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イロウスィヴグリーンメッセンジャー
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振り上げた鍬に、太陽光が降り注いだ。
ネヒロネの住む地域は工業化が少し進んできたとはいえ、まだまだ農業が盛んで、彼は汗をかきつつ鍬を振るっていた。
炎天下の元、もう今日の何度目になるか分からないほど、ネヒロネは鍬を振り上げた。その時、遠くに見たことのない若い女性が見えた。覚束ない足取りで歩いている。
次にネヒロネが鍬を振り上げた時、女性はうずくまり、そのまま倒れ込んでしまった。
ネヒロネは急いで鍬を振り下ろし、女性の元へ急いで走っていった。
ネヒロネはキッチンでエプロンの紐を結んだ。
ネヒロネの住む地域では、女性はあまり暮らしていない。
久しぶりにネヒロネが見た女性は、目の前で倒れ込んでしまった。
倒れてしまった女性を外に放っておくわけにもいかず、家に運んで居間のソファに寝かし付けた。きっとお腹を空かせていることだろう。
ネヒロネは慣れた手つきで、野菜をカットし始めた。
乱切りのタマネギと千切りのジャガイモの炒めに、塩コショウのシンプルな味付け、隠し味に市場で手に入れたハチミツを数滴垂らす。
ビーンズとブロック状にカットしたニンジン入りの、自家製コンソメを用いたスープ。地味だけれども、優しい味。
バケットに、これも市場で手に入れた素朴な味わいのバターを薄く塗ってカリッと焼く。少しだけ水を振りかけておくのがポイントだ。
野菜中心の料理が一通り出来上がった。ネヒロネは一人暮らしが長く、料理には割と自信がある。あの女性は食べてくれるだろうか、とネヒロネは少しだけワクワクした。
目が覚めたら食べてもらおうと、ネヒロネは居間へと料理を運んだ。
ネヒロネが居間へ入ると、女性はソファから起き上がって、水差しの注ぎ口を直接くわえていた。女性に掛けていたブランケットは、ソファの下に落ちていた。
女性は、テーブルに伏せてあるコップには、一切気が付いていないようだった。
やがて一息ついたのか、女性は水差しをテーブルに置いた。その後、コップの存在に気が付き、「あら」と声を発していた。少しハスキーで、耳に心地よいアルトだった。
ネヒロネは、開きっ放しの居間のドアをノックした。
女性はノックの音のする、ネヒロネの方を向いた。
「オッドアイ、か。珍しいね」
女性の顔を見つめるネヒロネには、彼女のグリーンの左瞳、ブルーの右瞳が映っていた。グリーンの左瞳は、吸い込まれそうな、虹彩のネットワークに絡めとられてしまいそうな、見たことのないような輝きを放っていた。
「おっと、いきなり失礼だったかな。すまない」
「いいえ、とんでもありません。助けていただいたようで、感謝してもし切れません」
女性は深々と頭を下げた。
「ちょっとちょっと、大げさだよ。僕が助けたいから助けた、それだけで良くないかい? それから、僕の作った料理を食べてくれるともっと嬉しいのだが、いかがだろう?」
「ありがとうございます。でも、いただくわけにはいきません」
「そうか……まあ、無理やりは良くないな。せっかく作ったのだし、僕が自分で食べるとしよう」
ネヒロネはソファに腰を落として、バケットを一口齧り、スープを啜った。
「ああ、うまい。こういう時、僕は幸せを感じるんだ。労働で疲れた身体での食事。これ以上の幸せって、あまり無いと思うんだよ」
「ええ、本当に幸せそう」
「あなたはどんな時に幸せを……って、まだあなたの名前も訊いていなかった」
「私はアジガンダ。あなたのお名前も教えていただけるでしょうか?」
「僕はネヒロネ。アジガンダか、素敵な名前だね」
「ありがとう、ネヒロネ。ふふ、口に出すと元気が出そうな名前」
「ハハハ、何だそれ」
ひとしきり笑い合った後、ネヒロネはちょっとだけ上の方を向いて、少しの間だけ考えてから言った。
「あれ、何の話していたんだっけ、アジガンダ?」
「私が幸せに感じること?」
「ああ、そうだ。アジガンダは何に幸せを感じる?」
「私は……私は、水が飲めればそれが幸せ」
「水?」
「ええ、水を」
「そうか、水差しに口を直接付けて飲むほど好きだったのか……」
「ええ」
冗談交じりに言ったネヒロネだったが、アジガンダはあくまで真面目な顔をしていた。グリーンの左瞳が、何かを求めて怪しく光ったように、ネヒロネは感じた。
それから3日ほど、アジガンダはネヒロネに助けてもらったお礼として、農場の仕事を手伝っていた。
ネヒロネは食事をしないアジガンダのことが心配ではあったが、己の食事はいつも通り摂っていた。
ネヒロネが幸せそうに食べる姿を、アジガンダはいつも見つめていた。
「あら」
何かを見つけたように、アジガンダは呟いた。
「ネヒロネ、シャツが2か所にスボンが3か所。穴が開いている」
「ん? ああ、本当だ。新しいのを買ってこよう」
ネヒロネは、シャツの穴に小指を通しながら、意外と気が付かないものだな、と思った。
「新しいのは買わなくていいよ。私が直す」
「アジガンダは縫い物が得意なのか! すごいな、僕は全くできないよ」
「ええ、少しだけ、自信があるの」
「それは助かる。やってもらっても構わないか? 今までは、穴が開いたら全部捨ててしまっていたよ」
「ええ、もちろん。私はネヒロネに何度も助けてもらった。こんなことで良いなら、私はいくらでも」
「それはありがたい! ただ……」
「ただ?」
「僕が縫い物をしないから、この家には針も糸も何も無いんだよ」
「そうなの……」
ネヒロネは、ポンッ、と手を打って言った。
「今度、一緒に市場へ行ってみないか?」
「……ええ、ネヒロネが一緒なら」
少し含みのある感じで、アジガンダは了承した。
いつも農場で1人のネヒロネ――最近はアジガンダが一緒だが――は、たまに市場へ来ると、あまりの人の多さに驚く。
アジガンダも、人の往来に戸惑っているようだ。
「ここでは、何でも売っている。針も糸も布も、他にもアジガンダが欲しいものがあったら、何でも買うと良い」
「でも、私はお金を持っていなくて……」
「アジガンダは僕の服を直してくれるんだろ? 僕に任せてよ」
「分かった。完璧に直してあげる」
アジガンダはニッと笑顔を見せた。
「よし、決まりだ。僕は食材を見たいのだが、後で落ち合おうことにしないか? あそこに噴水があるだろう。あそこで待ち合わせとしないか?」
「そうね、そうしましょう。ネヒロネは、針を見ても分からないでしょうし」
「アジガンダも、食材のことは分からないじゃないか」
ネヒロネはアジガンダに硬貨を渡し、二人は一旦分かれて行動することにした。
ネヒロネは乳製品や調味料等を購入し、待ち合わせ場所の噴水へと向かった。
アジガンダはまだ来ていなかった。
噴水の周りには、ぐるぐると走り回る子どもたちや、サンドイッチを食べているカップル等がいた。
皆、幸せそうな顔をしている。
そういえばアジガンダも、水が飲めれば幸せだと言っていたことを、ネヒロネは思い出した。
水には、人を癒し、幸せにする秘力があるのだろうか。
農場でずっと暮らしてきたネヒロネも、当然、水の恩恵を大きく受けている。
根底では、アジガンダと同じなのかな、とネヒロネは思った。
「ちょい」
とりとめのない考えに耽っていたネヒロネのおでこに、アジガンダが指を突き立てた。
「レディを待たせるとは、何事かな?」
「待て待て、僕の方が先に来ていたよ」
「まあ、細かいことはいいじゃない。あら……」
アジガンダは、ネヒロネの左脇腹あたりを見て言った。
「また、シャツに小さな穴が開いている」
「あれ、本当だ。全く気が付かなかったよ」
「このくらいなら、すぐに直せるよ」
アジガンダは、手に抱えていた袋から、針と糸と布を取り出した。
「ネヒロネ、しばらくは動かないでね」
素早い手付きでネヒロネのシャツを直すアジガンダ。
「すごいな……魔法みたいだ」
「大げさだよ」
噴水が水勢を増して、勢いよく立ち昇った。
世界には、魔法が溢れている。
すっかりネヒロネとの暮らしに馴染んだアジガンダは、ある日眼帯をして、グリーンの左瞳を隠していた。
「アジガンダ、その左目はどうしたんだ? 大丈夫か?」
「ええ、大丈夫。ものもらいに罹ったみたい」
「そうか。怪我ではなくて良かった」
ネヒロネは、少し安心した。
「今まで気が付かなかったけれども、ブルーの右瞳もチャーミングだね」
「何それ、口説いているつもり?」
「さあね」
ネヒロネは、アジガンダを構成する何かが欠けてしまったように感じた。だが、それを補うように、アジガンダのブルーの右瞳は決意を持ったような、強い輝きを持っているようにネヒロネには見えた。
「ところで、お願いがあるのだけれども」
「何だい?」
「今日の夜、私にも料理を作ってくれない?」
「僕の料理を食べてくれるならばそれは嬉しいことだ。でも、アジガンダ。君は大丈夫なのか?」
「食べてみたいの、どうしても。あなたがいつも、いつもとても美味しそうに料理を食べているから」
訴えかけるアジガンダのブルーの右瞳には、一切の揺らぎが無いように、ネヒロネには映った。
「分かったよ。今日は、豪華なディナーにしよう。アジガンダが家に来てから、パーティーをやったこともなかったね。歓迎パーティーとしよう」
「ありがとう、ネヒロネ。本当にありがとう。私はあなたの厚意で置いてもらっているだけだから。本当に感謝しかない」
「気にすることはないんだよ。僕はずっと一人で、話相手もいないし、服を自分で直すこともできないし。そんな所にアジガンダが来てくれて、とっても嬉しいんだ。厚意だなんて。僕の方からお願いしたいくらいなんだよ」
ネヒロネは今までにないほど、やる気に満ちてキッチンに立っていた。
豪華なディナーとは言ってしまったものの、普段食事をしないアジガンダには、軽めの料理の方が良いのではないだろうか。
ネヒロネはそう思い、結局はいつもと大して変わらないメニューを検討した。
タマネギを入れたマッシュポテトに焼いたベーコンを和えて、ボイルドエッグを乗せる。
キャベツとプリッとしたソーセージのあっさり味のスープ。
シンプルな丸パンとバター。飾らないうまさ。
それから、水差しいっぱいの水。
「おいしい、とてもおいしい」
アジガンダは夢中で食べてくれた。食事を進める手が止まる気配は無い。
ブルーの右瞳からは、涙が流れていた。
「おいおい、泣くほどかぁ? 作った僕としては嬉しいけれど……」
アジガンダの左瞳に掛けられた眼帯を見て、ネヒロネはギョッとした。
「血が……出ていないか?」
眼帯には、血が滲んでいた。ただのものもらいでは無いということだろうか。
「ねえ、ネヒロネ」
アジガンダは食べるのを中断して、ネヒロネに話し掛けた。
「何だい? それよりも、血が……」
「これは、大丈夫。後で話すから」
「アジガンダがそう言うならば、分かった」
「ありがとう。人間というのは、環境に適応する生き物だよね?」
「う、うん?」
「トレーニングをすれば、筋肉量が増えて基礎代謝が増える。ダイエットをすれば、食べる量を減らしても生活できるようになる。取り巻く環境が変われば、身体が臨機応変に変化する」
「まあ、そうなのかな?」
アジガンダは一息ついて、言った。
「ネヒロネは、光合成って知っているよね?」
「ああ、スクールで習った記憶がある。エネルギー変換を行う仕組みだったかな。植物が水と太陽光と二酸化炭素で、有機エネルギーを生み出す。たしかそんな仕組みだった」
「植物も同じだと思ったんだ」
「ん、どういうことだ?」
「もし、植物が光合成をできなくなったら、どうなると思う?」
「うーん、生きていけなくなるんじゃないかな」
「そんなに簡単に諦めるかな? 必死に、それこそ必死に、全く別の方法で生きる術を産み出すんじゃないかな? 私はそう思った」
「そういうものかなあ」
ネヒロネは怪訝な顔をして言った。
「植物もきっとそう。だって、私がそうだったから」
アジガンダは眼帯を外した。そこには光が無く、闇が見えた。
ネヒロネとアジガンダの二人だけがいる農場。今日は天気が良く、二人が初めて出会った日のようだった。
アジガンダは青空に向かって、手を広げて叫んだ。
「私、前よりも生きている気がする」
「アジガンダは前から生きているよ。今だって、生きている」
アジガンダはネヒロネの元へ走ってきて、勢いよく抱き着いた。
「こら、土が付くよ」
ネヒロネはアジガンダの肩を押して引き離した。
アジガンダは笑顔でネヒロネを見つめている。
アジガンダのブルーの右瞳には、グリーンの根が張り始めていた。
(了)
ネヒロネの住む地域は工業化が少し進んできたとはいえ、まだまだ農業が盛んで、彼は汗をかきつつ鍬を振るっていた。
炎天下の元、もう今日の何度目になるか分からないほど、ネヒロネは鍬を振り上げた。その時、遠くに見たことのない若い女性が見えた。覚束ない足取りで歩いている。
次にネヒロネが鍬を振り上げた時、女性はうずくまり、そのまま倒れ込んでしまった。
ネヒロネは急いで鍬を振り下ろし、女性の元へ急いで走っていった。
ネヒロネはキッチンでエプロンの紐を結んだ。
ネヒロネの住む地域では、女性はあまり暮らしていない。
久しぶりにネヒロネが見た女性は、目の前で倒れ込んでしまった。
倒れてしまった女性を外に放っておくわけにもいかず、家に運んで居間のソファに寝かし付けた。きっとお腹を空かせていることだろう。
ネヒロネは慣れた手つきで、野菜をカットし始めた。
乱切りのタマネギと千切りのジャガイモの炒めに、塩コショウのシンプルな味付け、隠し味に市場で手に入れたハチミツを数滴垂らす。
ビーンズとブロック状にカットしたニンジン入りの、自家製コンソメを用いたスープ。地味だけれども、優しい味。
バケットに、これも市場で手に入れた素朴な味わいのバターを薄く塗ってカリッと焼く。少しだけ水を振りかけておくのがポイントだ。
野菜中心の料理が一通り出来上がった。ネヒロネは一人暮らしが長く、料理には割と自信がある。あの女性は食べてくれるだろうか、とネヒロネは少しだけワクワクした。
目が覚めたら食べてもらおうと、ネヒロネは居間へと料理を運んだ。
ネヒロネが居間へ入ると、女性はソファから起き上がって、水差しの注ぎ口を直接くわえていた。女性に掛けていたブランケットは、ソファの下に落ちていた。
女性は、テーブルに伏せてあるコップには、一切気が付いていないようだった。
やがて一息ついたのか、女性は水差しをテーブルに置いた。その後、コップの存在に気が付き、「あら」と声を発していた。少しハスキーで、耳に心地よいアルトだった。
ネヒロネは、開きっ放しの居間のドアをノックした。
女性はノックの音のする、ネヒロネの方を向いた。
「オッドアイ、か。珍しいね」
女性の顔を見つめるネヒロネには、彼女のグリーンの左瞳、ブルーの右瞳が映っていた。グリーンの左瞳は、吸い込まれそうな、虹彩のネットワークに絡めとられてしまいそうな、見たことのないような輝きを放っていた。
「おっと、いきなり失礼だったかな。すまない」
「いいえ、とんでもありません。助けていただいたようで、感謝してもし切れません」
女性は深々と頭を下げた。
「ちょっとちょっと、大げさだよ。僕が助けたいから助けた、それだけで良くないかい? それから、僕の作った料理を食べてくれるともっと嬉しいのだが、いかがだろう?」
「ありがとうございます。でも、いただくわけにはいきません」
「そうか……まあ、無理やりは良くないな。せっかく作ったのだし、僕が自分で食べるとしよう」
ネヒロネはソファに腰を落として、バケットを一口齧り、スープを啜った。
「ああ、うまい。こういう時、僕は幸せを感じるんだ。労働で疲れた身体での食事。これ以上の幸せって、あまり無いと思うんだよ」
「ええ、本当に幸せそう」
「あなたはどんな時に幸せを……って、まだあなたの名前も訊いていなかった」
「私はアジガンダ。あなたのお名前も教えていただけるでしょうか?」
「僕はネヒロネ。アジガンダか、素敵な名前だね」
「ありがとう、ネヒロネ。ふふ、口に出すと元気が出そうな名前」
「ハハハ、何だそれ」
ひとしきり笑い合った後、ネヒロネはちょっとだけ上の方を向いて、少しの間だけ考えてから言った。
「あれ、何の話していたんだっけ、アジガンダ?」
「私が幸せに感じること?」
「ああ、そうだ。アジガンダは何に幸せを感じる?」
「私は……私は、水が飲めればそれが幸せ」
「水?」
「ええ、水を」
「そうか、水差しに口を直接付けて飲むほど好きだったのか……」
「ええ」
冗談交じりに言ったネヒロネだったが、アジガンダはあくまで真面目な顔をしていた。グリーンの左瞳が、何かを求めて怪しく光ったように、ネヒロネは感じた。
それから3日ほど、アジガンダはネヒロネに助けてもらったお礼として、農場の仕事を手伝っていた。
ネヒロネは食事をしないアジガンダのことが心配ではあったが、己の食事はいつも通り摂っていた。
ネヒロネが幸せそうに食べる姿を、アジガンダはいつも見つめていた。
「あら」
何かを見つけたように、アジガンダは呟いた。
「ネヒロネ、シャツが2か所にスボンが3か所。穴が開いている」
「ん? ああ、本当だ。新しいのを買ってこよう」
ネヒロネは、シャツの穴に小指を通しながら、意外と気が付かないものだな、と思った。
「新しいのは買わなくていいよ。私が直す」
「アジガンダは縫い物が得意なのか! すごいな、僕は全くできないよ」
「ええ、少しだけ、自信があるの」
「それは助かる。やってもらっても構わないか? 今までは、穴が開いたら全部捨ててしまっていたよ」
「ええ、もちろん。私はネヒロネに何度も助けてもらった。こんなことで良いなら、私はいくらでも」
「それはありがたい! ただ……」
「ただ?」
「僕が縫い物をしないから、この家には針も糸も何も無いんだよ」
「そうなの……」
ネヒロネは、ポンッ、と手を打って言った。
「今度、一緒に市場へ行ってみないか?」
「……ええ、ネヒロネが一緒なら」
少し含みのある感じで、アジガンダは了承した。
いつも農場で1人のネヒロネ――最近はアジガンダが一緒だが――は、たまに市場へ来ると、あまりの人の多さに驚く。
アジガンダも、人の往来に戸惑っているようだ。
「ここでは、何でも売っている。針も糸も布も、他にもアジガンダが欲しいものがあったら、何でも買うと良い」
「でも、私はお金を持っていなくて……」
「アジガンダは僕の服を直してくれるんだろ? 僕に任せてよ」
「分かった。完璧に直してあげる」
アジガンダはニッと笑顔を見せた。
「よし、決まりだ。僕は食材を見たいのだが、後で落ち合おうことにしないか? あそこに噴水があるだろう。あそこで待ち合わせとしないか?」
「そうね、そうしましょう。ネヒロネは、針を見ても分からないでしょうし」
「アジガンダも、食材のことは分からないじゃないか」
ネヒロネはアジガンダに硬貨を渡し、二人は一旦分かれて行動することにした。
ネヒロネは乳製品や調味料等を購入し、待ち合わせ場所の噴水へと向かった。
アジガンダはまだ来ていなかった。
噴水の周りには、ぐるぐると走り回る子どもたちや、サンドイッチを食べているカップル等がいた。
皆、幸せそうな顔をしている。
そういえばアジガンダも、水が飲めれば幸せだと言っていたことを、ネヒロネは思い出した。
水には、人を癒し、幸せにする秘力があるのだろうか。
農場でずっと暮らしてきたネヒロネも、当然、水の恩恵を大きく受けている。
根底では、アジガンダと同じなのかな、とネヒロネは思った。
「ちょい」
とりとめのない考えに耽っていたネヒロネのおでこに、アジガンダが指を突き立てた。
「レディを待たせるとは、何事かな?」
「待て待て、僕の方が先に来ていたよ」
「まあ、細かいことはいいじゃない。あら……」
アジガンダは、ネヒロネの左脇腹あたりを見て言った。
「また、シャツに小さな穴が開いている」
「あれ、本当だ。全く気が付かなかったよ」
「このくらいなら、すぐに直せるよ」
アジガンダは、手に抱えていた袋から、針と糸と布を取り出した。
「ネヒロネ、しばらくは動かないでね」
素早い手付きでネヒロネのシャツを直すアジガンダ。
「すごいな……魔法みたいだ」
「大げさだよ」
噴水が水勢を増して、勢いよく立ち昇った。
世界には、魔法が溢れている。
すっかりネヒロネとの暮らしに馴染んだアジガンダは、ある日眼帯をして、グリーンの左瞳を隠していた。
「アジガンダ、その左目はどうしたんだ? 大丈夫か?」
「ええ、大丈夫。ものもらいに罹ったみたい」
「そうか。怪我ではなくて良かった」
ネヒロネは、少し安心した。
「今まで気が付かなかったけれども、ブルーの右瞳もチャーミングだね」
「何それ、口説いているつもり?」
「さあね」
ネヒロネは、アジガンダを構成する何かが欠けてしまったように感じた。だが、それを補うように、アジガンダのブルーの右瞳は決意を持ったような、強い輝きを持っているようにネヒロネには見えた。
「ところで、お願いがあるのだけれども」
「何だい?」
「今日の夜、私にも料理を作ってくれない?」
「僕の料理を食べてくれるならばそれは嬉しいことだ。でも、アジガンダ。君は大丈夫なのか?」
「食べてみたいの、どうしても。あなたがいつも、いつもとても美味しそうに料理を食べているから」
訴えかけるアジガンダのブルーの右瞳には、一切の揺らぎが無いように、ネヒロネには映った。
「分かったよ。今日は、豪華なディナーにしよう。アジガンダが家に来てから、パーティーをやったこともなかったね。歓迎パーティーとしよう」
「ありがとう、ネヒロネ。本当にありがとう。私はあなたの厚意で置いてもらっているだけだから。本当に感謝しかない」
「気にすることはないんだよ。僕はずっと一人で、話相手もいないし、服を自分で直すこともできないし。そんな所にアジガンダが来てくれて、とっても嬉しいんだ。厚意だなんて。僕の方からお願いしたいくらいなんだよ」
ネヒロネは今までにないほど、やる気に満ちてキッチンに立っていた。
豪華なディナーとは言ってしまったものの、普段食事をしないアジガンダには、軽めの料理の方が良いのではないだろうか。
ネヒロネはそう思い、結局はいつもと大して変わらないメニューを検討した。
タマネギを入れたマッシュポテトに焼いたベーコンを和えて、ボイルドエッグを乗せる。
キャベツとプリッとしたソーセージのあっさり味のスープ。
シンプルな丸パンとバター。飾らないうまさ。
それから、水差しいっぱいの水。
「おいしい、とてもおいしい」
アジガンダは夢中で食べてくれた。食事を進める手が止まる気配は無い。
ブルーの右瞳からは、涙が流れていた。
「おいおい、泣くほどかぁ? 作った僕としては嬉しいけれど……」
アジガンダの左瞳に掛けられた眼帯を見て、ネヒロネはギョッとした。
「血が……出ていないか?」
眼帯には、血が滲んでいた。ただのものもらいでは無いということだろうか。
「ねえ、ネヒロネ」
アジガンダは食べるのを中断して、ネヒロネに話し掛けた。
「何だい? それよりも、血が……」
「これは、大丈夫。後で話すから」
「アジガンダがそう言うならば、分かった」
「ありがとう。人間というのは、環境に適応する生き物だよね?」
「う、うん?」
「トレーニングをすれば、筋肉量が増えて基礎代謝が増える。ダイエットをすれば、食べる量を減らしても生活できるようになる。取り巻く環境が変われば、身体が臨機応変に変化する」
「まあ、そうなのかな?」
アジガンダは一息ついて、言った。
「ネヒロネは、光合成って知っているよね?」
「ああ、スクールで習った記憶がある。エネルギー変換を行う仕組みだったかな。植物が水と太陽光と二酸化炭素で、有機エネルギーを生み出す。たしかそんな仕組みだった」
「植物も同じだと思ったんだ」
「ん、どういうことだ?」
「もし、植物が光合成をできなくなったら、どうなると思う?」
「うーん、生きていけなくなるんじゃないかな」
「そんなに簡単に諦めるかな? 必死に、それこそ必死に、全く別の方法で生きる術を産み出すんじゃないかな? 私はそう思った」
「そういうものかなあ」
ネヒロネは怪訝な顔をして言った。
「植物もきっとそう。だって、私がそうだったから」
アジガンダは眼帯を外した。そこには光が無く、闇が見えた。
ネヒロネとアジガンダの二人だけがいる農場。今日は天気が良く、二人が初めて出会った日のようだった。
アジガンダは青空に向かって、手を広げて叫んだ。
「私、前よりも生きている気がする」
「アジガンダは前から生きているよ。今だって、生きている」
アジガンダはネヒロネの元へ走ってきて、勢いよく抱き着いた。
「こら、土が付くよ」
ネヒロネはアジガンダの肩を押して引き離した。
アジガンダは笑顔でネヒロネを見つめている。
アジガンダのブルーの右瞳には、グリーンの根が張り始めていた。
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