月はまだそこにあるか

鹿嶋 雲丹

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第42話 突然の別れ

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 ここ数日の、朝の恒例。

 それは、起き抜けのまひろの不満そうな顔だった。
 そうなる原因は、一つしかない。
 隣で眠っているはずのミツキちゃんが自分のベッドにおらず、代わりに茶トラの子猫がいるからだ。

 ミツキちゃんは、空に月が出ていない間は、茶トラの子猫の姿になってしまう。らしい。
 だから、今まひろに抱っこされているのは、実はミツキちゃんなのだ。

 俺は、さり気なく首輪のチャームを見た。実際の月の形とリンクしているというチャームを。
 やっぱり……形が細くなっている。

「昨日あんなに大事にしてた、ミャシリンちゃんのぬいぐるみも置いていってるんだよ! いったいどういうことなのかしら!」
 なんだまひろ、怒ってるのか……
「え……あ、いや……そうなんだ」
「そうなんだ、って、タケルがカミさんにミツキちゃんを引き渡したんじゃないの?」
 あ、しまった、じゃないとおかしな話になってしまう。
「そうだ、今日は急いでたからぬいぐるみのこと、うっかり忘れちゃって……」
 俺は不審そうな視線を向けてくるまひろに、タジタジとなった。
 だがまひろは、ますます不機嫌になって詰め寄ってくる。
「ええっ、タケル、自分が買ってあげたのに⁉ 信じられない!」
 おい、不審者! 早くなんとかしてくれよ……どうすりゃいいんだ、この状況!

 ピンポーン!

 俺が答えに困っているところで、呼び鈴が鳴った。
「あ、ほら、猫のお迎えがきたんじゃないか?」
 慌ててモニターを確認すると、そこには不審者が立っていた。
 俺はほっと胸をなでおろして、階下に向かう。

「あ、おはようございます!」

 不審者が、いつものにやにや顔でまひろに挨拶した。
 けど、まひろの不機嫌はなおらない。
 ま、いいか。矛先が不審者に行けば、俺は助かる。
「カミさん! ミツキちゃんのこと、寝ぼけたまま連れて行ったでしょう⁉ 昨日タケルに買ってもらったミャシリンちゃんのぬいぐるみ、家に置きっ放しなんですよ!」
「いやあ、すみません……実は急遽、あの子の母親が帰国することになって、バタバタしちゃって」
 え? なんだその話? 俺は聞いてないぞ!
「じゃあ……ミツキちゃんは、もう家には来ないんですか?」
 まひろの怒りのボルテージが、一気に下がった。
「はい……もしかしたら、今夜サヨナラを言いにくるかもしれないです……ほんとに、まひろさんには家事を教わったりして、お世話になりました……ありがとうございました」
 おい、不審者……そんな丁寧なお辞儀をしてる場合じゃない、別れの挨拶が突然すぎるだろ! っとに、なんで前もって俺に話をしなかったんだよ……
「そんな……私は大したことしてないです……そうだ、昨日カミさんにお土産を買ってきたんですよ。今持ってきますから、ちょっと待っててください……あ、タケル、猫ちゃんお願い」
「あぁ」
「にゃーん」
 腕の中の茶トラの子猫が、まひろに向かって一声鳴いた。
 ママ、と呼んでいるんだろうか。子猫のミツキちゃんは……

 首輪で揺れる金色の月のチャームは、半月の形から三日月の形に変わっている。
 俺はそれをまじまじと見つめた。

 あと、二日はあると思っていたのに。あまりに急すぎる。

 俺は階段を登っていくまひろの背が見えなくなった瞬間、不審者を睨みつけた。

「おい、ミツキちゃんがこっちにいられる時間はまだ残ってるはずだぞ! なんだって急に!」
「あぁ、まあ、そのことは後で説明するわ……仕事前に、ちょっと話できるだろ? こないだみたいにさ」
 こないだって……あぁ、あの公園でか。
「ああ……わかった」

 どたどたどた、とまひろが慌てて階段を降りてくる音が聞こえてくる。
 その手には小さな紙袋と、俺が昨日ミツキちゃんに買ってあげたぬいぐるみ……それにピンクのコートもあった。

「これ……ミツキちゃんに渡してください……それに、また会いたいから、妹さんが良ければ、また家に遊びに来てくださいね!」
「……」
 不審者はしばらく黙りこんだ後で、紙袋だけをまひろから受け取った。

 ぬいぐるみとコートは、置いていくつもりらしい。
 なんでだよ?

 それを察して首を傾げたまひろに、不審者がニコッと笑いかけた。
「まひろさん、この二つは、またミツキちゃんが来た時に、本人に直接渡してください」
 まひろはハッとして、腕の中に残されたぬいぐるみとコートを握りしめる。
「でも……もしかしたら、もう会えないかもしれないじゃないですか!」
「会えますよ、必ず。会えるって、決まってるんです。運命ですから」
「運命……」

 そうだ。
 数年後、まひろはミツキちゃんのママになる。
 その未来は、変わらないのだ。

「じゃ、私はあの公園で待ってるから……さあ、おいで」
「にゃーん」
 不審者に抱き取られる瞬間、子猫のミツキちゃんが、俺を見て鳴いた。
 ……なんて言ってるんだろう……

「ぼーっとしてる場合じゃないや、さっさと準備をして、向かわないと」
 俺は階段をのぼりかけ、後ろを振り返った。
 そこには、名残惜しそうに不審者が消えた玄関に立ち尽くすまひろがいる。

「ミツキちゃんにはまた会えるから、それは大事にしまっておいてくれるか、まひろ!」
 頼むよ……今度は、お前が自分の娘にそれを渡すんだから。
「うん……わかった……大丈夫、少しさみしくなっただけだから」

 振り向いたまひろの笑顔が痛々しく見えて、胸がぎゅっとなった。
 それをごまかすように、前を向いて再び階段を登っていく。

 ほんとうに、ミツキちゃんは帰ってしまうのだろうか……未来に。

 ※ ※ ※

「あのな! 向こうに帰る予定が早まったのは、お前のせいなんだぞ、石頭!」
 公園のベンチで、俺は不審者から衝撃の事実を知らされた。

 まさか……そんな! 原因、俺なの⁉

 不審者は迷惑そうに俺を見ている。

「私だってあと二日、まひろさんのごはんを食べるつもりだったのにさ! ほんとに心変わりが早すぎるんだよ、石頭のくせに!」
「な、なんだと! まひろの飯ってお前な……いや、それよりなんで俺が原因なんだよ! そこ、ちゃんと詳しく説明しろよ!」
「だぁから、石頭のお前がどうしたことか、すんなりとミツキちゃんとまひろさんを受け入れて、素直になっちゃったからだってぇの!」

 は? なんだそれは?

「受け入れって……な、なんだよ、それ……」
「君は、未来のミツキちゃんのパパになる覚悟を決めたのだろう?」

 突然、背後から低音の女の声がした。
 この声は……あの黒猫女の声だ。

 そっと振り返ると、真っ直ぐなストレートの髪をなびかせた、黒いコートを着込んだ長身の美女が立っている。
 この女とは一昨日、夕方の河川敷で話をして以来だった。

「黒龍様ぁ、なんとかなりませんか」

 不審者は縋るような視線で黒猫女を見る……が、女はにやりとした笑みを返している。
 それを見た瞬間、胸がずんっと重くなった。
 俺と不審者の望みは、叶いそうにない。

「こちらの世界は私たちの世界と違って随分魅力的だから、君が長居したくなるのもわかる。でも、これで奥さんも戻って来るのだから、念願叶ったりだろう?」

 黒猫女は俺を見て金色の瞳を細めた。

「石山君。今回私は、三つの特別なことをしている。本来してはならない、あってはならないことをね。だから、できるだけ早く通常に戻したいと思っている」
「特別なこと?」

 俺が聞くと、一つめ、と黒猫女の細長いひとさし指が立った。

「まったく違う世界で生きている人間……君が不審者と呼んでいる者のことだ……彼をこちらの世界に連れてきたこと」
 うんうん、と横で不審者が頷いている。
「二つめ。未来から、ミツキちゃんを連れてきたこと」
 確かにな……で、三つめは?
「三つめは、ミツキちゃんを元の時間に戻す際にやらなければならない、あれやこれだ。私たちがこの世界を去った後、君たちは我々を忘れることになる」

 え、なんだって⁉ それは困る!

「そ、それじゃあ、もしかしたら俺は、また道を間違えてしまうかもしれない!」
 
 ミツキちゃんと過ごした、短いけれど楽しい時間があったから。
 その中で思い出したり、新たに刻まれたりした感情があったから、俺は近くにあった幸せを取り戻せたんだ。
 その記憶や感情がなくなってしまったら……俺はまた、まひろを遠ざけてしまうんじゃないだろうか。

「んー……確かにちょっと心配だなぁ……なんとかなりませんかね、黒龍様?」
「そうか……ならば仕方がない、少しおまけするか」

 おまけ?
 黒猫女は、スッと青空を指さした。

「夜空に浮かぶ月が君の瞳に映る間だけ、ミツキちゃんを思い出せるようにしてあげよう。これが、私にできる最大限のおまけだ、石山君」
「月が……」

 俺は晴れ渡る水色の空を見上げた。
 今は見えない、月が見える間だけ、か。
 俺は想像した。
 きっと、夢かなにかだと思うかもしれない。
 でも……もし、一緒に過ごした時間を思い出せたら……俺は道を間違えそうになっても、戻ってこれそうな気がする。

「頑張れよ、石頭! まひろさんと、幸せにな!」
 不審者がニヤニヤと笑った。この顔も見納めか。
「お前こそ、次はしっかりやれよ。言葉選びは慎重にな!」
「うっ、わかってるよ! まひろさんに家事も教わったし、大丈夫さ!」

 そうだよな……失敗は、けして悪いことばかりじゃないよな?
 俺は黒猫女を見た。
 龍の神だという、謎の女を。

「私に供え物を捧げ続けたら、願いを叶えてやることがあるかもしれんぞ?」

 ハッカのドロップを捧げ続けた、ミツキちゃんのお願いを叶えたように、か……

「いや……俺は、欲しいものはもう持ってるから……あとは、自分次第だ」

 俺は、他力本願にはなりたくない。

「うむ、良い心がけだ」
「そうは言ったってなぁ、自力じゃどうにもならないことだってあるんだぞぉ……私の嫁さんのようになぁ」
「お前のは、自業自得だろ……じゃ、俺はそろそろ仕事に行くよ」

  俺はベンチから立ち上がった。
  サヨナラは、言いづらい。

「夜、また飯食いに来るんだろ? お前が好きなビール、用意しておくから」

 俺は背を向けて手を振った。

「おっ、石頭のくせに気が利くじゃん! じゃ、またな!」

 ……おい、最後の最後まで石頭かよ……ま、あいつらしいからいいけど。

「ミツキちゃん、また会おうね」

 俺はしゃがみこんで、足元にすり寄ってくる茶トラの子猫の頭をゆっくりと撫でた。
 さよならは言わないよ。未来で、また会えるからね。

「ありがとう、ミツキちゃん」

 俺は子猫の耳元で囁いた。

「にゃーん」

 か細いその鳴き声が、たまらなく愛おしく聞こえる。

『パパ、大好き!』

 そう聞こえたような気がしたミツキちゃんの声は……俺の願望だろうか。
 つい抱きしめてしまった子猫のぬくもりに、俺はしばらく酔っていた。
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