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予後という言葉との出会いの日を、淳美はきちんと思い出せない。
――……お医者様は、本当にそう言ってらしたの?
――ああ、予後は良いと……。
予後。予後。鈴のように言葉は転がり、夏の音色を奏でていた。季節は確か八月で、夏休みが終わる間際で、遠い田舎に一人で住む祖父を、家族で訪ねたはずだった。縁側でスイカを食べていた淳美は、家族と祖父の緩やかな話し声を聞いていた。
涼やかな音の意味を知る前に、祖父はその年、亡くなった。
淳美は今も、祖父の顔を思い出せない。
*
土曜日はスパゲティ・デーだ。そう指切りしてから、金曜日はいっそうパワフルに働くようになった。生徒たちには不思議がられ、「あっちゃん先生、デートだ」なんて囃し立てられたが、あながち間違いではないかもしれない。図工室へ代わる代わる現れる生徒たちの相談に乗り、職員室での残務処理を全力で終えると、淳美はいそいそとスーパーへ向かう。教師生活三年目にして、こんなふうに日々が刷新されるなんて思いもしない。
あれから、何度目の土曜日を迎えただろう。緩く巻いた短い髪を後ろで団子に纏めた淳美は、背ワタを取ったエビを水溶き片栗粉で和えてから、指折り数えて思い出す。
エビとトマトのクリームスパゲティ。小松菜と豚バラ肉のバター醬油スパゲティ。塩分控えめカルボナーラ。最後のカルボナーラだけは不評だった。躊躇って塩分を減らした所為だ。先週の巻き返しを図るためにも、今日は腕によりをかける。食材の入ったバッグを提げた淳美を出迎えてくれた露原家の人々にも、この意気込みは伝わったようだ。午前十一時の台所で、淳美は四回目のスパゲティ・デーに臨んだ。
「ステーキ屋さんのニンニクチップって、真ん中に穴が空いてるでしょ? どうしてあんな形をしてるのか、自分で調理してみるまで知らなかったんですよね」
淳美はニンニク一かけ分を輪切りにしてから、真ん中に通った緑色の芯を爪楊枝で落とした。露原家の台所は少し狭く、日当たりもあまりよくないが、昼前ともなればブラインドから入る陽光で十分に明るい。
「淳美ちゃんも? おばさんも知ったのは最近なのよ」
そう答えた佳奈子が微笑すると、パーマのかかった毛先が肩口で揺れた。淳美の幼馴染の母親は、昔から少女のような笑い方をする。このブラインドから入る陽光のような白さの笑みは、実際には淳美には及びもしない経験という光のスペクトルみたいな虹色で作られているに違いない。そんな佳奈子の笑みが、淳美は好きだ。佳奈子がフライパンにオリーブ油を引いたので、淳美はペースを上げて、もう一かけ分ニンニクの皮を剥いた。こちらはみじん切りにする予定だ。
「最近ね、浩哉が牛丼を作ってくれたのよ。ニンニクチップもまぶしてあって、その時にやっと知ったのよね。昔はおじいちゃん以外のみんなは、あんまり食べなかったものだから」
「浩哉って、ちゃんと料理できたんですね。あっ、ごめんなさい」
「いいのよ、牛丼くらいしか得意料理がないんだから。淳美ちゃんは慣れたものね」
「そんなことないですよ。浩哉よりはできるかなあくらいで」
「浩哉にはもっと、『母さん、俺が作るから任せて』って言ってほしいものね」
「佳奈子さんの作るごはんが美味しいからですよ。きっと」
一応フォローしたが、淳美はすぐに思い直して言い換えた。
「やっぱりけしからん。来週は浩哉も食べる係じゃなくて、手伝ってもらいましょう」
「淳美ちゃんの頼みなら、喜んで引き受けると思うわよ」
大鍋に水を張った佳奈子が、口元に手を当てて吹き出した。墓穴を掘ってしまった淳美はばつが悪くなったので、ニンニクスライスとみじん切りを、熱したフライパンに降らせて誤魔化した。ばちっ、ばちっ、とフライパンで稲妻が弾ける音がして、次第に雨音へと変わっていく。そういえば、いつの間に梅雨が明けたのだろう。気づけば夏本番だ。
「もしかして、見つけやすいようにスライスを混ぜたの?」
佳奈子に悪戯っぽく訊かれたので、淳美は胸を張って頷いた。
「これなら、絶対に見つけてくれるはずですから。おじちゃん」
ニンニクの香りが立ってきたところで、同じまな板で刻んだ玉ねぎをフライパンへ投入すると、雨音はさらに賑やかになり、ほんのりと甘い匂いが織り交ざる。オリーブ油色に透き通っていく玉ねぎを炒めていると、隣に佳奈子がいることを忘れてしまいそうな瞬間がある。エビとトマトのクリームスパゲティの時も、小松菜と豚バラ肉のバター醬油スパゲティの時も、塩分控えめカルボナーラの時もそうだった。集中すると、周りが見えなくなるのは淳美の昔からの悪い癖だ。世界中の音が遠ざかっていく感覚は、夜を徹して読破せずにはいられない文学に出会った時のようで、胸にときめく心地よさが堪らない。
「お、今日のメニューは何?」
台所を、ひょいと背の高い影が覗き込んできた。茶がかった髪は短めで清潔感があり、昔からそこだけは常に一定の好感が持てる。ゆったりとした部屋着姿の青年が現れると、淳美と佳奈子は「噂をすれば」と笑い合った。
「えっ、あっちゃん俺の噂してくれてたの? まじで? ねえねえ何を話してたの?」
「もーうるさい。食べる係の大学生は、単位を落とさないように勉強でもしてなさい」
「そんなの、ばっちり終わったってば。全ては、あっちゃんとの時間を作るために!」
「佳奈子さん、やっぱり来週も二人で作りましょう。浩哉は食べる係のままでいい」
「誰に似たのかしらねえ、この子の情熱の深さは。おじいちゃんかしら」
そんなわけないじゃないか、と声を大にして抗議したい。淳美はホールトマト缶を開けてフライパンへ流し入れると、湯気で不本意に火照る顔で、露原家の人々を睨んだ。佳奈子の言う『おじいちゃん』は、浩哉とは似ても似つかない。なのに当の浩哉が「やっぱり? 俺、自分でもじーちゃんに似てると思ってたんだよね」と得意げに言うので、ますます呆れ返ってしまう。
「どういうところが似てるのよ」
「渋くて格好よくて懐が深いところとか?」
「はいはい。じゃあ渋くて格好よくて懐が深い浩哉さんは、スプーンとフォークの用意をしてください」
「了解ー」
快活に応じた浩哉は、柔和な笑みで去っていく。佳奈子は目尻に皺を刻んで、呆れ笑いを深くした。淳美は「もう」と小さくぼやいて、トマトソースを煮立たせたフライパンの隣に、もう一つフライパンを用意した。オリーブ油を引いてから、エビとイカ、それから佳奈子が砂抜きを済ませてくれたアサリを敷き詰めると、四人分の海の幸で、フライパンの底が見えなくなる。淳美は白ワインを回しかけると、ぴったりと口の閉じたアサリの殻を、八つ当たりのように菜箸でコンコン叩いて回った。年下の幼馴染に公然と言い寄られて、その現場に相手の母親が居合わせる気まずさは、何度経験しても慣れるものではない。いや、正直なところ慣れてきている。これはそんな自分に対する八つ当たりだ。唇を尖らせた淳美を宥めるように、アサリはぽこぽこと牧歌的に開いていく。それを合図にトマトソースを流し入れて、淳美は塩胡椒を手に取った。フライパンに翳したところで手を止めて、目線で佳奈子に伺いを立てる。
佳奈子は心得たというふうに、こくりと穏やかに頷いた。了承を得られても不安が消えたわけではなく、薄氷を踏むような心許なさを感じながら、淳美は慎重に塩胡椒を振りかけた。スプーンでひと掬いして味を見て、ようやく緊張感の氷が溶けていく。佳奈子も味を確認して、とびきり明るく笑ってくれた。これなら、喜んでもらえるだろう。
盛りつけは佳奈子に任せて、淳美は一足先に和室へ向かった。同じ一階の、玄関から進んですぐ右隣。障子窓の彼方に紺碧の海が見える部屋に、生徒たちからやれ彼氏だのデートだのとからかわれた原因の人物がいる。襖の向こうからは浩哉の楽しげな声が聞こえた。その輪に入っていいものか、一瞬だけ躊躇ってから、淳美は襖をそっと開けた。
和室は、青みがかった薄いグリーンに輝いていた。午前中は台所と同じで日当たりが悪いが、午後からは日差しをたっぷり取り込む部屋なのだ。夕方になれば、障子窓の向こうの海へ沈む橙色の果実だって見届けられる。畳の部屋には昔から見覚えのある箪笥と文机の他に、まだ淳美には見慣れないものが、中央にどっしり鎮座していた。
――リクライニングを起こした介護用ベッドに、その人物は痩せた身体を横たえていた。さっぱりと整えられた白髪は、髪型だけなら浩哉に似ている。掛け布団から出た腕は、枯れ枝のように細い。そんな頼りなさに比例するように浮き出た血管の太さに、いつも目が吸い寄せられる。毎週この姿を見る瞬間だけ、心臓が縮まる思いがする。けれど淳美は、口角を上げて笑った。悲しいことは、この家から消え去ろうとしているのだ。ベッドに腰かけている浩哉も笑っていて、当の本人だって淳美に気づいてにたりと老獪に笑っている。
「淳美ちゃん、手伝えなくてすまんね」
「菊次おじちゃんったら、それは言わない約束でしょ。手伝いなら浩哉に頼みますから」
「あっちゃん、さっきは俺のこと食べる係のままでいいって言ったのに」
浩哉の抗議を「そんなことより」と遮って、淳美は和室に入った。
「菊次おじちゃん、問題です。今日のメニューは何でしょう?」
「ナポリタンかね」
露原菊次は、大きな賭けに打って出たかのように、密やかで豪胆な笑みを見せた。しゃがれた声は弾んでいて、縁が灰色がかった瞳も好奇心で輝いている。淳美もにたりと笑みを返し、「どうして即答?」と訊いてみる。この駆け引きの瞬間も、淳美は佳奈子の笑みと同じくらいに大好きだ。菊次がこんな介護用ベッドを必要としている現実なんか吹き飛ばしてくれそうな爽快さが、スパゲティの湯気みたいに拡がっていく気がするからだ。
「トマトの匂いがしたからさ。淳美ちゃんが、初めて作ってくれた料理に似ているね」
「ふふ、赤色が?」
「そうさ、夕焼けみたいに鮮やかな」
背後の廊下から、小さな息遣いが聞こえた気がした。頷いた淳美が「トマトは正解。でも残念、ナポリタンじゃないよ」と宣言すると、お盆に正解を載せた佳奈子が、静々と和室に入ってきた。菊次は白い眉をつと寄せて、悔しそうな顔をした。
「なんだい。色は同じじゃないか」
「ペスカトーレっていうのよ。トマトと海鮮のスパゲティ」
「洒落た名前だねえ。淳美ちゃん、お店を出せるよ」
「私は料理人じゃなくて先生だけど、嬉しいよ」
優雅に微笑んだ淳美は、キャスターつきのサイドテーブルに、佳奈子から受け取った皿を恭しく載せた。湯気がほわっと膨らんで、菊次の顔もほころんだ。
「今日は一段と豪快に、ニンニクが入ってるじゃないか」
「こないだは、入ってないって言われちゃったからね」
「儂は、そんなことを言ったか?」
「お義父さんったら、言いましたよ。ねえ浩哉」
「言った、言った」
浩哉が、アルデンテよりもう少し柔らかく茹でたスパゲティみたいに笑った。家族団欒にまぜてもらった淳美も一緒に笑って、食事の配膳を手伝った。
菊次の好物を煮込んだスパゲティは、夕焼けのような赤色をしている。
――……お医者様は、本当にそう言ってらしたの?
――ああ、予後は良いと……。
予後。予後。鈴のように言葉は転がり、夏の音色を奏でていた。季節は確か八月で、夏休みが終わる間際で、遠い田舎に一人で住む祖父を、家族で訪ねたはずだった。縁側でスイカを食べていた淳美は、家族と祖父の緩やかな話し声を聞いていた。
涼やかな音の意味を知る前に、祖父はその年、亡くなった。
淳美は今も、祖父の顔を思い出せない。
*
土曜日はスパゲティ・デーだ。そう指切りしてから、金曜日はいっそうパワフルに働くようになった。生徒たちには不思議がられ、「あっちゃん先生、デートだ」なんて囃し立てられたが、あながち間違いではないかもしれない。図工室へ代わる代わる現れる生徒たちの相談に乗り、職員室での残務処理を全力で終えると、淳美はいそいそとスーパーへ向かう。教師生活三年目にして、こんなふうに日々が刷新されるなんて思いもしない。
あれから、何度目の土曜日を迎えただろう。緩く巻いた短い髪を後ろで団子に纏めた淳美は、背ワタを取ったエビを水溶き片栗粉で和えてから、指折り数えて思い出す。
エビとトマトのクリームスパゲティ。小松菜と豚バラ肉のバター醬油スパゲティ。塩分控えめカルボナーラ。最後のカルボナーラだけは不評だった。躊躇って塩分を減らした所為だ。先週の巻き返しを図るためにも、今日は腕によりをかける。食材の入ったバッグを提げた淳美を出迎えてくれた露原家の人々にも、この意気込みは伝わったようだ。午前十一時の台所で、淳美は四回目のスパゲティ・デーに臨んだ。
「ステーキ屋さんのニンニクチップって、真ん中に穴が空いてるでしょ? どうしてあんな形をしてるのか、自分で調理してみるまで知らなかったんですよね」
淳美はニンニク一かけ分を輪切りにしてから、真ん中に通った緑色の芯を爪楊枝で落とした。露原家の台所は少し狭く、日当たりもあまりよくないが、昼前ともなればブラインドから入る陽光で十分に明るい。
「淳美ちゃんも? おばさんも知ったのは最近なのよ」
そう答えた佳奈子が微笑すると、パーマのかかった毛先が肩口で揺れた。淳美の幼馴染の母親は、昔から少女のような笑い方をする。このブラインドから入る陽光のような白さの笑みは、実際には淳美には及びもしない経験という光のスペクトルみたいな虹色で作られているに違いない。そんな佳奈子の笑みが、淳美は好きだ。佳奈子がフライパンにオリーブ油を引いたので、淳美はペースを上げて、もう一かけ分ニンニクの皮を剥いた。こちらはみじん切りにする予定だ。
「最近ね、浩哉が牛丼を作ってくれたのよ。ニンニクチップもまぶしてあって、その時にやっと知ったのよね。昔はおじいちゃん以外のみんなは、あんまり食べなかったものだから」
「浩哉って、ちゃんと料理できたんですね。あっ、ごめんなさい」
「いいのよ、牛丼くらいしか得意料理がないんだから。淳美ちゃんは慣れたものね」
「そんなことないですよ。浩哉よりはできるかなあくらいで」
「浩哉にはもっと、『母さん、俺が作るから任せて』って言ってほしいものね」
「佳奈子さんの作るごはんが美味しいからですよ。きっと」
一応フォローしたが、淳美はすぐに思い直して言い換えた。
「やっぱりけしからん。来週は浩哉も食べる係じゃなくて、手伝ってもらいましょう」
「淳美ちゃんの頼みなら、喜んで引き受けると思うわよ」
大鍋に水を張った佳奈子が、口元に手を当てて吹き出した。墓穴を掘ってしまった淳美はばつが悪くなったので、ニンニクスライスとみじん切りを、熱したフライパンに降らせて誤魔化した。ばちっ、ばちっ、とフライパンで稲妻が弾ける音がして、次第に雨音へと変わっていく。そういえば、いつの間に梅雨が明けたのだろう。気づけば夏本番だ。
「もしかして、見つけやすいようにスライスを混ぜたの?」
佳奈子に悪戯っぽく訊かれたので、淳美は胸を張って頷いた。
「これなら、絶対に見つけてくれるはずですから。おじちゃん」
ニンニクの香りが立ってきたところで、同じまな板で刻んだ玉ねぎをフライパンへ投入すると、雨音はさらに賑やかになり、ほんのりと甘い匂いが織り交ざる。オリーブ油色に透き通っていく玉ねぎを炒めていると、隣に佳奈子がいることを忘れてしまいそうな瞬間がある。エビとトマトのクリームスパゲティの時も、小松菜と豚バラ肉のバター醬油スパゲティの時も、塩分控えめカルボナーラの時もそうだった。集中すると、周りが見えなくなるのは淳美の昔からの悪い癖だ。世界中の音が遠ざかっていく感覚は、夜を徹して読破せずにはいられない文学に出会った時のようで、胸にときめく心地よさが堪らない。
「お、今日のメニューは何?」
台所を、ひょいと背の高い影が覗き込んできた。茶がかった髪は短めで清潔感があり、昔からそこだけは常に一定の好感が持てる。ゆったりとした部屋着姿の青年が現れると、淳美と佳奈子は「噂をすれば」と笑い合った。
「えっ、あっちゃん俺の噂してくれてたの? まじで? ねえねえ何を話してたの?」
「もーうるさい。食べる係の大学生は、単位を落とさないように勉強でもしてなさい」
「そんなの、ばっちり終わったってば。全ては、あっちゃんとの時間を作るために!」
「佳奈子さん、やっぱり来週も二人で作りましょう。浩哉は食べる係のままでいい」
「誰に似たのかしらねえ、この子の情熱の深さは。おじいちゃんかしら」
そんなわけないじゃないか、と声を大にして抗議したい。淳美はホールトマト缶を開けてフライパンへ流し入れると、湯気で不本意に火照る顔で、露原家の人々を睨んだ。佳奈子の言う『おじいちゃん』は、浩哉とは似ても似つかない。なのに当の浩哉が「やっぱり? 俺、自分でもじーちゃんに似てると思ってたんだよね」と得意げに言うので、ますます呆れ返ってしまう。
「どういうところが似てるのよ」
「渋くて格好よくて懐が深いところとか?」
「はいはい。じゃあ渋くて格好よくて懐が深い浩哉さんは、スプーンとフォークの用意をしてください」
「了解ー」
快活に応じた浩哉は、柔和な笑みで去っていく。佳奈子は目尻に皺を刻んで、呆れ笑いを深くした。淳美は「もう」と小さくぼやいて、トマトソースを煮立たせたフライパンの隣に、もう一つフライパンを用意した。オリーブ油を引いてから、エビとイカ、それから佳奈子が砂抜きを済ませてくれたアサリを敷き詰めると、四人分の海の幸で、フライパンの底が見えなくなる。淳美は白ワインを回しかけると、ぴったりと口の閉じたアサリの殻を、八つ当たりのように菜箸でコンコン叩いて回った。年下の幼馴染に公然と言い寄られて、その現場に相手の母親が居合わせる気まずさは、何度経験しても慣れるものではない。いや、正直なところ慣れてきている。これはそんな自分に対する八つ当たりだ。唇を尖らせた淳美を宥めるように、アサリはぽこぽこと牧歌的に開いていく。それを合図にトマトソースを流し入れて、淳美は塩胡椒を手に取った。フライパンに翳したところで手を止めて、目線で佳奈子に伺いを立てる。
佳奈子は心得たというふうに、こくりと穏やかに頷いた。了承を得られても不安が消えたわけではなく、薄氷を踏むような心許なさを感じながら、淳美は慎重に塩胡椒を振りかけた。スプーンでひと掬いして味を見て、ようやく緊張感の氷が溶けていく。佳奈子も味を確認して、とびきり明るく笑ってくれた。これなら、喜んでもらえるだろう。
盛りつけは佳奈子に任せて、淳美は一足先に和室へ向かった。同じ一階の、玄関から進んですぐ右隣。障子窓の彼方に紺碧の海が見える部屋に、生徒たちからやれ彼氏だのデートだのとからかわれた原因の人物がいる。襖の向こうからは浩哉の楽しげな声が聞こえた。その輪に入っていいものか、一瞬だけ躊躇ってから、淳美は襖をそっと開けた。
和室は、青みがかった薄いグリーンに輝いていた。午前中は台所と同じで日当たりが悪いが、午後からは日差しをたっぷり取り込む部屋なのだ。夕方になれば、障子窓の向こうの海へ沈む橙色の果実だって見届けられる。畳の部屋には昔から見覚えのある箪笥と文机の他に、まだ淳美には見慣れないものが、中央にどっしり鎮座していた。
――リクライニングを起こした介護用ベッドに、その人物は痩せた身体を横たえていた。さっぱりと整えられた白髪は、髪型だけなら浩哉に似ている。掛け布団から出た腕は、枯れ枝のように細い。そんな頼りなさに比例するように浮き出た血管の太さに、いつも目が吸い寄せられる。毎週この姿を見る瞬間だけ、心臓が縮まる思いがする。けれど淳美は、口角を上げて笑った。悲しいことは、この家から消え去ろうとしているのだ。ベッドに腰かけている浩哉も笑っていて、当の本人だって淳美に気づいてにたりと老獪に笑っている。
「淳美ちゃん、手伝えなくてすまんね」
「菊次おじちゃんったら、それは言わない約束でしょ。手伝いなら浩哉に頼みますから」
「あっちゃん、さっきは俺のこと食べる係のままでいいって言ったのに」
浩哉の抗議を「そんなことより」と遮って、淳美は和室に入った。
「菊次おじちゃん、問題です。今日のメニューは何でしょう?」
「ナポリタンかね」
露原菊次は、大きな賭けに打って出たかのように、密やかで豪胆な笑みを見せた。しゃがれた声は弾んでいて、縁が灰色がかった瞳も好奇心で輝いている。淳美もにたりと笑みを返し、「どうして即答?」と訊いてみる。この駆け引きの瞬間も、淳美は佳奈子の笑みと同じくらいに大好きだ。菊次がこんな介護用ベッドを必要としている現実なんか吹き飛ばしてくれそうな爽快さが、スパゲティの湯気みたいに拡がっていく気がするからだ。
「トマトの匂いがしたからさ。淳美ちゃんが、初めて作ってくれた料理に似ているね」
「ふふ、赤色が?」
「そうさ、夕焼けみたいに鮮やかな」
背後の廊下から、小さな息遣いが聞こえた気がした。頷いた淳美が「トマトは正解。でも残念、ナポリタンじゃないよ」と宣言すると、お盆に正解を載せた佳奈子が、静々と和室に入ってきた。菊次は白い眉をつと寄せて、悔しそうな顔をした。
「なんだい。色は同じじゃないか」
「ペスカトーレっていうのよ。トマトと海鮮のスパゲティ」
「洒落た名前だねえ。淳美ちゃん、お店を出せるよ」
「私は料理人じゃなくて先生だけど、嬉しいよ」
優雅に微笑んだ淳美は、キャスターつきのサイドテーブルに、佳奈子から受け取った皿を恭しく載せた。湯気がほわっと膨らんで、菊次の顔もほころんだ。
「今日は一段と豪快に、ニンニクが入ってるじゃないか」
「こないだは、入ってないって言われちゃったからね」
「儂は、そんなことを言ったか?」
「お義父さんったら、言いましたよ。ねえ浩哉」
「言った、言った」
浩哉が、アルデンテよりもう少し柔らかく茹でたスパゲティみたいに笑った。家族団欒にまぜてもらった淳美も一緒に笑って、食事の配膳を手伝った。
菊次の好物を煮込んだスパゲティは、夕焼けのような赤色をしている。
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