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投身湖の妖精
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やぁ、こんにちは。こんな時間にこの湖に来るなんて、君も……同志、ってやつかな? もっとも、僕は元だけどね。
この湖は自殺スポットとして有名だ。僕も昔、自殺をしようとしてここに来たし、君もきっと……そうだよね?
……そんな怪訝そうな顔で見なくても、別に君を騙そうだとか、警察に通報しようだとか、そんなことはしないから安心してほしい。
ただ、僕はある種の先輩として、話を聞いてほしいだけ。もし、僕の話に共感して、回れ右して元の日常へと帰ってもいいし、共感しなくて……君のしたいことをするのも、僕は止めたりしない。
話というのも、僕の不幸話とか、君の抱えてるだろう苦悩とか、そういうのを話そうというわけではない。僕達は一つの個体として分かれていて、結局のところ、僕の苦しみも君の苦しみも、理解しあうことはできないだろうからね。初対面ならなおさらさ。
僕のする話は……この湖に現れていた、【妖精】のことさ。
君もきっと、ある目的のためにここに来たのなら、【妖精】のことは知っていると思う。ここの湖には自殺者を導く妖精が現れるって有名だからね。そう、この湖には、本当に妖精が現れていたんだ。
……でも、君もお気づきの通り、今はもう妖精はいない。僕が過去形で話したのも、そういうわけからなんだ。
でもね、僕が昔、ここで君と同じように人生を終わらせようとしたその時まで、確かに妖精は存在した。僕は身を投げる前に、湖の浅瀬で悲しそうにしている彼女を見た。そしてこの口と耳で、確かに話したんだ……
もう数ヶ月も前になるだろう、僕はその時期に大変悲しいことが起こった。僕の心は悲しみと苦悩で一杯になり、今にも破裂しそうな程にパンパンに膨らんでいた。そして実際、心は耐えることができず、僕は自ら、自らを終わらせようとした。――そう、この湖に来て、全てを終わらせようとした。
もちろん僕も、この湖に妖精が現れることを知っていた。僕には少しロマンチストな気質があって、僕が儚くなる前に、妖精と語らって、友人にでもなれれば、どれほどか幸せな終わりになるだろうと思って、この湖に来た。
そして僕は朝、湖に来た。そうして湖の周りを歩いて――――妖精と出会った。
妖精は女性だった。それも、この世のものとは思えないほど美しい女性だった。年は僕と同じくらいで20代。美しく長い黒髪が印象的で、まだ朝だというのに、そこに美しい夜の天の川を作り出しているようだった。彼女の顔もまた、お姫様のように見目麗しく、彼女の優しい眼差しは、彼女の繊細で優しい心持ちを表していた。大きな目はやや垂れ気味で、美しい青い瞳は水晶のように透き通り、一目で他人の心を見通してしまうようなほどに澄んでいた。
なんて美しいのだと、僕は思った。その美しさには人間だとは思えず、すんと、妖精というのが信じられた。もし、妖精のことを知らずに彼女を見た人がいたら、おそらくどこかの美術館から、美しいニンフの絵がその絵画の中から逃げ出して、たまたまここに涼みに来ているのだと、そう思ったことだろう。それほどまでに彼女は非現実的で、美を極めた容貌をしていた。
でも――そんな美しい顔には不幸の影を落としていた。まるで彦星と引き離された織姫のように、泣き、心に傷があるような、悲痛な顔をしていた。
僕は思わず、自分の目的を忘れて話しかけた。
――「お嬢さん、一体なぜ泣いているんです?」と。
湖の浅瀬にいた彼女は、小夜啼鳥のような美しく清らかな声で話した。
「悲しいから……」
「一体何が」と、僕はぶしつけながらも、何が彼女を傷つけているのか、正義感のような気持ちで尋ねた。「美しい貴方の顔に雨を降らしているのでしょう。もし、僕が貴方の心を太陽のように照らすことができたら、どんなに幸せなことかと思います」
そう尋ねると、彼女は慈悲深く、しかし憐れむような眼差しで僕を見つめ、話した。
「私は……いえ、妖精はこの湖に、湖の水中に住んでいます……。朝は湖の中で共に住む仲間たちと遊び、昼は鳥たちと一緒になって歌い合い、夜は静かに湖の流れに任せ安らいでいます……。
でも、私達は水の中だけでは生きれません。私達には地上に住む者が必要なんです。遊具のため、食料のため、そして、子孫のため……。
そのため私は、湖の外へ出て、こうして人が来るのを待っているんです……
でも……」
と、そこまで言って彼女は話をやめてしまった。
彼女の話を聞いて僕は少し恐怖を感じた。やはり、妖精が自殺者を導いてるのは本当だったんだと、そう思ったからだ。君はたぶん、僕は死にに来たんだから、なにも怖く思うはずはないと、そう思うだろう。しかし、どんなに死を望んでいる人だって、目の前に殺人鬼が現れたら恐ろしく思うはずだ。それほど、彼女の話には真実性のある言葉だった。
とはいえ、僕はやっぱり死にに来たんだから、彼女の望みにそえるだろうと思って、こう言った。
「人を待っているというなら、ふさわしい人間がここにいます。僕です。どうぞ僕を、貴方たちの好きなようにお使いください」
僕の言葉を聞いた彼女は、その悲しみに包まれていた顔を、より一層悲痛な物に変え、話した。
「……悲しい理由は、人が来ないからではありません……むしろ……」
「……むしろ?」
「……」
彼女はそう言って顔をふせ、押し黙ってしまった。
しばらく、沈黙が僕と彼女の間を通った。心地よい沈黙ではなかった。もし、君の近くに、理由も分からず泣きはらしている女の子がいたとしたら、やはり居心地悪く、気持ちの良いものではないと感じるだろう。僕達はそんな状況だった。
しかし、どんなに居心地が悪くとも僕にはこの湖でやることがある。もちろん自殺だ。それに、するとしても、少しでも彼女達の役に立ちたいと思ったので、彼女に協力してもらう必要があった。
「お嬢さん」と、僕は少しでも彼女を元気づけるため、明るい声色で話した。「僕は貴方たちの元へ行きたいと思います。貴方たちの役に立ちたいと、そう思います。僕はもう、この地上の世界には未練がありません。ですから、これは僕も貴方たちにとっても利益のある、皆が幸せになることなんです。どうぞ、涙を止め、僕を導いてください」
「……でしたら」彼女は沈黙をやめ、震える声で話した。「貴方の話を聞かせてください。貴方が何に苦しんで、何を思ってここに来たのか。聞かせてください……」
想定していない意外な頼みだったけれど、僕は美しい彼女の頼みならと、僕に起こった悲劇を語った。それも、その悲劇の詳細すべて、彼女に語った。たぶん、僕自身、誰かに心の痛みを聞いてほしかったから、彼女にあけすけと話したのだと思う。もう僕に死ぬ気はないし、悲劇も乗り越えたから、君に詳細を話すつもりはないけどね。
そうして僕は話し、彼女は黙って聞いていた。優しい彼女は、ときおり涙を流しながら聞いていた。妖精が知らないような事柄も多くあったが、驚くことに、彼女は人間界のことは既に知っているかのように聞いていた。それには理由があったのだが、ともかく、僕は話した。
僕は語り終えた。すっきりはしたが、やはりまだ、心の内は終焉を望んでいた。彼女は話し終えた僕を見て、僕の内にまだ死があるのを悟った様子だった。彼女はまた尋ねた。
「やっぱり……貴方も終わりにしたいんですね……」
「えぇ……人間は、弱い生き物ですから……」
「……湖の中には……不幸や苦悩はありません……本当に……」
僕は、彼女なりの優しさかと思い、感謝を示すようにふっと微笑んだ。彼女も、少し照れながら微笑み返したが、すぐにまた暗い表情になり、顔を伏せた。
そしてまた、沈黙が走った。しかし、この沈黙は、先程と違って感慨深い沈黙だった。彼女に過去を話し、どこか、彼女と通じ合ったように思えたからだろう。
僕にはその沈黙が数時間続いたように感じたが、実際のところは数十分くらいだったのだろう。ともかく、沈黙はその数十分後に破られた。それは彼女によってだった。
「誰にも、生物の業から逃れられることはありません。それは貴方も、そして私も……。貴方は人間的な苦痛から死を望み、私は妖精的な需要から、貴方の死を望んでいる……。
行きましょう、傷ついた人。私達の湖へ……。ここに貴方が苦しむ理由はありません……」
「ええ、行きましょう」と、僕は迷いなく答えた。
彼女は僕の手を取り、彼女が先導する形で、僕達は湖の中へと入っていった。
最初は足までしか浸からなかった水が、湖の中心に近づくごとに、だんだんと身体を登っていき、脚から腰、そうして胸まで、どんどんと水が上がってきた。
上昇していく水面に僕は恐怖を覚えたのだが、繋いでいる手から僕の心を感じ取ったのか、彼女はこちらを振り向いて、子をなだめる母親のような優しい眼差しを僕に送った。
あぁ、なんて優しく、人を安心させるような眼差しだったろう! 彼女の眼差し一つで、僕の心にあった死への恐怖は消滅し、一切は彼女に任せてしまおうという気持ちになった。僕はぎゅっと、彼女の手を握りしめ、彼女もまた、僕の手を握り返してくれた。そうして彼女に連れられ、より深くへと入っていった。
湖は急に深くなった。水面は僕の頭を覆い、そして僕達は緩やかに水底へ落下していった。呼吸もできず、今までに感じたことのない直接的な死への苦しみが僕を襲った。しかし、その時もなお繋いでいた彼女の手によって、恐怖は一つも感じなかった。
僕は薄れゆく意識の中、彼女を見た。彼女は水中で、まるで苦もなく自然に佇んていた。もし君が水族館に行ったことがあり、水中にいるイルカを見たことがあったら、その姿を想像するといい。彼女の佇まいは、イルカのように自然で、優雅だった。
水底へと沈むごと、僕の意識も沈んでいく。しかし、彼女の優しさに触れ、彼女に惹かれていた僕は、最期の瞬間まで意識を保ち、彼女を見ていたいと思っていた。僕は今までの人生の中で一番の力を持って、脳を振り絞り、意識を保とうとしていた。
が、力を振り絞ってもなお、僕の意識は薄れ、死にゆく者が帰する一切の無へと落ちそうになっていた。
生ある者は誰も真の死を体験したことはない。でも、僕はその時不思議に思った。というのも、意識が薄れるというより、僕の意識が、吸い出されているように感じたからだ。
そして! 僕は見た! 僕の口から出ている気泡が! そして、その気泡の中で、僕の今までの人生が映されているのが!
無数にある気泡の中で、僕の人生の記憶が、まるで映画のように流れている。無数の記憶が、無数の泡の中で動いている。僕の幸福な記憶、僕の青春の記憶。そして……僕の苦痛の記憶が、泡の中でショーを開いている。
その時の僕は次第に記憶をなくしていっていた。その時は僕の暮らしていた場所も、僕の好きなことも分からなくなっていたし、母親すらも分からなくなってしまった。しかし、悪いことばかりでなく、僕の苦悩の記憶も忘れてしまうことができた。
意識が吸い出されたのは、湖が僕の記憶を吸い出していたからに違いない。吸い出した記憶が、気泡となって放出された。おそらく、肉を調理する際に行う下ごしらえ、言うならば精神の血抜きのようなものだと僕は思う。
僕はそうして記憶を吸い出されていたが、不思議なことに、気分は悪くなかった。むしろ、心地よいもののように思えた。この気持ちは、何もかも疲れ果てた後にベッドにつき、今後のことも忘れ一心に眠りについた時のような心地よさと似ていると思う。
そのように、僕が夢現のような状態になっていると、ひたと、僕の頬に何かが触れた。彼女の手だった。僕は彼女の顔を見た。
彼女は泣いていた。水中のため涙こそ見えなかったものの、その悲痛な顔つきは、地上で泣いていた時の彼女の顔と一緒だった。いや、違う。地上での顔よりも一層、悲痛なものだった。
なぜ、と僕は思ったが、彼女の視線でその理由に気づいた。
彼女は僕から溢れ出ている気泡の記憶を見ていた。君と出会った初めに、『僕の苦しみも君の苦しみも、理解しあうことはできない』と言ったが、彼女にはこの気泡を通じて、人の記憶やその苦しみを理解することができた。いや、できてしまったんだ。
それで、僕は地上で彼女が泣いていた理由に気づいた。
おそらく彼女は、僕のような死を望む者を導くたび、人の不幸な悲しい記憶を、毎回見ていたのだろうと。
彼女の優しい心には耐えられないほどの、人々の悲しい記憶を、彼女は自殺者を導くたびに見る……。
……その時ほど、僕は死を望んだことを後悔したことはない。が、しかし、その後悔もまた気泡となって放出される。あの時の僕ほど無様で無念な人間はいないだろうと、僕は思う。
……しかし、不思議なことが起きた。僕の記憶を見ていた彼女は、突然はたと目を見開いて、僕の顔を見た。何の記憶を見たのか、僕には分からない、ただ、何か彼女の心の琴線に触れる記憶があったのだろうと思う。
そして突然、彼女は、僕から出ていた気泡を食べ始めた。
いや、食べた、は正確でない。おそらく口の中に含んだだけだろう。そうしてすべての気泡を口に含めると……
彼女は僕に口づけをした。
ゆっくり、じっくりと、僕達はキスをした。しかし、普通のキスではなく、彼女が口に含んだ気泡を僕に入れるように、丹念にキスをした。
実際のところ、彼女にとってはただ人工呼吸のように記憶の気泡を僕に入れただけだろう。でも、僕はそれ以上の気持ちがあったと、勝手に思っている。
そうして気泡が入れられると、意識が荒波のように勢いよく戻ってきた。今まで分からなくなっていた人生の記憶が、はっきりと思い出せた。今、僕が君にこの話ができているのも、こういう訳だからだ。
しかし、意識を取り戻したとはいえ、そこは湖の中。もう酸素も薄れてゆき、今度は特別なものではなく、尋常に意識が薄れてきた。
僕は、せっかく記憶を取り戻したのに、こうして溺れて亡くなるのかと、無念に思いながら意識を手放していた。
だが、そんな風に意識を手放している中、僕は最後に一目、彼女を見た。そして、確かに、彼女の声を聞いた。
『どうか、私のためにも、生きて……』
彼女は慈悲深く、優しい微笑みをたたえていた。
そこで僕は、完全に意識を失った。
意識を取り戻した時、僕は湖の浅瀬で倒れていて、近くに住む人達に助けられた。
妖精はその後、この湖で見られていない。僕は彼女を忘れられず、何度もここに来たけど、やっぱり見つけられなかった。湖の中は探してないけど、入ったら彼女をより悲しませると思うから、探す気はないよ。
以上が僕の話。死のうと思ったけど、死を導く妖精に助けられて、生き延びた愚かな男の話。
君がこの話をどう思うかは自由だ。本当に妖精助けられた幸運な男の話だとか、ただロマンチストな自殺志願者が、死の間際に幸福な夢を見て、たまたま生き延びられただけの話とか、どう思ってくれても構わない。
ただ、一つだけお願いしたいことがある。君が何をしようとも、
『誰かを悲しませないで欲しい』
僕の伝えたいことは、これだけだよ。
じゃあね、名も知らぬ人。君に幸せがあることを、心から願っている。
もちろん、湖にいるだろう彼女も、そう願っていると思うよ。
【終】
この湖は自殺スポットとして有名だ。僕も昔、自殺をしようとしてここに来たし、君もきっと……そうだよね?
……そんな怪訝そうな顔で見なくても、別に君を騙そうだとか、警察に通報しようだとか、そんなことはしないから安心してほしい。
ただ、僕はある種の先輩として、話を聞いてほしいだけ。もし、僕の話に共感して、回れ右して元の日常へと帰ってもいいし、共感しなくて……君のしたいことをするのも、僕は止めたりしない。
話というのも、僕の不幸話とか、君の抱えてるだろう苦悩とか、そういうのを話そうというわけではない。僕達は一つの個体として分かれていて、結局のところ、僕の苦しみも君の苦しみも、理解しあうことはできないだろうからね。初対面ならなおさらさ。
僕のする話は……この湖に現れていた、【妖精】のことさ。
君もきっと、ある目的のためにここに来たのなら、【妖精】のことは知っていると思う。ここの湖には自殺者を導く妖精が現れるって有名だからね。そう、この湖には、本当に妖精が現れていたんだ。
……でも、君もお気づきの通り、今はもう妖精はいない。僕が過去形で話したのも、そういうわけからなんだ。
でもね、僕が昔、ここで君と同じように人生を終わらせようとしたその時まで、確かに妖精は存在した。僕は身を投げる前に、湖の浅瀬で悲しそうにしている彼女を見た。そしてこの口と耳で、確かに話したんだ……
もう数ヶ月も前になるだろう、僕はその時期に大変悲しいことが起こった。僕の心は悲しみと苦悩で一杯になり、今にも破裂しそうな程にパンパンに膨らんでいた。そして実際、心は耐えることができず、僕は自ら、自らを終わらせようとした。――そう、この湖に来て、全てを終わらせようとした。
もちろん僕も、この湖に妖精が現れることを知っていた。僕には少しロマンチストな気質があって、僕が儚くなる前に、妖精と語らって、友人にでもなれれば、どれほどか幸せな終わりになるだろうと思って、この湖に来た。
そして僕は朝、湖に来た。そうして湖の周りを歩いて――――妖精と出会った。
妖精は女性だった。それも、この世のものとは思えないほど美しい女性だった。年は僕と同じくらいで20代。美しく長い黒髪が印象的で、まだ朝だというのに、そこに美しい夜の天の川を作り出しているようだった。彼女の顔もまた、お姫様のように見目麗しく、彼女の優しい眼差しは、彼女の繊細で優しい心持ちを表していた。大きな目はやや垂れ気味で、美しい青い瞳は水晶のように透き通り、一目で他人の心を見通してしまうようなほどに澄んでいた。
なんて美しいのだと、僕は思った。その美しさには人間だとは思えず、すんと、妖精というのが信じられた。もし、妖精のことを知らずに彼女を見た人がいたら、おそらくどこかの美術館から、美しいニンフの絵がその絵画の中から逃げ出して、たまたまここに涼みに来ているのだと、そう思ったことだろう。それほどまでに彼女は非現実的で、美を極めた容貌をしていた。
でも――そんな美しい顔には不幸の影を落としていた。まるで彦星と引き離された織姫のように、泣き、心に傷があるような、悲痛な顔をしていた。
僕は思わず、自分の目的を忘れて話しかけた。
――「お嬢さん、一体なぜ泣いているんです?」と。
湖の浅瀬にいた彼女は、小夜啼鳥のような美しく清らかな声で話した。
「悲しいから……」
「一体何が」と、僕はぶしつけながらも、何が彼女を傷つけているのか、正義感のような気持ちで尋ねた。「美しい貴方の顔に雨を降らしているのでしょう。もし、僕が貴方の心を太陽のように照らすことができたら、どんなに幸せなことかと思います」
そう尋ねると、彼女は慈悲深く、しかし憐れむような眼差しで僕を見つめ、話した。
「私は……いえ、妖精はこの湖に、湖の水中に住んでいます……。朝は湖の中で共に住む仲間たちと遊び、昼は鳥たちと一緒になって歌い合い、夜は静かに湖の流れに任せ安らいでいます……。
でも、私達は水の中だけでは生きれません。私達には地上に住む者が必要なんです。遊具のため、食料のため、そして、子孫のため……。
そのため私は、湖の外へ出て、こうして人が来るのを待っているんです……
でも……」
と、そこまで言って彼女は話をやめてしまった。
彼女の話を聞いて僕は少し恐怖を感じた。やはり、妖精が自殺者を導いてるのは本当だったんだと、そう思ったからだ。君はたぶん、僕は死にに来たんだから、なにも怖く思うはずはないと、そう思うだろう。しかし、どんなに死を望んでいる人だって、目の前に殺人鬼が現れたら恐ろしく思うはずだ。それほど、彼女の話には真実性のある言葉だった。
とはいえ、僕はやっぱり死にに来たんだから、彼女の望みにそえるだろうと思って、こう言った。
「人を待っているというなら、ふさわしい人間がここにいます。僕です。どうぞ僕を、貴方たちの好きなようにお使いください」
僕の言葉を聞いた彼女は、その悲しみに包まれていた顔を、より一層悲痛な物に変え、話した。
「……悲しい理由は、人が来ないからではありません……むしろ……」
「……むしろ?」
「……」
彼女はそう言って顔をふせ、押し黙ってしまった。
しばらく、沈黙が僕と彼女の間を通った。心地よい沈黙ではなかった。もし、君の近くに、理由も分からず泣きはらしている女の子がいたとしたら、やはり居心地悪く、気持ちの良いものではないと感じるだろう。僕達はそんな状況だった。
しかし、どんなに居心地が悪くとも僕にはこの湖でやることがある。もちろん自殺だ。それに、するとしても、少しでも彼女達の役に立ちたいと思ったので、彼女に協力してもらう必要があった。
「お嬢さん」と、僕は少しでも彼女を元気づけるため、明るい声色で話した。「僕は貴方たちの元へ行きたいと思います。貴方たちの役に立ちたいと、そう思います。僕はもう、この地上の世界には未練がありません。ですから、これは僕も貴方たちにとっても利益のある、皆が幸せになることなんです。どうぞ、涙を止め、僕を導いてください」
「……でしたら」彼女は沈黙をやめ、震える声で話した。「貴方の話を聞かせてください。貴方が何に苦しんで、何を思ってここに来たのか。聞かせてください……」
想定していない意外な頼みだったけれど、僕は美しい彼女の頼みならと、僕に起こった悲劇を語った。それも、その悲劇の詳細すべて、彼女に語った。たぶん、僕自身、誰かに心の痛みを聞いてほしかったから、彼女にあけすけと話したのだと思う。もう僕に死ぬ気はないし、悲劇も乗り越えたから、君に詳細を話すつもりはないけどね。
そうして僕は話し、彼女は黙って聞いていた。優しい彼女は、ときおり涙を流しながら聞いていた。妖精が知らないような事柄も多くあったが、驚くことに、彼女は人間界のことは既に知っているかのように聞いていた。それには理由があったのだが、ともかく、僕は話した。
僕は語り終えた。すっきりはしたが、やはりまだ、心の内は終焉を望んでいた。彼女は話し終えた僕を見て、僕の内にまだ死があるのを悟った様子だった。彼女はまた尋ねた。
「やっぱり……貴方も終わりにしたいんですね……」
「えぇ……人間は、弱い生き物ですから……」
「……湖の中には……不幸や苦悩はありません……本当に……」
僕は、彼女なりの優しさかと思い、感謝を示すようにふっと微笑んだ。彼女も、少し照れながら微笑み返したが、すぐにまた暗い表情になり、顔を伏せた。
そしてまた、沈黙が走った。しかし、この沈黙は、先程と違って感慨深い沈黙だった。彼女に過去を話し、どこか、彼女と通じ合ったように思えたからだろう。
僕にはその沈黙が数時間続いたように感じたが、実際のところは数十分くらいだったのだろう。ともかく、沈黙はその数十分後に破られた。それは彼女によってだった。
「誰にも、生物の業から逃れられることはありません。それは貴方も、そして私も……。貴方は人間的な苦痛から死を望み、私は妖精的な需要から、貴方の死を望んでいる……。
行きましょう、傷ついた人。私達の湖へ……。ここに貴方が苦しむ理由はありません……」
「ええ、行きましょう」と、僕は迷いなく答えた。
彼女は僕の手を取り、彼女が先導する形で、僕達は湖の中へと入っていった。
最初は足までしか浸からなかった水が、湖の中心に近づくごとに、だんだんと身体を登っていき、脚から腰、そうして胸まで、どんどんと水が上がってきた。
上昇していく水面に僕は恐怖を覚えたのだが、繋いでいる手から僕の心を感じ取ったのか、彼女はこちらを振り向いて、子をなだめる母親のような優しい眼差しを僕に送った。
あぁ、なんて優しく、人を安心させるような眼差しだったろう! 彼女の眼差し一つで、僕の心にあった死への恐怖は消滅し、一切は彼女に任せてしまおうという気持ちになった。僕はぎゅっと、彼女の手を握りしめ、彼女もまた、僕の手を握り返してくれた。そうして彼女に連れられ、より深くへと入っていった。
湖は急に深くなった。水面は僕の頭を覆い、そして僕達は緩やかに水底へ落下していった。呼吸もできず、今までに感じたことのない直接的な死への苦しみが僕を襲った。しかし、その時もなお繋いでいた彼女の手によって、恐怖は一つも感じなかった。
僕は薄れゆく意識の中、彼女を見た。彼女は水中で、まるで苦もなく自然に佇んていた。もし君が水族館に行ったことがあり、水中にいるイルカを見たことがあったら、その姿を想像するといい。彼女の佇まいは、イルカのように自然で、優雅だった。
水底へと沈むごと、僕の意識も沈んでいく。しかし、彼女の優しさに触れ、彼女に惹かれていた僕は、最期の瞬間まで意識を保ち、彼女を見ていたいと思っていた。僕は今までの人生の中で一番の力を持って、脳を振り絞り、意識を保とうとしていた。
が、力を振り絞ってもなお、僕の意識は薄れ、死にゆく者が帰する一切の無へと落ちそうになっていた。
生ある者は誰も真の死を体験したことはない。でも、僕はその時不思議に思った。というのも、意識が薄れるというより、僕の意識が、吸い出されているように感じたからだ。
そして! 僕は見た! 僕の口から出ている気泡が! そして、その気泡の中で、僕の今までの人生が映されているのが!
無数にある気泡の中で、僕の人生の記憶が、まるで映画のように流れている。無数の記憶が、無数の泡の中で動いている。僕の幸福な記憶、僕の青春の記憶。そして……僕の苦痛の記憶が、泡の中でショーを開いている。
その時の僕は次第に記憶をなくしていっていた。その時は僕の暮らしていた場所も、僕の好きなことも分からなくなっていたし、母親すらも分からなくなってしまった。しかし、悪いことばかりでなく、僕の苦悩の記憶も忘れてしまうことができた。
意識が吸い出されたのは、湖が僕の記憶を吸い出していたからに違いない。吸い出した記憶が、気泡となって放出された。おそらく、肉を調理する際に行う下ごしらえ、言うならば精神の血抜きのようなものだと僕は思う。
僕はそうして記憶を吸い出されていたが、不思議なことに、気分は悪くなかった。むしろ、心地よいもののように思えた。この気持ちは、何もかも疲れ果てた後にベッドにつき、今後のことも忘れ一心に眠りについた時のような心地よさと似ていると思う。
そのように、僕が夢現のような状態になっていると、ひたと、僕の頬に何かが触れた。彼女の手だった。僕は彼女の顔を見た。
彼女は泣いていた。水中のため涙こそ見えなかったものの、その悲痛な顔つきは、地上で泣いていた時の彼女の顔と一緒だった。いや、違う。地上での顔よりも一層、悲痛なものだった。
なぜ、と僕は思ったが、彼女の視線でその理由に気づいた。
彼女は僕から溢れ出ている気泡の記憶を見ていた。君と出会った初めに、『僕の苦しみも君の苦しみも、理解しあうことはできない』と言ったが、彼女にはこの気泡を通じて、人の記憶やその苦しみを理解することができた。いや、できてしまったんだ。
それで、僕は地上で彼女が泣いていた理由に気づいた。
おそらく彼女は、僕のような死を望む者を導くたび、人の不幸な悲しい記憶を、毎回見ていたのだろうと。
彼女の優しい心には耐えられないほどの、人々の悲しい記憶を、彼女は自殺者を導くたびに見る……。
……その時ほど、僕は死を望んだことを後悔したことはない。が、しかし、その後悔もまた気泡となって放出される。あの時の僕ほど無様で無念な人間はいないだろうと、僕は思う。
……しかし、不思議なことが起きた。僕の記憶を見ていた彼女は、突然はたと目を見開いて、僕の顔を見た。何の記憶を見たのか、僕には分からない、ただ、何か彼女の心の琴線に触れる記憶があったのだろうと思う。
そして突然、彼女は、僕から出ていた気泡を食べ始めた。
いや、食べた、は正確でない。おそらく口の中に含んだだけだろう。そうしてすべての気泡を口に含めると……
彼女は僕に口づけをした。
ゆっくり、じっくりと、僕達はキスをした。しかし、普通のキスではなく、彼女が口に含んだ気泡を僕に入れるように、丹念にキスをした。
実際のところ、彼女にとってはただ人工呼吸のように記憶の気泡を僕に入れただけだろう。でも、僕はそれ以上の気持ちがあったと、勝手に思っている。
そうして気泡が入れられると、意識が荒波のように勢いよく戻ってきた。今まで分からなくなっていた人生の記憶が、はっきりと思い出せた。今、僕が君にこの話ができているのも、こういう訳だからだ。
しかし、意識を取り戻したとはいえ、そこは湖の中。もう酸素も薄れてゆき、今度は特別なものではなく、尋常に意識が薄れてきた。
僕は、せっかく記憶を取り戻したのに、こうして溺れて亡くなるのかと、無念に思いながら意識を手放していた。
だが、そんな風に意識を手放している中、僕は最後に一目、彼女を見た。そして、確かに、彼女の声を聞いた。
『どうか、私のためにも、生きて……』
彼女は慈悲深く、優しい微笑みをたたえていた。
そこで僕は、完全に意識を失った。
意識を取り戻した時、僕は湖の浅瀬で倒れていて、近くに住む人達に助けられた。
妖精はその後、この湖で見られていない。僕は彼女を忘れられず、何度もここに来たけど、やっぱり見つけられなかった。湖の中は探してないけど、入ったら彼女をより悲しませると思うから、探す気はないよ。
以上が僕の話。死のうと思ったけど、死を導く妖精に助けられて、生き延びた愚かな男の話。
君がこの話をどう思うかは自由だ。本当に妖精助けられた幸運な男の話だとか、ただロマンチストな自殺志願者が、死の間際に幸福な夢を見て、たまたま生き延びられただけの話とか、どう思ってくれても構わない。
ただ、一つだけお願いしたいことがある。君が何をしようとも、
『誰かを悲しませないで欲しい』
僕の伝えたいことは、これだけだよ。
じゃあね、名も知らぬ人。君に幸せがあることを、心から願っている。
もちろん、湖にいるだろう彼女も、そう願っていると思うよ。
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