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57 続く未来

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 じゃり、と上履きが砂を踏む。
 公園に、また戻ってきていた。
「……吉野君。お別れだけ、あの子達にしてから行きなさい」
 くるりと身を翻した蓮香が、泰介を振り返って笑った。靡く髪が、金色に煌めく。
「あんたが目を覚ますの、待っててくれてる」
「……蓮香さんは、どうするんですか」
「あたしは一足先に戻るわ。修学旅行の一週間前くらいが妥当かしらね。分かってると思うけど。あたしじゃ仁科君の自殺、止められないからね。面識ない人間がどうこうできると思わないでよね。吉野君が失敗したら、もうどうしようもないわよ」
「失敗なんかっ」
「あー、はいはい。しないわね。一回間違った事を繰り返さない子だったわね。……精々、頑張んなさい」
 蓮香がそう言って、挑戦的に笑った時だった。

「はすかおねえちゃーん。どこー?」

 ぱたぱたぱた、とアスファルトを駆ける小さな足音が響いた。
 泰介は声のした方角を振り返り――絶句する。
 幼稚園児が一人、公園の入り口からこちらに向かって走って来たのだ。白いブラウスに緑のチェックの吊りスカート。同色の丸い帽子を被っていて、そこからはみ出た黒髪がさらさらと揺れた。
 一目見ただけで、誰だか分かった。
 蓮香が、はっとしたような顔になる。そして泰介に向かって慌てて手を挙げてきた。
「吉野君。手、出して」
「は?」
「いいから。早くしなさいってば」
 怪訝に思いながらも泰介が手を蓮香と同じように掲げると、ぱんっ、と即座にハイタッチされた。
「はあ……っ?」
 何の真似だろう。疑問符を浮かべながら突っ立っていると、蓮香がにやりと笑い、泰介の背後へ、ととと、と走る。
「……何やってるんですか」
 訊いた、瞬間。
 背中を蹴っ飛ばされた。
「っ!?」
 容赦のない蹴りだった。ずざあっ、と凄まじい音を立てて、泰介はほぼ顔面から地面へ転がった。粉塵が巻き上がり、もうもうと白くけぶる。
「……っ、何すんだよ!」
 堪忍袋の緒が音を立ててぶち切れ、泰介は怒りの形相で跳ね起きて――ぽかんとした。
「……っ」
 目の前に、幼稚園児が立っていた。
 泰介の前方一メートル程の場所へ立った少女は、突如怒鳴り声を張り上げた少年の姿を見て、怖気づいたように後ずさる。目に、じわりと涙が溜まった。
「あ……あう……あ……ご、ごめ、なさ……」
「なっ……」
 なんで、と思った。驚き過ぎて言葉にもならなかった。
 信じられなかった。
 見えていた。見られて、いた。
 思わず蓮香を振り返ったが、金髪の少女は愉快そうに笑って親指を立てた。
 ――何をされたか、理解した。
 だから、この蓮香は中学生なのか。非行少女の姿の理由をこんな修羅場で理解した泰介だった。
「あー、その……別に、お前が悪いんじゃないから」
 泰介は、とにかくそう言った。だがこんなにも幼い少女相手に何を言えば宥められるのか分からず、狼狽える。案の定少女は泥だらけの粗暴な少年に話し掛けられ、より一層恐怖を深めたらしい。小さな悲鳴を上げて怯え、身体を縮こまらせた。そしてじりじりと後退を続け、ふい、と背後を振り返っていきなり走り出して――転んだ。
「あ」
 こてん、と。何だか情けない音がした。体重を感じさせない転び方に泰介は安堵したが、少女は蹲ったまま、ふるふると震えていた。
 どこか、怪我でもしたのだろうか。今の転び方で怪我をするとは思えなかったが、それでも泰介の所為で転んだのには違いない。少しだけ、罪悪感を覚える。
「あー……ったく。しょうがない奴だな……」
 泰介は近寄ると、少女の前に回り込んだ。
 屈んで、手を差し出す。
 少女が、顔を上げた。
 涙の溜まった顔は、転んだ所為で泥だらけだった。その顔が可笑しくて、泰介は自分が怖がられているのを忘れて吹き出した。少女はそんな泰介をきょとんと見返している。そして伸ばされた手を不思議そうに眺め、自分の手を見下ろす。
 掴んでいいものか、迷っているらしい。――こいつらしい事だと思う。
 しばらく待っていると、少女はそっと泰介の手を掴んだ。
 驚くほどに、小さな手だった。
「怪我、ないか?」
「……うん」
「そうか。……よかった」
 軽く服の泥を叩いてやると、泰介にそうされながら、少女が首を傾げた。
「……ありがと。おにいちゃん」
「ん」
 少女はきょときょとと周囲を再び見回した。そして公園に誰もいないと分かると、知り合いの誰もいない世界にたった一人放り出されたような悲愴感を顔に浮かべ、「はすかおねえちゃ……」と、絞り出すような声で泣いた。
 泰介は、無言で背後を振り返る。
 気を遣ったつもりなのか知らないが、いい加減に出て来いと思った。だが背後の蓮香は泰介の狼狽を面白そうに見物しているだけで、手を貸そうとしない。さすがにそんな態度に苛々し始めたので、口ぱくで早く出て来いと訴える。蓮香はやれやれとでも言うように大仰に肩を竦めると、つかつかとローファーの踵を鳴らしながら、真っ直ぐこちらへ歩いてきた。
 少女に手を握られたままだったが、泰介は無言で手を翳す。その手をぱちんと、蓮香が叩いた。
 ぱ、と。少女の手の感触が掻き消えた。
 そしてそのまま泰介も――少女の姿が、見えなくなっていく。
 明度が下がり続ける視界の中で、少女の姿が消えていく。
 じゃあな、と、呟いてみた。
 だが、それでは何だかしっくりこない。泰介はすぐに、言い直した。

「またな。葵」


     *


「っ?」
 少女が驚いたように顔を跳ねあげ、涙がぱっと散った。夕焼けの光を受けて、涙の粒がきらきら光る。
「はすか、おねえちゃん……!」
「ん。葵。お待たせ。何泣いてんの?」
 茫然と姉の姿を見上げた少女は、不思議そうにぽつりと言った。
「おにいちゃんが、いたの。ここに」
「ふうん?」
「助けてくれたの。……いなく、なっちゃった」
「大丈夫よ。また、会えるから」
「おねえちゃん、知ってる人?」
「ええ。知ってるわ」
「だぁれ?」
「うーん。そうね。葵の、王子様? 王子ってキャラじゃないからうけるけど」
「?」
「先に、お母さんとこ行ってきな。姉ちゃん、すぐ行くから」
「……うん!」
 たっ、と葵が駆けていった。
 それを見送りながら、佐伯蓮香は息をつく。
 背後を振り返ると、吉野泰介の姿は忽然と消えていた。蓮香の描いた円の小道が砂地にひっそりとあるだけで、最初からそこには誰も存在しなかったかのように、閑散とした風景が広がるのみだ。
 もう、行ったのだろう。お別れに。

「まったく……手がかかる」

 蓮香は笑みを浮かべ、くるりと踵を返した。
 とん、と。弾む。
 スカートがふわりと、風を孕んで膨らんだ。
 とん、ともう一度ステップを踏んで、円を踏む。
 崩れた円の輪郭を潰さないように、とん、と身軽に蓮香は飛ぶ。
 まるでワルツを踊るように、金髪を靡かせながら舞う蓮香の足が、最後の円を踏み抜いた時――そこにはもう、誰もいなかった。
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