アリスの飛び降りた教室

一初ゆずこ

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26 ここではない、どこかへ

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「私、パフェがいい」
 メニューから顔を上げた侑が、隣のカウンター席に座る仁科を見つめてきた。
「好きにすれば」
 仁科は、メニューを一瞥する。水だけ飲む気でいたのだが、やはり何も頼まないわけにはいかない。コーヒーにしようと決めてメニューを閉じた。
「え、仁科ってばいいの? パフェよ? 高いわよ」
「どうしてお前は、俺がさも奢るような言い方してるかな」
「女子が喫茶店入ろうって言ったら、男子は奢るものでしょ? あ、割り勘とかやめてよね」
「とんでもない奴だな。割り勘なんかにしたら俺のコーヒーの値段が跳ね上がるだろうが」
「けち」
 仁科は黙殺すると、メニューをもう一度見直す侑を仏頂面で待った。
 どうして自分が、侑と喫茶店にいるのか。考えるだけで頭が痛い。だがメニューを見る侑の目が赤いのを見てしまうと、それ以上不平を述べるのを躊躇ってしまう。仁科は、諦めの溜息を吐いた。
 早く家に帰りたいとは、どうにも言いにくくなってしまった。


     *


 時間は、少しだけ遡る。
 体操座りでこちらを見上げる侑に、仁科は声を掛けた。
「……お前さ。なんで、こんなとこで泣いてんの?」
 それを聞いた侑は、やはりまた笑った。他者への侮蔑があからさまな、いつも通りの笑みだった。
「なんでだと思う?」
「分かんないから訊いてる。どうでもいいけど」
 気怠く返すと、侑は愉快そうに笑い出した。顎先から伝った涙が抱えられた膝で跳ねたが、既に泣き止んでいるようだった。
「仁科、勉強はできるのにねぇ。ねえ、なんでか分かる? 苛められたとか、先生に叱られたからじゃないわよ。そんなくっだらない理由じゃないんだから」
「じゃあ、どんな理由だ」
 侑は、不意に笑うのをやめた。代わりに、どこか神妙な声音で言う。
「仁科を、待ってたって言ったら?」
「嘘だな」
 切り捨てると、きっ、と侑が睨んできた。
「どうして、すぐ否定するのよ」
「だってお前、平気で嘘つくから。でも今のはかなり下手だな。なんで俺を待つ為に泣く必要があるんだ」
 仁科は靴を履き替えるべく侑の元へ近づいたが、侑の背中は完全に、仁科の下駄箱を塞いでいた。「ちょっと退いて」と声をかけると、侑は不服そうな顔をした。
「なんでよ」
「なんでって、俺今から帰るし。お前邪魔だから。靴取れないじゃん」
「ひどい、仁科。邪魔って何? 泣いてる女の子ほっぽって帰るなんて」
「……」
 嘘泣きの可能性を疑った。
「あ、後ろ、仁科の下駄箱?」
 そう言って侑は背後を確認したが、すぐに興味を失くしたのか、体勢をもぞもぞと元に戻した。
 つまり、また下駄箱を塞ぐように、背中をもたれかけさせた。
「……分かったから」
 大仰に、溜息を吐き出した。
 仁科達がここで鉢合わせたのは偶然で、これは待ち伏せではないのは分かった。それに侑がはぐらかしてばかりで何も話そうとしない以上、仁科としても侑に訊ねる事などない。最初から、好奇心で訊いたわけでもないのだ。
「……ほら、帰るぞ。それでいいだろ。だからそこを退け」
 妥協の姿勢を見せたが、侑は何故か笑顔を曇らせると、顔を俯かせて膝につけた。仁科には、その行動の意図が分からない。いくら考えても分からなさそうな領域なので「俺、なんかまずいこと言った?」とストレートに訊くと、侑は上目遣いで仁科を見た。
「仁科。帰り、ちょっとだけ付き合ってよ」
「は?」
「デート。デートしよ」
 予期せぬ言葉に、頓狂な声が出た。
 突然ふて腐れたと思ったら、いきなり何を言い出すのだ。
「あ、大丈夫。今回はプラトニックにいこうよ。でないと仁科、また途中で逃げちゃうし。いいでしょ?」
「あのなぁ……」
 まだ人を意気地なし呼ばわりしている。文句を言いかけたが、呑み込んだ。
「……人質は、俺の靴か」
「決まりね」
 しゃがんだ侑へ、仁科は手を差し伸べる。
 その手を掴んで、侑はようやく立ち上がった。


     *


 そんな経緯があって仁科は駅近くの喫茶店に来たが、何故こんな事になったのか、仁科自身全く分からないままだった。これでは、完全に侑のペースだ。
 こうして喫茶店にいるのだって、本音を言えば落ち着かないのだ。静かな空間は好感が持てるし、ジャズの流れる店内も居心地がいいかに思われる。だが中学校の制服は、明らかにこの空間から浮いていた。
 仁科も侑もどんなに風貌が大人びていようが秀逸であろうが所詮中二レベルの話であって、明るさを絞った照明が、コーヒーの苦い香りが、店内の全ての人間達が、仁科と侑とを拒絶している。お前たちはどう足掻いても子供だと、四方八方からじわじわと圧迫されている気がした。
 場違いだ。認識している。中学生が放課後に、気軽に寄る所ではない。先に運ばれてきた珈琲に口を付けると、侑が仁科を見上げてきた。
「何」
「仁科ってブラックで飲むんだ、って思って」
「はあ、そう」
 仁科は疲れを感じたが、侑の方は楽しそうだ。さっきは泣いていたくせに、ころりと表情が変わっている。喫茶店に入る必要などなかったのではと思えてくる。「何だ、気持ち悪い」と言ってやると、侑は嬉しそうに「へへ」と笑った。
「だって仁科、最初は私を避けたじゃない。でも今は放課後に付き合ってくれるでしょ?」
「それがどうしたんだ」
「別に」
 つまらない事を言い合っていると、パフェが侑の前に運ばれてきた。二段に盛られたストロベリーアイスと生クリームの山を見て、仁科は心底呆れ果てた。奢らないと断言したのに、結局パフェを選ぶのか。女子のやる事は分からない。夕飯前にそんなに糖分を摂取するなど、狂気の沙汰もいいところだ。
「質問いいか?」
 アイスに刺さったクッキーを兎のように齧る侑へ、仁科は訊いた。
「どうぞ?」
「お前、なんで俺に近づいたんだ?」
 途中で言い方のまずさに気付き、「俺と話がしたかった、って答えは却下」と付け足すと、侑はスプーンを口に咥えて考え込んだ。
「んー……そういう言い方されたら、困るわよ」
「は? お前が困る? 困らされてきたのはこっちだ」
「だって仁科と話がしたかったっていうのは、別に嘘じゃないもの。……あ、じゃあ仁科。私と仁科が似てると思ったから。それが答えじゃ駄目?」
 仁科は、コーヒーカップをソーサーに戻す。かちゃん、と陶器の触れ合う澄んだ音がした。
 最近誰かに、同じ事を言われていた。すぐに思い出す。塩谷だ。
「なんだ、それは」
「んー、説明できない。でも、私達って結構似てるでしょ? 境遇とか。周りに対する見方とか?」
「周りに対する見方? 俺がどんな風に周り見てると思ってんだか」
「馬鹿ばっかり。くっだらない」
 侑はあっさりとそう言った。
 そして何が可笑しかったのか、けたけたと声を立てて笑い出した。
 言い返したい気持ちにもなったが、仁科は何も言わなかった。
 今の発言が誤解なのか本気なのか、それとも仁科への挑発なのか、判断できなかった所為もある。そして反応の遅れは沈黙にすり替わり、仁科から返答のタイミングを奪った。そうなると今更弁解するのも馬鹿らしくなってしまい、ただ気怠く目を逸らした。これでは肯定のようだと我ながら思うが、否定も肯定も、どうでもいい気がした。
「俗っぽい言い方すれば、アレでしょ。〝友達になりたい〟。言葉にしたら、なんだかすごく安っぽく聞こえちゃうから嫌なのに」
「安っぽい以前に恥ずかしい、それ」
 仁科はおざなりに答えながら、侑の態度に微かな疑問を感じていた。
 何故、侑が泣いていたのか。それは仁科が深入りしていい問題ではないだろうし、深入りする気もない。
 ただ、あの時に見た表情が、仁科の頭から消えないのだ。
 怒りや悲しみを煮詰めた気持ちに心が置いてけぼりにされたような、悔しささえ感じられる反面、諦めが浮き彫りになったあの顔を、仁科は確かに目撃した。
 そして、仁科に見られたと気づいた侑の顔が、すぐに切り替わったのだ。
 泣くほどの感情で乱れた心をすぐ宥められるほど、仁科が侑にとっての重要人物だとは思えない。そこまで自惚れられるほどの付き合いをしていない上に、侑と仁科の関係はストーカーとその被害者という図式から、さして変わっていないのだ。
 きっとこの関係は、最大限にいい言葉で表現して「友達」だ。だがそれさえもピンとこないし疑わしい。やはりストーカーとその被害者の方が適切だと仁科は思う。
「ねえ。私も質問していい?」
 侑が、フレークをスプーンで混ぜ返しながら訊いてきた。
「……どうぞ」
「仁科はどうして、そんなに勉強がんばるの?」
 意外な質問だった。
「どうして、って」
「いつも、成績トップで廊下に貼り出されてるじゃない。どうして?」
 しばらくの間沈黙して、仁科は「別に」と濁した。
 狡い逃げ方だった。侑は仁科の質問に一応だが答えたのだ。それを思うと、この返答はフェアではない。侑からの数々の迷惑が頭を過ったが、それらを天秤にかけて己を正当化しようとする心の動きを感じてしまい、仁科は胸が悪くなる。
 だが、侑は「そっか」と答えただけだった。
 それからフレークを頬張って「仁科はコーヒーだけでいいの?」と訊いてきたので、仁科は首を縦に振って、まだ熱いコーヒーを啜る。
 すると突然、にゅっと目の前に侑の手が伸びてきた。
「!」
 指先が頬を掠め、驚いた仁科は身を引いた。コーヒーカップの中身が大きく揺れて、黒い液体がカウンターに飛び散った。
「あー、何やってんの仁科ってば」
「こっちが言いたい。何するんだ」
「髪、食べそうになってたから。払おうとしただけよ」
 そう言って、もう一度手を伸ばしてくる。仁科は手で制して自分で払った。
「仁科、男子のわりには髪長いわよ」
「ほっとけ」
 あしらって会話を断つと、店内に流れている音楽に意識が自然と向いた。確か、ENGLISH MAN IN NEW YORKだ。聴き入るうちに、買ったまま放置し続けたCDの存在を思い出す。少しだけ、焦る。早く、聴かなくてはいけない。
 その沈黙の最中に、侑がぽつりと言った。
「髪。染めようとか考えた事ない?」
 仁科は、侑を見る。
 スプーンを置いた侑と、目が合った。
 その髪色は、色素が薄いという言い訳が通用しないほど明るい。
「……そういや、お前、染めてたな。教師がうるさいだろ、そのなりじゃあ」
「どうでもいい事よ。そんなのは」
 侑はどこ吹く風といった様子でにたりと笑い、何食わぬ顔でパフェを一口頬張った。不機嫌をバネにして笑顔を引き出しているような、どこか昏い笑みだった。こういう所にも宮崎侑が有名人たる由縁が、顕著に現れている気がした。
「俺は教師とこれ以上揉めようとは思ってないさ。ただでさえ遅刻で目を付けられてるんだ」
「ねえ、どうして遅刻多いの?」
「お前に言って、納得してもらえるとは思ってない」
 仁科の放浪癖の理由など、仁科自身曖昧にしか捉えられていないのだ。自身でさえ理解できないものを、どうして誰かに説明できるだろう。
 突き放すような言い方をした仁科を、侑は黙って見ていた。その目線をふっと逸らすと、侑はごく自然に言った。
「外」
「は?」
「外が好きなんでしょ? 仁科は。外って、単純に室外って意味とは少し違って……家とか、学校とか、そういう普段の場所とは違う場所。相手の顔色窺うとか、私の事どう思ってるんだろうとか、好きでいてくれてるのかなとか、必要としてくれてるのかな、とか、本当は要らないんじゃないかな、とか。そんな面倒なものが何もない、排気ガスとかでごみごみしてても、なんかまっさらな感じで、鮮やかなの。――そういう場所にいると、落ち着くんでしょ。開放感とか、そういうの。あんまり好きな言葉じゃないけどね。自分のこと、可哀そうって思ってる子供みたいで。でも今は、そういう言葉しか思いつかないから。……ね、仁科はそういうのが好きだから、つい遅れちゃうんでしょ?」
「……」
 仁科は、何も言えなかった。
 何故だか、声にならないのだ。侑の言葉の重さが、仁科に返答を許さない。何故それを重いと思ったのかさえ分からなかった。コーヒーを口に運び、早くも冷め始めていた苦い味の液体を、喉へ機械的に流し込む。そのカップをかちゃんと置くと、「さあな」と、適当な返事で言葉を濁した。やはり、濁してしまった。
 侑もまた、そんな仁科をやはり見ていた。時間にして三秒か、五秒か、もっと長いかもしれない。
 そして、仁科から視線を外し、「そっか」と言って笑った。
 綺麗に、笑った。それだけだ。だが侑の見せたその笑顔に、仁科はまたしてもはっとした。
 以前にも、こんな事があった。仁科が以前、初対面の侑に対して口を滑らせたのがきっかけだった。
 ――お前も有名なのか?
 仁科は、侑にそう訊いた。その理由を侑に追及された時、仁科は返答を避けてしまった。そんな仁科へ、侑は更なる追及をしなかった。
 侑なら、絶対に食い下がると思っていた。仁科の見せた隙を見逃さずに、絶対に突かれると思っていた。人の物真似をしてけらけら笑う侑には、そんな悪趣味さが多分にあった。
 そんな侑が、仁科の隙を見逃している事に今気づいた。
 以前に侑に見逃された時、仁科はそれを幸運だと思った。侑の気まぐれで、追求を免れたと思った。飄々と笑う侑を見ると、今でもそう思いかけてしまう。
 だが、それは違うかもしれない。
 再び見逃された今、初めてその可能性を意識した。
 侑は、仁科が答えを避けたものを、全て見透かしていたのかもしれない。それは宮崎侑にひどく似合わない言葉に思えたが、侑の仁科への、配慮と優しさかもしれなかった。
 さっき見せた、綺麗な笑顔。侮蔑は、ない。ないように、見えた。
 だが、それを信じていいのか分からない。確証はなかった。全て、自分の妄想かもしれない。侑の台詞が蘇る。それは仁科の妄想でしょ。
「あ。音楽、また変わったわ」
 侑が、不意にそう言った。先程まで流れていたFLY ME TO THE MOONのピアノアレンジが終わり、また別の曲のイントロがかかった。仁科も「あ」と声を上げた。「知ってるの?」と侑に訊かれ、浅く頷いて曲名を告げる。
「KILLING ME SOFTLY WITH HIS SONG」
「知ってるのね!」
 わ、と歓声を上げた侑が、嬉しそうに身を乗り出した。
「あんまり知ってる人っていないの。曲聴いたら分かるけど、タイトルは知らないとかね。名曲だと思うんだけどな」
「名曲だから、テレビのCMにも使われるんだろ。大人に訊けば、それなりに知ってる人数がいるはずだ」
「寂しい事だわ。でも音楽って、それに聞き惚れる人の心しか動かせないものよね。だから、好きだって思った人が愛でればいい。でも、やっぱり寂しい事ね」
 侑が嘆かわしそうに、反面どうでもよさそうに、肩を竦めた。
「綺麗な歌なのに」
 柔らかな旋律に耳を傾けながら、仁科は侑の言葉を反芻した。
 綺麗。好き。愛でる。好き嫌いのはっきりした奴だと思う。
 そしてその分、綺麗でなく、好きでもない、愛せないものへの態度は、一体、如何ほどのものなのか。
 仁科は、頭を振って思考をリセットする。無為でしかない思索だった。何故こんな事を考えたのか、自分でも不明だった。
「洋楽って、いいわよね」
 侑が、呟く。仁科は少し意外に感じた。そんなものには、毛ほどの興味もない奴だと思っていた。
「仁科、洋楽って普段聴く?」
「英語の授業で聴くくらい」
「何それ、つまんない」
 侑は頬を膨らませたが、気を取り直したように笑うと、「じゃあさ」と続けた。
「何かさ、訳とか意味とか理解しながら聴く曲ってある? 英語の授業以外で」
「英語の授業で習った歌の訳くらい。他はどうでも」
 仁科の雑な回答にも、侑は「そうなの?」と何故か嬉しそうな顔をした。
「だからさ。お前、なんでそう変なとこで喜んだり笑ったりするわけ? 気持ち悪いんだけど」
「普通女子に気持ち悪いとか言う? 仁科サイテー」
「女子には言わない。お前は女子じゃなくて俺のストーカーだ」
 辛辣に言い放ったが、侑がこれしきの言葉でへこたれないのは分かっていた。案の定、侑はにやりと笑った。
「だって、思わない?」
「何が」
「わけ分からないって、いい事よね、って」
「はあ?」
「英語だから。何言ってるのか全然分からないじゃない。そこが洋楽のいい所だと思うの」
「……正気かよ」
 仁科は吐き捨てた。つまり、ただ曲調が好みだったと、そう言いたいのか。
「違うわよ、仁科の考えてるようなのとは」
 だが侑は、そんな仁科へ反論した。まるでこちらの落胆を見透かしたような物言いに、仁科はむっとなる。
「何が違うんだか。お前、歌詞の意味わけ分かんないとか、そう思いながら聴いてるんだろ?」
「そうよ」
 侑は断言した。
「歌詞が分からないから、好き勝手に意訳できるじゃない。好きって言ってるようにも、死ねって言ってるようにも!」
 しん、と場に沈黙が降りた。
 死ねという言葉が、静かな店内へ響き渡る。
 真っ直ぐに仁科へ向けられた言葉の重みが、空虚に座る自分をすり抜けて、無為に空気を震わせる。その残響が、ジャズの音色と混じり合った。
 店内の誰もが、仁科達に注目した。店のマスターもカウンター越しに、こちらをちらりと窺った。その視線を受けて、仁科は無言で席を立つ。
 今の侑の放った言葉が、どんな感情だったのか。仁科には分からない。初めて触れる、感情だった。
 だが、大よその検討はついていた。
「……俺、もう帰るから」
 仁科は、静かに言った。
 別に、侑を責めるつもりはない。だが自分達はやはり、ここには不釣り合いだった。この辺りが潮時だ。
 侑は空のガラス容器にスプーンを置くと、仁科へ無邪気に笑いかけた。
「仁科、明日はちゃんと朝から学校に来るの?」
 唐突な台詞だったが、侑のこんな態度には慣れ始めていた。仁科がさして気に留めずに「気が向いたら」と答えると、侑はきちんとこちらへ向き直った。
「仁科。今日は、付き合ってくれてありがと」
 その台詞に、はっと仁科は振り返った。
 四人掛けの席が並ぶ硝子窓に、店内のオレンジ色の照明が反射する。カウンター席の中学生を鏡のように映した向こうに、外の雑踏が透けて見えた。すっかり夜の風景だ。店内の時計を見れば時刻は七時半だった。しまった、と思う。
 夕飯が遅れる事を、家に連絡するのを忘れていた。
「おうちの門限とか? 仁科、いい子だね」
 侑は察したのか、揶揄の言葉が飛んできた。仁科は胡乱げな目で侑を振り返ったが、途端に目の前へ携帯を突き出されて鼻白む。ファンシーな携帯ストラップが、じゃらじゃらと目の前で揺れた。
「……なんのつもりだ?」
「家に連絡したいんじゃないの? ほら」
 目の前で、携帯が軽く振られる。仁科は考え込んだが「いい」と断った。今から帰れば問題ないのだ。侑は、くすりと笑ってきた。
「仁科ってば、見かけに寄らず真面目よね。あの時も職員室にちゃんと行こうとしてたもの」
「俺、帰るから。まだここに残るか?」
 隣席に置いていた鞄を開けながら、仁科は訊く。財布を探すが嵩張る教材が邪魔をして、なかなか探し当てられない。侑が首を横に振り、「私も帰る」と、立ち上がった時だった。
 財布を引き抜くと藁半紙が一枚一緒にくっ付いてきて、ふわりと舞い上がった。
 咄嗟に掴もうとしたが追いつかず、それは店内の空調の風に乗ってひらひらと飛び、侑の足元へ落ちた。その正体に理解が及び、「ああ」と仁科は呟いた。
 その藁半紙は、放課後に仁科が職員室付近で拾ったものだ。
 本来なら廊下の掲示板に貼られていたはずのそれは、画鋲が外れたのか床に落ちていた。それを仁科が気まぐれに拾い、つい読みながら歩いた所為で、鞄に収める羽目となった。
 普段ならそんな馬鹿げた行動は取らないが、この新聞記事のスクラップについては塩谷との雑談で聞いていて、珍しく興味を引いたのだ。
 記事は、御崎第二中学に通う二年の男子生徒について書かれていた。
 その生徒が万引き犯逮捕に協力したという事で、やや大げさに取り上げられたのだ。
 中学二年。つまり、仁科と同い年の学生だ。同じ市内の中学生として、こういう事があったのを知っておけ、と。要するにそれが、学校側の意図だろう。
 だがそこに写った吉野泰介という少年の容姿は、かなり酷い有様だった。
 頬には漫画のように大きなガーゼが貼られていて、手の甲にも多数の擦り傷が窺えた。その上見事な坊主頭ときているので、クラスメイトの反応は塩谷いわく賞賛半分、呆れ半分といった所だそうだ。可哀そうに、と本気で思う。仁科ならこんな写真を撮られたら、おそらく表を歩けない。
 そして同時に、馬鹿だとも思った。正義感だけを振りかざして、無事で済まなかったらどうする気だったのだ。相手が喧嘩慣れしていなかったから助かったようなものだ。仁科は心の中で、今後会う事もないだろう吉野泰介へ合掌した。何にせよ、この写真はあまりに酷い。
 ともかく、この記事のスクラップは、明日学校に返さなくてはならない。要らない拾い物をしたことを、仁科は内心で後悔した。
「落ちたわよ」
 侑がしゃがみ込み、仁科の落し物を拾った。プリントは逆さを向いていて、薄茶色の紙はぼんやりと、裏面の記事を透かせていた。侑がそれを、裏返す。白黒写真の吉野泰介の顔が、表を向いた。
「ああ、悪い」
 仁科は、侑へ手を伸ばした。
 だが。
「…………」
 侑は、顔を上げなかった。
 蹲ったまま、じっとプリントに視線を落としている。店内のオレンジ色の照明が明るく染めた侑の髪を、より鮮やかに見せている。侑の表情は、窺えない。
「? おい、どうした」
 十秒ほどの時が過ぎても、侑は立ち上がらなかった。さすがに不審に思って声を掛けたが、その声にも答えない。店内の視線が、ちくりと肌に突き刺さる。マスターを始め店の客までこちらの様子を窺い出して、仁科は少し、苛立った。
「おい。宮崎」
「こいつ嫌い」
 侑が、言った。
 淡々と、静かに、そう言った。
「……は?」
 状況が呑み込めない仁科を顧みることなく、藁半紙を両手で握りしめた侑は、もう一度言った。
「こいつ、嫌い。大嫌いよ」
 藁半紙が、音を立てて皺になる。侑の手が震え出し、仁科の目の前で歪んでいく。ぐしゃりと一際大きな音を立てて撓んだ時、思わず仁科は叫んだ。
「おい……!」
 その呼びかけは、けして大きなものではなかった。店内の視線を気に掛けながらの、ひっそりとした声だった。
 だがそんな声でも、侑の手は止まった。
 ジャズが空虚に、両者の間を流れていく。空調の音さえ聞き分けられそうな沈黙の中で、口火を切ったのは侑だった。
「……ごめんね仁科、プリント皺になっちゃった」
 何事もなかったかのように立ち上がった侑は、藁半紙をぴんと伸ばして軽く埃を叩いた。そして「はい」と仁科へ差し出して、綺麗な顔で微笑んだ。
「……ああ」
 仁科は表情もなく、それを受け取った。
 何が、とか。誰が、とか。どうして、とか。疑問はいくらでもあるはずなのに、そのどれもが言葉にならない。藁半紙に走った亀裂は引っ掻き傷のように人体を生々しく横断し、憎悪の爪痕を残していた。ただの皺に過ぎないと、仁科は自分に言い聞かせる。
 ただ、思った。この店内で二度も見せつけられた感情を、胸に焼き付けながら、ただ思った。
 侑の狂気を、見た気がした。
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