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14 疑惑

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 図書室へ着くと、すぐにさくらが出迎えてくれた。
 さくらは本を読んでいたが、扉を開けた葵に気付くと、「葵!」と嬉しそうに席を立った。椅子の足が絨毯を擦る音が、ごとんと重く響いた。
「どこかしんどかったの? もう大丈夫?」
「あ、うん……」
 大丈夫。
 泰介の悔しそうな顔を思い出して、出かかった言葉を呑み込んだ。
「えと……平気、だから。待たせちゃってごめんね。ランドセルありがとう」
「ううん、今元気ならよかった。帰ろっ!」
 二人で図書室を出ると、校門を出た辺りでさくらがくすっと笑った。
「葵ってば、よく寝てたよね」
「朝からずっと寝てたなんて、初めてかも。まだ頭、少しぼーっとしてる」
「ミキちゃんと給食持ってったのに起きないんだもん。今おなかすいてない?」
 指摘されて初めて、葵はそれに思い至った。
「うん。ちょっと」
「ねえ、なんか買い食いしよーよ」
「え? さくら、お金持ってるの?」
 驚く葵に、さくらは「持ってるよ」とにやりと笑った。
「先生の言う通りにお金持ってこない子なんて、そんなにいないよ。さくは三百円持ってる。これ以上はママがだめって言うし」
 真面目なのか不真面目なのか分からない。葵は苦笑して言葉に迷い、少しだけ誘惑されながら、首を横に振った。
「やっぱり、買い食いはだめだよ」
「葵はそう言うと思った」
 きゃはは、とさくらは気持ちよさそうに笑った。
 葵はその反応を見て、何故だか言葉が出なかった。
 少し疲れているのかもしれない。さくらの言葉を悪く取ろうとする自分を感じ、それでも明るく振る舞うことができなかった。すると何故かさくらまで青い顔で黙ってしまい、何だか一気に気まずくなった。
 はっと、気付いた。
 さくらがさっき言った「ママ」という言葉。それを気にしたのだ。葵の母の入院は先生がHRで話したので、クラスメイトはみんな知っている。声を掛けあぐねていると、「あのさ」とさくらが唐突に言った。
「葵、泰介とあんなに仲良かったっけ?」
 どきりとした。
「今朝、二人がいっしょに走ってるとこ見た子、けっこういるんだよ?」 
「それは……別に、何もない、と思うんだから」
「何それ?」
 さくらはにやにやと葵の顔を覗き込んでくる。思いきり話題を変えることを選んだようだ。葵は何故か赤面した。
「友達。さくらとだって、一緒に家に遊びに来たことあるでしょ。同じだもん」
「ふぅん、つまんなぁい。……ま、泰介っていいやつだよね」
「え? ……うん。そう、だね」
 小さな引っ掛かりを覚えたが、とりあえず葵は頷いた。
 いいやつ。確かに吉野泰介は、さくらの言うように「いいやつ」だ。
「ねえ、泰介がもしさ、葵のこと好きだったらどうする?」
「へ?」
 吉野泰介が、自分を?
「何言ってるの? さくら。そんなわけないでしょ」
 溜息を吐き出すように笑うと、「えー、なんでえ?」とさくらが唇を尖らせた。
「なんでって、言われても……」
「でもさあ葵、これからうわさされちゃうと思うよ?」
 鋭い指摘に、ぐっと言葉に詰まる。どうして葵の周囲は、どんどんこじれていくのだろう。頭を抱えたくなった時、ふと葵は今朝の出来事を思い出した。
「……あの、さくら」
 硬い声で呼ぶと、さくらはまだ泰介の話題だと思っているのか、楽しそうに振り返った。その笑顔を曇らせるのは辛かったが、意を決して言った。
「聡子ちゃんの、ことなんだけど」
 さくらの表情が、硬くなった。
「泰介くん、多分私を助けてくれたの。今朝ね、さくらが来る前に……私、クラスの子がみんな、聡子ちゃんをいじめるつもりなんだ、って思ったの」
 怖かったが、結局葵は「いじめ」という言葉を使った。さくらの肩が、小さく跳ねる。何だか、さくらを責めているみたいで嫌だった。
 するとさくらが、「葵」とやんわり遮った。
「さくは、葵が正しいって思ってるよ。なんて、さくが言うのも変だよね。葵から見れば、さくだって「いじめ」の側なんだろーからさあ」
 あっさりと言われてしまい、葵は返す言葉がなかった。
 今朝のクラスメイト達の視線を思い出す。共犯者を見る目。淀んだ眼差し。
 それから、同情だった。
 可哀想に。声さえも聞こえてくる気がした。可哀想。聡子ちゃんなんかに好かれて、可哀想。耳を覆って、その場で蹲って叫びたかった。鼻の奥がつんとする。だが、さくらの前では泣けない。
「さくら。聡子ちゃん、これからどうなっちゃうのかな」
 少しくせっ毛で、いつも髪に手櫛をいれていた聡子。大人しそうにいつも席に座っていて、葵を見ると花のように微笑んだ。
 聡子が孤立した原因を、葵は詳しく知らない。美紀とそりが合わなかったという風には何となく聞いていたが、本当かどうかは分からない。
 ただ、きっかけが何であれ、後は転がり落ちていくだけだった。
 さくらが聡子から離れた時、葵は美紀の時と同様に、さくらにその理由を訊けなかった。
 怖かったからだ。それを知ってしまうのが。知ってしまったら最後、葵もみんなと同じ理由で、聡子から離れてしまうのではないか。主体性の薄い自分はそんな風にふらふらと、友達につられて聡子を嫌いになるのではないか。そんな危惧から、目が逸らせなかったのだ。
 聡子を嫌う理由なんて、葵の中には一つもないのに。
「聡子ちゃん、今日ずっと、無表情だった」
 葵の問いに、さくらは全く予期しない形で答えた。
「ずっと、石みたいに固まってた。自分の席からほとんど動かなくて。クラスのみんな、誰かと話してても、ちらちら見てるの。聡子ちゃんのこと」
 まるで牢屋に閉じ込められて、監視されているような日々。それは葵の想像を超えていて、共感はできなかった。
 ただ、それは、なんて――。
「寂しい……」
 思わず呟くと、意外にもさくらが「そうだね」と同調した。
 葵は驚いてしまった。さくらは、聡子を嫌いなはずなのに。
「葵、意外? でも言ったでしょ? さくはね、葵をすごいと思うの」
「なんで?」
「前にも言ったよ。葵」
 さくらは、誇らしげに笑った。
「葵は聡子ちゃんの最後の友達になっても、疲れたってぐちっても、やっぱり友達だって言うんでしょ? 葵はね、やさしいの。だから、さく、葵と一緒にいると時々反省しちゃうの」
「さくら……」
 葵はじんとしてしまい、すぐには声を出せなかった。
 嬉しかった。だが素直に喜んでしまっていいのか、複雑な思いもあった。
 その不安に衝き動かされるように、葵はぽつりと言った。
「ねえ、さくら……さくらは聡子ちゃんのこと、苛めたりしないよね? 嫌いな子でも、苛めたりはしないよね?」
 さくらが、息を吸い込んだ。
 やがて何事もなかったかのように、少し顔を顰めてきた。
「まさか。そんなせこいこと、さくがするわけないじゃん? ……でも、他の子がどうするかは知らないよ?」
 葵は、目を伏せた。やるせなさや悲しさもあったが、自分が恥ずかしくなったのだ。葵はもしかしたらこの苛めを、さくらに止めて欲しかったのかもしれない。自分にできないことを、友達に押し付けようとしてしまった。
 誤魔化すように「ねえ、さくら」と、葵はもう一度呼んだ。
「どうして泰介くんは、私が悩んでたこととか、分かるのかな」
 自分でも、何が言いたいのか分からない。
 ただ何となく、もっと泰介の話をしたかった。
 さくらは意外そうな顔をしてから、「泰介ねー」と考え込んだ。
「あいつさあ、ガサツだし言葉づかいとかもキツイし、何かとすぐ女のクセにとか言うんだよ? 葵だって知ってるでしょ?」
「うん」
 さくらの言う通りだ。泰介は人一倍負けん気が強く、それに。
「ちょっとだけ、キザだよね」
「あははっ、言えてる!」
 さくらが大笑いした。そして笑いながら、こう言った。
「でも、やっぱりいいやつだよね、泰介」
「……うん」


     *


 葵はランドセルを部屋へ置くと、洗面所で手洗いうがいを済ませてから台所へ向かった。サラダくらいなら葵にも作れる。できることから始めておいて、少しでも早く母の見舞いに行きたかった。
『しんどいでしょう。そんなに頻繁に来たら。もちろんお母さん嬉しいんだけどねえ』
 寂しげに笑う母の声が蘇る。事実、小学生の葵はともかく、高校生の蓮香は頻繁に病室を訪れるのが辛いようだ。バスケ部で忙しいのだろう。蓮香は葵と違って運動神経がずば抜けていいので、部内でも期待を懸けられているらしい。
 それに、『不思議の国のアリス』。
 主役を演じること。それはまだ葵には想像もつかないが、きっと蓮香は今以上に忙しい人になってしまって、母のお見舞いや葵を構うことが減ってしまうのかもしれない。
 冷蔵庫を開けると、蓮香の作った煮物にラップがかけてあった。考えた末にマカロニサラダを作ろうと決めて、葵は鍋に水を入れた。それを火にかけようとしたが、火が出ない。わたわたとガスの元栓を捻りかけた所で、鍵ががちゃりと開く音がして、ばん! と続けて大きな音が響いたので「わあ!」と叫んだ。立て付けの悪い扉は、いつも葵を飛び上がらせる。
「何騒いでんの?」
 声が先に聞こえ、呆れ顔の蓮香が部屋に入ってきた。
「ううん、びっくりして。おかえり」
「ただいま」
 蓮香は子供部屋へ直行して、机の前に行くとカレンダーを凝視した。それから手元の携帯も同じように見つめて、次に提げていた鞄の中から教科書類を抜き始めた。
 何だか、手つきが雑だ。これから出かけるために鞄の中身を減らしてのは分かるのだが、何をそんなに急いでいるのだろう。葵はついつい見入ってしまう。
「葵。お母さんのとこ行こう」
 すっくと立ち上がった蓮香が振り返った。葵は一瞬、ぎょっとした。
 蓮香の様子が、いつもと少し違った気がした。
「でも蓮香お姉ちゃん、私さっき帰ったばっかりで、サラダがまだ」
「いいよ、葵。帰ってから姉ちゃんと一緒に作ろ。行こう」
 有無を言わせない調子でそう言って、蓮香はガスの元栓が閉まっているのを確認すると、葵の手を引いて歩き出した。
「蓮香お姉ちゃん、どうしたの?」
 蓮香は一拍の間を置いて、「なんでもないよ」と答えて笑った。


     *


 母は、また少し痩せて見えた。
 一日しか経っていないのにそんな風に感じたのは、きっと病室を照らす光が太陽の赤ではなく、蛍光灯の白だからだ。その所為に、決まっている。
「検査で忙しかったからよ。すぐまた太るに決まってるじゃない」
 母はからからと笑っていた。そうしていると確かに元気そうだが、線の細い身体は見るからに弱々しく、葵の心をざわつかせた。
「ねえお母さん。何か食べたいものある? あたし何か買ってこよっか?」
 蓮香の言葉に母は「いいわよ蓮香。でもありがとう」と答えて、ベッドから起き上がった。蓮香がさりげなくその身体を支えると、母がおもむろに言った。
「ねえ、蓮香。もう演劇の練習は始まってるの?」
「あ……うん、それはもう始まってる」
 不意を衝かれたような顔で、蓮香は言った。
「実子ちゃんは何の役をするの?」
「ああ、お母さん。実子は出ないの」
「実子さん、出ないんだ?」
 葵が目を瞬くと、蓮香は「そうよ」と頷いた。
「あんたと一緒。目立つのヤなんだって。実子って美人だから舞台で映えそうだって皆に言われてたんだけどね。そうやってクラスで注目集めただけでも恥ずかしそうにしてた。でも多分怖いんじゃない? プレッシャーに弱い子だし」
「蓮香。その言い方はないんじゃない?」
 母が、口を挟んだ。
 おっとりとした声だったが、少し厳しい響きを含んでいた。
「だから実子ちゃんは自分にできるやり方で行事に参加しようとしたんじゃない。パンフレットの事とかそうでしょう? 頑張ってる人の事をそんな言い方で表すのは、ちょっとあんまりよ」
 蓮香はぽかんとして、それからむっとした顔で言い返した。
「悪意で言ったんじゃないわよ。実子が頑張ってるのだって、あたし知ってる」
 蛍光灯の発するじじじ……という音が、大きく聞こえるほど静かになった。
「そうね」とやがて母が折れた時、蓮香の目から、反抗的な光が消えた。
 はっとしたような顔で黙り、気まずそうに目が逸らされる。
 葵はただはらはらしながら、一部始終を見守った。
「……ねえ蓮香。やっぱりおつかい頼んでいい? 林檎食べたくなっちゃった。ゼリーでもいいわよ。冷たいのがいいな」
 子供っぽく母が笑うと、蓮香はぎこちなさが残る顔で、「じゃ、言ってくるね」と微かに笑い、病室をあとにした。葵は少し考えて、結局その場を動かなかった。
「私も駄目ね」
 蓮香の足音が遠ざかると、母が独り言のように言った。
「蓮香に悪気がない事くらい、ちゃんと分かってるのよ。でも、気にしすぎちゃうのね。あのくらいの言葉なら、私だって誰かに言っているかもしれないのに。言葉の使い方にはどうしても、敏感になってしまうものね」
「お母さん、蓮香お姉ちゃんは悪くないよ?」
 葵には母の言葉の意味が半分も分からなかったが、蓮香を庇いたくてそう言った。「そうね」と母は優しく笑うと、葵の髪をくしゃりと撫でた。
「葵は多分、私に似すぎたのね」
「え? 私、お母さんに似てるの?」
 葵は驚く。そんな風に言われたことは、今までに一度もなかったのだ。葵の顔は父にも母にも似ていない。すっとした鼻梁の蓮香はよく母似だと言われているが、それを聞く度に、葵はどこかで寂しかった。
「あら、娘だもの。そりゃあ親に似るわよ。蓮香の性格はお父さん似かしらね。今はすごく優しいけど、昔あんな感じだったもの」
「蓮香お姉ちゃんが、お父さん似……」
「ふふ、クラスの子にも言われない? 葵はものを気にし過ぎるとか、あとは」
 母はそこで言葉を切って、吐息のように、残りの言葉を言った。
「優しすぎる、とか」
 さくらの顔が脳裏を過った。葵はね、やさしいの。
 表情に出ていたのだろう、母はまた笑った。
 今度は少し、悲しい顔だ。母は時々、こんな風に笑う。
「あと、葵はよく我慢しちゃうんじゃない? お母さん、ちょっと心配だわ」
「がまん?」
「そう、我慢」
「……私が、何を我慢するの?」
「何でも」
 ずれたシーツを引き寄せた母は、微笑を絶やさなかった。
「嫌だなって思っても笑っちゃったり、本当に言いたいことをね、自分の中で消しちゃうの。それは自分の周りの人の為かもしれないわね。例えば、友達とか」
 友達、という言葉にどきっとした。
「ねえ、葵。我慢を知ってるのは、すごく偉いわ」
「……うん」
 直球で褒められて、葵は照れ臭くなって俯く。「でもね」と母の声が続いた。
「少しは友達に、本当に思ってることを話してみてもいいんじゃない?」
 葵は、ぱっと顔を上げた。何だか、少しショックだった。
「お母さん、私、友達にうそなんてついてないよ」
「ああ、違うの葵」
 泣きそうな目で訴える葵を、母は「分かってる」と言って宥めた。病院だから、と人差し指を口元にあてた母を見て、葵ははっと口を噤む。顔が火照った。
「そういう意味じゃなくてね、我慢も程度によると思うのよ」
「ていど?」
「葵は、もうちょっと我儘でもいいってこと」
 声を潜めて母は言う。まるで魔法をかけられる前のような秘密めいた雰囲気に、葵は誘われるように聞き入った。
 だが「わがままなんて、言えないよ」と、結局葵はそう言った。
「どうして?」
「……だって、嫌われたら、って思ったら」
「でも、泰介くんやさくらちゃんみたいな人がいてくれるでしょう?」
 葵は、目を見開いた。何度も家に上がっているさくらはともかく、二度ほど何人かで来ただけの泰介の名が、ここで出てくるとは思わなかった。
 少し考えてから、葵は「うん」と小声で頷く。母は「なら大丈夫よ」と笑ってくれた。
 ――大丈夫。
 葵がいつも、念じていた言葉だ。
「あ、そうだ葵。お母さんに電話、かかってこなかった?」
「電話?」
 葵が首を横に振ると、母は眉を少し寄せた。「蓮香ね。それかお父さんか……」と恨むように呟いている。
「お仕事の電話?」
「そうよ。次の絵本、楽しみに待ってなさいよ。とっておきのやつ描いてるんだから」
「描いてる、って……ここでっ?」
 得意げに胸を張る母を、葵はびっくりして見上げた。
 母が病院に画材を持ち込んでいることは何となく蓮香から聞いていたが、まさか本当だったとは。
 葵の母である佐伯和歌子は、絵本作家なのだ。名前もそのまま、佐伯和歌子で活動している。色鉛筆や水彩絵の具で描かれるふわふわしたタッチの絵は葵も大好きだが、小学校高学年向けの物語らしく、内容はよく分からない。
「お母さん、ほんとに病人なの?」
「蓮香とお父さんにも同じこと言われちゃった。今度のやつはすっごーく可愛い子達の話なんだからって宣伝したら、お父さんに怒られちゃった。えへへ」
「えへへ、って……ゆっくりしてしなきゃ、だめなんじゃないの?」
「好きでやってることなんだから、辛くないわよ? ……あら、少し違うわね。好きなことをやってるからこそ、いろんなことを頑張ろうって思えるのよ。……うーん。これも少し違うわね。いろんな命を描くことが、お母さんにとって、息を吸ったりご飯を食べるのと同じくらいに、自然で、当たり前のことだから? ……うーん。やっぱりただ好きだから、が一番しっくりくるかしら。葵、お母さんよく分からなくなっちゃった」
 まるで子供のように無邪気な態度に、葵はもうお手上げだ。
 ただ、一つだけ分かったことがある。
「お母さん。お父さんが怒ったのは、お母さんの言った大丈夫が、うそに聞こえたからじゃないの?」
 葵は言った。母の言葉を聞いた上で、今日のことを振り返って思ったのだ。
 我慢し過ぎで、少し嘘つき。泰介の悔しそうな顔が、まだ記憶に焼き付いている。母は目を少しだけ見開くと、やがて穏やかな表情で、「そうかも、しれないね」と、囁くように言った。
 その時背後から「お母さん、葵」と声が聞こえた。
 二人で振り向くと、ビニール袋を提げた蓮香が、微笑んでこちらに歩いてくる。
「コンビニで済ませちゃった。リンゴゼリーで我慢してね」
 母も笑顔で「ありがとう」と返していた。さっきの諍いをまるで感じさせない、あまりに自然な和解だった。すごい、と葵は感心する。二人とも、やはり大人なのだ。


     *


 葵は少しだけ軽くなった心で、蓮香と二人で病室を出た。
 ここに来るまでの間は、蓮香の見せたささやかな変化が気がかりだった。だが手を繋いで歩く蓮香を見上げても、おかしな所はどこにもない。蓮香も母と話せたことで何かが楽になったのかもしれない。満ち足りたような顔をしていた。
 だから、その笑顔が凍りつくことになるなんて、この時は思いもしなかった。
 事件は、唐突に起こったのだ。

「あら、みいちゃん?」

 病室の廊下の真ん中で、いきなり声を掛けられた。
 前から歩いてきた女性が一人、口元に手を当て、驚きの表情で言ったのだ。
 髪をざっくりと束ねた、母の和歌子と同じくらいの歳の、主婦のような雰囲気のおばさんだ。
「……?」
 葵は立ち止まる。知らない人だった。
 立ち止まったその女性は、明らかに葵を見ていた。
 そして心底驚いたような表情で、もう一度言った。
「みいちゃんよね? どうしたの? こんな所で……お母さんは一緒じゃないの?」
 蓮香は、立ち止まらなかった。
 葵は立ち止まらない蓮香に驚き、少し引き摺られた。
「蓮香お姉ちゃん。あの人、何か言って……」
「葵、耳貸しちゃ駄目」
「蓮香お姉ちゃん?」
 振り返った蓮香に、葵は息を呑んだ。
 蓮香の表情が、急変していたのだ。
 その顔は、泣き出す寸前にも、怒り出す寸前にも見えた。それらを全て無理に隠そうとして、隠せなくて壊れたような、葵がまだ知らない激しさを確かに包んだ顔だった。
「佐伯蓮香と申します。あたしの妹に何か用ですか」
 葵を背中に隠して、蓮香が一歩進み出た。女性は戸惑っていた。何故蓮香を怒らせたか分からないからだ。そしてそれは葵も同じだった。
「葵、行くよ。……忘れな」
 歩き始めると、女性は追いかけて来なかった。ぎゅっと握られた手が痛い。あっという間に病院を出ると、ざあ、と秋の風が冷たく吹き荒れ、姉妹の間を抜けていく。蓮香は厳しい表情を変えないまま、唇をきつく噛んでいた。
「蓮香お姉ちゃん、私……」
 怖々と、葵は声をかけた。だが何を言えばいいのだろう。ただ、怖いと思ってしまった。姉の蓮香をこんな風に怖いと思ったのは、初めてのことだった。
 だが、それでも葵は思うのだ。
 どんな感情を露わにしても、蓮香は葵の憧れで、大好きな家族だ、と。
「忘れる、よ」
 馬鹿みたいな、台詞だったと思う。
 それでも蓮香は葵の手を、きゅっと握り返してくれた。
 繋いだ蓮香の手は汗ばんでいて、少しだけ震えていた。
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