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67 エピローグ

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 放課後の教室は、肌寒かった。
 一度、自宅へと帰っていた。正装として着込んだ学ランは学校へ行く為のものではなく、あくまで対峙のポーズでしかなかった。
 それなのに、結局こうして学校へ来てしまった。
 どうして、教室に来てしまったのだろう。
 仁科要平は、漫然とそんな風に考える。
 きっと、このなりではさすがに中学へは行けないからだ。だからここへ、来るしかなかった。鈍った思考に自嘲が滲むが、全く笑えそうになかった。
 誰もいない教室の真ん中で、誰とも知れない机に腰かけて、だらしなく俯きながら、ただただ漫然と、思考を巡らす。
 だがその思考さえきちんと働いているという確証はなく、普段の自分を鎧う理性と冷静さの名残が、なんとか仮面を繋ぐ為の作業として息を吸い込むように思考の真似事を繰り返しているだけだった。頭が働いているようで、その実全く、働いていない。ただ、それを自覚できる程度には、かろうじて思考が生きているらしい。
 佐伯葵の事を、考えた。ここに来てから、ずっとそうだった。
 多分、最初から意識していた。
 あまりに似ていないと分かっていて、それでも見ずにはいられなかった。
 会話を交わせば交わすほどに生まれる乖離が、どこかで心地よかったのだろうか。それで終わりにできるという甘さが、この結果を生んだのだろうか。
 周囲から腫物扱いされる仁科と、普通に接しようとする生徒は少ない。その数少ない生徒の一人が、佐伯葵だった。会話を交わして、すぐに人となりが分かった。その優しさも、脆さも、手に取るように分かってしまった。
 葵は――綺麗、だった。
 綺麗だと、思ってしまった。
 いつの間にそんな風に思っていたのかは分からない。ただ、葵の透明さを美しいと思う感情だけがすとんと胸の中に気づけば落ちて、今日という日まで自覚がなかった。だが本当に無自覚だったかと胸に問えば、多分、違うと首を振る。
 きっと、どこかで分かっていた。
 そしてそんな葵を汚したのが、自分なのだ。
 手は、下していない。だが、止める事はできた。それを怠ったのは自分だった。仁科が、やったようなものだった。
 葵の笑顔が、脳裏を掠める。
 傷だらけの心を抱えて、それでも屈託なく笑う、葵の顔。
 きっとたくさん、悲しい思いをさせた。嫌な事も、数えきれないほど言われたに決まっている。もしかしたら、危ない目にも遭ったかもしれない。
 抉り込むような傷を与えたのが自分だと、葵が知ればどう思うだろう。
 分かっていた。許されてしまう。葵はきっと、仁科を責めない。
 今まで散々引き摺っておきながら、同じ顔の別の少女へ執着し、こんな風に荒む姿は、本当に目も当てられないほど格好悪い。
 分かっていたが、もう、どうでもよかった。
 さああ、と。風が吹いた。
 御崎川高校、二年二組。
 二年のクラスが並ぶこの階層に人気はなく、時折遠くの階段の方で、生徒の行き来が足音として微かに響くのみだった。一つの学年が丸ごと消え失せるだけで、学校という場所はこれほどの静寂を生む。それが何だか奇妙に非日常的な感慨となって、ぽっかりと穴の開いた胸へ抜けていく。
 葵とは明日、また待ち合わせをしていた。泰介を見舞う為だ。目が覚めないまま四日が経った友人へ、仁科は茫洋と思考を馳せる。
 どんな顔で会えばいいのだろう。
 どの面提げて会えるというのだろう。
 葵に対してもだが、泰介に対してもそうだった。
 泰介は一体、どれほど葵の事を知っているのだろうか。
 もし、知っていて、そして仁科の事を、知ったなら。
 そう考えた時、不覚にも笑えてきてしまった。吉野泰介は、その時自分をどうするか。少しだが興味が湧いたのだ。
 多分、殴られるだろう。だがそのように考えたところで、一見粗暴な吉野泰介が、誰か人を殴ったという話を聞いた事が全くないと不意に気づく。口癖のようにぶっ飛ばすと言う割に、甘い奴だと仁科は思う。そしてそんなところが尚更、泰介らしいと思う。
 いっその事、本当に、泰介が――そこまで考えて、いよいよ可笑しくなってきた。
 どうやら、自分は壊れているらしい。いや、それとも壊れていた事に今まで気づかなかったのか。どの道、ガラクタだ。
 ――もう死にたいかな。
 侑の言葉を、思い出した。
 仁科は、身じろぎする。どれほどの時間机の上で風に吹かれていたのか忘れたが、少し動いただけで背中が重く軋んだ。こうやってじっとしていると、いよいよ本当にガラクタのようだった。打ち捨てられて誰にも顧みられない孤独が、気づけばもう、随分久しい。
 理由は、分かっていた。
 葵が、いたからだ。
 泰介も、一緒だったからだ。
「……」
 目が、覚めればいいと思う。
 あの泰介の事だ。きっと、目覚めるに決まっている。
 ただ。
 二人とどう向き合えばいいのか。それがやはり分からない。
 考えようとすればするほど思考が磨滅していき、最後は侑の言葉だけが、空っぽになった思考の片隅に残り粕のように置き去りにされる。
 溜息を、吐いた。もう、考える事さえ億劫だった。
 仁科はもう一度身じろぎすると、教室の窓を振り返った。窓は、仁科が開けていた。穏やかに吹き込む風が、もうすっかり冷たい。
 その冷たさにもっと間近に触れれば、この錆びついた思考も、少しはクリアになるだろうか。
 仁科が、そ、と身体を動かし、床へ足をつこうとした、その時。

 音を、聞いた。

 床が軋るような音に聞こえたが、最初はそれだけだった。空耳かとも思ったが、もう一度聞こえた気がしたので仁科は扉を振り返る。
 そしてその時にはもう、最初聞いた音は聞き間違いを許さないレベルに大きなものとなっていた。
 ぎいっ、ぎいっ、ぎいっ、と床が不穏に軋る音が響き、それがみるみる近づいて来る。
 足音だった。
 誰かが廊下を走る音が、この教室にまで響いてくる。
 二年生がいない廊下を形振り構わずどたどたと走る足音が響き渡り、静寂を乱し、空気を震わせ――、
 ばんっ! と、強く開け放たれた扉が木枠に叩きつけられる、凄まじい音が響いた。
 目を、見開く。

「――――仁科あああぁぁぁぁあ!」

 信じられなかった。
 吉野泰介が、そこにいた。
 そして隣には、佐伯葵の姿もあった。
 驚きで頭が真っ白になったまま、仁科は手を取り合って教室へなだれ込む二人の姿を、見た。
 茜色に染め上げられた光が薄く射す、忘れられたように静かなこの場所で、突然息せき切って駆けてきた二人の友人の姿を、見た。
 ――ああ、と、思った。
 その瞬間に、分かった気がしたのだ。
 浮かび上がる感情の多様さに呑まれ、ただ茫然と立ち尽くした十四歳の秋。
 今まで分からなかったゲームの答えに、やっと手が、届いた。
 ――あの時、侑は。
 やっと、分かった。ようやく、分かった。
 ただ、引き留められたかったのだ。
 そんな手が、欲しかった。
 そしてそれが、手に入らないのなら――もう、本当に、何も要らない。

 その一瞬が永遠のように感じられた時間の中で、仁科はこちらへ駆けてくる泰介と葵の姿を、感情の麻痺した頭で茫然と見返しながら――どこかへと落ちていく自分の手が、確かに掴み返される音を、聞いた気がした。
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