魔王の孫と夢の国の住人

鹿嶋 雲丹

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第10話 覚悟

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 はっと女は目を覚ました。
 辺りは夜闇に包まれ、しんとした空気が漂っている。
 季節は初夏で、比較的眠りやすい時期だ。
 それなのに、全身に冷たい汗をかいている。
 それでいて、体の芯は燃えるように熱かった。
 高鳴る心臓の音が、いつもより早いリズムでドクドクと耳を突く。
 おかしいな……風邪でもひいたのかな……
 女はひとまず気持ちを落ち着かせようと、ベッドから降りて窓際に立ちカーテンを開けた。
 今夜は新月だ。
 真っ黒な夜空に、うっすらと細長い月が浮かんでいる。
 それは、昔両親が自分につけてくれた名の由来だ。
 ……なんだろう……妙に懐かしい……
 女は、細身の月が放つ微かな光をぼんやりと眺める。
 そうしている内に、いつからかその目に涙が浮かび溢れていた。
 女の癖の強い明るい茶色の髪は真っ直ぐな黒髪に変わっており、同じように明るい茶色だった瞳の色は黒に変わっていた。
 ……時が、満ちてしまったのだ……
 女はぎゅっと瞼を閉じる。
 身の内から滲み出る、抑えようのない不思議な力。
 女がそれに戸惑ったのは、ほんの一瞬だった。
 頬に感じる冷たい雫を拭う間にも、様々な情報が一気に女の脳内に湧き上がる。
 それはまるで、今まで堰き止めていた流れが一気に開放されたような感覚だった。
 ……行かなくては……
 女は静かにカーテンを閉め、先程まで眠っていたベッドに近づいた。
 そこには、すやすやと眠る幼い我が子がいた。
 女は愛おしそうに黒い瞳を細める。
「ごめんね……お母さんはもう、あなたの傍にいられないの」
 女はそっと呟き、身を屈めた。
 そしてあたたかな子供の額に自分の額を触れさせる。
 このぬくもりを、私は生涯忘れない。
 そう心に深く刻み込み、祈る。
 ……どうか、この子が幸せでありますように……
「いつまでもこうしてはいられない……」
 女は意を決して立ち上がり、子供の隣で眠る夫の頬にそっと手を添え微笑んだ。
「私を愛してくれて、ありがとう……どうか、幸せに……」
 女は静かな声音で祈りの言葉を捧げると、ゆっくりと立ち上がり一人家を出た。
 しんとした夜の空気は重い。
 それは乏しい月明かりのせいばかりではなかった。
 女は草むらに立つ一人の男の前で立ち止まる。
 男はこの町の外れで雑貨店を営んでいる男だ。
 結婚してからはすっかり疎遠になっていたが、女は娘時代に男の店を客として訪れていた。
 その頃の記憶が蘇り、女は柔らかな笑みを浮かべて男を見つめる。
「あなたはずっと、私を見守ってくれていたのですね……ハルク」
 夜風になびく女の真っ直ぐな黒髪が、さらさらと音をたてた。
 その魅惑的な大きな黒い瞳は、産みの母であるリアンにそっくりだ。
 ハルクと呼ばれた男は、夜闇の中で鮮やかに輝く赤い瞳を細めた。
「……せめてもの……私の償いです」
 ハルクは静かな声音で呟いた。
「償い……そうでしたね、あなたにとっては」
 先ほど女の脳裏に湧いた数々の情報の中には、女がハルクに預けられた経緯も含まれていた。
「自由を好むあなたにとっては、苦痛だったでしょうね」
 女は笑った。
「いいえ……あなたと過ごしたあの日々は、なかなかに興味深いものでした」
 ハルクは微かに口元に笑みを浮かべる。
「あの頃……滅多に笑わないあなたの笑った顔を見られたのが、私はとても嬉しかった」
 女はにこりと笑い、ふと夜空の細い三日月を見上げた。
「この名前ともお別れか……好きだったんだけどな……この名前……」
 ぽつりと呟く女の脳裏に、幼い頃から今までの記憶が走馬灯のように蘇る。
 今まで育ててくれた優しい両親、愛しい夫、可愛いくてたまらない幼い我が子……
 女は暫くの間、三日月から目を離せなかった。
「覚悟は決めたけれど……やっぱり後ろ髪ひかれるわ」
 自嘲するような笑みを浮かべる女を、ハルクはじっと見つめる。
「姿を変え、今までのように暮らす道もあるのではないですか? 目覚めた力をコントロールすることも、あなたなら造作もないことでしょう?」
「確かに、それはやろうとすればできることです……けれど、私の夫は人間。そして私には半分、人間の血が流れている。あの子に残る魔族の血はほんのわずかなもの……だから、あの子は人間としてこの先生きていくでしょう。そんなあの子達を魔族の王族の争い事に巻き込むわけにいきません」
 それに、と女は続ける。
「今のまますべてを誤魔化すのは無理があるでしょう……得に、向こうの動向が気になります」
 女は冷静な視線でハルクを見つめた。
 女の言う“向こう”という言葉には、他でもないハルクの兄が含まれている。
 ハルクは兄の姿を脳裏に浮かべ、微かに眉根を寄せた。
 そんなハルクに女は少し憐れむような視線を向ける。
「それに、命の恩人であるあなたにも、いつまでも甘えているわけにいきません……兄さまや父さまのことも気にかかりますし」
「会いに行かれるのですか?」
 ハルクはいつもの無表情に戻り、女に問う。
「私が覚醒めたということは、兄さまも覚醒めているということだから……一度、会ってみたいの」
「もう戻らないということは……あなたは、王位を継ぐおつもりなのですね?」
 ハルクから向けられたそれは、問いではなく確認だった。
「そう……あなたは知らなかったのね……」
 女は真顔で自身の胸に手を当て目を伏せる。
「もう既に、王位継承の約定はこの身に焼きついているの」
 ハルクは目を瞠った。
「そこまでは……約定は王の元にあると……」
「目覚めた今だから感じるの……たとえどんなに遠くにいてもね……兄さまは、私ほど魔族の力を持っていない。もしそんな兄さまが王なんていう大役を引き継ごうとしたら、その座を狙う者達に足元をすくわれてしまうわ……だから、私で良かったのよ」
 穏やかに微笑む女に、ハルクは小さくため息を吐いた。
 女の身の内に潜む魔力は底知れないものだ。
 それを目の当たりにしなくとも、ハルクにははっきりとそれがわかる。
 そして不思議と漂う凛とした気品もあった。
 それは現在の王やその長子であるリアンも持っていたものだ。
 やはり彼女は魔王の一人娘の子、王の長子の血を継ぐ者なのだ。
「そうですね……メアー様の仰るとおりです。その狙う者達の中に我が兄が含まれていることが、私は恥ずかしくてたまりません」
 言うハルクの口調は苦しそうなものだった。
「まだそうとは決まっていないわ、ハルク……それに、一族を仕切る長の座が眩く見えるのは、仕方のないことよ」
 仕方ないこと……とは……
 ハルクは目を伏せた。
 それはハルクに対する気遣いなのではないのか。
 確かにメアーが言う通り、証拠はない。だが、彼女の母リアンの命を奪ったのは、実の兄である可能性が高いとハルクは考えている。
 そして、いくら知らなかったとはいえ、ハルクは兄の要求を飲みあの水晶球に細工をしてしまった。
 つまり、リアンの死に加担したのだ。
「自分を責めるのはおやめなさい、ハルク」
 メアーは強い光を放つ瞳でハルクを見据え、はっきりとした声で言った。
「母さまの命を奪ったのは、おそらく私と兄さまよ。無力だった私達を生き永らえさせるために、母さまは命を賭けたのでしょう……あなたのせいではありません」
 ハルクは一瞬その光に飲まれかけたが、すぐにはっとする。
「しかし……そのきっかけを作ったのは、私の兄に違いありません」
「でしたら、責を負うのはあなたではなくあなたの兄さまよ。あなたは今まで、この町の娘だった私を見守ってくれた……本来に、感謝しています」
 メアーは笑顔のまま、ハルクに背を向ける。
「……メアー様……」
 その姿が靄のように消えた後も、ハルクはしばらくその場に立ち尽くした。
 登る朝陽がその長身を照らし、長い影が地面に描かれる。
 オレンジ色の陽光に照らされたハルクの横顔には、いつもの無表情に少しの覚悟が見え隠れしていたのだった。

 この日、町から一人の若い母親が行方不明になった。
 町中は大騒ぎになったが、時が流れていく中で次第に新たな記憶に埋もれ忘れ去られていく。
 メアーが愛した夫は後妻を迎え、残された子は義理の母親にも可愛がられながら、育っていった。
 ハルクは町の外れで雑貨店を営みながら、その様を見守り続けたのだった。
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