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64 カーテンコール・2

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 さああ、と風が中庭を吹き抜けていき、枯葉が擦れ合う音がする。
 泰介と仁科はベンチの一つに並んで座り、漠然と時を過ごしていた。
 五時間目の授業は、結局そのままサボってしまった。何となく喧嘩の後を引き摺ってしまい、授業に出る気になれなかった。
 言い訳だと、どこかで気付いている。葵が倒れた事も、尾を引いているのだろう。
「吉野」
 不意に、仁科が泰介を呼んだ。
「なんだよ」
 泰介は顔も見ずに、ぶっきらぼうに返事をする。
「お前って、佐伯と付き合うようになったのか?」
「……。そうだけど」
「へえ?」
 仁科の声が、無感動なものから心持ち明るいものへ変わった。
 揶揄されるかと思っていたので、泰介は少し驚く。
「てっきり、むかつくからかい方してくるかと思ったぜ」
 泰介が仁科を見ると、仁科もこちらを向いた。目が合って初めて、仁科の目にからかいのニュアンスが浮かぶ。
「なんか、前より距離が近くなったって気がしたから」
「……」
 そんな言い方をされては、反応に困る。泰介が髪に手をやりながら空を振り仰ぐと、両脇を五階建ての校舎に囲われた秋の空は、相変わらず柔らかな青色を頭上に薄く延べ広げていた。傾き始めた日の光が、微かなオレンジ味を雲へと添える。一日の終わりが、近づき始める色だと思う。
 互いに会話もなくぼんやりと風に吹かれていると、何とはなしに、泰介は仁科の横顔へ目を向けた。
 もうオレンジ色ではない、仁科の髪。その髪がさらりと揺れて、頬のガーゼを掠めていく。
 泰介が、殴った痕だ。
 ――あの教室に踏み込んで、仁科を力任せに殴り飛ばした後。
 仁科はひどく驚いた様子で抵抗もなく泰介を見上げていたが、やがて近づいてきた葵を見ると、顔色を変えた。
 葵は膝をついて仁科と目線を合わせ、仁科もその葵と見つめ合い、二人はしばらく無言だった。
 そして永劫のように感じられる長い沈黙の果てに、仁科が言ったのは謝罪だった。
 ――佐伯。悪かった。
 色のない唇を動かして、やっとの事でそれだけを言った仁科を、葵はじっと見つめ、少し躊躇い、やがて肩を支えるように抱きしめた。仁科は身じろぎしたが、葵が動かないのを見ると、そのまま葵の肩へ頭を埋めるように乗せて、こちらも動かなくなった。
 仁科はそれからも、何度か謝罪の言葉を口にした。葵はその言葉に対して、何も言わなかった。ただそこに座り続け、仁科の言葉を聞き続けた。
 もしかしたら、仁科は泣いていたのかもしれない。それを隠す為に、葵はそこにいたのかもしれない。そして仁科の謝罪の言葉が途切れると、「なんで、そんなに優しいの」と、葵は囁くように言った。
 やがてすっかり日が落ちて、教室に夜の気配が仄青く満ち始めた頃に、葵はぽつりぽつりと、自分の出生について語り始めた。泰介が、葵に話したものだった。
 それを最後まで聞き終えた後で、ようやく顔を上げた仁科が、今度は自分の過去を話し始めた。宮崎侑と自分の関係について、初めて仁科が、口にした。
 棚橋円佳に会いに行った事も、仁科はその時に認めた。あの手紙は実際には葵の鞄に入れられたのではなく、葵が席を立った待合に、気づけば置かれていたらしい。それを仁科が鞄へ入れたという。
 ただ、棚橋円佳と何の話をしたのかだけは、仁科は口を割らなかった。
「吉野。病院抜け出した所為で家族にめちゃくちゃ怒られただろ。よく今回は髪刈られないで済んだな」
「うるせえよ」
 泰介は苦々しさから顔を歪めた。
 学校を出る時に病院と母へ連絡を入れたが、その時点から既に泰介は凄まじい叱られ方をされていた。中でも母の怒りは尋常ではなく、点滴を勝手に抜いて病院を飛び出した事に対する激昂は壮絶なものだった。これほど母を激怒させたのはおそらく中学二年の立ち回り以来だろう。葵と仁科が付き添っていなければ、泰介の髪は再び刈られたに違いない。
 何故そんな真似をしたのかと散々訊かれたが、泰介は理由に関しては一貫して黙り通した。そして、ただ謝った。
 母は何事か追及したそうな顔を崩さないままだったが、幼馴染の葵が付き添いで来た事も功を奏したのか、最後は無理やり諦めたような顔で、無事でよかった、と投げやりに告げられた。
 悪い事をしたとは、思う。
 それでも、後悔だけはしていなかった。
「……吉野」
 見つめた横顔の、唇が動いた。
「あの時は、余裕なかったから訊きそびれたけど。なんで俺が、あの教室にいるって分かった?」
 訊かれるとは思っていたが、必要以上に答えてやる気はなかった。泰介は憮然と言い放つ。
「何だっていいだろ。別に。なんとなくだよ」
「曖昧な事を嫌う、吉野らしくないことだな」
「うるせえよ」
「……まあ、いいけど。別に」
 仁科は不思議そうに泰介を覗き込んでいたが、やがてこちらから目を逸らしたらしい。ふ、と吐息に似た笑い声が漏れ聞こえた。
「昏睡状態だったはずの奴がいきなり飛び込んできたから、びっくりしたってだけさ。言いたくないなら、別にいい」
「……お前の事なのに、いいのか? そんなんで」
 仁科の追及が存外に緩いものだったので、面食らった泰介は思わず訊き返す。だが仁科は薄い笑みをその美貌へ浮かべただけで、やはり頓着しないらしい。空を仰ぐようにベンチへもたれた。
「いいんだ。別に。……吉野」
「だから。なんだよ」
「お前って、変な奴だな」
「……はあっ!?」
 頭に血が上った泰介だが、それを言う仁科の表情は不思議なほどに穏やかで、揶揄も皮肉もそこにはなかった。純粋な興味の感情だけが、やはり薄く浮かんでいた。
「お前が教室に殴りこんできて、めちゃくちゃ罵倒されて、佐伯まで連れて来られて。わけが分からな過ぎて、頭真っ白になった。そうなってみたら……今まで考えてきたこと全部、馬鹿らしくなった」
「なんだよ。俺の所為かよ」
「髪が黒くなった事も含めて」
 仁科は保健室の方角へ目を向けると、「吉野」と不意に改まった声で泰介を呼んだ。
「吉野は、俺に……佐伯の生みの親と何話したか、訊いただろ」
「……。俺は。今でも知りたいって思ってる」
「お前は、聞いたら駄目だ」
 はっきりと、仁科は言った。
「聞くな。吉野」
「仁科」
「お前、聞いたら多分駄目になる」
「……」
 納得したわけではなかった。咄嗟に文句が口をついて出ようとしたが、それが喉の奥でつっかえたように止まってしまう。
 真剣の眼差しの仁科と、目が合ったからだ。
 〝ゲーム〟の渦中でさえ、仁科がこれほど真っ直ぐに泰介を見た事はなかった。それほどまでにこの時の仁科の目は、固い意志を感じさせるものだった。
「……。約束、できねーぞ。それ」
「でも俺は、お前には知って欲しくない」
「……知らないで、生きていけるわけでもないだろ。多分。……分かんねえけど」
 泰介は、言葉を選びながらそう言った。
 今の仁科の言い方で、察しがついた。恐らくは、宮崎侑の事だけではないのだ。
 葵の事も、あるのだろう。
 だがそれなら尚更、泰介はいずれ耳にするはずなのだ。それを自分から誰かに訊くか、他人の言葉から偶然耳にするかの違いがあるだけに決まっている。
 いつか、必ず泰介は知るだろう。
 たとえ仁科が、どんなに心を砕いても。
「気持ちだけ、受け取っとく。……仁科。お前を見てるから、俺は駄目になんかなんねーよ」
「なんだ、人を駄目呼ばわりして」
「先に俺の事駄目になるとか言いやがったのお前だろ」
「まあ、確かにそうなんだろうな。格好悪いとこあれだけお前らに見られたら、もう色々どうでもよくなった」
「……」
 泰介は、仁科を見た。
 憑き物が落ちたようにすっきりとした表情で、空を見上げる仁科の目が、空の光を淡く映す。
 そんな時、さく、さく、と背後で下草を踏みしめる音がした。
「あ? ……敬?」
 敬だった。隣には葵もいて、とろんとした目をしてはいたが、先程よりは顔色がいい。そんな葵に付き添うように歩く敬は、泰介と仁科に目を留めると、気恥ずかしそうに笑った。
「敬、どうしたんだよ? まだ授業中だろ」
「サボっちゃった」
 あっさりと、敬は口にする。その台詞に泰介はぎょっとしたが、仁科は鷹揚に笑った。
「いいのか? 委員長。俺みたいな事して」
「うーん。まあ、たまには」
「狭山。片付け手伝ってくれてさんきゅ。悪かったな、後始末なんか手伝わせて」
「いいよ、そんなの。気にしないで」
 どことなく親しげに会話する二人に泰介がぽかんとしていると、葵がゆっくりと近づいてきて、嬉しそうに笑う。
「敬くんと仁科、仲良くなったみたい。仁科が名前、覚えてる」
「ああ。ちょっと、びっくりした」
 クラスの問題児と委員長というとんでもない組み合わせだが、根が真面目な者同士、意外と話が合うらしい。面食らったが、見ていてなかなか面白い。
「泰介。私、一人で帰れると思う。ごめんね、授業サボらせちゃったの?」
「サボりは別に、お前の所為じゃねえし。歩けんのか?」
「うん。……取り乱してごめんね。格好悪いとこ見せちゃった」
 すぐに、何を謝られたのか気づいた。
「あれくらい、普通だろ。それくらいで謝んな」
 軽くそう言ってやると、葵は寂しそうに笑った。
「さくらに、ひどいこと言っちゃったのに。……私、しばらくさくらのこと、許せないみたい」
「……。俺は、謝らねえからな」
 泰介は、言った。
「修学旅行の事くらいなら、ボイコットの件で一緒に詫びてやってもいいけど。その前に揉めた件あるだろ。あれをさくが後悔してないんだったら、付き合ってらんねえよ」
「……泰介って、本当にはっきりしてるよね」
 眩しいものでも見るかのように、葵が目を細める。そして再び敬と仁科へと視線を馳せると、穏やかに言った。
「ねえ。今日、思ってたんだけど。仁科、変わったよね」
「ああ? 何だよ、それ」
「だって」
 葵が、笑った。
「仁科、泰介にちょっとだけ、優しくなった」
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