は祝日だから、会社は休みのはずだし」
私は肩の雨水を拭き取りながら、腕時計を見た。
9時半か……亮太、起きてるかな……
『大丈夫だから、もう電話してこなくていいよ』
ビニール傘と買い物かごを手に、店内を歩く。
視線は棚に並ぶ商品を捉えていても、頭にこびりついているのは先日の電話越しの亮太の声だ。
大丈夫って……
もう電話するなって……
なんであんなに明るい声で……
私、あんな亮太の声、聞いたことない……
私は亮太の好きなプリンに手を伸ばす。
それとも、私が知らなかっただけなの?
私が知らないところで、亮太は明るく楽しく生きていたの?
引っ込めかけた手を再び伸ばして、私はプリンをカゴに入れた。
確かめたい。
嫌われてもいいから、ちゃんと亮太の目を見て謝りたい。
「嘘……嫌われたら、私、絶対泣いちゃう……」
そう呟く私はもう、既に泣きそうになっている。
憂鬱な色の空から降り注ぐ雨を一瞬だけ見上げて、私は亮太のアパートに向かって歩き始めた。
「なに、この臭い……」
亮太の部屋、203号室のドアの前に立ち、私は思わず鼻と口を手で覆った。
何かが腐った臭いだ。
おそらく、生ゴミかなにかだろう。
「ゴミを出し忘れて、どこかにでかけちゃったってことなのかな? あの亮太が?」
亮太には少し潔癖症なところがある。
部屋には最低限の家具しかないし、ゴミを出し忘れていたことなんて一度もない。
嫌な予感が胸をよぎる。
まさか、部屋の中で倒れているとか……
「亮太?」
私はうるさい心臓の音を聞きながら、ドアをノックした。
亮太の部屋には呼び鈴がないのだ。
反応がない。
コンコン、ドンドン!
「亮太!」
「ちょっとあんた!」
「わあ、すみません!」
不意に背後から掛けられた声に、私は即座に謝った。
「あんた、隣んちによく出入りしてた人よね……もしかして彼女?」
声は不機嫌そうな若い女性のものだ。
私はそっと顔を上げた。
ライトグレーの綿Tシャツに同じ色のスウェットのズボン。
155センチの私より身長が高くて、伸ばした髪をそのままにしている。
歳は二十代後半くらいに見えた。
「はあ、まあ、一応……」
全体的に気だるそうな雰囲気に、苛立ちが追加されている女性に向かって、私は曖昧な返事をした。
そういえば、さっきバタンと音がしてたから、きっと隣の部屋の人なんだろう。
私が亮太の部屋のドアを強く叩いてしまったから、きっと耳障りで出てきたんだ。
「すみません、ノックの音、うるさかったですよね」
「いや、そんなことよりさ、この臭いだよ!」
女性は溜まったものを吐き出すかのように叫んだ。
あ……やっぱりか……
「っとにさ、顔合わせるたんびにどうにかしろって言ってんのにさ、なんにも変わらないんだよ! にやにや笑ってさ……ちょっとオカシクなっちゃったんじゃないの? 言っちゃ悪いけどさ、すっごい無愛想だったたじゃん、あんたの彼氏」
え?
亮太、部屋にいるの?
それに、にやにや笑ってたって……
「すみません、最近忙しくてあまりここに来ていなくて」
「まあ、そうなんだろうね! とてもじゃないけど、こんなひどい臭いのする部屋にいるなんて、正気じゃないもんね!」
それは確かにこの女性の言う通りだ。
「あんた、彼女なら合鍵くらい持ってるんだろ? 燃えるゴミの日、次は金曜だから! 絶対に捨てといてよね! っとに、最近気温も高くて臭いやすいんだから……頼んだわよ!」
「はい……すみません」
頭を下げた私に背を向けて、女性はバタンとドアを閉めた。
ガチャン、という施錠の音がその後に続く。
「合鍵、持ってるけど……」
亮太の自転車は、階段下に置いてある。
それは一番初めに確認した。
どこかに行っているとすれば、徒歩でだ。
私は予備のマスクを取り出す。
マスクを二重にすれば、ほんの少しでも臭いがマシになるだろう。
「隣近所に迷惑かけるなんて……亮太が一番嫌うことじゃん」
私はバッグの内ポケットから鍵を取り出してドアを開けた。
「うわっ、蝿っ!」
私は一瞬怯んだ。
開けたドアから室内を見ると、沢山の虫が飛び回っているのが見える。
そして、生ゴミの腐敗臭。
私は無言で部屋の明かりのスイッチを入れる。
「ひどいな……ゴミだらけだ」
汁の残ったカップラーメンは、うっすらと埃が被っている。
そんなのが、そこらにいくつも放置されていた。
私はゆっくり室内に入る。
シンクは汚れた食器と食べ残しがそのまま放置されていて、山盛り状態だ。
これは、普通じゃない……
亮太は、絶対に部屋をこんな状態になんかしない。
いったいどうしちゃったの? 亮太……
ドキドキしながら部屋全体を見回したけれど、亮太の姿はなかった。
良かった、急に具合が悪くなって倒れてたりしてなくて……
そういえば、私が送ったメッセージには、ちゃんと既読がついてたじゃない。
きっと今は、食材の買い出しにでも行ってるんだろう。
雨が降ってるから、自転車じゃなくて歩きで。
私はもやもやを片隅に追いやる。
「確か、まだゴミ袋のストックがあったはず……」
シンクの下からゴム手袋とゴミ袋を取り出し、私は片付けを始めた。
開けられる窓は全て開ける。
角部屋じゃないから、ベランダとキッチン、玄関、風呂場くらいのものだけど。
外は雨が降っているけど、そんなこと言ってられない。
「この蝿……殺虫剤、あったと思ってたけどないや……後で買ってこよう……まずはシンクから片付けないと汁物が捨てられない」
頭の中で片付けのシュミレーションをする。
私は無我夢中で皿を洗い、きれいになったシンクにカップ麺に残った汁を捨てる。
あちこちに落ちている生ゴミやそれ以外のゴミをゴミ袋に放り込み、口を縛ったものをさらにビニールに入れた。
この方が、臭いが外にもれにくくなるから。
「すごい量になったな……」
まとめたゴミ袋を全部玄関近くに置いて、私は床掃除を始めた。
後で、お風呂とトイレも掃除しなくちゃ……
バタン、と玄関先で音がした。
開け放したドアが閉まった音だ。
「亮太?」
きっと、買い物から帰ってきたんだ。
私は嬉しいのと心配なのとが複雑に入り混じった気持ちで、玄関先の人影を振り返った。
私は目を見開く。
私より20センチ高い亮太の頭に、白い花が揺れている。
それに、今まで見たことがないほどの満面の笑み。
私の脳裏に、控えめに笑ういつもの亮太の笑顔が浮かんだ。
なんだろ……
この人……
確かに亮太なんだけど、全然亮太らしくない……
気がつけば、腕に鳥肌が立っている。
私は深呼吸して、そっと自分の腕に手を添えた。
「だから、来なくていいよって言ったのに」
不自然なほど釣り上がった口角から、調子の良い亮太の声が漏れる。
私は愕然として、目の前の亮太を見つめた。
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