月はまだそこにあるか

鹿嶋 雲丹

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第27話 暗雲

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「ただいま……あ、やっぱり今日も来てるのか……うっ、あの怪しい黒猫もいる」
 玄関のドアを開け、すぐに目に入る靴の数。
 いつもはない小さな靴と、大きな靴。
 そしてじっと鎮座している黒猫は、満月みたいな黄色い瞳で俺を見ていた。

 俺の頭に、今朝の公園での光景が蘇る。
 目の前の、どう見ても黒猫にしか見えないモノが、俺より背の高いミステリアスな美女になったのだ。
 俺は咄嗟に視線を逸らした。

「あ、パパ! おかえりなさい!」
 玄関の上がり框に座って靴を脱いでいるところに、ドタドタと賑やかな音が聞こえてくる。
 振り返ると、満面の笑顔を浮かべたミツキちゃんが階段を降りてくるところだった。
 おや、今日はパジャマを着ているな。
「あぁ、ミツキちゃん、ただいま……っていうか、そのパパって言うの、いい加減やめない?」
「やめない!」
 ……あ、そう。そんなに元気よく言われると、もうなにも言えないよ。
「私は、ママって呼んでもいいって言ったわ」
 ミツキちゃんの後から階段を降りてきたまひろが言った。
 気のせいか、その表情が曇って見える。
「いいのか、まひろ?」
 俺の胸が、少し重くなった。
「いいのよ……だって、ミツキちゃんの本当のママが帰ってくるまでの、短い間だけだもの」
「ねぇパパ、このパジャマ、ママが選んでくれたんだ! あとね、服と靴下も買ってもらったんだよ!」
「え……あ、そうなんだ。良かったね」
「かわいい?」
 うん、そうやって聞いてくるミツキちゃんがね。
「うん、かわいいよ」
「ほんとに⁉ じゃあ、デートして! ミツキとデート!」
「え? なんでそうなるんだ?」
「まあいいじゃないか、ほら、これが計画書だ」
 いつからいたのか、不審者がにやにや笑って一枚の紙を俺に突き出した。
 計画書だと?
「なんだこれは……パパゲット大作戦計画書?」
 俺はダイニングへの階段をのぼりながら、不審者から受け取った紙をちらりと見た。
 なんだか文字がたくさん書かれている。
「えっと、映画観てぇ、遊園地行ってぇ、キラキラ見るの!」
 後ろからついてくるミツキちゃんの声音が、すっかり浮ついている。
「キラキラってなんのこと?」
「それ、イルミネーションのことみたいよ」
 まひろからすかさずフォローが入った。
 そうか、まひろはもう既に、この計画書のことを知っているんだな。
「まあ、明日と明後日は仕事が休みだから……ちょっと後で考えるよ。とりあえず、お腹がすいた」
「やったあ!」
「やったね!」
 ミツキちゃんと不審者の嬉しそうな声が重なる。いや、考えるだけだから。デートするとは言ってないから。
「今夜はハンバーグか」
 ダイニングに広がる、肉が焼ける香ばしい匂い。
 もう九時を過ぎているから、ミツキちゃんたちは先に食べたんだろう。
 部屋着に着替えてダイニングに戻ると、ミツキちゃんと不審者が揃ってにこにこしていた。
「……おい、不審者、なんでお前まで喜んでるんだよ!」
 俺は呆れながら、冷蔵庫からビールを取り出した。
「なんでって、その理由は今朝話したろ?」
 まひろに聞かれないようにだろう、不審者は俺の耳元で囁いた。

『石頭! 頼む、ミツキちゃんのパパになってくれ! 俺の人生がかかってるんだ!』

 ああ、そういえば今朝、公園でそう言ってたっけ。
「私の妻が帰ってくるかどうかは、お前にかかってるんだ。ちゃんとミツキちゃんのパパになるって決断してもらわなきゃ、困るんだよ!」
「そんなん知るか! そう簡単に人の考え方が変わると思うなよ!」
「なに話してるの? はい、ハンバーグ、置いておくわね」
「うわあ、出たあ! ごちそう!」
 まひろがテーブルに置いたハンバーグの皿に、不審者が目を輝かせた。
「なんだよ、お前、先に食べたんじゃないのか?」
 俺は椅子に座り、ハンバーグにケチャップとソースをかける。
「私たち、先に寝るわね。さ、ミツキちゃん行きましょ……おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
「パパ、おやすみなさい!」
 なんだろう?
 ミツキちゃんを促して背を向けるまひろに、胸がちくりとする。
「なあ、不審者……まひろ、なんだか……いや、なんでもない」
「ふぅん……さすが接客業。他人の態度には敏感なんだな」
「あっ、それ、俺のビール!」
 またかよ。
「ぷはー、うまーい」
 俺の対面に座る不審者は、俺のお気に入りの銘柄のビールをうまそうに飲んで笑った。
「まひろさん、やばいぞぉ」
「やばいって、なにがだよ?」
 俺をじっと見つめてくる不審者の目が、いやに真剣に見える。
 っとに、なんだってんだ。
「隠し事が、ばれかけてる」
 ……なんだって……
 胸がさあっと冷たくなった。
 思い当たる節は、一つしかない。
 馴染客の愚痴の聞き役をやっていることだ。
「あ、さっきの計画書、よく読んでな」
 不審者の態度が、ころっと変わる。
 もう、俺は計画書どころじゃないよ!
「なんでバレかけ……って、まさか、お前がまひろに言ったのか?」
「まさか! タレこんだのはミツキちゃんの本当のパパさんだよ」
 俺の中に重暗い嫌な空気が一気に広がっていく。
 サトル……あいつ……なんで……
「あ、ハンバーグ、食べないなら私がもらう」
 不審者が、俺のハンバーグの皿を自分の前に引き寄せた。
「バカを言え、これは俺の好物だ」
 俺はすぐにハンバーグを取り返す。
「なんだ……元気なくしたから食欲も落ちたと思ったのに……しょうがねぇなあ、マカロニサラダで我慢するか……ま、とにかくよく話し合うんだな、まひろさんと……で、計画書だけど」
 まひろと話を、か。
 そうだ。ちゃんと向き合わなきゃいけないって、俺も思っていたんだ。
「映画、イルミネーション、おもちゃ屋さん、本屋さん、遊園地、水族館、動物園、ヘイリーランド、いやあ、この世界はデートコースがたくさんあって迷っちゃうねぇ」
 不審者がマカロニサラダをつまみながら、計画書を読み上げた。
 俺はひとまず胸のモヤモヤを片隅に追いやってハンバーグを口に放り込む。
 まひろとのことは、後で考えよう。
「ミツキちゃんがここにいられるのは、あと四日だろ? 俺の休みは、明日と明後日しかない」
「まあ、どちらにしても、ミツキちゃん日中は猫さんだからな……デートは夕方からしかできない。そうだ、石頭が仕事の日は、店を早退すればいいよ」
 にこっ。
「おい、そんなこと簡単に言うなよ」
 噛みしめるハンバーグが、少し味気ないような気がする。
 俺はビールで飲み込んで、それをごまかした。
「ミツキちゃん、ヘイリーランドに行ったことないんだってさ。憧れの地らしいぜ」
「あ、そう」
 だめだ。片隅に追いやってもやっぱり重暗いものが顔を出す。
 ミツキちゃんをヘイリーランドに連れていく前に、まひろと話をしなければ。
 俺は計画書をじっと見つめながら、まったく別のことを考えていた。
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