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43 記憶
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二人は、バスに揺られていた。
泰介一人ならば間違いなく、走った方が早く学校へ着く。だが仁科を連れてとなると、多少遠回りする事になってもバスの方が早いだろう。そんな判断で乗車したバスだったが、本来ならば一本道で行ける所をぐるりと迂回するのを見ただけで、泰介の心に言いようのない焦燥が、さざ波のように広がった。
葵が、まだ、見つからない。
学校に行けば何かが変わると信じての行動だったが、その行為に確証はないのだ。他にあてがないだけで、もし学校を当たって見つからなければ、その時泰介はどう動くべきか、全く考えられずにいた。
だが思考を停止させている場合ではなかった。泰介は己を叱咤するが、焦燥に焼かれた脳はまともに働かず、気づけば葵の泣き顔のフラッシュバックばかりが脳裏をちらつき、それが思考を乱していく。
「ちっ……!」
泰介は乱暴に髪を引っ掴むと、額に手を当てて呻いた。
眩暈が、ひどい。ずるずると崩れ落ちるように前の座席へ頭が傾き、咄嗟にそれを庇った手の甲が手すりにぶつかる。ひどく打ち付けた気がしたが痛みは分からなかった。バスの振動だけが、直に伝わる。
「吉野……?」
仁科がそんな泰介の様子を不審に思ったのか、声を掛けてくる。だが首を横に振るしかできなかった。大丈夫だと言うのは簡単だったが、明らかに大丈夫ではなかった。断続的な頭痛がさらに泰介から集中力を奪い、加速した焦りに衝き動かされるように思考しても、上滑りするばかりだった。
葵が、まだ、見つからない。
――駄目だ。違う。考えろ!
泰介は首を振って、熱っぽくなった思考を振るい落とす。眩暈が余計に増した。目の前の黒い手すりが歪み、バスのシートの緑と混じって斑になる。ぐにゃぐにゃと変容するマーブル色を見るだけで、激しい悪寒と吐き気に襲われた。
「う……!」
「吉野! おい!」
仁科の声に、焦りが混じった。顔を上げて仁科の顔を見る余裕は、既に泰介から失われていた。むしろ、見せない方がいい。見るな、と思う。身体的にいくら泰介が危険だろうが、精神的に参っているのは仁科の方だ。ならば余計に、見るべきではない。それなのに見せてしまっている現状が、自分の弱さも仁科の弱さも含めて許せなかった。
「……こっち、見んな。俺を心配する仁科なんてらしくねえよ。気持ち悪りぃんだよ……」
なんとか絞り出した悪態は、這いずるような声だった。こんな声なら無視を決め込んだ方がマシだったかもしれない。だがこれほど異常な身体変化を隠し通せるとも思えなかった。泰介は諦観を覚えながら、仁科の前でこんな醜態を晒す羽目になった己の状態を強く呪った。
結果的に、バスに乗るという選択は正しかったのかもしれない。走っている途中でダウンして、仁科の肩を借りながら学校を目指すよりは遙かに早く着けるだろう。泰介は、歯を食いしばる。
なんとしてでも、抑え込むつもりだった。バスを降りるまでに、いつもの吉野泰介に戻れるように。学校を、すぐ捜索できるように。葵の顔が、またフラッシュバックする。たいすけ。呼んでいる。泰介を呼んで、泣いている。
葵。
――どこにいるんだよ、お前……!
ぎりっ、と鞄に乗せた指が生地に食い込む。自分の心からいつしか余裕が失われている事に、泰介は今更気づかされた。止まらない頭痛と身体を芯から冷やしていく悪寒が、葵は必ず学校にいるという自信を少しずつ剥ぎ取っていく。そして疑心暗鬼に陥り始めた瞬間、入れ替わるように殺意が湧いた。〝ゲーム〟に振り回されていると気づいたからだ。
また、フラッシュバックがちらついた。
葵が、ひどく泣いている。
「……なん、で……泣いてんだよ……お前……っ」
泰介は呻き、額を強く手すりに押し付けた。
葵の事を、ただ思った。今朝も、泣き出しそうな顔で泰介を迎えに来た葵の事を。小学生の頃には短かった葵の髪は、今では背中の真ん中辺りまで伸びていた。
髪を長めに伸ばすのは、高校生の時の蓮香の髪型に、憧れていたから。葵が最近、そんな風に明かしてくれたのを思い出す。
だが、お淑やかな葵と開けっ広げな蓮香とでは、同じ長さの髪でも印象が全く違った。似てないと言いたくなったが、それだけは言えなかった。口をついて出かけた言葉をぎりぎりで呑んだ泰介を、葵はじっと見つめて、やがて笑った。
『似てないって思ったんでしょ? いいのに』
穏やかな笑みに寂しさはなく、不思議な晴れやかさだけがあった。
葵が家族に泣きながら謝った事を、泰介は知っている。
自分自身の事を家族に訊かずに、勝手に調べようとした。その行為の浅はかさを泣いて謝った事を知っている。泰介も一緒に頭を下げたからだ。
蓮香に、泰介は打たれた。頬を容赦なく引っ叩かれた。
殴られて当然だった。だから泰介は黙っていたが、次に言われた台詞を聞いた瞬間、湧き上がった怒りの熱さで、自制心が弾け飛んだ。
『この子の事を、一番分かってるような顔をしないで』
――反論した。
馬鹿だった。家族こそが一番分かっていて当然なのだ。それなのに反論してしまった泰介は、佐伯家へは謝罪に向かったはずなのに、心の底では反省などしていなかったのだと思う。
即座に、もう一発殴られた。葵が泣きながら、葵の父が慌てながら、蓮香を止めた。
そして泰介と葵は、葵の出生について少しだけ説明を受けた。泰介は追い出されるかと思っていたのに、葵の父と蓮香は泰介がいる状態のまま、話し始めた。
葵は、佐伯家の本当の子供ではないという事。
実の父も母も生きているが、実父は蒸発したという事。
実母の消息は把握しているが、葵には絶対に教えないという事。
そしてどうやら、兄か姉がいたらしいという事。だがもう会えないという事。
関わるな、調べるな、という事。
真実を述べたのは葵の父で、禁則事項は蓮香が言った。蓮香は泰介を牽制するように睨むと、
『あたしの妹これ以上不幸にしたら、ぶっ殺す』
と、真顔で言った。不幸じゃないよ、と葵が言ってまた泣いた。
代わりに葵の父は、泰介に頭を下げた。大人の男性に頭を下げられて初めて、ここへの同席を許された意味を知った気がした。
泰介しか、知らない。その重みを、今もしっかり覚えている。
――こんな所で、蹲っている場合ではなかった。
仁科が泰介をしきりに呼ぶ声が聞こえたが、返事をしようにも息が閊えて喋れなかった。まずい、と焦る。意識が朦朧とし始めた。だから今、こんな事を思い出しているのだろうか。
早く、帰らなくてはならなかった。葵を連れ戻して、仁科と、三人で。
だから。
早く。
――葵!
突然、ぱしっ、と乾いた音が脳裏で鳴った。
視界から一気に、色が失せていく。
――きた。
期待と覚悟が同時に胸にせり上がり、緊張で全身の筋肉が強張る。
焚かれたフラッシュのような光が、ぱちん、と閃いた。
『……泰介、いい』
――葵の声、だった。
そっと囁かれた声は、短い拒否の言葉だった。
俯いた葵が、他にも何か言っている。だがノイズのような粗がひどく、鮮明にそれを聞き取れない。それでも見えているのに、まだ思い出せない。
ただ、そんな不鮮明なフラッシュバックでも、葵が笑った事だけは分かった。
悲しい笑い方だった。
泰介が一番嫌いだと思う、葵の笑い方だった。
悲哀を滲ませながらも隠そうとして、無理に笑う、葵の顔。もう顔を見なくても分かる。焼き付いている。声を聞くだけで分かってしまう。それだけの時間を一緒に過ごしたのだ。
葵はどうして、こんなにも悲しみを抱え込むのだろう。泰介はそれが大嫌いだった。これで隠せているつもりなのだろうか。だとしたら最悪だった。泰介のような感情の機微に疎い人間でも気づくほどの拙い演技で、誤魔化せると本気で思っているのだろうか。
だが、本当は気づいていた。それが苛立つ原因ではないと、いつからか泰介は気づいていた。
泰介は、隠されたという、ただそれだけの事が嫌だっただけなのだ。
単純に、自分の都合で腹を立てただけだった。
言えよ、と思う。
何で言わないんだ、と思う。
それができないのが佐伯葵なのだと、分かっていても腹が立った。許す事ができなかった。そうやって泰介が意固地になった結果が、今にまで続いた関係を生んだのかもしれない。そしてそんな葵の弱さに付き合った事を、後悔などしていなかった。
泰介の手は、葵の両肩に乗せられていた。脱いだ学ランを何故か葵の肩に掛けていて、凍えている葵へ何かを尋ね、言葉を重ねた。そんな、気がした。
葵が、手荷物を落とす音が響く。落とした瞬間に、支えを失くしたようにこちらへ倒れ、肩に乗せた両手の間をすり抜けて、泰介にぶつかる。宙に手だけが、残された。
抱きしめたら、痛がるのではないか。乱暴に手を掴んだ記憶が蘇る。そんな躊躇と共に背中へ下ろした手の動きは、拙過ぎて目を背けたくなるほどに、こわごわとしたものだった。
すとん、と何かが自分の中にしっかりと嵌ったような符号を感じた。
覚えている。知っている。この記憶は、本物だった。
泰介達の間で、泰介達が忘れてしまった何かが起こった。
そしてその何かが、泰介と葵の関係を変えたのだ。
ただ同時に、大して何も変わっていないような気も少しした。もっとずっと前から、こんな風になっていても不思議ではなかったのかもしれない。今の延長線上に、こんな未来は確実にあったように思う。
そしてこれは、未来ではなく現実だ。その差だけが、今の全てだった。
すう、と。悪寒が身体から、抜けていく。身体の熱も一緒に憑き物が落ちるように抜けていき、フラッシュバックがここまでなのだと、身体から力が抜けていく感覚と共に、泰介は悟る。
歯噛みした。絶対にまだ、忘れている。そして同時に、気づいていた。
今朝の、葵を思い出す。その距離感を思い返すだけで、もう分かってしまった。
やはり葵も、仁科と同じなのだ。
二人とも、あの修学旅行の記憶がない。
まだ、秋沢さくらとの喧嘩の全容が判然としない。
仁科が奪い去って行った手紙の事も、行動の意図が不明のままだ。
それなのに泰介の記憶は欠けだらけのままなのだ。それが、ただ歯痒かった。
泰介が全てを、思い出したら。
〝ゲーム〟は、変わるのだろうか。
薄れゆく意識の中で、手が、滑る。ずる、と鞄の生地を擦りながら落ちていく手を、ただ、見送ってしまったその時。
がつっ、と。
肩を、掴まれた。
泰介一人ならば間違いなく、走った方が早く学校へ着く。だが仁科を連れてとなると、多少遠回りする事になってもバスの方が早いだろう。そんな判断で乗車したバスだったが、本来ならば一本道で行ける所をぐるりと迂回するのを見ただけで、泰介の心に言いようのない焦燥が、さざ波のように広がった。
葵が、まだ、見つからない。
学校に行けば何かが変わると信じての行動だったが、その行為に確証はないのだ。他にあてがないだけで、もし学校を当たって見つからなければ、その時泰介はどう動くべきか、全く考えられずにいた。
だが思考を停止させている場合ではなかった。泰介は己を叱咤するが、焦燥に焼かれた脳はまともに働かず、気づけば葵の泣き顔のフラッシュバックばかりが脳裏をちらつき、それが思考を乱していく。
「ちっ……!」
泰介は乱暴に髪を引っ掴むと、額に手を当てて呻いた。
眩暈が、ひどい。ずるずると崩れ落ちるように前の座席へ頭が傾き、咄嗟にそれを庇った手の甲が手すりにぶつかる。ひどく打ち付けた気がしたが痛みは分からなかった。バスの振動だけが、直に伝わる。
「吉野……?」
仁科がそんな泰介の様子を不審に思ったのか、声を掛けてくる。だが首を横に振るしかできなかった。大丈夫だと言うのは簡単だったが、明らかに大丈夫ではなかった。断続的な頭痛がさらに泰介から集中力を奪い、加速した焦りに衝き動かされるように思考しても、上滑りするばかりだった。
葵が、まだ、見つからない。
――駄目だ。違う。考えろ!
泰介は首を振って、熱っぽくなった思考を振るい落とす。眩暈が余計に増した。目の前の黒い手すりが歪み、バスのシートの緑と混じって斑になる。ぐにゃぐにゃと変容するマーブル色を見るだけで、激しい悪寒と吐き気に襲われた。
「う……!」
「吉野! おい!」
仁科の声に、焦りが混じった。顔を上げて仁科の顔を見る余裕は、既に泰介から失われていた。むしろ、見せない方がいい。見るな、と思う。身体的にいくら泰介が危険だろうが、精神的に参っているのは仁科の方だ。ならば余計に、見るべきではない。それなのに見せてしまっている現状が、自分の弱さも仁科の弱さも含めて許せなかった。
「……こっち、見んな。俺を心配する仁科なんてらしくねえよ。気持ち悪りぃんだよ……」
なんとか絞り出した悪態は、這いずるような声だった。こんな声なら無視を決め込んだ方がマシだったかもしれない。だがこれほど異常な身体変化を隠し通せるとも思えなかった。泰介は諦観を覚えながら、仁科の前でこんな醜態を晒す羽目になった己の状態を強く呪った。
結果的に、バスに乗るという選択は正しかったのかもしれない。走っている途中でダウンして、仁科の肩を借りながら学校を目指すよりは遙かに早く着けるだろう。泰介は、歯を食いしばる。
なんとしてでも、抑え込むつもりだった。バスを降りるまでに、いつもの吉野泰介に戻れるように。学校を、すぐ捜索できるように。葵の顔が、またフラッシュバックする。たいすけ。呼んでいる。泰介を呼んで、泣いている。
葵。
――どこにいるんだよ、お前……!
ぎりっ、と鞄に乗せた指が生地に食い込む。自分の心からいつしか余裕が失われている事に、泰介は今更気づかされた。止まらない頭痛と身体を芯から冷やしていく悪寒が、葵は必ず学校にいるという自信を少しずつ剥ぎ取っていく。そして疑心暗鬼に陥り始めた瞬間、入れ替わるように殺意が湧いた。〝ゲーム〟に振り回されていると気づいたからだ。
また、フラッシュバックがちらついた。
葵が、ひどく泣いている。
「……なん、で……泣いてんだよ……お前……っ」
泰介は呻き、額を強く手すりに押し付けた。
葵の事を、ただ思った。今朝も、泣き出しそうな顔で泰介を迎えに来た葵の事を。小学生の頃には短かった葵の髪は、今では背中の真ん中辺りまで伸びていた。
髪を長めに伸ばすのは、高校生の時の蓮香の髪型に、憧れていたから。葵が最近、そんな風に明かしてくれたのを思い出す。
だが、お淑やかな葵と開けっ広げな蓮香とでは、同じ長さの髪でも印象が全く違った。似てないと言いたくなったが、それだけは言えなかった。口をついて出かけた言葉をぎりぎりで呑んだ泰介を、葵はじっと見つめて、やがて笑った。
『似てないって思ったんでしょ? いいのに』
穏やかな笑みに寂しさはなく、不思議な晴れやかさだけがあった。
葵が家族に泣きながら謝った事を、泰介は知っている。
自分自身の事を家族に訊かずに、勝手に調べようとした。その行為の浅はかさを泣いて謝った事を知っている。泰介も一緒に頭を下げたからだ。
蓮香に、泰介は打たれた。頬を容赦なく引っ叩かれた。
殴られて当然だった。だから泰介は黙っていたが、次に言われた台詞を聞いた瞬間、湧き上がった怒りの熱さで、自制心が弾け飛んだ。
『この子の事を、一番分かってるような顔をしないで』
――反論した。
馬鹿だった。家族こそが一番分かっていて当然なのだ。それなのに反論してしまった泰介は、佐伯家へは謝罪に向かったはずなのに、心の底では反省などしていなかったのだと思う。
即座に、もう一発殴られた。葵が泣きながら、葵の父が慌てながら、蓮香を止めた。
そして泰介と葵は、葵の出生について少しだけ説明を受けた。泰介は追い出されるかと思っていたのに、葵の父と蓮香は泰介がいる状態のまま、話し始めた。
葵は、佐伯家の本当の子供ではないという事。
実の父も母も生きているが、実父は蒸発したという事。
実母の消息は把握しているが、葵には絶対に教えないという事。
そしてどうやら、兄か姉がいたらしいという事。だがもう会えないという事。
関わるな、調べるな、という事。
真実を述べたのは葵の父で、禁則事項は蓮香が言った。蓮香は泰介を牽制するように睨むと、
『あたしの妹これ以上不幸にしたら、ぶっ殺す』
と、真顔で言った。不幸じゃないよ、と葵が言ってまた泣いた。
代わりに葵の父は、泰介に頭を下げた。大人の男性に頭を下げられて初めて、ここへの同席を許された意味を知った気がした。
泰介しか、知らない。その重みを、今もしっかり覚えている。
――こんな所で、蹲っている場合ではなかった。
仁科が泰介をしきりに呼ぶ声が聞こえたが、返事をしようにも息が閊えて喋れなかった。まずい、と焦る。意識が朦朧とし始めた。だから今、こんな事を思い出しているのだろうか。
早く、帰らなくてはならなかった。葵を連れ戻して、仁科と、三人で。
だから。
早く。
――葵!
突然、ぱしっ、と乾いた音が脳裏で鳴った。
視界から一気に、色が失せていく。
――きた。
期待と覚悟が同時に胸にせり上がり、緊張で全身の筋肉が強張る。
焚かれたフラッシュのような光が、ぱちん、と閃いた。
『……泰介、いい』
――葵の声、だった。
そっと囁かれた声は、短い拒否の言葉だった。
俯いた葵が、他にも何か言っている。だがノイズのような粗がひどく、鮮明にそれを聞き取れない。それでも見えているのに、まだ思い出せない。
ただ、そんな不鮮明なフラッシュバックでも、葵が笑った事だけは分かった。
悲しい笑い方だった。
泰介が一番嫌いだと思う、葵の笑い方だった。
悲哀を滲ませながらも隠そうとして、無理に笑う、葵の顔。もう顔を見なくても分かる。焼き付いている。声を聞くだけで分かってしまう。それだけの時間を一緒に過ごしたのだ。
葵はどうして、こんなにも悲しみを抱え込むのだろう。泰介はそれが大嫌いだった。これで隠せているつもりなのだろうか。だとしたら最悪だった。泰介のような感情の機微に疎い人間でも気づくほどの拙い演技で、誤魔化せると本気で思っているのだろうか。
だが、本当は気づいていた。それが苛立つ原因ではないと、いつからか泰介は気づいていた。
泰介は、隠されたという、ただそれだけの事が嫌だっただけなのだ。
単純に、自分の都合で腹を立てただけだった。
言えよ、と思う。
何で言わないんだ、と思う。
それができないのが佐伯葵なのだと、分かっていても腹が立った。許す事ができなかった。そうやって泰介が意固地になった結果が、今にまで続いた関係を生んだのかもしれない。そしてそんな葵の弱さに付き合った事を、後悔などしていなかった。
泰介の手は、葵の両肩に乗せられていた。脱いだ学ランを何故か葵の肩に掛けていて、凍えている葵へ何かを尋ね、言葉を重ねた。そんな、気がした。
葵が、手荷物を落とす音が響く。落とした瞬間に、支えを失くしたようにこちらへ倒れ、肩に乗せた両手の間をすり抜けて、泰介にぶつかる。宙に手だけが、残された。
抱きしめたら、痛がるのではないか。乱暴に手を掴んだ記憶が蘇る。そんな躊躇と共に背中へ下ろした手の動きは、拙過ぎて目を背けたくなるほどに、こわごわとしたものだった。
すとん、と何かが自分の中にしっかりと嵌ったような符号を感じた。
覚えている。知っている。この記憶は、本物だった。
泰介達の間で、泰介達が忘れてしまった何かが起こった。
そしてその何かが、泰介と葵の関係を変えたのだ。
ただ同時に、大して何も変わっていないような気も少しした。もっとずっと前から、こんな風になっていても不思議ではなかったのかもしれない。今の延長線上に、こんな未来は確実にあったように思う。
そしてこれは、未来ではなく現実だ。その差だけが、今の全てだった。
すう、と。悪寒が身体から、抜けていく。身体の熱も一緒に憑き物が落ちるように抜けていき、フラッシュバックがここまでなのだと、身体から力が抜けていく感覚と共に、泰介は悟る。
歯噛みした。絶対にまだ、忘れている。そして同時に、気づいていた。
今朝の、葵を思い出す。その距離感を思い返すだけで、もう分かってしまった。
やはり葵も、仁科と同じなのだ。
二人とも、あの修学旅行の記憶がない。
まだ、秋沢さくらとの喧嘩の全容が判然としない。
仁科が奪い去って行った手紙の事も、行動の意図が不明のままだ。
それなのに泰介の記憶は欠けだらけのままなのだ。それが、ただ歯痒かった。
泰介が全てを、思い出したら。
〝ゲーム〟は、変わるのだろうか。
薄れゆく意識の中で、手が、滑る。ずる、と鞄の生地を擦りながら落ちていく手を、ただ、見送ってしまったその時。
がつっ、と。
肩を、掴まれた。
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