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 ひぐらしが鳴く道を、淳美と菊次はゆるゆると歩いた。
 菊次は右手で杖をつき、淳美は菊次の左側に寄り添った。住宅街に広がる夕焼け色は、今や濃密に漂っている。小学校が近いこの区画は整備されているが、道路を一本挟めば田園風景が拡がっていて、連なる家々の隙間からは、夕景色に溶けてしまいそうなほどくらい山のが覗いていた。日が沈むまでの残り僅かな赤い時間を惜しむように歩くうちに、淳美の心には日没後の青さのような、影の色をした不安が満ち始めた。
 菊次は、ゆっくりと歩いていた。淳美が歩調を合わせるのが難しいほどに、心の内側に何か格別の気がかりでも抱えているかのように、ゆっくりゆっくり歩き続けた。菊次がやまいに倒れたあの日、自我も意識も声すらも、全てを海に飲み込まれて夢に連れ戻されたようだったと、母から聞かされた話を思い出す。淳美たちがまだ当分行くことはない世界に、菊次は魂を半分置いてきたのだろうか。何色をしているのか見当もつかないその世界では、時がこんなふうに流れているのだろうか。誰かとともに歩むことを、難しいと感じるなんて、淳美は一度だってなかった。菊次の歩き方が覚束ないわけではないのに、淳美が速く歩いているわけでもないのに、それなのに一緒に歩くというだけのことが、こんなにも難しい。しばらく無言で歩くうちに、ついに菊次が、堪えきれないとばかりに笑い出した。
「淳美ちゃんは、歩くのが速いねえ」
「……ごめんね」
「ああ、謝らんでいい。今のは、おじちゃんが悪かった。淳美ちゃん、おじちゃんはもう駄目だ。淳美ちゃんと一緒に、歩くこともできん身体になってしまった」
「そんなことないよ、歩けるよ、ほら」
 淳美は、菊次の左手を握った。かさかさに乾いた手のひらは、思いのほか冷たくてどきりとした。血の巡りの悪さが、淳美に夏の暑さを忘れさせた。
「淳美ちゃんは、頼もしいねえ」
「そうだよ。私は頼もしいの。おじちゃんに憧れて、頼もしい私になったんだよ。ねえ、明日のお昼は何食べたい? おじちゃんの好きなもの、なんでも作るよ」
「そうかい、それじゃあ、冷たいスパゲティを作れるかい。佳奈子さんに聞いたんだ。淳美ちゃんは、冷たいスパゲティも上手に作れるって、嬉しそうに」
 一瞬だけ、時が止まった気がした。ひぐらしの声も、聞こえなくなる。
「……おじちゃん。先週のスパゲティ、美味おいしかった?」
「ああ、もちろん美味しかったさ」
 菊次は、浩哉によく似た曇りのない笑みで答えた。
「だけど、わしに気を使いすぎて、ちっと塩分を減らし過ぎたなぁ。名前は、ほれ、何だったか。ペスカトーレ。でも淳美ちゃんの作る料理は、お店を出せるくらい美味いよ」
「おじちゃんってば、矛盾してるよ。でも……ありがとうね……」
「礼には及ばんさ。ところで淳美ちゃんは、いつになったらうちに嫁に来るのかね」
 屈託なく、菊次は笑っている。どんな言葉を聞かされても、驚くことはなかった。警察官の姿を見た時から、とっくに覚悟はできていた。鼻の奥がつんとしたが、淳美は上を向いて誤魔化した。見上げた茜色の空は、紫がかった黄昏色にどす黒く染まった雲ばかりで、ちっとも綺麗だとは思えない。そうやって認めないことで、守られる何かがあるはずだ。
「うん。そのうちね」
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