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62 ゲームの終わり
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沈黙が、凍りつく。
空恐ろしいまでの沈黙が永劫のように感じられた、瞬間。
「い……嫌あああぁ!」
葵の上げた悲鳴で、時間が動いた。
泰介は即座に手紙を放り捨て、葵の肩を強く掴んだ。目が合った葵は理性を取り戻したかのように息を吸い込み、悲鳴を殺す。だが身体の震えは止まらなかった。
「泰介、これ……っ、う、あ……、嫌っ、なんで……!」
「待て! ……落ち着け! 葵!」
だがそれを言う泰介自身、全く落ち着いてなどいられなかった。見た物の禍々しさに、頭がついてこれなかった。そこに凝縮された狂気に触れて、泰介も葵も冷静さを失っていた。
「これ、今日……今日、書かれたの? 今日書かれて、今日、私の鞄に、入れられ……っ」
「……っ!」
震える葵の身体が崩れ落ちかけ、肩を引き寄せて受け止めた。だが今の泰介では支えきる事ができず、そのまま二人して転がるように床へ倒れた。
「……なんで、知ってるの」
葵が身を起こしながら、茫然と呟いた。
「修学旅行、欠席したって……なんで、知ってるの……!」
「葵、聞け」
泰介は起き上がると、葵の肩を掴み直す。葵は恐怖と生理的嫌悪の震えが残る手で、掴んだ泰介の手に触れた。それだけの動きで、葵も悟ったのだと泰介は気づく。
「お前……いつからか、知らねーけど……もしかしたら」
「私……あと、尾けられてた? 今まで、生活、見られてたの……?」
「……そうとしか、考えられねえよ」
それ以外考えられなかった。佐伯家の人間が言うわけがないのだ。葵の周囲の人間で、葵の情報を漏らして得をする者は誰もいない。ならば本人によるストーカーと考えるのが自然だった。葵は実母の顔も知らないはずだ。至近距離へ迫られても分からないに決まっている。修学旅行云々は、きっと誰かと話している所でも聞かれたのだろう。
だが、そこまで考えた所で――最悪の想像が、過った。
葵と修学旅行について、話していた誰か。
誰かって――――誰。
決まっている。手紙にこうもはっきり書かれているのだ。今日の葵の行動が。病院に、行ったという事が。
「――っ、仁科あぁぁぁあ!」
泰介は立ち上がるとソファへ取って返し、置きっ放しになっていた携帯を掴んだ。
萩宮までは一時間弱だ。そして午前中に見舞いを済ませて真っ直ぐ帰ったとしたら、そこで何が起こるのか簡単に想像できてしまう。そのまま御崎川まで戻れてしまうという事まで、あっさり特定できてしまう。綺麗に筋が、通ってしまう。フラッシュバックする遺影と揶揄の笑みがない交ぜになって、泰介の理性を撹拌した。
間違いないと、確信した。
即座に、リダイヤルする。だが、出ない。仁科は返事を寄越さない。コール音ばかりが響く携帯を憎々しげに見下ろし、泰介は走った。
「葵! 電話借りる!」
叫びながら固定電話へ手を伸ばし、壁に貼り付けられた連絡網に目を走らせる。すぐに御崎川高校の電話番号を見つけ、仁科を呼び続ける携帯を脇へ置いたまま、電話番号を打ち込んだ。
そして男性教師の応答の声が聞こえた瞬間、間髪入れずに名乗りを上げた。
「二年二組十八番の、吉野泰介です!」
電話の向こうの相手は、『吉野?』と胡乱げな声で言った。
内心で、舌打ちする。名乗った人物は顔見知りで、偏屈で有名な教師だった。話がこじれそうな予感が過ったが、躊躇している暇はない。矢継早に叫んだ。
「先生、二年二組の仁科要平は今日学校に来てませんか!」
だが、訊きながら答えは分かっていた。修学旅行中の二年が来ているかどうかという質問に、教師が答えてくれるわけがない。
『吉野、オマエなあ! 学校の電話はそんなつまらん取次をする為のものじゃないんだぞ! 大体、二年は今みんな京都でおらんだろうが!』
分かっているのだ、そんな事は。だが、今確認しなければならないのだ。
今、確認できなければ――取り返しが、つかなくなる。
「教えて下さい! お願いします! 仁科要平に用があるんです! 校内放送で呼び掛けて下さい!」
『いい加減にせんか! 吉野!』
教師が、声を荒げた。
『さっきも言った通りだ! 用件がそれだけなら切るぞ!』
「……っ、仁科の身内の不幸です! お願いします!」
ぶつん、と音がする。同時に通話は、切られていた。
「……」
かちゃん、と受話器を置く。佐伯家の電話でなければ、叩きつけていたかもしれない。
「あんの、野郎……!」
これで本当に仁科が死んだらどうしてくれるのだ。泰介は殺意を滾らせながら背後を振り返り、そこに立つ葵が自分を見ている事に気づいた。
顔色は、相変わらず蒼白だ。だが、既に理性は取り戻していた。
真剣な眼差しが、ひた、と泰介を見つめている。葵は泰介の手元で仁科を呼び続ける携帯に視線を落とすと、再び泰介へ視線を戻し、言った。
「仁科がどうしたの。泰介。教えて」
「……」
「お願い。泰介。詳しい事は何も訊かないから。だから、それだけは教えて」
葵は泰介の手元から携帯をそっと奪い、自分の耳に当てた。
「私には、泰介が何をそんなに焦ってるのか……まだ、ちゃんと分かってないよ。でもそれって、泰介が病院抜け出してきたのと関係あるんでしょ? 今の手紙とも、関係、あるんだよね? ……仁科がもし、危ないなら」
葵は顔を上げると、決然と言った。
「助けたいの。泰介。どうしたらいいのか、教えて」
「……今から、お前の事を話す」
「……え?」
「俺は、お前の事を知ってる。時間がないかもしれないから、丁寧には話せねえし、手短にまとめる。本当は家族から聞くべきだって事も、分かってる。それでもお前は…………俺から、聞けるか? 自分の事を」
葵の返事は、早かった。
「うん。言って。お願い」
その声のどこにも、躊躇いは見当たらなかった。ただ、真剣さだけがあった。
だから泰介も、その顔を見た瞬間に覚悟を決めた。
「お前の生みの親の棚橋円佳、多分結婚して苗字が変わってる。旧姓は、宮崎だ」
葵の顔に、僅かな驚きが浮かぶ。心当たりがあるのかもしれない。構わず、先を続けた。
「宮崎円佳には俺が知ってる限り二人の娘がいて、片方がお前で、もう片方の名前が、手紙にもあった『侑』って名前の奴だ。宮崎侑は、葵の姉だと思う。多分、双子だ。中学二年の時に死んで、もう会えない。学校の教室から飛び降りて、死んだって聞いた」
「……」
「その宮崎侑は、仁科の友達だった。仁科の目の前で、飛び降りて死んだ」
「……」
「葵」
「うん」
「お前は手紙に気づかなかったけど。仁科がもし、この手紙を読んでたら」
「うん」
葵は、頷く。そして、悲愴ながらも毅然とした声で、言った。
「泰介。――仁科、同じような死に方するかもって、思ってるんでしょ」
「……、なんで……」
あまりに的を射た指摘に、泰介は二の句が継げなくなる。
正直、理解してもらえるとは思っていなかった。それほどまでに今泰介が述べた葵と仁科との繋がりは密なようで希薄で、それを葵へ突き付けたところで即自殺へ繋げてもらえるとは思っておらず、期待もしていなかったのだ。
そんな泰介の反応を見た葵は、諦観を顔に浮かべ、静かに笑った。
「……私が、初めて仁科と話した時。仁科、放課後の教室に一人でいたの。窓際にいて、他には誰もいなくて。たった一人で窓の外見てた。私は忘れ物を取りに戻って、その教室に行ったんだけど……落ちちゃう、って。思っちゃった。あんまり身体乗り出して、窓の外を見てたから。横顔、寂しそうに見えたから。……だから。泰介が同じように考えたって聞いても、驚かないの。……自然だって、思っちゃう」
「……」
「仁科、探そう。心当たりある?」
「ああ」
迷いを振り切るように言った葵へ、泰介も首肯を返してズボンの裾を折ってシャツの腕を捲る。もう本当に形振りなど構っていられなくなった。葵が携帯の通話を終了させて折りたたむと、サブディスプレイの表示が光って時刻が浮かび上がった。
時刻は――三時半。
前は、四時半だった。一時間は、ある。だが以前とは状況が異なっていた。同じ時間に仁科が死ぬとは思えないし、それをどう葵へ説明したらいいのかも分からない。だが、動かないのはもっと悪い。
仁科がいないのであれば、それでいい。連絡がつくまで教室で待ち伏せすればいいだけの話だ。
「御崎川高校だ。行くぞ!」
「うん!」
葵と泰介は頷き合うと、渡された上着を着込んで慌ただしく佐伯家を出ようとしたが――その時、ばんっ! と急に扉が開いた。
泰介はぎょっとして、咄嗟に居間へ退避する。
一瞬、母かと思ったのだ。泰介は病院からの脱出直前、執拗に葵への連絡手段を訊ね過ぎた。あれが手がかりとなって押しかけられたかと思ったのだ。
だが、そこにいた人物は泰介の母ではなかった。
「あ……蓮香お姉ちゃん!」
葵が、驚きの声を上げた。泰介も面食らい、現れた女性を凝視する。
佐伯蓮香だった。
紺色のジャケットに細身のパンツを合わせ、薄い鞄を肩から提げた、いかにも会社帰りといった出で立ちの佐伯蓮香は、だぼだぼの衣服に身を包んだ泰介の姿を認めると、安堵と憤りが混ざったような複雑な表情で、険しくこちらを睨み付けた。
「蓮香さん、なんで」
「あんたが目ぇ覚ましたら即連絡しろって葵に言ってたからよ! この寝坊助! 馬鹿! 信じらんない!」
蓮香は罵倒の言葉を次々と連発しながら、ぽかんとする葵を玄関に残してずかずかと家へ踏み込んだ。そして蓮香は泰介の手に握られた見覚えのある便箋に目を留めて――はっきりと顔を引き攣らせた。
「それ、寄越しなさい」
言いながら、泰介から奪い取るように手紙を見た蓮香の顔色が、変わる。
「……吉野君、もう話したんでしょ。葵に。全部」
「すみません。全部話しました」
「そう。いいわよ」
蓮香は淡々とそう言うと、手紙をきつく握り締めて唇を噛んだ。
そしてぐるりと葵を振り返り、「葵!」と叫んだ。
「は、はい!」
呼ばれた葵がびくりと竦んで、畏まった返事をした。
「あんたの事で、補足の説明するわよ。時間ないから手短にしか今は言えないけど、よく聞きなさい!」
蓮香は身体ごと葵へ向き直ると、真っ直ぐに葵と目を合わせ、言った。
「養子縁組にも二種類あってね、一つは普通養子縁組。これは、養子として他のおうちに引き取られた子供が、実親との親子関係を戸籍上継続しながら、余所のおうちで養われるケース。実親との繋がりが残っているの」
「私は、そうなの? 棚橋さんと、親子関係が残ってるの?」
「違うわ」
蓮香は首を横へ振る。
「佐伯のおうちとあんたの関係は、特別養子縁組よ。特別養子縁組っていうのはね、あんたの産みの親と葵との親子関係を戸籍上ごと断って、佐伯のおうちが葵の事を、実の子供と同じ扱いにするっていう意味よ」
「それじゃあ……」
「あんたは、うちの子なの。血がどうとかなんて関係ない。棚橋円佳は、正真正銘赤の他人よ。きちんと法律に則って、そう取り決めてる。……あたし達は! 誰が何と言おうと、正真正銘の家族なの!」
はっきりと、蓮香は言った。
「あんたの本当の父親は蒸発していないから、育児能力なし。それに棚橋円佳も当時この取り決めに同意したわ。特別養子縁組は、実親の同意が得られて成立するのよ。……それなのに、今更何なの? これ。お父さんにもこれから連絡しとく。もうあんたらだけの問題じゃなくなったから、今夜は家族会議よ。これから萩宮に殴り込みに行ってもいいけど、お父さんにも時々花持たせたげないと立つ瀬ないだろうし。今は我慢しといてあげるわ」
「………蓮香お姉ちゃん。ありがとう」
葵は、明るく笑った。何かを吹っ切る覚悟を決めたような、悲壮ながらも確かな希望を感じる笑みだった。
「なんだ。私。最初っから、ちゃんとうちの子なんだよね。分かってたことなのに。……ごめんね。手のかかる妹で」
葵は蓮香の身体へ、とんともたれるように抱きついた。
「大好き。蓮香お姉ちゃん」
蓮香は妹の頭を見下ろすと、愉快そうに笑って葵を抱きしめ、髪を撫でた。
「ん。お父さんにも帰ったら同じようにしてやりな。嫌じゃなかったら」
「嫌なんかじゃないよ。大好きだもん」
葵は蓮香から身体を離すと、泰介を振り返る。
「泰介。身体は辛くない?」
「ああ。っていうか、大丈夫じゃなくても止めんなよ」
「うん」
そんなやり取りを交わしていると、蓮香が不意に言った。
「タクシー」
「?」
「タクシー、あたしが乗ってきたの外で待たせてる。それ使って高校まで行きなさいよ」
「蓮香さん……」
「吉野君。あんたの所為であたしの生活リズム滅茶苦茶なんだからね。責任とって、全部終わったら菓子折りの一つでも持って家に来なさい。本っ当にあんたに付き合わされると腹立つ事ばっかりだわ」
「……ありがとうございます」
「もうちょっとあたしが早く着いてたら、お父さんの服じゃなくて特攻服貸してあげたのに。昔のやつ。かっこいいわよ」
「それは遠慮します」
「じゃ、行ってらっしゃい」
蓮香は、ひらりと手を振った。
「あたしの分もぶん殴って来てよ、吉野君。あたしとあんたと葵の分で、三発でよろしく」
「自分の分は自分で持ってください。行ってきます!」
そう言い捨てて、泰介はきょとんとする葵を連れて玄関から一歩踏み出した。
秋の冷たい風の中へ、全身で飛び込んだ。
*
「泰介って、蓮香お姉ちゃんとあんなに仲良かったっけ」
「あれが仲いいように見えんのかよ」
タクシーの後部座席に座りながら、思わず渋面になる。葵はそんな泰介を意外そうな目で見つめていた。
「だって……同じタイプだから。折り合えないと思ってた」
「何だよ、同じタイプって」
「直情型? すぐ手が出るところとか、喧嘩腰のところとか。あと自分の主張曲げないところも」
「うるせえよ」
泰介はむすっと口を引き結ぶと、背中を後部座席へ預けるように深くもたれた。
疲労は、あまり感じなかった。吐き気が収まったわけではなかったが、それさえ最早気にならなかった。目まぐるしく移り変わる状況が、そんな不調を忘れさせた。
「……泰介。私のこと、蓮香お姉ちゃんから聞いてたんだね」
「……」
違う。だが、違うと言うわけにはいかなかった。泰介は、葵から目を逸らす。多分、顔を見られたら嘘だとバレてしまうだろう。それくらいに、長い間一緒に過ごし過ぎた。バレてしまってもいいのだろうが、その場合上手く説明できる自信がなかった。泰介の沈黙を葵がどう受け取ったのかは分からないが、葵は話すのをやめなかった。
「ありがと、話してくれて」
「……悪かった」
「なんで謝るの」
葵が、笑う。
「聞けて、嬉しかった。変な話だけど……ああ、やっぱり、って思っちゃった」
「心当たり、あったのか?」
「うん。宮崎って苗字にも。双子かもしれないっていうのも。……時々だけど。私がもう一人いるんじゃないかって、そんな気がしてたの。知らない人に、話しかけられた時とかに。それに、仁科のことも。私のことを仁科が最初の頃見てたの、泰介も気づいてたんでしょ?」
「……」
「泰介。ありがとう」
「なんで、礼なんか」
「泰介がいてくれたから。私、大丈夫だったんだもん。大丈夫でいられたんだもん」
座席に放り出していた泰介の手に、葵の手が重ねられた。突然だったので泰介は狼狽えたが、葵は前を向いたまま、優しい目で笑っていた。
「やっぱりこれも、時々、だけど。……嫌なこと、たくさん言われた。ちょっとだけ話したことあったよね。知らない人によく話しかけられた、って。…中学の時、私の我儘に泰介を付き合わせちゃった時。夜、公園で」
「……ああ」
「あの時には、全部言えなかったの。今もちょっと、言うのに勇気いる。でも、こんなの溜めこんじゃうの、本当は、ずっと嫌だったの。今でも、やっぱりやだって思ってる。……ねえ。また、今度、聞いてくれる……?」
葵はそう言って、泰介を振り返った。
もう泣いてはいない、葵の顔。少しだけ緊張気味に上気した頬を見て、ようやく泰介は気づいた。
「お前が自分から、そういう風に、言うのって……初めてじゃん」
「……だめ?」
「駄目じゃねえよ」
泰介は言いながら、重ねられた手を軽く握り返した。
「いつでも言えよ。聞いてやるから」
「うん」
葵は幸せそうに笑った。そしてその表情をほんの少しだけ悲しげに陰らせると、睫毛を伏せた。
「泰介。泰介は仁科が、本当に自殺するって思ってるの?」
「思ってねえよ」
泰介は断言する。
「不用意に窓辺に近寄って、うっかりで落下して死ぬとは思ってる。でも自殺なんか絶対しねえよ」
「……何それ?」
「死ぬ前にあのオレンジ頭、絶対に止めてやるって意味に決まってんだろ。お前はあの馬鹿が自殺なんてすると思うのかよ?」
「しない」
葵は、きっぱりと言った。
「でも、うっかりで落ちかけたら、足掻こうとしないんじゃないかな」
「ほらな。そういう奴だよ。あいつは。あー、むかつく。ぜってー許さねえ」
「……仁科、馬鹿だよね。私も、泰介もいるのに」
「葵。あいつ殴るけど、止めんなよ」
「止めないよ」
葵は、首を横へ振った。そして車窓から見える風景の中に、見慣れた木造建築が姿を現した事に気づくと、泰介に囁いた。
「仁科連れて、三人で帰ろうよ、泰介」
「ああ」
泰介も、その台詞に力強く頷いた。
「帰れるに決まってんだろ。――御崎川から、三人で」
*
タクシーを飛び出した瞬間、二人で示し合わせたように走り出した。
教室の窓に目を走らせる。いない。いないように見える。だがまだ油断できなかった。来るとしたら間違いなく今日だ。既にそれは確信へ変わっていた。
走る二人の姿は、すぐに人目を引いた。
女子生徒の方は私服姿で、隣を走る男子生徒は明らかに身の丈に合っていないぶかぶかの衣服だ。靴さえもサイズが合っておらず、走るたびにぱこぱこと軽い音を立てた。
そんな異様な出で立ちの御崎川高校二年生が、校庭を突っ切って真っ直ぐに駆ける。グラウンドにいた運動部の生徒達が驚きの顔で振り返る。顧問の教師が目を剥いてこちらを見た。
「お前らぁ! 何やってんだ!」
「忘れ物取りに来ました! すみません!」
葵が叫ぶ。そしてそれ以上の説明はせずに、真っ直ぐに昇降口前の階段目掛けて走った。背後で声が聞こえたが、もう振り返らなかった。
走る泰介の足取りは覚束なく、普段の二分の一程度の速力しか発揮できていない。隣の葵が明らかに泰介に合わせて走っているのが分かる。だがそれでも必死だった。がむしゃらになって二人で走った。
階段を踏みしめ、駆け上がり、なんとか昇降口が見えたところで泰介が躓いた。葵がすぐにその腕を取ったが、結局二人して転んでしまった。
「って……!」
「泰介、立って!」
葵が叱咤する。泰介は答えて立ち上がろうとするが、足が萎えてなかなか力が入らなかった。
校舎を、見上げた。
茜色の光が、気づけば空を覆っていた。
夕刻の迫る校舎へ降り注ぐオレンジ色の光はまるで、葵を探しにここへ来たあの時間を想起させる。何も、変わらないのだと思った。探す対象が、葵から仁科へ変わっただけだった。
時刻は――――四時、十分。
もどかしさが、身体を貫いた。
「葵、先に行け! 早く俺らのクラスに行け!」
「泰介!」
「絶対に追いつく! だから置いてけ! 一人でも先に着けば間に合う!」
「駄目!」
葵は、首を横へ振った。
「一緒に行かなきゃ駄目! 私だけじゃ駄目なの! 仁科が危ないかもしれないって言ったの、泰介じゃない! そんな泰介残して私一人が行ったって、意味なんてないよ!」
「馬鹿っ、そういう問題じゃ……!」
泰介は、焦燥を隠さず叫んだ。
だが――――言葉が、止まる。
目の前に、手が差し出されたからだ。
「三人で帰るって、さっき言ったばっかりだよ」
葵が、笑う。
「行こう! 間に合おうよ、泰介!」
――高揚感が、胸を駆け抜けていった。
泰介は、自分が笑っている事に気づく。どうして自分が笑ったのか分からなかった、それでも何故か、笑みが浮かんだ。そして理由はどうでもよかった。
本当に、逡巡している暇などもうなかった。
伸ばされた葵の手を、泰介は力強く掴んだ。
ぱし、とエコーを伴って響いた手のひらの音を耳に残しながら立ち上がる。手を繋いだ葵が、初めて勝気そうに笑った。何だか、蓮香のような笑顔だった。
駆ける度に跳ねる簀子を踏み越えて、靴下のまま飛び出した。廊下の床が負荷にぎいっと重く軋る。背後で靴が、転んで跳ねた。
階段を駆け上がり、廊下を走る。普段よりもずっと静かな放課後の校舎の中を走る泰介と葵は、まるで小学三年の秋に戻ったかのようだった。
手を取り合って駆け抜けた先に、間違いなく、いる。
繋ぎ止める手がないままに、孤独の中で落ちた、友達がいる。
引き戸に手を掛けて、渾身の力で開け放った。
ばんっ! と壮絶な音を立てて扉が大きく開け放たれたその向こうに――いた。
教室の真ん中辺りの机に座り、ぽつんと秋風に吹かれる長身痩躯。
オレンジ色の髪が揺れて、振り返った美貌の青年の両目が、驚きに見開かれた。
「――――仁科あああぁぁぁぁあ!」
怒声を張り上げ、声の限りにその名を呼んだ。
こうして、泰介達の〝ゲーム〟は終わった。
茜色に染め上げられた世界をスタート地点にした〝ゲーム〟が、この時ようやく、同じ光の中で、幕を降ろした。
空恐ろしいまでの沈黙が永劫のように感じられた、瞬間。
「い……嫌あああぁ!」
葵の上げた悲鳴で、時間が動いた。
泰介は即座に手紙を放り捨て、葵の肩を強く掴んだ。目が合った葵は理性を取り戻したかのように息を吸い込み、悲鳴を殺す。だが身体の震えは止まらなかった。
「泰介、これ……っ、う、あ……、嫌っ、なんで……!」
「待て! ……落ち着け! 葵!」
だがそれを言う泰介自身、全く落ち着いてなどいられなかった。見た物の禍々しさに、頭がついてこれなかった。そこに凝縮された狂気に触れて、泰介も葵も冷静さを失っていた。
「これ、今日……今日、書かれたの? 今日書かれて、今日、私の鞄に、入れられ……っ」
「……っ!」
震える葵の身体が崩れ落ちかけ、肩を引き寄せて受け止めた。だが今の泰介では支えきる事ができず、そのまま二人して転がるように床へ倒れた。
「……なんで、知ってるの」
葵が身を起こしながら、茫然と呟いた。
「修学旅行、欠席したって……なんで、知ってるの……!」
「葵、聞け」
泰介は起き上がると、葵の肩を掴み直す。葵は恐怖と生理的嫌悪の震えが残る手で、掴んだ泰介の手に触れた。それだけの動きで、葵も悟ったのだと泰介は気づく。
「お前……いつからか、知らねーけど……もしかしたら」
「私……あと、尾けられてた? 今まで、生活、見られてたの……?」
「……そうとしか、考えられねえよ」
それ以外考えられなかった。佐伯家の人間が言うわけがないのだ。葵の周囲の人間で、葵の情報を漏らして得をする者は誰もいない。ならば本人によるストーカーと考えるのが自然だった。葵は実母の顔も知らないはずだ。至近距離へ迫られても分からないに決まっている。修学旅行云々は、きっと誰かと話している所でも聞かれたのだろう。
だが、そこまで考えた所で――最悪の想像が、過った。
葵と修学旅行について、話していた誰か。
誰かって――――誰。
決まっている。手紙にこうもはっきり書かれているのだ。今日の葵の行動が。病院に、行ったという事が。
「――っ、仁科あぁぁぁあ!」
泰介は立ち上がるとソファへ取って返し、置きっ放しになっていた携帯を掴んだ。
萩宮までは一時間弱だ。そして午前中に見舞いを済ませて真っ直ぐ帰ったとしたら、そこで何が起こるのか簡単に想像できてしまう。そのまま御崎川まで戻れてしまうという事まで、あっさり特定できてしまう。綺麗に筋が、通ってしまう。フラッシュバックする遺影と揶揄の笑みがない交ぜになって、泰介の理性を撹拌した。
間違いないと、確信した。
即座に、リダイヤルする。だが、出ない。仁科は返事を寄越さない。コール音ばかりが響く携帯を憎々しげに見下ろし、泰介は走った。
「葵! 電話借りる!」
叫びながら固定電話へ手を伸ばし、壁に貼り付けられた連絡網に目を走らせる。すぐに御崎川高校の電話番号を見つけ、仁科を呼び続ける携帯を脇へ置いたまま、電話番号を打ち込んだ。
そして男性教師の応答の声が聞こえた瞬間、間髪入れずに名乗りを上げた。
「二年二組十八番の、吉野泰介です!」
電話の向こうの相手は、『吉野?』と胡乱げな声で言った。
内心で、舌打ちする。名乗った人物は顔見知りで、偏屈で有名な教師だった。話がこじれそうな予感が過ったが、躊躇している暇はない。矢継早に叫んだ。
「先生、二年二組の仁科要平は今日学校に来てませんか!」
だが、訊きながら答えは分かっていた。修学旅行中の二年が来ているかどうかという質問に、教師が答えてくれるわけがない。
『吉野、オマエなあ! 学校の電話はそんなつまらん取次をする為のものじゃないんだぞ! 大体、二年は今みんな京都でおらんだろうが!』
分かっているのだ、そんな事は。だが、今確認しなければならないのだ。
今、確認できなければ――取り返しが、つかなくなる。
「教えて下さい! お願いします! 仁科要平に用があるんです! 校内放送で呼び掛けて下さい!」
『いい加減にせんか! 吉野!』
教師が、声を荒げた。
『さっきも言った通りだ! 用件がそれだけなら切るぞ!』
「……っ、仁科の身内の不幸です! お願いします!」
ぶつん、と音がする。同時に通話は、切られていた。
「……」
かちゃん、と受話器を置く。佐伯家の電話でなければ、叩きつけていたかもしれない。
「あんの、野郎……!」
これで本当に仁科が死んだらどうしてくれるのだ。泰介は殺意を滾らせながら背後を振り返り、そこに立つ葵が自分を見ている事に気づいた。
顔色は、相変わらず蒼白だ。だが、既に理性は取り戻していた。
真剣な眼差しが、ひた、と泰介を見つめている。葵は泰介の手元で仁科を呼び続ける携帯に視線を落とすと、再び泰介へ視線を戻し、言った。
「仁科がどうしたの。泰介。教えて」
「……」
「お願い。泰介。詳しい事は何も訊かないから。だから、それだけは教えて」
葵は泰介の手元から携帯をそっと奪い、自分の耳に当てた。
「私には、泰介が何をそんなに焦ってるのか……まだ、ちゃんと分かってないよ。でもそれって、泰介が病院抜け出してきたのと関係あるんでしょ? 今の手紙とも、関係、あるんだよね? ……仁科がもし、危ないなら」
葵は顔を上げると、決然と言った。
「助けたいの。泰介。どうしたらいいのか、教えて」
「……今から、お前の事を話す」
「……え?」
「俺は、お前の事を知ってる。時間がないかもしれないから、丁寧には話せねえし、手短にまとめる。本当は家族から聞くべきだって事も、分かってる。それでもお前は…………俺から、聞けるか? 自分の事を」
葵の返事は、早かった。
「うん。言って。お願い」
その声のどこにも、躊躇いは見当たらなかった。ただ、真剣さだけがあった。
だから泰介も、その顔を見た瞬間に覚悟を決めた。
「お前の生みの親の棚橋円佳、多分結婚して苗字が変わってる。旧姓は、宮崎だ」
葵の顔に、僅かな驚きが浮かぶ。心当たりがあるのかもしれない。構わず、先を続けた。
「宮崎円佳には俺が知ってる限り二人の娘がいて、片方がお前で、もう片方の名前が、手紙にもあった『侑』って名前の奴だ。宮崎侑は、葵の姉だと思う。多分、双子だ。中学二年の時に死んで、もう会えない。学校の教室から飛び降りて、死んだって聞いた」
「……」
「その宮崎侑は、仁科の友達だった。仁科の目の前で、飛び降りて死んだ」
「……」
「葵」
「うん」
「お前は手紙に気づかなかったけど。仁科がもし、この手紙を読んでたら」
「うん」
葵は、頷く。そして、悲愴ながらも毅然とした声で、言った。
「泰介。――仁科、同じような死に方するかもって、思ってるんでしょ」
「……、なんで……」
あまりに的を射た指摘に、泰介は二の句が継げなくなる。
正直、理解してもらえるとは思っていなかった。それほどまでに今泰介が述べた葵と仁科との繋がりは密なようで希薄で、それを葵へ突き付けたところで即自殺へ繋げてもらえるとは思っておらず、期待もしていなかったのだ。
そんな泰介の反応を見た葵は、諦観を顔に浮かべ、静かに笑った。
「……私が、初めて仁科と話した時。仁科、放課後の教室に一人でいたの。窓際にいて、他には誰もいなくて。たった一人で窓の外見てた。私は忘れ物を取りに戻って、その教室に行ったんだけど……落ちちゃう、って。思っちゃった。あんまり身体乗り出して、窓の外を見てたから。横顔、寂しそうに見えたから。……だから。泰介が同じように考えたって聞いても、驚かないの。……自然だって、思っちゃう」
「……」
「仁科、探そう。心当たりある?」
「ああ」
迷いを振り切るように言った葵へ、泰介も首肯を返してズボンの裾を折ってシャツの腕を捲る。もう本当に形振りなど構っていられなくなった。葵が携帯の通話を終了させて折りたたむと、サブディスプレイの表示が光って時刻が浮かび上がった。
時刻は――三時半。
前は、四時半だった。一時間は、ある。だが以前とは状況が異なっていた。同じ時間に仁科が死ぬとは思えないし、それをどう葵へ説明したらいいのかも分からない。だが、動かないのはもっと悪い。
仁科がいないのであれば、それでいい。連絡がつくまで教室で待ち伏せすればいいだけの話だ。
「御崎川高校だ。行くぞ!」
「うん!」
葵と泰介は頷き合うと、渡された上着を着込んで慌ただしく佐伯家を出ようとしたが――その時、ばんっ! と急に扉が開いた。
泰介はぎょっとして、咄嗟に居間へ退避する。
一瞬、母かと思ったのだ。泰介は病院からの脱出直前、執拗に葵への連絡手段を訊ね過ぎた。あれが手がかりとなって押しかけられたかと思ったのだ。
だが、そこにいた人物は泰介の母ではなかった。
「あ……蓮香お姉ちゃん!」
葵が、驚きの声を上げた。泰介も面食らい、現れた女性を凝視する。
佐伯蓮香だった。
紺色のジャケットに細身のパンツを合わせ、薄い鞄を肩から提げた、いかにも会社帰りといった出で立ちの佐伯蓮香は、だぼだぼの衣服に身を包んだ泰介の姿を認めると、安堵と憤りが混ざったような複雑な表情で、険しくこちらを睨み付けた。
「蓮香さん、なんで」
「あんたが目ぇ覚ましたら即連絡しろって葵に言ってたからよ! この寝坊助! 馬鹿! 信じらんない!」
蓮香は罵倒の言葉を次々と連発しながら、ぽかんとする葵を玄関に残してずかずかと家へ踏み込んだ。そして蓮香は泰介の手に握られた見覚えのある便箋に目を留めて――はっきりと顔を引き攣らせた。
「それ、寄越しなさい」
言いながら、泰介から奪い取るように手紙を見た蓮香の顔色が、変わる。
「……吉野君、もう話したんでしょ。葵に。全部」
「すみません。全部話しました」
「そう。いいわよ」
蓮香は淡々とそう言うと、手紙をきつく握り締めて唇を噛んだ。
そしてぐるりと葵を振り返り、「葵!」と叫んだ。
「は、はい!」
呼ばれた葵がびくりと竦んで、畏まった返事をした。
「あんたの事で、補足の説明するわよ。時間ないから手短にしか今は言えないけど、よく聞きなさい!」
蓮香は身体ごと葵へ向き直ると、真っ直ぐに葵と目を合わせ、言った。
「養子縁組にも二種類あってね、一つは普通養子縁組。これは、養子として他のおうちに引き取られた子供が、実親との親子関係を戸籍上継続しながら、余所のおうちで養われるケース。実親との繋がりが残っているの」
「私は、そうなの? 棚橋さんと、親子関係が残ってるの?」
「違うわ」
蓮香は首を横へ振る。
「佐伯のおうちとあんたの関係は、特別養子縁組よ。特別養子縁組っていうのはね、あんたの産みの親と葵との親子関係を戸籍上ごと断って、佐伯のおうちが葵の事を、実の子供と同じ扱いにするっていう意味よ」
「それじゃあ……」
「あんたは、うちの子なの。血がどうとかなんて関係ない。棚橋円佳は、正真正銘赤の他人よ。きちんと法律に則って、そう取り決めてる。……あたし達は! 誰が何と言おうと、正真正銘の家族なの!」
はっきりと、蓮香は言った。
「あんたの本当の父親は蒸発していないから、育児能力なし。それに棚橋円佳も当時この取り決めに同意したわ。特別養子縁組は、実親の同意が得られて成立するのよ。……それなのに、今更何なの? これ。お父さんにもこれから連絡しとく。もうあんたらだけの問題じゃなくなったから、今夜は家族会議よ。これから萩宮に殴り込みに行ってもいいけど、お父さんにも時々花持たせたげないと立つ瀬ないだろうし。今は我慢しといてあげるわ」
「………蓮香お姉ちゃん。ありがとう」
葵は、明るく笑った。何かを吹っ切る覚悟を決めたような、悲壮ながらも確かな希望を感じる笑みだった。
「なんだ。私。最初っから、ちゃんとうちの子なんだよね。分かってたことなのに。……ごめんね。手のかかる妹で」
葵は蓮香の身体へ、とんともたれるように抱きついた。
「大好き。蓮香お姉ちゃん」
蓮香は妹の頭を見下ろすと、愉快そうに笑って葵を抱きしめ、髪を撫でた。
「ん。お父さんにも帰ったら同じようにしてやりな。嫌じゃなかったら」
「嫌なんかじゃないよ。大好きだもん」
葵は蓮香から身体を離すと、泰介を振り返る。
「泰介。身体は辛くない?」
「ああ。っていうか、大丈夫じゃなくても止めんなよ」
「うん」
そんなやり取りを交わしていると、蓮香が不意に言った。
「タクシー」
「?」
「タクシー、あたしが乗ってきたの外で待たせてる。それ使って高校まで行きなさいよ」
「蓮香さん……」
「吉野君。あんたの所為であたしの生活リズム滅茶苦茶なんだからね。責任とって、全部終わったら菓子折りの一つでも持って家に来なさい。本っ当にあんたに付き合わされると腹立つ事ばっかりだわ」
「……ありがとうございます」
「もうちょっとあたしが早く着いてたら、お父さんの服じゃなくて特攻服貸してあげたのに。昔のやつ。かっこいいわよ」
「それは遠慮します」
「じゃ、行ってらっしゃい」
蓮香は、ひらりと手を振った。
「あたしの分もぶん殴って来てよ、吉野君。あたしとあんたと葵の分で、三発でよろしく」
「自分の分は自分で持ってください。行ってきます!」
そう言い捨てて、泰介はきょとんとする葵を連れて玄関から一歩踏み出した。
秋の冷たい風の中へ、全身で飛び込んだ。
*
「泰介って、蓮香お姉ちゃんとあんなに仲良かったっけ」
「あれが仲いいように見えんのかよ」
タクシーの後部座席に座りながら、思わず渋面になる。葵はそんな泰介を意外そうな目で見つめていた。
「だって……同じタイプだから。折り合えないと思ってた」
「何だよ、同じタイプって」
「直情型? すぐ手が出るところとか、喧嘩腰のところとか。あと自分の主張曲げないところも」
「うるせえよ」
泰介はむすっと口を引き結ぶと、背中を後部座席へ預けるように深くもたれた。
疲労は、あまり感じなかった。吐き気が収まったわけではなかったが、それさえ最早気にならなかった。目まぐるしく移り変わる状況が、そんな不調を忘れさせた。
「……泰介。私のこと、蓮香お姉ちゃんから聞いてたんだね」
「……」
違う。だが、違うと言うわけにはいかなかった。泰介は、葵から目を逸らす。多分、顔を見られたら嘘だとバレてしまうだろう。それくらいに、長い間一緒に過ごし過ぎた。バレてしまってもいいのだろうが、その場合上手く説明できる自信がなかった。泰介の沈黙を葵がどう受け取ったのかは分からないが、葵は話すのをやめなかった。
「ありがと、話してくれて」
「……悪かった」
「なんで謝るの」
葵が、笑う。
「聞けて、嬉しかった。変な話だけど……ああ、やっぱり、って思っちゃった」
「心当たり、あったのか?」
「うん。宮崎って苗字にも。双子かもしれないっていうのも。……時々だけど。私がもう一人いるんじゃないかって、そんな気がしてたの。知らない人に、話しかけられた時とかに。それに、仁科のことも。私のことを仁科が最初の頃見てたの、泰介も気づいてたんでしょ?」
「……」
「泰介。ありがとう」
「なんで、礼なんか」
「泰介がいてくれたから。私、大丈夫だったんだもん。大丈夫でいられたんだもん」
座席に放り出していた泰介の手に、葵の手が重ねられた。突然だったので泰介は狼狽えたが、葵は前を向いたまま、優しい目で笑っていた。
「やっぱりこれも、時々、だけど。……嫌なこと、たくさん言われた。ちょっとだけ話したことあったよね。知らない人によく話しかけられた、って。…中学の時、私の我儘に泰介を付き合わせちゃった時。夜、公園で」
「……ああ」
「あの時には、全部言えなかったの。今もちょっと、言うのに勇気いる。でも、こんなの溜めこんじゃうの、本当は、ずっと嫌だったの。今でも、やっぱりやだって思ってる。……ねえ。また、今度、聞いてくれる……?」
葵はそう言って、泰介を振り返った。
もう泣いてはいない、葵の顔。少しだけ緊張気味に上気した頬を見て、ようやく泰介は気づいた。
「お前が自分から、そういう風に、言うのって……初めてじゃん」
「……だめ?」
「駄目じゃねえよ」
泰介は言いながら、重ねられた手を軽く握り返した。
「いつでも言えよ。聞いてやるから」
「うん」
葵は幸せそうに笑った。そしてその表情をほんの少しだけ悲しげに陰らせると、睫毛を伏せた。
「泰介。泰介は仁科が、本当に自殺するって思ってるの?」
「思ってねえよ」
泰介は断言する。
「不用意に窓辺に近寄って、うっかりで落下して死ぬとは思ってる。でも自殺なんか絶対しねえよ」
「……何それ?」
「死ぬ前にあのオレンジ頭、絶対に止めてやるって意味に決まってんだろ。お前はあの馬鹿が自殺なんてすると思うのかよ?」
「しない」
葵は、きっぱりと言った。
「でも、うっかりで落ちかけたら、足掻こうとしないんじゃないかな」
「ほらな。そういう奴だよ。あいつは。あー、むかつく。ぜってー許さねえ」
「……仁科、馬鹿だよね。私も、泰介もいるのに」
「葵。あいつ殴るけど、止めんなよ」
「止めないよ」
葵は、首を横へ振った。そして車窓から見える風景の中に、見慣れた木造建築が姿を現した事に気づくと、泰介に囁いた。
「仁科連れて、三人で帰ろうよ、泰介」
「ああ」
泰介も、その台詞に力強く頷いた。
「帰れるに決まってんだろ。――御崎川から、三人で」
*
タクシーを飛び出した瞬間、二人で示し合わせたように走り出した。
教室の窓に目を走らせる。いない。いないように見える。だがまだ油断できなかった。来るとしたら間違いなく今日だ。既にそれは確信へ変わっていた。
走る二人の姿は、すぐに人目を引いた。
女子生徒の方は私服姿で、隣を走る男子生徒は明らかに身の丈に合っていないぶかぶかの衣服だ。靴さえもサイズが合っておらず、走るたびにぱこぱこと軽い音を立てた。
そんな異様な出で立ちの御崎川高校二年生が、校庭を突っ切って真っ直ぐに駆ける。グラウンドにいた運動部の生徒達が驚きの顔で振り返る。顧問の教師が目を剥いてこちらを見た。
「お前らぁ! 何やってんだ!」
「忘れ物取りに来ました! すみません!」
葵が叫ぶ。そしてそれ以上の説明はせずに、真っ直ぐに昇降口前の階段目掛けて走った。背後で声が聞こえたが、もう振り返らなかった。
走る泰介の足取りは覚束なく、普段の二分の一程度の速力しか発揮できていない。隣の葵が明らかに泰介に合わせて走っているのが分かる。だがそれでも必死だった。がむしゃらになって二人で走った。
階段を踏みしめ、駆け上がり、なんとか昇降口が見えたところで泰介が躓いた。葵がすぐにその腕を取ったが、結局二人して転んでしまった。
「って……!」
「泰介、立って!」
葵が叱咤する。泰介は答えて立ち上がろうとするが、足が萎えてなかなか力が入らなかった。
校舎を、見上げた。
茜色の光が、気づけば空を覆っていた。
夕刻の迫る校舎へ降り注ぐオレンジ色の光はまるで、葵を探しにここへ来たあの時間を想起させる。何も、変わらないのだと思った。探す対象が、葵から仁科へ変わっただけだった。
時刻は――――四時、十分。
もどかしさが、身体を貫いた。
「葵、先に行け! 早く俺らのクラスに行け!」
「泰介!」
「絶対に追いつく! だから置いてけ! 一人でも先に着けば間に合う!」
「駄目!」
葵は、首を横へ振った。
「一緒に行かなきゃ駄目! 私だけじゃ駄目なの! 仁科が危ないかもしれないって言ったの、泰介じゃない! そんな泰介残して私一人が行ったって、意味なんてないよ!」
「馬鹿っ、そういう問題じゃ……!」
泰介は、焦燥を隠さず叫んだ。
だが――――言葉が、止まる。
目の前に、手が差し出されたからだ。
「三人で帰るって、さっき言ったばっかりだよ」
葵が、笑う。
「行こう! 間に合おうよ、泰介!」
――高揚感が、胸を駆け抜けていった。
泰介は、自分が笑っている事に気づく。どうして自分が笑ったのか分からなかった、それでも何故か、笑みが浮かんだ。そして理由はどうでもよかった。
本当に、逡巡している暇などもうなかった。
伸ばされた葵の手を、泰介は力強く掴んだ。
ぱし、とエコーを伴って響いた手のひらの音を耳に残しながら立ち上がる。手を繋いだ葵が、初めて勝気そうに笑った。何だか、蓮香のような笑顔だった。
駆ける度に跳ねる簀子を踏み越えて、靴下のまま飛び出した。廊下の床が負荷にぎいっと重く軋る。背後で靴が、転んで跳ねた。
階段を駆け上がり、廊下を走る。普段よりもずっと静かな放課後の校舎の中を走る泰介と葵は、まるで小学三年の秋に戻ったかのようだった。
手を取り合って駆け抜けた先に、間違いなく、いる。
繋ぎ止める手がないままに、孤独の中で落ちた、友達がいる。
引き戸に手を掛けて、渾身の力で開け放った。
ばんっ! と壮絶な音を立てて扉が大きく開け放たれたその向こうに――いた。
教室の真ん中辺りの机に座り、ぽつんと秋風に吹かれる長身痩躯。
オレンジ色の髪が揺れて、振り返った美貌の青年の両目が、驚きに見開かれた。
「――――仁科あああぁぁぁぁあ!」
怒声を張り上げ、声の限りにその名を呼んだ。
こうして、泰介達の〝ゲーム〟は終わった。
茜色に染め上げられた世界をスタート地点にした〝ゲーム〟が、この時ようやく、同じ光の中で、幕を降ろした。
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