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55 憧憬・前
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そして、視界が開けた時――泰介と蓮香は、再び公園に戻っていた。
「あたしは期末テストが終わってから、解けなかった問題のこと考えながら帰ろうとしてたのよね。あー、くっそ、あの問題知ってたのに、ど忘れしちゃったー、って。そんな風に考えてた。考えてた、はずだったのに――気づいたら、来た事もない塾にいた」
「!」
泰介は、顔を上げた。
「実子以外は誰もいない塾の中で、そんな事お構いなしに勉強してるあの子を見て……あたしは、何も思わなかった。不気味だって思っただけ。あたしの友達なのに。憑りつかれたみたいに勉強してる姿を見て、何も感じなかったのよ」
蓮香はそこで言葉を区切り、泰介の反応を窺ってくる。
その姿は、丈の長いプリーツスカートを履いた少女のものに戻っていた。金髪の少女は睨む泰介を見ただけで、こちらが正解を出したと悟ったらしい。少し眉を吊り上げて、言え、と促される。癇に障る仕草だが、泰介は渋々言ってやった。
「蓮香さんは、実子さんの事を忘れてた。そういう事ですか」
ぱちぱちぱち、と。蓮香がおざなりに拍手した。その顔は笑っていたが、目は全く笑っていない。
「正解」
「……」
「どこかの誰かさんみたいでしょ。忘れた度合は私の方が酷かったわよ。親友の存在を丸ごと忘れてるんだから。あんたは葵の存在自体を忘れたりしなかっただけマシだけど、でも何日間か分きれいに忘れてるのって、余計に性質が悪いかもね。そんなだから、葵も仁科君も気づくのが遅れた。指摘があれば、思い出せたかもしれないのに」
「……蓮香さん。〝ゲーム〟に関係してるんですよね」
泰介は、凄んだ。言うか言うまいかずっと迷っていたが、もう我慢の限界だったのだ。
「俺の記憶が欠けてるの分かってて、葵と仁科からの指摘がない事まで把握してて、どうして黙ってたんですか。俺が忘れてるって気づいてたんなら……蓮香さんが俺に、直接言えばいいじゃないですか。葵と、それから、仁科の事を……!」
苦渋と理不尽を怒りに変えて叫んだが、それを聞いた蓮香は蔑むような目で泰介を見やると、
「言えたら苦労しないわよ」
容赦なく切り捨てた。
「あたしの時は、実子。あたしが実子を巻き込んで、二人で迷い込んだ。あんたの時は、葵と仁科君。あんたが二人を巻き込んで、三人で迷い込んだ。――完結してるのよ。それで。他の人間が入り込む隙間なんて、普通はないのよ」
「……言ってる意味が、分かりません」
「吉野君が、葵と仁科君を巻き込んで閉じ込めた。閉じ込めたって事の意味を考えなさいよ。中にいる人間が出てこられないってだけじゃない。外にいる人間が助けに行こうにも、簡単には開かないっていう事よ」
言いながら蓮香は、すっと虚空へ手を伸ばした。その手をぱっと振り下ろしてから泰介に向けて翻すと、そこには二冊の文庫本が現れていた。
「は……?」
手品のような手捌きにも驚かされたが、本のタイトルに泰介は瞠目する。
「ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』とシェイクスピアの『リア王』。仁科君の過去を見た吉野君なら、別に驚く事はないでしょ?」
「……『不思議の国のアリス』は、何でここで出てくるのか分かりません。〝ゲーム〟で探す対象が〝アリス〟って呼ばれてるからですか」
「ああ。そっか。あの子が荒れたところは見てないんだっけ」
「……」
「この『不思議の国のアリス』はね、最後の方の章が焼かれてるのよ」
蓮香は二冊のうち一冊を、こちらへ見えるよう突き出した。
確かにその本は背表紙の辺りが炭化していて、端の方も焦げている。だが燃えさしの本の意味する所が分からず、泰介は蓮香を見返した。
「宮崎侑が……葵の姉が焼いたの。アリスの最終章を焼きたかったって。そう言って焼いた。荒む気持ちも今なら分かるけど、今吉野君にする説明は最小限にさせてね。アリスが目覚めなければいいって、あの子は生前に言ったの。アリスが目覚めなければ、首を刎ねられて死ぬのに、って」
「! それって!」
いきり立つ泰介へ、蓮香が首肯する。
「全部、あの子の生前の言葉よ。喋り方も、台詞も。あの子らしくあたしは話した。そう喋る事が義務付けられてたと言ってもいいわ。台詞、すらすら出てきたもの。……あたしはね、〝宮崎侑〟を演じていたの」
「なんで、そんな真似をしたんですか」
「そうでなければ、割り込めなかったから」
蓮香は、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「この場所は仁科君のトラウマがベースになっているもの。吉野君はそんな場所へ葵と仁科君を閉じ込めてしまった。そこにはあたしが割り込む隙間なんてどこにもない。舞台の役者は足りてるもの。それでも同じ舞台に立ちたいなら、唯一空いている枠――死者の枠を、利用するしかなかった」
もう一冊の文庫本を、蓮香は泰介へ突き出した。
――『リア王』
シェイクスピア悲劇。
小説ではなく――戯曲。
「演じる事。それが、あたしに唯一できる介入の方法だった。制約があったのよ、あたしの言動には。〝佐伯蓮香〟だと見破られるまでは、〝宮崎侑〟としてしか存在できなかった。もっとまずい事にね、宮崎侑は『佐伯葵』の名前は覚えていても、『佐伯蓮香』の名前は全く覚えてないの。恵まれた自分の姉妹の義理の姉なんて、眼中になかったのね。恨むのは葵だけ。あとはあんたね。『あたしは蓮香』って主張はできなかった。あの子の記憶に『蓮香』の名前がない以上、そんな台詞は作れない。だから、あんたに思い出しなさいって言いたくても、言えないの。それは――宮崎侑らしからぬ発言だから」
蓮香は、泰介を見た。
「佐伯蓮香なら、あんた達を助けようとする。――でも、宮崎侑なら。恨みのある吉野泰介と佐伯葵を、殺そうとする」
「!」
「だから、あたしの行動は矛盾だらけになってしまった。殺そうとしたり、助けようとしたり、ね。朝、学校に呼び出されたでしょ? あのまま高校に居残ってたらまずい事になったでしょうから、余所に飛ばしたの」
「まずい事? ……あの呼び出し、まさか」
「クラスメイトが死んだとかいう、ふざけた内容のアレ。分かってるんでしょ? アレ、あんた達のうち誰か一人を突き落す為の呼び出しよ。〝死んだクラスメイト〟っていうのは、これから突き飛ばして殺すあんたら三人のうち誰か、って意味かしらね。そうじゃなければ、あの子の暗喩ね」
「……」
「ま、折角余所に飛ばしても、結局その後あたしがあんた達に危害を加える事になっちゃったけどね。吉野君達が過去から戻ってきた時だってそう。学校からできるだけ遠ざけようとしたけど、それだって叶わなくて二人が限界だった。……それでも、あの子ならいつか絶対気づくと思ったのよね。だから、葵を真っ先に消したの」
「葵……?」
「過去、見せたの。ヒントと称して過去へ突き落した。実際にあの子、さっきあたしを見破ったわよ」
「さっき?」
ぎょっとして、泰介は蓮香を見た。
「葵に会ったんですか」
「ええ。ついさっき。無事よ。寝てる吉野君を、仁科君と一緒に介抱してる」
思わず聞き流しかけたが、とんでもない事を言われた気がした。
「……俺が、寝てる?」
「そんなとこね。今のこれは、夢みたいなもんだと思ってよ」
「……」
「あたしは、吉野君が葵と仁科君を閉じ込めた場所へ割り込んだ。制約だらけの中で、放っておけばあなた達は、学校で誰かに突き落とされて死ぬか、逃げ続ける中で飢えて死ぬか……まともな会話も成立しない人間ばかりの世界で、何らかの破滅が待ってたと思う。でも、命の危険が迫ってるっていう自覚だってないあなた達が、飢えるほどの時間を逃げ回る事は多分できなかったと思う。死ぬとしたらまず間違いなく、学校で誰かが死んだでしょうね。だから、学校に誘き出されるあなた達が死ぬ前に、どうしても時間稼ぎをしなければいけなかったの。吉野君が、思い出すまで。――それが、〝ゲーム〟の正体」
「時間稼ぎ?」
泰介が思わず復唱すると、蓮香はあっさりと頷いた。
「〝ゲーム〟って言葉も〝アリス〟って言葉も、全てあの子の生前の言葉よ。それを繋ぎ合わせて、あたしは喋ったの。自分達の命が危険に晒されてるって事をそれできちんと自覚してもらうって事が、目的の一つ。そうやってあたしは、あんた達が疑心暗鬼になるよう仕組んだ。互いの事を疑って、見た過去の情報を共有すれば、吉野君が思い出すのが早まるかと思ったってわけ。あんた達三人以外の人物が容疑者の可能性もあるっていう付け足しみたいな提示は〝佐伯蓮香〟を見破ってもらう為のヒント。……まあ、実際のところ、〝アリス〟と〝佐伯蓮香〟が見破られたのは同時だったわけだけどね」
「〝アリス〟……」
茫然と、泰介はその言葉を呟いた。
皮肉だと、思う。
おそらく、それは――泰介の、事なのだろう。
絶対に、自分だけは違う。そう決めつけていた当時の自分を思い出し、渋面を作る。蓮香は泰介の葛藤に興味などないのか、一瞥を寄越してから話を続けた。
「こんな回りくどい事しなくても、滑り込めたらよかったんだけどね。でも〝宮崎侑〟としてじゃないと駄目だった。仁科君にも〝佐伯蓮香〟は全く関係がないものね」
「仁科?」
さっきも、似たような事を聞いた気がした。
「仁科君の過去をなぞったでしょ? ……そういう事よ」
蓮香はそう言って、どこか遠くを見るような眼差しで笑った。そして少し逡巡するような素振りを見せると、違う切り口から会話を再開させた。
「どうしてあたし達は、他の人間まで巻き込んでしまうのかしらね。その動機に関わった人間が、キャストとして必要だから? それに、もう一つ。どうしてここでは、人の過去が見えるのかしらね」
独白のような、台詞だった。どう相槌を打てばいいのか分からず、泰介は沈黙する。
「でもいくら考えても、こんな不可解な現象の事なんて分かんないのよね。見たい映画を観るようなものかな、なんて考え方もしてみたわ。デッキに映画のDVDを放り込んで、再生スイッチを押すような。この場所が再生する為のハードで、紛れ込んだ人間が情報。スイッチがいつ入るかどうかはランダムってとこかしら。でもその考え方だと、誰か一人が軸になる事に対して説明がつかない。案外そんな難しいものじゃなくて、ただ単に一人の人間をシナリオに見立てて、それを上演しているだけの、壊れた舞台装置みたいなものかもね」
「……」
「そして、壊れてるからこそ、自浄作用みたいなものが働くのかもしれない。狂ってる状況をなんとか正そうとして、シナリオが動く。動き出したシナリオは、そこに紛れた〝人間〟という情報を取り込んで、一つの世界を創り上げる。でも、そもそもの土台が狂ってるんだもの。出鱈目に集めた情報を元にどんな〝役者〟を創っても、それを演じる人間に、〝人〟の心があると思う? 歪んだ時間から何を掻き集めたとしても、所詮それなりのモノしか出来ないわ」
泰介は黙ったまま、その話を聞いていた。台詞の意味が、呑み込めないままだった。だが不意に、秋沢さくらの事を思い出した。〝ゲーム〟の最中に教室で聞いた、気が触れたような台詞の数々。それが、耳に蘇る。
――一人、落ちてくれないと。……帰れないよ。葵。終わらないよ。
「あの子は、可哀想だったわね」
突然の言葉に、泰介は驚く。
「あの子よ。葵が、敬って呼んでた。狭山君」
蓮香が、言った。その顔には先程の〝過去〟で実子という少女へ向けたものと同じ、微かな憐憫にも似た淡さがあった。
「あたしは、さくらちゃんには同情はしないわ。この歪んだ演劇世界にパーソナル情報を吸収されて、出来上がった人格があんな悪役じみた言動を取ったとしても、自業自得よ。あの子はそれだけの事をしたわ。……でも狭山君は、あなた達のことを真剣に想ってた。そんな子まであんな風に扱われる世界は、見ていて気分のいいものじゃなかったわ」
「敬……」
やるせない思いが湧いて、泰介は髪を掴んだ。
「……。あたしは塾をスタート地点に迷い込んで、ろくな会話も望めない人達のいる世界で何日も過ごすうちに〝過去〟を見たわ」
髪を掻き揚げながら、蓮香は言った。
「実子が何をしたのか、あたしはそれを見て知った。だから問い質したわ。……許せなかったから。必死に勉強してる人を馬鹿にしてるって思った。他の四人の姿が見えないけど、とりあえずこの一人から話を聞かないと気が済まなかった。――でも、その実子から聞いて分かったの。期末テストは今よりもずっと先の日付で……まだこの子は、カンニングペーパーを仕込んでない」
泰介は、我に返って蓮香を見た。
「あたしがあの子を塾から連れ出した時。あたしは飢えてぼろぼろの状態だったけど、自分の部屋にいつの間にか帰って来てた。日付を見たら……テストよりだいぶ前の日付に戻ってた」
「! それは、まさか」
「そういう事よ。あたしは、時間を遡ってた。戻ってきた世界では、まだカンニングの下準備すらされてない。でも現行犯で押さえないと誰も信じないって思ったあたしは、テスト前日に学校で、ずるの現場を押さえた」
「な……!」
目を剥く泰介に構わず、蓮香は平然と続けた。
「実子の事は、帰ってきた時にはもう思い出してたわよ。それでも、きっちり五人全員突き出してやった。友達だからって甘くしたくなかった。実子はあたしと迷い込んだ事を覚えてたけど、それでもやっぱり、カンニングの計画には加担してしまっていた」
泰介は、蓮香を糾弾するように睨み据えた。
気持ちが分からないわけでは決してない。だが、他にもやりようがあったのではないか。対する蓮香は泰介の眼差しを受け止めると、底冷えするような目を向けてきた。
「何? 吉野君。実子に同情した?」
「俺は、蓮香さんのやり方が気に食わないだけです」
「やっぱりあんた、お人よしね。会話も交わした事ない女の子の為に、そんな風に怒れるなんて」
「……」
「ここからは余談だけど。その時に先生、あたしまで疑ったのよね。お前もカンニングしたんじゃないかって。だから、こんななりしてんのよ。――分かる? 吉野君」
蓮香は、面白くもなさそうにそう言った。
そのまま、泰介を無感動に見下ろす。
瞬間、襟首を掴まれた。
「!」
「あんたをぶん殴るのに、あたし、手加減なんてしないって意味よ」
「あたしは期末テストが終わってから、解けなかった問題のこと考えながら帰ろうとしてたのよね。あー、くっそ、あの問題知ってたのに、ど忘れしちゃったー、って。そんな風に考えてた。考えてた、はずだったのに――気づいたら、来た事もない塾にいた」
「!」
泰介は、顔を上げた。
「実子以外は誰もいない塾の中で、そんな事お構いなしに勉強してるあの子を見て……あたしは、何も思わなかった。不気味だって思っただけ。あたしの友達なのに。憑りつかれたみたいに勉強してる姿を見て、何も感じなかったのよ」
蓮香はそこで言葉を区切り、泰介の反応を窺ってくる。
その姿は、丈の長いプリーツスカートを履いた少女のものに戻っていた。金髪の少女は睨む泰介を見ただけで、こちらが正解を出したと悟ったらしい。少し眉を吊り上げて、言え、と促される。癇に障る仕草だが、泰介は渋々言ってやった。
「蓮香さんは、実子さんの事を忘れてた。そういう事ですか」
ぱちぱちぱち、と。蓮香がおざなりに拍手した。その顔は笑っていたが、目は全く笑っていない。
「正解」
「……」
「どこかの誰かさんみたいでしょ。忘れた度合は私の方が酷かったわよ。親友の存在を丸ごと忘れてるんだから。あんたは葵の存在自体を忘れたりしなかっただけマシだけど、でも何日間か分きれいに忘れてるのって、余計に性質が悪いかもね。そんなだから、葵も仁科君も気づくのが遅れた。指摘があれば、思い出せたかもしれないのに」
「……蓮香さん。〝ゲーム〟に関係してるんですよね」
泰介は、凄んだ。言うか言うまいかずっと迷っていたが、もう我慢の限界だったのだ。
「俺の記憶が欠けてるの分かってて、葵と仁科からの指摘がない事まで把握してて、どうして黙ってたんですか。俺が忘れてるって気づいてたんなら……蓮香さんが俺に、直接言えばいいじゃないですか。葵と、それから、仁科の事を……!」
苦渋と理不尽を怒りに変えて叫んだが、それを聞いた蓮香は蔑むような目で泰介を見やると、
「言えたら苦労しないわよ」
容赦なく切り捨てた。
「あたしの時は、実子。あたしが実子を巻き込んで、二人で迷い込んだ。あんたの時は、葵と仁科君。あんたが二人を巻き込んで、三人で迷い込んだ。――完結してるのよ。それで。他の人間が入り込む隙間なんて、普通はないのよ」
「……言ってる意味が、分かりません」
「吉野君が、葵と仁科君を巻き込んで閉じ込めた。閉じ込めたって事の意味を考えなさいよ。中にいる人間が出てこられないってだけじゃない。外にいる人間が助けに行こうにも、簡単には開かないっていう事よ」
言いながら蓮香は、すっと虚空へ手を伸ばした。その手をぱっと振り下ろしてから泰介に向けて翻すと、そこには二冊の文庫本が現れていた。
「は……?」
手品のような手捌きにも驚かされたが、本のタイトルに泰介は瞠目する。
「ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』とシェイクスピアの『リア王』。仁科君の過去を見た吉野君なら、別に驚く事はないでしょ?」
「……『不思議の国のアリス』は、何でここで出てくるのか分かりません。〝ゲーム〟で探す対象が〝アリス〟って呼ばれてるからですか」
「ああ。そっか。あの子が荒れたところは見てないんだっけ」
「……」
「この『不思議の国のアリス』はね、最後の方の章が焼かれてるのよ」
蓮香は二冊のうち一冊を、こちらへ見えるよう突き出した。
確かにその本は背表紙の辺りが炭化していて、端の方も焦げている。だが燃えさしの本の意味する所が分からず、泰介は蓮香を見返した。
「宮崎侑が……葵の姉が焼いたの。アリスの最終章を焼きたかったって。そう言って焼いた。荒む気持ちも今なら分かるけど、今吉野君にする説明は最小限にさせてね。アリスが目覚めなければいいって、あの子は生前に言ったの。アリスが目覚めなければ、首を刎ねられて死ぬのに、って」
「! それって!」
いきり立つ泰介へ、蓮香が首肯する。
「全部、あの子の生前の言葉よ。喋り方も、台詞も。あの子らしくあたしは話した。そう喋る事が義務付けられてたと言ってもいいわ。台詞、すらすら出てきたもの。……あたしはね、〝宮崎侑〟を演じていたの」
「なんで、そんな真似をしたんですか」
「そうでなければ、割り込めなかったから」
蓮香は、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「この場所は仁科君のトラウマがベースになっているもの。吉野君はそんな場所へ葵と仁科君を閉じ込めてしまった。そこにはあたしが割り込む隙間なんてどこにもない。舞台の役者は足りてるもの。それでも同じ舞台に立ちたいなら、唯一空いている枠――死者の枠を、利用するしかなかった」
もう一冊の文庫本を、蓮香は泰介へ突き出した。
――『リア王』
シェイクスピア悲劇。
小説ではなく――戯曲。
「演じる事。それが、あたしに唯一できる介入の方法だった。制約があったのよ、あたしの言動には。〝佐伯蓮香〟だと見破られるまでは、〝宮崎侑〟としてしか存在できなかった。もっとまずい事にね、宮崎侑は『佐伯葵』の名前は覚えていても、『佐伯蓮香』の名前は全く覚えてないの。恵まれた自分の姉妹の義理の姉なんて、眼中になかったのね。恨むのは葵だけ。あとはあんたね。『あたしは蓮香』って主張はできなかった。あの子の記憶に『蓮香』の名前がない以上、そんな台詞は作れない。だから、あんたに思い出しなさいって言いたくても、言えないの。それは――宮崎侑らしからぬ発言だから」
蓮香は、泰介を見た。
「佐伯蓮香なら、あんた達を助けようとする。――でも、宮崎侑なら。恨みのある吉野泰介と佐伯葵を、殺そうとする」
「!」
「だから、あたしの行動は矛盾だらけになってしまった。殺そうとしたり、助けようとしたり、ね。朝、学校に呼び出されたでしょ? あのまま高校に居残ってたらまずい事になったでしょうから、余所に飛ばしたの」
「まずい事? ……あの呼び出し、まさか」
「クラスメイトが死んだとかいう、ふざけた内容のアレ。分かってるんでしょ? アレ、あんた達のうち誰か一人を突き落す為の呼び出しよ。〝死んだクラスメイト〟っていうのは、これから突き飛ばして殺すあんたら三人のうち誰か、って意味かしらね。そうじゃなければ、あの子の暗喩ね」
「……」
「ま、折角余所に飛ばしても、結局その後あたしがあんた達に危害を加える事になっちゃったけどね。吉野君達が過去から戻ってきた時だってそう。学校からできるだけ遠ざけようとしたけど、それだって叶わなくて二人が限界だった。……それでも、あの子ならいつか絶対気づくと思ったのよね。だから、葵を真っ先に消したの」
「葵……?」
「過去、見せたの。ヒントと称して過去へ突き落した。実際にあの子、さっきあたしを見破ったわよ」
「さっき?」
ぎょっとして、泰介は蓮香を見た。
「葵に会ったんですか」
「ええ。ついさっき。無事よ。寝てる吉野君を、仁科君と一緒に介抱してる」
思わず聞き流しかけたが、とんでもない事を言われた気がした。
「……俺が、寝てる?」
「そんなとこね。今のこれは、夢みたいなもんだと思ってよ」
「……」
「あたしは、吉野君が葵と仁科君を閉じ込めた場所へ割り込んだ。制約だらけの中で、放っておけばあなた達は、学校で誰かに突き落とされて死ぬか、逃げ続ける中で飢えて死ぬか……まともな会話も成立しない人間ばかりの世界で、何らかの破滅が待ってたと思う。でも、命の危険が迫ってるっていう自覚だってないあなた達が、飢えるほどの時間を逃げ回る事は多分できなかったと思う。死ぬとしたらまず間違いなく、学校で誰かが死んだでしょうね。だから、学校に誘き出されるあなた達が死ぬ前に、どうしても時間稼ぎをしなければいけなかったの。吉野君が、思い出すまで。――それが、〝ゲーム〟の正体」
「時間稼ぎ?」
泰介が思わず復唱すると、蓮香はあっさりと頷いた。
「〝ゲーム〟って言葉も〝アリス〟って言葉も、全てあの子の生前の言葉よ。それを繋ぎ合わせて、あたしは喋ったの。自分達の命が危険に晒されてるって事をそれできちんと自覚してもらうって事が、目的の一つ。そうやってあたしは、あんた達が疑心暗鬼になるよう仕組んだ。互いの事を疑って、見た過去の情報を共有すれば、吉野君が思い出すのが早まるかと思ったってわけ。あんた達三人以外の人物が容疑者の可能性もあるっていう付け足しみたいな提示は〝佐伯蓮香〟を見破ってもらう為のヒント。……まあ、実際のところ、〝アリス〟と〝佐伯蓮香〟が見破られたのは同時だったわけだけどね」
「〝アリス〟……」
茫然と、泰介はその言葉を呟いた。
皮肉だと、思う。
おそらく、それは――泰介の、事なのだろう。
絶対に、自分だけは違う。そう決めつけていた当時の自分を思い出し、渋面を作る。蓮香は泰介の葛藤に興味などないのか、一瞥を寄越してから話を続けた。
「こんな回りくどい事しなくても、滑り込めたらよかったんだけどね。でも〝宮崎侑〟としてじゃないと駄目だった。仁科君にも〝佐伯蓮香〟は全く関係がないものね」
「仁科?」
さっきも、似たような事を聞いた気がした。
「仁科君の過去をなぞったでしょ? ……そういう事よ」
蓮香はそう言って、どこか遠くを見るような眼差しで笑った。そして少し逡巡するような素振りを見せると、違う切り口から会話を再開させた。
「どうしてあたし達は、他の人間まで巻き込んでしまうのかしらね。その動機に関わった人間が、キャストとして必要だから? それに、もう一つ。どうしてここでは、人の過去が見えるのかしらね」
独白のような、台詞だった。どう相槌を打てばいいのか分からず、泰介は沈黙する。
「でもいくら考えても、こんな不可解な現象の事なんて分かんないのよね。見たい映画を観るようなものかな、なんて考え方もしてみたわ。デッキに映画のDVDを放り込んで、再生スイッチを押すような。この場所が再生する為のハードで、紛れ込んだ人間が情報。スイッチがいつ入るかどうかはランダムってとこかしら。でもその考え方だと、誰か一人が軸になる事に対して説明がつかない。案外そんな難しいものじゃなくて、ただ単に一人の人間をシナリオに見立てて、それを上演しているだけの、壊れた舞台装置みたいなものかもね」
「……」
「そして、壊れてるからこそ、自浄作用みたいなものが働くのかもしれない。狂ってる状況をなんとか正そうとして、シナリオが動く。動き出したシナリオは、そこに紛れた〝人間〟という情報を取り込んで、一つの世界を創り上げる。でも、そもそもの土台が狂ってるんだもの。出鱈目に集めた情報を元にどんな〝役者〟を創っても、それを演じる人間に、〝人〟の心があると思う? 歪んだ時間から何を掻き集めたとしても、所詮それなりのモノしか出来ないわ」
泰介は黙ったまま、その話を聞いていた。台詞の意味が、呑み込めないままだった。だが不意に、秋沢さくらの事を思い出した。〝ゲーム〟の最中に教室で聞いた、気が触れたような台詞の数々。それが、耳に蘇る。
――一人、落ちてくれないと。……帰れないよ。葵。終わらないよ。
「あの子は、可哀想だったわね」
突然の言葉に、泰介は驚く。
「あの子よ。葵が、敬って呼んでた。狭山君」
蓮香が、言った。その顔には先程の〝過去〟で実子という少女へ向けたものと同じ、微かな憐憫にも似た淡さがあった。
「あたしは、さくらちゃんには同情はしないわ。この歪んだ演劇世界にパーソナル情報を吸収されて、出来上がった人格があんな悪役じみた言動を取ったとしても、自業自得よ。あの子はそれだけの事をしたわ。……でも狭山君は、あなた達のことを真剣に想ってた。そんな子まであんな風に扱われる世界は、見ていて気分のいいものじゃなかったわ」
「敬……」
やるせない思いが湧いて、泰介は髪を掴んだ。
「……。あたしは塾をスタート地点に迷い込んで、ろくな会話も望めない人達のいる世界で何日も過ごすうちに〝過去〟を見たわ」
髪を掻き揚げながら、蓮香は言った。
「実子が何をしたのか、あたしはそれを見て知った。だから問い質したわ。……許せなかったから。必死に勉強してる人を馬鹿にしてるって思った。他の四人の姿が見えないけど、とりあえずこの一人から話を聞かないと気が済まなかった。――でも、その実子から聞いて分かったの。期末テストは今よりもずっと先の日付で……まだこの子は、カンニングペーパーを仕込んでない」
泰介は、我に返って蓮香を見た。
「あたしがあの子を塾から連れ出した時。あたしは飢えてぼろぼろの状態だったけど、自分の部屋にいつの間にか帰って来てた。日付を見たら……テストよりだいぶ前の日付に戻ってた」
「! それは、まさか」
「そういう事よ。あたしは、時間を遡ってた。戻ってきた世界では、まだカンニングの下準備すらされてない。でも現行犯で押さえないと誰も信じないって思ったあたしは、テスト前日に学校で、ずるの現場を押さえた」
「な……!」
目を剥く泰介に構わず、蓮香は平然と続けた。
「実子の事は、帰ってきた時にはもう思い出してたわよ。それでも、きっちり五人全員突き出してやった。友達だからって甘くしたくなかった。実子はあたしと迷い込んだ事を覚えてたけど、それでもやっぱり、カンニングの計画には加担してしまっていた」
泰介は、蓮香を糾弾するように睨み据えた。
気持ちが分からないわけでは決してない。だが、他にもやりようがあったのではないか。対する蓮香は泰介の眼差しを受け止めると、底冷えするような目を向けてきた。
「何? 吉野君。実子に同情した?」
「俺は、蓮香さんのやり方が気に食わないだけです」
「やっぱりあんた、お人よしね。会話も交わした事ない女の子の為に、そんな風に怒れるなんて」
「……」
「ここからは余談だけど。その時に先生、あたしまで疑ったのよね。お前もカンニングしたんじゃないかって。だから、こんななりしてんのよ。――分かる? 吉野君」
蓮香は、面白くもなさそうにそう言った。
そのまま、泰介を無感動に見下ろす。
瞬間、襟首を掴まれた。
「!」
「あんたをぶん殴るのに、あたし、手加減なんてしないって意味よ」
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美術部の凪を追いかけて美術部に入り、気安い幼なじみの間柄に戻ることができたと思っていた――
けれど、そのときにはすでに、凪の心には消えない傷ができてしまっていた。
ある女性に捕らわれた凪と、それを追いかける夕霧の、繰り返す冬の話。
【完結】バグった俺と、依存的な引きこもり少女。 ~幼馴染は俺以外のセカイを知りたがらない~
山須ぶじん
SF
異性に関心はありながらも初恋がまだという高校二年生の少年、赤土正人(あかつちまさと)。
彼は毎日放課後に、一つ年下の引きこもりな幼馴染、伊武翠華(いぶすいか)という名の少女の家に通っていた。毎日訪れた正人のニオイを、密着し顔を埋めてくんくん嗅ぐという変わったクセのある女の子である。
そんな彼女は中学時代イジメを受けて引きこもりになり、さらには両親にも見捨てられて、今や正人だけが世界のすべて。彼に見捨てられないためなら、「なんでもする」と言ってしまうほどだった。
ある日、正人は来栖(くるす)という名のクラスメイトの女子に、愛の告白をされる。しかし告白するだけして彼女は逃げるように去ってしまい、正人は仕方なく返事を明日にしようと思うのだった。
だが翌日――。来栖は姿を消してしまう。しかも誰も彼女のことを覚えていないのだ。
それはまるで、最初から存在しなかったかのように――。
※第18回講談社ラノベ文庫新人賞の第2次選考通過、最終選考落選作品。
※『小説家になろう』『カクヨム』でも掲載しています。
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